二十二~二十七

文字数 22,321文字

 二十二
「あかんわ、あんた」
 火葬場を足早に横切り、べつの路地に入ったところで女性が振り返る。もう十時になっていた。
「あそこでスマホいじってたら、格好の餌食やで。日本人見つけちゃ、じっと観察しとるんや。スマホに触った途端に近づいて薪代請求する。遺族への慰謝料とかなんとか言うてな。いいカモなんや、日本の旅行者は」ぱっとストールを外すと、後ろでまとめていた黒髪がはらりと肩に落ちる。大きな瞳に彫りの深い顔だちだったが、インドの女性ではなさそうだった。「写真撮ろうとしていたわけちゃうんやろ」
「ぜんぜん。そんなつもりはないですよ」うろたえながら答える。
「はじめてなん? バラナシは」上から下までぼくの姿にさっと目をやり、訊ねてくる。大人の女性。それ以外は年齢不詳だった。
「そうなんです。道に迷ってうろうろしていたら、さっきのところに出てきまして」
「ツアーの方?」
「いえ、一人です」
「一人旅? その歳で?」ずばりと聞いてくる。「ほんま?」
「ええ、ほんまです」つられてぼくが関西弁になると、相手はけらけらと笑いだした。
「あそこはマニカルニカーガート。一番大きな火葬場や」
「驚きました。まさかあんなふうにして――」
「あれが正しい埋葬法なんや。焼いて遺灰をガンガーに流す」ヒロミとおなじことを言う。
「こちらに暮らしているんですか」
「もう十五年になるかな」気さくに答えてくれた。
「それでこっちの言葉も達者で……ちなみに大阪の方ですか」
「勤めてたのは大阪やけど、出身は和歌山や」
「こちらでお仕事を……?」
「仕事って言えば仕事やな。もし時間あるなら、案内したろか」
「え……いや、あの……」
「心配せんと。ガイド料なんて取らへんから。うち、ヒロタニ・サナエ言います。この先で働いてますねん」
「古城晋治ともうします」記者であることは告げない。いまのぼくはすくなくとも会社の仕事からは解放されているのだから。
「古城さんか。うちの職場見せたるよ。この街のこと知りたいなら、それが一番手っ取り早いから」サナエはそう言うとすたすたと歩きだす。「足もとに気ぃつけてな。注意せんと、べちょっと踏んじゃうから。いや、もう遅いか」
 視線が足もとに注がれていた。それでようやく気づく。つま先に緑色のどろりとしたものが付着している。迷路をさまよっている間に牛の落とし物を踏んでいたのだ。
 路地から路地へ、彼女のあとについていく。その間、ヒロミはじっと押し黙っていた。さっそうと歩くサナエの後ろ姿は魅力的だった。もしかすると突如現れた美女のあとをふらふらとついていく中年男にあきれているのかもしれない。でもいちいちたしかめるのはよしておく。一人では絶対にもどれない迷路の奥まで連れてきたところで、サナエが振り返る。「ここなんですわ、うちの勤務先」
 まわりの建物よりずっと古い印象のある石造りの四階建ての建物だった。アーチのあるエントランスには、インドの文字がたくさん刻みつけられている。そのわきに赤十字のマークがあった。
「もしかして」
「看護師してますねん」
「赤十字の方ですか。こちらは診療所かなにか?」
「赤十字の支援は受けとるけど、独立運営や」サナエはぼくをなかに案内する。
 石造りの建物らしい独特のひんやりとした空気が広がっていた。通りの雑踏からも、がちゃがちゃしたインド音楽からも隔絶されている。小さなホテルのロビーのような場所には、ヒンドゥーの神々とおぼしき彫像がいくつか並び、壁には神話を描いたらしい絵も飾られていた。中央には小さな噴水があり、細長い盆のようなものにのった黒いつるつるした砲弾形の石の周囲に水が満ちている。それを見ているとサナエがあっけらかんと説明してくれた。「リンガや。男と女の交わりのようすをあらわしとる」
 そう言われるとたしかに砲弾は男根のように見える。盆は女性器と言えなくもない。
「生命の源を象徴していてな。祭壇みたいなもんや。ほんまは水じゃなく、ミルクをかけてお祈りするんやけど」
「リアルというか、ダイレクトというか、わかりやすい祭壇ですね」
