鶴の一声

文字数 2,956文字

 人通りの少なくなった商店街を進む足取りは、残業終わりとは思えないほど軽かった。
(今週もお疲れ様)
 週末特有の浮遊感に包まれながら、一週間分の疲労を溜め込んだ自らの体と心に労いの言葉を掛ける。
(こんなに必死に働いてるんだ。たまには寄り道くらいしてもいいよな)
 誰に対するものでもない言い訳を頭の中で一度唱えてから辺りを見回した僕は、初めに視界に入ったバーの扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
 低く落ち着いた声に指一本で返事をしてカウンター席に腰掛ける。席に置かれたメニュー表には聞いたこともないようなお洒落な名前が並んでいたが、散々時間をかけて悩んだ挙句「ジントニックで」と、聞き馴染みのあるカクテルを注文した自分を自嘲気味に笑い、ゆっくりと顔を上げた。
 薄暗い店内。客は僕を含めて四人だけ。マスターの手を離れたシェーカーが奏でた「コンッ」という小さな音さえ響く静けさが妙に心地良かった。
「以前、助けて頂いた鶴です」
 口に運んだグラスをコースターに置いたのと同時に、細く色気のある声が聞こえてきた。二つ隣の席でカウンターに頬杖をつく女性の妖艶な瞳がこちらを覗いていることに気付く。黒のニットワンピースを纏い長い髪を揺らすその女性は、僕が視線を合わせると口角を上げた。
「ああ。あの時の」
 自分に話しかけているのだと判断した僕は彼女の冗談に乗るように返事をした。「ふふっ。そう。あの時の」と笑う姿を見て胸を撫で下ろす。
「随分独特な自己紹介ですね。せっかく人の姿に化けてるのに正体をバラしちゃってよかったんですか?」
「すぐに飛び立つので。ご迷惑でしたか?」
 隣の席に座り直す彼女。ふわりと漂う甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「とんでもない。大歓迎ですよ。ええっと……鶴さん?」
「サクラです。お兄さんは?」
「シンジです。あー、お互い敬語やめない?」
「そうね」と笑って鮮やかなオレンジの水を口に含む彼女。一瞬その唇に目を奪われたがあまり見すぎるのも悪いかと思い、離れた場所でグラスを拭いているマスターに目をやった。
「ねえ。とっておきの怖い話があるんだけど」
 一拍置いて「聞きたい?」と言われ、「ああ。是非」と即答した。怪談が好きなわけではないが、会話を少しでも長く続けたい僕にとって聞き手に回れる状況はありがたい。
「今このお店。あなたの他に何人お客さんがいる?」
「三人、だろ?」
「はずれ。よく見て」
 そう言われて再度店を見渡すが結果は変わらない。僕の席と一番離れた場所。マスターの目の前にいる親子ほど歳が離れていそうな男女しか居ない。
「一番奥のカウンター席に中年の男性。その隣に若い女性。それから君と僕。だろ?」
「ふふっ。やっぱりそう見えるんだ。まずその女性、お客さんじゃ……人間じゃないの」
「……鶴?」
「それは私でしょ? 幽霊。死んでるのよ彼女。去年の冬に」
「それは怖いな」
 突拍子もない彼女の発言に、思わず返答が棒読みになっていることは自分でもわかった。
「信じてないでしょ?」
 頬を膨らませて不満をアピールする顔はギャップを利用したテクニックなのだろうか。だとしたら効果は覿面だ。「そりゃそうだろ」と呟いた僕は、緩んだ表情を隠す為に軽く俯いた。
「どうして? 見えてるのに?」
「だからだよ。こんなにはっきり見えてるし横のおじさんと楽しそうに話してる。幽霊なわけがない」
「ふーん。幽霊は楽しく喋っちゃ駄目ってこと?」
「いや、そもそも喋れないだろ。少なくとも生きてる人とは」
「そうなのかな……まあでも、それなら信じない理由としては弱いわね」
 そう言って彼女はポケットから取り出した携帯電話を問題の女性に向けた。シャッター音の後こちらに差し出された画面。そこにはマスターの姿だけが写っていた。
「どっちも幽霊なの。あのカップル」

