第4話 兄

文字数 3,045文字

 半吉が甲州屋に刷ってもらった似顔絵には、「似顔絵の方をご存知の方は甲州屋へお知らせください」と書いてあった。お雪が「知ってる人が現れても、拓乃助様と半吉さんはあちこち歩き回っているだろうから、連絡しようがないじゃないか。私が取次役をするよ」と、気を利かせたのだ。
 拓乃助は似顔絵を持って剣術道場を訪ね歩いた。半吉も、魚の行商先で似顔絵を配った。
 何の手掛かりも得られないまま何日も過ぎ去ったが、試合の行われる日の前々日、甲州屋に立ち寄った半吉に、お雪が「龍馬らしき人物が見つかった」と知らせてきた。
 お雪から詳しく話を聞いた半吉は、鈴坂藩の下屋敷へ行き、門前で拓乃助の帰りを待った。拓乃助が帰って来たのは、日が沈もうとしているときだった。
「半吉さん、いかがしました」
「待ちくたびれやしたぜ。龍馬さんらしい人が、染井村で小さな剣術道場をやってるって報せがありやした」
「本当ですか、兄がその村にいるのですね」
「聞いた話からすると、龍馬さんに違いねえと思いやすが、人違いってこともありやす。拓乃助さんに確かめてもらわねえとならねえ」
「行きます。染井村というのは、どこにあるのですか?」
「小石川の向こうでさ。ここからだと二、三里ありやすぜ」
「では、これから……」
 半吉は拓乃助の言葉を遮る。
「焦るのは分かりやすが、今日はもう(おせ)え、明日にしやしょうや。明日の朝に迎えにあがりやすから」
「仕方がありません。では、明朝必ず」
 拓乃助は深々と礼をしてから、門の中に入って行った。

 翌朝、半吉が鈴坂藩の下屋敷の門前に来ると、既に拓乃助が立って待っていた。
 半吉は拓乃助を伴って、染井村へ向かった。両国橋を渡り、途中から中山道を北へ向かう。巣鴨を過ぎた辺りで脇道に入ると、植木が植えられた林になった。村人に道場の場所を訊き、言われた通りに進む。しばらく歩くと、小さな道場が見えた。
「たぶん、あれですぜ」
 半吉が指をさすと、中から男が出て来た。
「兄上だ」
 拓乃助が急に走り出し、半吉が跡を追う。男は二人に気が付いたようだ。驚いた顔をしている。
「拓乃助ではないか。よくここが分かったな」
 拓乃助は半吉を龍馬の前に出した。
「この半吉さんが探し出してくれました。お陰で、ようやく会うことができました」
「半吉とやら、拓之助が世話になった。拓之助になり代わり礼を言う。まあ、狭い所だが、中に入ってくれ」
 龍馬が家の中へ入ろうとすると、拓之助が家を見回しながら訊く。
「兄上、兄上はここで何を?」
「俺はここの道場主だ。道場を見てみるか」
 龍馬は、拓之助と半吉を道場に招き入れた。床は磨きあげられているが、一対一で稽古をするのがやっとの広さだ。
「見ての通り、狭い道場だ。それでも、近くの百姓が習いに来てくれるので、何とかやっていけてる」
 神棚を背に座った龍馬が、笑いながら言った。
 拓之助の表情は、龍馬とは対照的に硬い。
「兄上、今日訪ねたのは兄上を連れ戻すためです。家に戻ってください」
 龍馬の顔色がスッと変わった。
「俺は藩の許可を得ずに出て来た。脱藩したのだ。脱藩という重罪を犯したものが、帰れる訳なかろう」
「藩には、『兄上が旅先で行方知れずになり、生死不明』と伝えてあります。まだ、脱藩したとは思われてません。事故に遭い、記憶を失くしていたと弁明すれば、帰参ができる筈です。以前、そういう者がいたと聞いています」
「俺にはここに教え子がいる。それに、今更帰ったところで迷惑を掛けるだけだ」
「父上の体の具合が良くありません。帰って、柚岡家をお継ください」
「家はお前が継げばいいのだ」
「藩の代表に選ばれ、上屋敷で他藩の剣士と試合をすることになりました。試合は真剣での勝負なのです。相手はかなりの使い手だそうです。生きて帰ることなどできません。家を継ぐ者がいなくなってしまえば、柚岡家は断絶です。ですから、ですから」
 拓之助は龍馬に詰め寄った。
「負ければ家を継げないって言ってやしたが、死んじまうってことだったんでやすか」
 半吉は驚きのあまり後ろに倒れそうになった。
 龍馬は拓乃助の両肩をつかんで訊く。
「真剣での勝負など尋常ではない。ましてや、藩同士の試合で行われるなど……誠なのか?」
「本当です。事情は分かりませんが、やらざる得なくなったと聞いています」
「相手は、相手の名は何というのだ!」
「長尾平三と聞いています」
「何だと、あの長尾平三なのか……」
 龍馬は険しい顔つきになり、無言になった。
 半吉は龍馬に訊く。
「長尾って奴は強いんでやすか?」
「四谷にある新陰流道場の師範代だ。会ったことはないが、強いとの評判だ。拓乃助では相手にならぬだろう」
「それじゃ、死にに行くようなもんじゃねえですかい」
 半吉は拓乃助の袖を引っ張った。
「むざむざ死ぬことはねえ。逃げやしょう」
「拙者も端くれ、逃げることなどできません。負けると分かっていても、戦わなければならぬのです」
 龍馬は、首を垂れている拓乃助に顔を上げさせた。
「試合はいつなのだ?」
「明日の夕七つ(十六時)です」
「明日か……、よし、稽古をつけてやる。外へ出ろ」
 龍馬は壁に掛けてある木刀を二本持ち、出て行った。

