レンタルめもりーず

文字数 1,817文字

 思い出をレンタルしてくれる店がある。そんな噂を耳にした僕が一番に思い浮かべたのは由紀(ゆき)の顔だった。
「一緒に海を見たい」
 交際を始めて二年と少し。余命宣告を受けた彼女が翌日に口にした願い。思い返してみると、真剣な表情で何かをお願いされたのはあの日が初めてだったような気がする。
 噂の店の前で足を止める。二駅隣の町の小さな商店街を抜けた先。今にも崩れそうな外観に不安を覚えつつ店内に入ると、初老の男性が小さなパイプ椅子に座っていた。おそらく店主なのだろう。
「思い出を作って貰えると聞いたのですが本当ですか?」
 こちらに気付いた男性は「いらっしゃいませ」と小さな声で言って立ち上がった。
「いえ。お見せするだけです。十分間、お客様の望む光景をお見せします」
 違いはわからなかったが正直なところ何だってよかった。

 由紀を乗せた車椅子を押して店を訪れた僕は、入口の前で立ち止まった。積もった落ち葉を眺めながらふと考える。
『体への負担を考えると実際に海に行くのは難しい』
 先生の言葉を聞いて、由紀は酷く落ち込んでいた。
 ――果たしてこれで満足できるのだろうか。
「ここだよ」
 頭に浮かんだ余計な不安を隠すように笑顔を作る。
 扉を開けると店主は同じようにパイプ椅子に座っていた。由紀の顔を見て小さく一度頷いた僕は、真っ直ぐに店主を見て願いを伝えた。
「お願いします。二人で海に行きたいんです」
「かしこまりました」
 店主は壁のスイッチを二度押して頭を下げた。点滅する照明。瞬きとともに世界は姿を変え、気づくと輝く青空の下に居た。目の前に広がる砂浜。耳を擽る波の音。鼻を抜ける潮風。その景色の中で、もう走ることができないはずの由紀が昔のように駆け回っていた。キラキラと光る波を背景に、ただ楽しそうに。
「ねえ。私もうすぐ死ぬの」
 セリフに合わない眩しい笑顔を浮かべた由紀は、どこか吹っ切れているように見えた。
「うん……知ってる」
「なんで私なのかな?」
「……なんでだろうな」
 余命宣告を受けてからここに来るまで由紀は一度も笑顔を見せなかった。死が迫っているのだ。本人の気持ちを考えれば笑えないのは当然だとは思うが。
「もっと一緒に居たかったなー」
「そうだな」
 そんな由紀が笑っていることが、ただ嬉しかった。
「ふふっ。本当に思ってる?」
「ああ」
 僕はきっと願いを叶えてあげることができたのだ。
「なんで病気がわかってからもそばに居てくれたの?」
「……なんでだろうな」
 歯切れの悪い答えに「もう。相変わらずね」と笑った由紀は、波打ち際で手招きをした。ゆっくりと近付く僕。耳元で「ありがとう」と囁いた由紀はもう一度笑った――。

「素敵な光景を見ることができましたか?」
 店主の声で僕の意識は現実に戻った。「はい……」いつの間にか店内へと切り替わった視界。頭を下げたままの店主に問いかける。
「一つ聞かせて下さい。どうしてレンタルなんですか?」
 ようやく頭を上げた店主はゆっくりと口を開いた。
「レンタル……ですか?」
「はい。そう聞きましたよ?」
「……まあ、そう言われているのかもしれませんね。私はお客様が望む光景を一時的にお見せしているだけです。ただ見せているだけ。いずれにしろ、それが思い出として残り続けることはありませんよ」
「ちゃんと残ってますよ?」
 先ほど見た光景。見たかった景色は今も確かに僕の中にある。
「それは、ただの……映像です」
 優しい顔のまま視線を合わせずに「その体験を実際にしたわけではないのですから」と呟いた店主の瞳は、どこか寂しさを含んでいる気がした。
「あの……ありがとうございました。帰ります」
 何となく居心地が悪くなった僕は財布に手を伸ばした。扉のすぐ横にある古い型のレジで支払いを済ませ、もう一度お礼を言って店主に背を向ける。
「私からも一つよろしいでしょうか」
 扉に手をかけた僕に店主は声を掛けた。
「どうして、

ではなかったのですか?」

 薄暗くなった一人の帰り道。無言のまま店を後にした僕は、街灯に照らされる梅の花を前に立ち止まった。
 ――今日の記憶も思い出に変わるのだろうか。
 微かに芽生えた罪悪感に目をつぶり、心の中で必死に肯定する。
 一緒に海を見ることはできた。由紀だってあんなに笑顔で、楽しそうで。願いを叶えてあげることはできたじゃないか。
「これで良かったんだ」
 誰に向けたわけでもない言葉はゆっくりと夜に溶け、やがて消えた。
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