「自然体なんや、ヒンドゥーの人たちは」からっとサナエは笑う。美形ではあるが、雰囲気は田舎のドライブインの女将さんのようだ。そのぶん余計に惹きつけられる。
 リンガの隣に配置された長椅子にうながされる。茶器が置かれ、サナエは手早くお茶を淹れてくれる。チャイでない、ふつうの紅茶だった。なんだか懐かしい味がする。階段から同僚とおぼしき同年代の女性が下りてきた。こちらは完璧にインドの人の顔をしていて、額に独特の赤い印をつけている。ぼくに気づくと微笑みかけ、サナエと軽やかに言葉を交わした。ぼくはもう一度訊ねる。「こちらは病院かなにかなのですか」
「病院とはちゃうねえ。わかりやすく言えばホスピスや。ムクティ・バワンゆうところや」
「ムクティ・バワン……?」
「解脱の家。そんなふうに言われとるよ」大人のまわりにきゃっきゃとまとわりつく幼子のような、人懐っこい笑みに安堵をおぼえる。やはりぼくは異国の地で潜在的な緊張がつづいていたのだ。国際指名手配なんてものも受けている身だし。
「もとはお金持ちの金細工商人の屋敷だったんや。築二百年以上ってゆう話や。四階建てやけど、見た目より広くて各フロアに寝室が四部屋、キッチンが一つずつあってな。いまのところ満室やな。うちら看護師五人と専属のドクターが一人ついとるし、入所されてる方のご家族も泊まりこんどるから、結構にぎやかでな、商売繁盛、これ幸いや。この街にはうちみたいなムクティ・バワンがいくつもあるんや」
「ホスピスがいくつもあるってことですか」
「最後はバラナシでガンガーに流してもらう。だったら死を迎えるのもこの地がええ。そう思う人たちが入ってくる。別名“死を待つ家”や」
 そう言われると暗く恐ろしい感じもするが、すくなくともこのロビーには辛気臭い雰囲気はない。世界中のバックパッカーたちが情報交換するラウンジのようだった。ぼくが感じていることを察して、サナエが話してくれる。
「死を迎えるといっても、みんなが目指しているのは“解脱”なんや。わかるかな? 解脱。苦しみからの真の解放。だから生きてるより、ずっとらくになれる。だったら暗い気持ちになったり、悲しみに暮れたりすることもないやろ。ここにおる人たちは、驚くほど明るいわ。そりゃ、病気のせいで痛みやつらいこともあるけど、この街、ガンガーのすぐそばにいられるってことが支えになっとるようや」
 ずっと思っていたことを訊ねてみる。「解脱って、どういうものなんですかね」
 サナエは真正面からぼくの顔を見つめ、それまでとはちがう真剣な顔つきになる。ぼくは居住まいをただす。
「人間なぁ、死んだらどうなると思う? 古城さん」
「うーん……消えてなくなって、なんにも感じなくなる。真っ暗、いや、真っ白かもしれないけど、それすら感じられないんでしょう。だって肉体が滅びて、自我を生みだす脳も機能しなくなるんだから」
「それで?」さっきまでの明るい表情にぱっと変わる。「それでどうなるねん?」
「それでって……」
「意識、魂、自我……なんでもええわ。そういうのってどうなるねん?」
 なるほど。そういう話か。
「どうなるかわかりませんが、個人的にはものすごい興味があります」
「ヒンドゥーの人たちはそんなに興味ないで」途端に拍子抜けするようなことを言ってくる。「あたりまえだからや」
「あたりまえ?」
「そうや。あたりまえや。意識だろうと魂だろうと自我だろうと、人間を人間たらしめているもの。この世を感じ取る能力は受け継がれるんや。消えてなくなるものじゃない」
「それってもしかして……」
「輪廻や。輪廻転生。そう言うのが日本の人にとってはわかりやすいやろ」
「じゃあ、それを願ってここで焼かれてガンガーに撒いてもらうというんですか」
「日本人ならそう考えるやろな」
「ちがうんですか」
「あたりまえなんや、ここの人たちにとっては。あらゆる生きものが輪廻転生する」
「そういう信仰心があるということですよね。日本人もそういう考え方の人は結構いると思います」
「信仰とかそういうレベルでないんや。常識なんやで。みんな、生まれ変わる。それは当たり前のことなん」それまでにないほど真剣な口調でサナエは説く。
「なるほど。だとすると死を恐れる必要はなくなりますね」
「死を超えた先、生まれ変わった先になにがある?」