 半吉が見守る中、拓乃助と龍馬は木刀を持って対峙した。拓乃助は中段に構え、龍馬は八相に構える。
「拓乃助、遠慮せずに掛かって来い」
 拓乃助が気合と共に斬りかかると、龍馬は拓乃助の木刀を払い、切先で拓乃助の脇腹を突いた。拓乃助は苦しさのあまり膝をつく。
「拓乃助立て! そんなことでは一太刀も浴びせられぬぞ」
 拓乃助は立ち上がり、龍馬に向かって木刀を振り下ろす。龍馬は体をかわし、拓乃助の小手を打つ。木刀が拓乃助の手から落ち、地面に転がった。
「木刀を拾え。打ち殺す気で掛かって来い」
 拓乃助は痛む手を押さえながら木刀を拾い上げると、奇声を上げ木刀を無茶苦茶に振り回した。龍馬は木刀の軌道を読み切り、ギリギリのところでかわしながら一瞬の隙をつき、一気に間合いを詰め、拓乃助の太腿を打った。拓乃助は激痛で脚を抱えて転げ回る。
 龍馬は打たれる度に倒れ込む拓乃助を何度も立ち上がらせ、その度に打ち付けた。終いに、拓乃助は立ち上がれなくなり、地面に倒れ込んだまま呻き声を上げるだけになった。
「立て、拓乃助立て!」
 龍馬は怒鳴り、立ち上がれとばかりに拓乃助を蹴った。
 半吉は見てられなくなり、泣きながら龍馬の脚にすがり付いた。
「もう止めてくだせえ。拓乃助さんは明日大事な試合があるんだ。これ以上したら、試合の前に死んじまう」
 龍馬は半吉を振りほどき、蹴り倒した。
「拓乃助のための稽古だ。邪魔するな!」
「鬼だ。あんたは鬼だ」
 半吉は叫びながら拓乃助に覆いかぶさった。
 半吉が体を張って庇ったためか、龍馬は木刀を持ったままどこかへ行ってしまった。
「拓乃助さん、大丈夫でやすか」
 半吉が拓乃助を仰向けにすると、拓乃助は血を流していた。半吉は井戸で手拭いを濡らし、血や泥を拭い取ってやった。
「半吉さん、ありがとう」
「起き上がれやすか」
「何とか」
 半吉は拓乃助の上半身を起こし、座らせた。
「随分やられやしたね」
「これくらい何とも……あっ痛たた」
「無理しちゃいけねえ。しばらく休んだ方がいいですぜ」
「兄は? 兄はどこに?」
「どっかに行っちまいました」
 拓乃助は「そうか」とつぶやくと、うな垂れた。
 半吉と拓乃助が座って休んでいると、籠がやって来た。怪我人を運んでくれと、龍馬から頼まれたとのことだった。
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