第5話 試合

文字数 3,773文字

 半吉は、拓乃助の乗った籠を町医者の粒庵の家へ向かわせた。拓乃助は鈴坂藩の下屋敷へ帰ると言ったが、強引に説き伏せた。
 粒庵の家に到着すると、粒庵は昼飯を食べているところだった。半吉は頼み込み、直ぐに拓乃助を家の中に運び込んだ。
 裸になった拓乃助の怪我の具合を診ている粒庵に、半吉が訊く。
「粒庵先生、どうでやすか」
「傷口は大したことないが、体中打撲だらけじゃ。どうして、こんなことになったのじゃ?」
「剣術の稽古で、したたかに打たれやしたんでさ」
 粒庵が拓乃助の左腕を取り、骨を確かめるように触ると、拓乃助は酷く痛がった。
「骨は折れていないが、ひびが入ってるかもしれん。しばらく、添え木をして固定した方がいいじゃろ。打撲の方は湿布を貼っておくかの」
「先生、明日剣術の試合があるのですが、治りますか?」
 拓乃助に訊かれ、粒庵は首を振った。
「治る訳ないじゃろ。しばらく安静にしていなければダメじゃ」
「明日の試合に出ない訳にはいかないのです。痛みだけでも取っていただけるとありがたいのですが」
「鎮痛薬を調合してやるが、飲んだからといって、直ぐに痛みが無くなる訳じゃないのじゃ。明日になれば、もっと腫れあがるじゃろ。刀など振り回せる訳がない」
「それでは困ります」
「早く治したいのであれば、安静にすることじゃ。今日は、ここに泊まるがよいじゃろ」
「藩に無断で泊まることなどできません」
 半吉が拓乃助に言い聞かせる。
「鈴坂藩には、アッシが伝えておきやす。早く治すにゃ、粒庵先生の言う通りにするしかありやせんぜ」
「仕方がない。半吉さん、明日直接上屋敷へ行くと伝えてください。頼みます」
 拓乃助は頭を下げた。
「任せておくんなせえ。必ず伝えやす。明日の朝、様子を見にきやすから、大人しく寝ていてくだせえよ」
 半吉はそう言うと、立ち上がった。

 翌朝、半吉が粒庵の家に来ると、拓乃助はまだ寝ていた。半吉は昨日の龍馬との稽古の疲れが出たのだと思ったが、それだけではなかった。痛みで寝付けない拓乃助に、粒庵が不眠症の薬を飲ませたとのことだった。
 昼飯前になり、拓乃助はようやく起きて来た。
「半吉さん、藩には伝えてくれましたか?」
「『怪我の治療のために泊まりやすが、試合に間に合うように上屋敷に行く』と、ちゃんと門番に伝えやした」
「ありがとうございます。でも、なぜ誰も来ないのだろうか」
「居所を訊かれると面倒になると思いやして、門番が中に入った隙に帰ってきやした。そんなことより、その体で本当に試合に出るつもりなんですかい?」
「出ます」
 拓乃助はキッパリ言いきった。
「動くのもままならねえじゃねえですかい。斬り殺されやすぜ」
「覚悟はできています。ただ、兄を連れ戻せなかったのが心残りです」
「今からでも遅くねえ、逃げやしょう」
「拙者も武士です。逃げることなどできません」
 拓乃助は淡々と言った。その態度を見た半吉は、それ以上何も言えなかった。