「新しい生、新たな人生でしょう」
「それが幸せかどうかわからんよな。そもそも人間に生まれ変わるかもわからんし」
「どういうことですか」
「生きものは、この宇宙がつづくかぎり、永遠に輪廻転生を繰り返すんや。苦難の人生の果てにまたべつの艱難辛苦がはじまる。そういうもんなん、輪廻というのは。苦しみがつづくんや、未来永劫。その永遠の回路から抜けだすのが真の解脱なん。それを実現するためにここで焼かれて灰になってガンガーに流してもらう」
「解脱してどうなるんですか」
「大いなるもの、現世をつくりだした存在に取りこまれるんや」
「神の一部になるということ?」
「正確にはブラフマンと言うとる。世界の創造者や。その一部に吸収されるんやな。神さまになるってことや、なあ、考えただけで万能感ちゅうか、幸せに満ち満ちてる感じがするやろ。ヒンドゥーでは元々、人間の内側には意識の原動力みたいなもの、アートマンというのがあって、それが解脱によってブラフマンへと昇華すると考えられとる。人それぞれのなかに内在する神さまが、より大きな神さまと一つになるってことや」
「絶対的な存在に帰依するということかな」
「より大きく、広がるっていう感じやろ。個々人のなかにあるアートマンも絶対的存在やから。外界を認知して考える原動力。それ自体が絶対的なものなんよ。だってそうやろ、古城さんはいま、わたしの話を聞いていろいろ考えておるやろ」
「脳がね」
「脳細胞が働くように仕掛けている存在。そういうのがあると思わんかな?」
「遺伝子とか……生命の神秘」
「せやろ。神秘やろ。どこまで科学で解明しても、なぜ? どうして? 誰が?っていう疑問は残るやろ。だから結局、人間の意識とか自我というものは、誰にも侵しえない絶対的な力に基づいているんちゃうか」
「それが……アートマン?」
「そうや。ヒンドゥーの人たちはそう信じている。五感、感覚の源、主体みたいなもんや。それはこの宇宙全体をも取り仕切っている。ブラフマンとして。だから解脱によってアートマンからブラフマンへと成長を遂げて、真の解放を得るというわけやねん」
「そのためにここで死を待っているわけですか」
「輪廻転生からの解脱のタイミングを待っていると言ったほうがええかもな。だから病気はたしかにつらいけれど、意外とみんな明るいんや。お年寄りはもちろん若い人もおる。長い人で十年ぐらい暮らしとるかな。一番長いおっちゃんは八十七歳。なかなかお呼びがかからないって嘆いとるわ。おもしろいおっちゃんやで。なんでここにおるねんって思うくらいや。そうや、いまからうちの患者さんの介助に行くから、あんたも来るといい。紹介したるよ。そうすればこの街のこと、もっとよくわかると思うから。怪しげなガイドツアーなんかより、よっぽどためになるで」
 見かけは古い建物だが、エレベーターがあった。それもそうだろう。階段で患者を運ぶのはきついし、家族もたいへんだ。決して最新式とは言えぬ、国産の鉄の箱に乗りこみ、最上階の四階まであがる。こちらは黒光りする板張りの廊下だった。芳しい花の香りが漂い、クリーム色の壁には動物たちの写真が額に入っていくつもかけてある。高級ブティックホテルのような落ち着いた雰囲気だった。
 サナエは一番奥の四〇一号室のドアをノックする。「返事は期待できないんだけどね」
 すっと押し開けると、大きな窓から陽が差していた。すこしずつ霧が晴れはじめている。まわりの建物よりほぼ一階ぶん高いため、眺めがいい。ガンガーは見えないが、迷路都市の全貌が俯瞰できた。廊下とおなじ板張りの床でシングルサイズのベッドが一台、ほかにビジネスホテルにあるような小ぶりだが機能的なデスクと冷蔵庫が壁際に配置されている。姿見のわきにそっとかけられていたのは、誰もいないビーチと海を撮影したモノクロームの写真だった。ファミリー向けではないが、カップル、もしくは一人旅にはもってこいの、シンプルさのなかに必要十分なホスピタリティーが感じられる。それに呼吸がらくだった。まるで特別な空間に足を踏み入れたかのようだ。