 そんなわけない。改めて否定しようとしたその言葉をジントニックで流し込む。
 もしかして本当に――。乾いた喉を駆けていくアルコールのせいなのだろうか。あり得ない結論を勝手に出そうとしている脳は、どこかふわふわとしていて考えが上手くまとまらない。
「……本当に幽霊なのか?」
「怖い?」
 怖いかどうかと言われれば怖くはない。あのカップルに対する恐怖心は一切ない。ただ、サクラの目が先ほどまでと違うことが気になり、なんとなくその質問には答えなかった。何かを訴えるような真剣な眼差し。そんなに信じて欲しいのだろうか。
 随分長く感じた無言の数秒間を経て、再び瞳に色気を浮かべた彼女は首を軽く傾けながら口を開いた。
「幽霊だって信じてくれた?」
「信じられない……って言いたいところだけど、そんな写真見せられたらな」
 言葉を濁す。今後の関係。いや、厳密に言うと

の関係になるのかもしれないが、それを考えると「信じました」と同調することが最適な場面だとはわかっている。だが、嘘をついてはいけないという見知らぬ感情が調子の良い返事を拒んだ。
「見せられたら、どっちなの?」
「ご想像にお任せということで、今更だけど乾杯でもしようか」
 この話の終わりを告げる鐘を少々強引に鳴らそうとした僕は、手に取ったグラスを彼女の目の前で軽く揺らす。
「なにそれ。あ、せっかくだから幽霊カップルとも乾杯しとく?」
 そう言いながら彼女はグラスを鳴らした。
「やめとくよ。邪魔しちゃ悪いだろ?」
「あら、優しいのね」
「だろ?」
「ふふっ」
 柔らかな表情を作って笑った彼女は一口飲むと席を立って顔を近づけてきた。鼓動が早くなるのがはっきりと分かった。
「なんてね……全部嘘よ。写真も前に撮ったやつ。どう? 楽しかった?」
 耳元でそう囁いてから、「ちょっとお手洗い」と言って店の奥へと消えていく姿を無言で見送る。不思議な緊張感から解放された気がした。

 急にできた一人の沈黙を持て余した僕は腕時計に目をやった。約一時間。楽しい時間というのは体感ではなく本当に早く過ぎている気がする。
(このままサクラと……)
 ひとまず二人分の会計を済ませておこうとマスターに声を掛ける。
「マスター。そろそろお会計を。あ、彼女の分も」
 一瞬、怪訝な表情を浮かべた彼はすぐに「ああ。もしかしてサクラのことですか?」と笑った。
「サクラの分のお代は要りませんよ。彼女、お客様ではないので」
 マスターの言葉に首を傾げた僕だったが、少し考えて答えに辿り着いた。
「なるほど……やられましたよ。素敵な従業員ですね」
 

というのは名前ではなかったのか。

 店の外に出ると同時に雨の音が耳に飛び込んできた。
「よかったらどうぞ」
 傘を持っていないことを察したのか、ビニール傘を差し出したマスターは頭を下げた。
「またのお越しをお待ちしております」
「ありがとう。ご馳走様」
 背を向けて、そのまま夜に溶けていくつもりだった。
「……

従業員なんです、彼女。もうこの世には居ません」
「え……?」
「時々こうして遊びに来る

んです」
「……でも」
 ――確かに彼女は居た。
 口にはできなかった。
 誰も居なかった、何も見えていないと言われるのが怖かった。幽霊と話しをすることなんてできないと否定されたくなかった……僕がそうしたように。
 誰もが納得できる存在証明。先ほどまであれだけ聞こえていた鶴の一声は、もう聞こえてこない。
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