パレイド・リア・パラノイア

文字数 2,192文字

 壁に向かって「おはよう」と囁くが、アミと名付けた台形のシミはもちろん返事をしない。
 フローリングの床に転がった自らの体をゆっくりと起こす。正午過ぎ。時計代わりの携帯電話をポケットに戻し、眠い目をこすりながら壁際の小さな机の前に腰掛けた。電源の入っていないパソコンを横目に飲みかけのペットボトルを口へと運ぶ。喉を通る生温い水が汗ばんだ体に行き渡る感覚は酷く不快だった。
 先月引っ越してきたばかりのこの部屋にはエアコンがない。正確に言うと仕事用に用意したこの机とパソコン以外は何もない。
「また……か」
 トイレに行こうと重い腰を上げた瞬間にいつもの視線を感じ再び座って大きくため息を吐いた。どこからの視線かはわかっている。ここに座った時、丁度真後ろに位置する木枠に囲まれたはめ殺しの窓。そこから見られている。
 初日、この部屋に入ってすぐのことだった。少ない荷物を一通り広げ終わり立ち上がって煙草に火を付けた直後、視界の隅に人影が映り込んだ。中年の男性が窓からこちらを覗き込んでいる。突然の出来事に一瞬思考が止まってしまったが、慌ててパソコンを包んでいた新聞紙を窓に貼り付けた。おそらく近所の人なのだろう。窓自体が開かないので危害が及ぶことはないだろうが見えないはずの今でも視線は感じる。
 せめて二階の部屋にすれば良かったと後悔した。ネットの賃貸情報を見て内見もせずに入居を決めたこのアパート。知らない土地で家賃が安ければどんな部屋でも良いと考えていたのだが、それが間違いだったのかもしれない。
 当初から次の仕事が決まるまでの一時的な住まいのつもりだった。金銭的な余裕があるわけではないが、心機一転、全てを捨てて新たな土地でスタートしようと考え、長年暮らした地元を飛び出してきた。人間関係のトラブルで仕事を辞めることになったのだが良いきっかけだったと思っている。
 大学を卒業して地元の小さなIT企業に就職した。初めの一、二年こそ必死で勉強していたが、ある日気が付いた。いくら言語を覚えても業務で使わなければ宝の持ち腐れだ、と。ここに居る限り自らのスキルを使う機会は訪れない。同じ顧客に捕えられ同じような古臭いシステムの改修を繰り返し都合よく使われ続けて年を取っていく。待遇の面でもそうだ。微増する単価が給料にそのまま反映されるわけでもないのに年々作業も責任も増えていく。
 割に合わない。それなら流行りのフリーランスとしてやっていった方がいい。自信もあるし、その方が実力を発揮できる。そう考えるようになっていた。
「腹減ったな」
 返事がないことがわかっていながら斜め前に居るアミに向かって呟く。人の輪郭に見えるこのシミに彼女の名前を付けたのも初日のことだ。これを見てすぐに名前が浮かんだのは、何も告げずに来たことに負い目を感じていたからなのかもしれない。
 アミと出会ったのは去年の忘年会の後だった。一人で繫華街を歩いていた俺は見事にキャッチに捕まり知らないラウンジに連れて行かれた。そこにアミが居た。
「いらっしゃいませ。はじめまして……ですよね?」
 一目惚れだった。それから数回通ううちに、アミの方にも気があることがわかり付き合うことになった。もちろん今でも心の底から愛している。だが、一人でやっていくことのリスクを考えると背負うものは少ない方がいい。そう考えて何も告げないまま一方的に別れを決めた。
「これで良かったんだよな」
 アミに笑いかけたのとほぼ同時に机の上の携帯電話がメールの受信を知らせる為に体を震わせた。タイミング的にアミからか、と思ったがすぐに自ら否定する。メールでやり取りをしたことなどない。そもそもお互い頻繁に連絡を取るタイプではないので少なくともあと数週間は連絡が来ることはないだろう。店が暇な時か俺が店を訪れる時くらいしか連絡を取った記憶がない。それでも愛しあっていたのだからマメな男がモテるというのはおそらく妄言だ。
 画面に映る『選考結果のご連絡』という件名のメールを開く。
『松下様 拝啓 ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。この度――』
 不採用を告げるメールに目を通した俺は、立ち上がって大きく伸びをした。どうせ繋ぎで応募した会社だ。俺を落とすのだから大した会社ではないのだろう。受かっていなくて良かったのかもしれない。
 それに折角手に入れた自由だ。もう少しくらい休んでもいいだろう。不思議な高揚感に包まれた俺は、今も視線を感じる窓の前へと向かい声を掛けた。こちらが迷惑を被っているのだ。少しくらい馬鹿にしたっていいだろう。
「なあ、おっさん。一体何がしたいんだよ」
 返事はない。居ると思ったのだが気のせいだろうか。新聞紙を思い切り剝がすと、そこにはやはり男性が立っていた。
「どうせ何も考えてないし何もできないんだろ?」
 もう一度話しかけるが、やはり返事はない。口をパクパクと動かすだけで言葉を発さないその男性が不気味に、そして滑稽に見えた。
 視線を落としポケットの中から取り出した煙草に火を付ける。再度顔を上げると男性も同じように煙草を持っていた。「煙草を買う金があるなら少しは身だしなみに気を配ったらどうだ」と言いかけて止める。こんな奴に言ったところでどうせ意味なんてない。
「惨めだな」
 声にはせずに鼻で笑い、穴の開いたシャツを目掛けて思い切り煙を吐き出した。
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