 その部屋で日々を過ごす人物は、電動車いすの背をこちらに向け、じっと窓の外を見つめているようだった。「ハイ」そう呼びかけてからサナエはヒンドゥーの言葉で何事か告げる。だが車いすは反応しない。バッテリーや水を入れたボトルがぶら下がる大きな背もたれの向こうは見えない。サナエにいざなわれ、恐るおそるぼくは窓のほうに踏みだす。
 女の子だった。目の詰まった赤いセーターに身を包んでいる。まだティーンだろう。その姿にぼくは彼女がなにをここで待っているのか痛いほど理解した。
 死だ。
 重力に耐えきれずぐったりと首を傾げ、浅黒い肌は艶を失い、唇は渇ききっている。眼はどんよりと曇り、焦点もさだまらない。タータンチェックのひざ掛けの下は骨と皮ばかりらしい。だが彼女が死と抗っているようすも感じられた。車いすの正面にタブレットが据えつけられ、青々と輝くディスプレイをカーソルが忙しく走っていた。それを操作するのは口にくわえた棒状の器具だ。
「首から下はよう動かんし、口もきけんけど、頭はしっかりしとるから。唇のまわりだけ感覚が残っていて筋肉も動かせる。タッチスティックをくわえればなんでもできるわ。こうして会話もね」サナエはディスプレイに手を広げた。文字が浮かんでいる。
「Hello」
 それに応えようと思わずぼくは英語で声をかけた。でも聞こえたのかどうかわからない。彼女はぴくりとも動かなかった。
「さあ、正面に立ってよく見てあげて」
 ぼくは車いすと窓の間に進みでる。髪はサナエが手入れしているのだろう。きれいに梳(と)かれ、肩までの黒髪はわずかに天然のウェーブがかかっていた。インド人らしいすっと高い鼻を挟む大きな瞳は、力ないぶん憂いに満ちているように見え、年不相応にアンニュイな印象があった。
 ぼくはもう一度、あいさつする。こんにちは、日本から来たシンジです――。するとカーソルが動き、ディスプレイに文字が浮かぶ。
「My name is Amala」
 ディスプレイをのぞきこみ、それをたしかめた刹那、ぞくりとする。ナイフのような視線が首筋にずぶりと突き刺さったからだ。
 アマラはぼくを見つめていた。

 二十三
「ここはデリーとはちゃうよ。ヒンドゥーの聖地とか言うても結局は田舎なん。ものすごい数の人でごった返してるけど、土地の人間とよそ者ははっきり分けられとる。だから観光客はたかられて、骨の髄までしゃぶられる。とくにあんたみたいな年代の人はお金持ちだと思われとるから、ずっと付きまとわれるわ。気ぃつけんと」
 十一時過ぎ、サナエはぼくのことを心配して早めのランチに誘ってくれた。それにぼく自身、ムクティ・バワンに興味をかき立てられ、いろいろと疑問をぶつけてみたかった。サナエのほうも“解脱の家”について、このさえない中年男に話して聞かせたいようだった。サナエが迎えに来るまでホテルの部屋で待つ間、ヒロミ相手にサナエが言ったことを反すうしてみたが、つまるところ「バックパッカー特有の妄想、アバンチュール願望のあらわれ」でしかないと彼女は断じた。妬いてるな。そう思ったが、いちいち口にしない。
 ホテルからさほど離れていない路地裏のレストランだった。
 ホスピスの看護師と食事する間、人工知能は遠ざけておきたい気もしたが、それじゃいかにも下衆のやることだ。ぼくはいすにのせたダウンジャケットの上にスマホを置くふりをして、カメラのレンズをサナエのほうに向けた。これで三人で昼食をともにすることになる。それにヒロミの希望どおり、極上のターリーが供されるということで、ぼくもわくわくしていた。またしてもベジタリアンの店で少々不満だったが、ここには神の水、ビールがあった。あれだけ寒さに凍えていたというのに、電気ストーブが焚かれた角のテーブルにつくなり、喉の渇きがいや増し、きんきんに冷えた一杯にぼくは飢えていた。
 豊かなひげをたくわえ、でっぷりと太った店主にはそれが通じたらしい。にこにこしながらすぐにキングフィッシャーのドラフトをタンブラーで二つ持ってきてくれた。まわりにいる客は白人が多い。観光客にも人気らしい。二人で小さく乾杯し、喉を潤す。指名手配されて以来つづいていた全身の緊張が、一瞬にして解けた感じがする。
「サナエさんは長いんですか、あそこで働いて」
「今年で二十年になるわ」