 拓乃助は昼飯を食べた後、遺書をしたため、籠に乗って鈴坂藩上屋敷へ向かう。心配した半吉は、勝手に付いて行った。
 籠が鈴坂藩の上屋敷の門前に到着したのは、刻限の四半刻(三十分)前だった。籠から降りた拓乃助の姿を見た門番は、驚きの声を上げ、よろよろと歩む拓乃助に付き添って屋敷の中に入って行く。半吉は、門番がいなくなった隙に敷地に入り込んだ。
 気付かれないように敷地の中を進んだ半吉は、庭の広場で試合の準備をしている中間(ちゅうげん)を見た。ここで試合が行われるようだ。半吉は立木の陰に隠れ、様子をうかがう。建物の中が騒がしいのに気付いた。大怪我をしている拓乃助を目の当たりにして、騒ぎになっているのかもしれない。
(あんな大怪我をしてるんだ。試合なんかできる訳ねえ。きっと、取り止めになったに違いねえ)
 半吉が庭の片隅に隠れたままジッとしていると、捨て鐘が三つ鳴り、続いて七つの鐘の音が響いた。刻限の夕七つになっても何も起こらない。半吉は試合が中止になったと思った。
 半吉が帰ろうとした途端、半吉の思いを裏切るように、襷掛けをした拓乃助が庭に出て来た。遅れて精悍な顔をした男も出て来る。骨太な体格で、いかにも強そうだ。あの男が対戦相手の長尾平三なのだろう。見ただけで、万に一つでも拓乃助に勝ち目がないのが、剣術を知らない半吉にも分かった。
 庭に面した縁側に、高価な着物を着た男が二人現れ、着座した。立会人とおぼしき老人が挨拶をしている。鈴坂藩の藩主と対戦相手の藩の藩主に違いない。
 いよいよ試合が始まろうとした時、「待ったあ! その試合待ったあ!」との声と同時に、男が飛び込んできた。鉢巻を締め、襷がけをした龍馬だった。
 龍馬は二人の藩主の前に跪き、何やら話をしている。離れて見ている半吉にはよく聞こえなかったが、怪我をしている弟の代わりに試合をしたいと、龍馬が申し出ているのは分かった。
 立会人が二人の藩主と話し込んでいる。しばらくすると、立会人が拓乃助の元に行った。拓乃助は一礼すると、脇に下がった。拓乃助が立っていた場所に、龍馬が立った。拓乃助の代役として認められたようだ。
 離れてにらみ合う龍馬と長尾の間に、立会人が移動した。
「始め!」
 立会人の大声と共に、龍馬と長尾は刀を抜いた。龍馬は上段に構え、長尾は中段に構えた。
 二人はじりっじりっと進み、ピタリと止まった。空気が張り詰め、ひりつくような緊張感が周囲を支配する。
 半吉が固唾(かたず)をのんで見守っていると、龍馬が「エイ!」という掛け声と共に刀を振り下ろした。長尾は振り下ろされた刀を刀の(しのぎ)で弾き、返す刀で龍馬に斬りつけた。龍馬は後ろに跳び退く。
 龍馬の鉢巻が切られ、地面に落ちた。額には血が滲んでいる。龍馬はまた上段に構えた。
 長尾が飛び掛かり、龍馬のがら空きの胴を狙って水平に刀を振ると、龍馬は後ろに跳びながら長尾の頭を狙って刀を振り下ろした。両者の刀は空を斬った。
 龍馬は八相に構えを変えた。長尾は中段に構え直す。二人は間合いを取り、にらみ合う。
 龍馬が斬りつけると、長尾が刀で受け、長尾が斬りつけると、龍馬が刀で受けた。鎬と鎬を削り合う鍔ぜり合いを繰り返すうちに、龍馬の息が上がってきた。
 龍馬はスッと切先を下げた。その瞬間、無防備になった龍馬の頭を狙って、長尾の刀が振り下ろされた。龍馬は刀を振り上げて長尾の刀を受け止め、切先を「の」の字を書くように回し、天を衝くように刀を真上に振り上げた。
 長尾の刀が宙に舞い、龍馬の刀の切先が長尾の喉元に突き付けられた。
「それまで!」
 立会人の声が静寂の中に響いた。
 龍馬は勝った。

 試合の決着がつくと、人々が次から次へと消えていった。庭には、鈴坂藩の藩主と龍馬、拓乃助の三人が残された。
 半吉は庭の隅から移動し、縁側に近い場所に身を潜めた。藩主が縁側に座り、龍馬と拓乃助が庭先で平伏している。龍馬は勝ったにもかかわらず、浮かない顔をしていた。
「見事な巻き技であった。褒めてつかわす」
 藩主に称賛されても、龍馬は微動だにしなかった。
「柚岡龍馬、面を上げよ」
「脱藩は重罪。重罪を犯した者が、殿の御前に出ることさえ恐れ多いこと。ましてや、面を上げることなど……」
「余の命令を聞けぬのか。顔を見せよ」
 龍馬がおずおずと頭を上げると、藩主はその顔をじっと見た。
「良い面構えになった。それにしても、『旅先で行方知れずになり、生死も知れない』と聞かされていた者が、突然現れたので、驚いたぞ。今まで何をしていた」
「各地を旅して、剣術修行をしておりました。今は染井村で小さな道場を開いております」
「剣術修行が役立ったということか。お陰で我が藩の体面も保てた。褒美をやらねばなるまい。何か願いはあるか?」
 龍馬は、額が地面に付くかと思えるほどに頭を下げた。
「某の脱藩の罪が柚岡の家に及ばないようにしていただき、拓乃助を柚岡家の跡継ぎと認めていただければ、ありがたく存じます」
 龍馬の隣で平伏している拓乃助が、龍馬の方に顔を向けた。
「兄上、それはいけません。柚岡家を継ぐのは兄上です」
「俺は脱藩しているのだ。家督相続などできる訳もあるまい」
「ですが……」
 二人の会話を聞いていた藩主が、「両名とも頭を上げよ」と命じると、龍馬と拓乃助は即座に上半身を起こし、視線を藩主に合せた。
「龍馬の願いを聞き届ける。拓乃助、異は認めぬぞ。龍馬、今の暮らしは楽しいか?」
「教え子は村人ばかりですが、皆修行に励んでおりますので、教えがいがあります。お陰で、充実した日々を過ごしております」
「そうか。では、今の暮らしを続けるがよい。だが、脱藩を認めた訳ではないぞ。龍馬には二人扶持を与える。年に一度、藩邸に扶持米を受け取りに参れ」
「藩士の身分のままで道場を続けてよいとのことでしょうか?」
 龍馬が訊くと、藩主は笑みを浮かべた。
「そういうことだ。村に戻っても、鈴坂藩の藩士だということを忘れるでないぞ」
「ははーっ」
 龍馬は深くひれ伏した。
「龍馬は新しく家を興すことになるな。余が新しい家名をつけてやろう」
 藩主は腕を組んで考え、視線を上に向けた。まだ明るい空に真っ白な月が浮かんでいる。
其方(そち)は、今日から『白月龍馬』と名乗るがよい」
 藩主はそう言うと、立ち上がり、上機嫌で屋敷の奥に消えていった。
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