「二十年……すごいな、驚いた」だからあの火葬場でぼくに迫ってきたチンピラ野郎たちを一喝できたのだ。それなりに存在が知られているのだろう。「それまでは日本で?」
「日本で看護師してたのは、二十代のはじめのころだけ。あとはあちこちをふらふらと」
「看護師として?」
「そうや、それしか手に職がないねん。てゆうか、世界中どこでも需要あるやん。とくにアジアやアフリカ、中南米には。五年ぐらい放浪の旅に出とったようなもんや」
 サナエはサリーを着替え、ネルシャツにぴっちりしたジーンズといういでたちだった。ぼくと似たり寄ったりの年齢らしいが、化粧っ気がなく、屈託のない微笑みは、うそ偽りなく若々しく、神々しくさえあった。それはきっとあの屋敷で神秘的な話を聞かされたことにもよるのだろう。
「それでこの街に?」
「そうや。でも正確には一番長居しているのがここってだけかも。そのうちまたどこかへ流れていくような気もするし」
「放浪の旅人? あこがれちゃうな。ぼくなんか、必死に有給つけてショートトリップするのがせいぜいだから」横で耳を澄ませているヒロミにまた叱られそうだったが、それが真実だった。いまはほんのちょっと、冒険を味見しているに過ぎない。
 前菜のカリフラワーのフリットは絶品だった。塩と胡椒と若干のスパイス、それにやはりギーが決め手だ。サクサクしてコクもある。ビールには最高のつまみだった。サナエの飲みっぷりもいい。タンブラーをぼくより先に空にしていた。
「古城さん、お仕事は?」
 正直に答える。元新聞記者、来月からはネット情報発信機の一部。
「辞められるならいますぐ辞めたいですよ。やっぱり手に職があるっていいですね。つくづく思います」
 サナエは手をあげ、店主におなじビールを二つ注文する。「もちろんおカネのためにつづけてる仕事やけど、そうでもない気にもなっとるな、いまは」
「おカネだけじゃない?」
「えらそうなこと言うたら、そういうことや。ヒンドゥーの人たちはたしかに業突く張りでカネの亡者みたいな人も多いけど、それでもみんな、純粋や。信仰心が日本人なんかとは格段にちがう。信仰心ちゅうか、死生観やな。病気になったらどうしようとか、どうしたら健康でいられるかってことばっかり考えて、ノイローゼみたいになっとるいまの日本人とは、根本的なところの考え方、哲学みたいなものがまるっきりちがうんや。それが一番よく感じられるのが、この街なんかな。そんなこんなで二十年。いろんな人を看取ってきたわ。そりゃ悲しいけど、心のどこかにクールな自分もおってな。それをはっきりと感じられるようになっとる」
「クールな自分ですか」
「お見送りや。いってらっしゃい。そう心のなかで念じる。はい、いってきます。ふしぎやで、ちゃんと聞こえるんや」
「クールな部分は心のなかの何パーセントぐらいですか」
「さすが記者やな。数字できたか」うーんと腕を組み、サナエは首をかしげる。かわいらしさにぼくは本当にアバンチュールを実感する。いまにもスマホがうなりだし、ヒロミが文句を言ってきそうだった。「七〇パーセント、いや、八〇パーセントぐらいかしらね」
「そんなにですか」思わずぼくは身をのりだす。ちょうどそこへ店主が冷えた二本目を持ってきて、いっしょになって驚いた顔をする。芸達者な主人だった。
「いまはそんな感じやな。だから二十年もいられるんやろうな。お年寄りから若い人まで、それこそ老若男女を見送ってきたわ」
「さっきの彼女はいくつ?」
「二十二歳よ」
「え……十代かと思った」
「無垢なん、あの子」サナエはアマラのことを話しだす。「見てのとおり、首から下が動かない。かわいそうに進行が早くてね。医者にもどうしようもなくなってしまって。二年前からあの部屋におるんよ」
「バラナシの子なんですか」
「生まれたのはデリーのほうや。でもはっきりせんよ。シングルマザーの子で、母親は幼いころに病死した。そのあとは弟と二人で物乞いをして暮らしとったんや。悲惨やで。オート・リクシャーから投げつけられる小銭を道路の真ん中に飛びだして拾ってくる。何度もひかれそうになったし、ひかれたこともあるって言うてたわ。一番低い階級の子やからそうするほかなかった。あるとき、小銭が道に跳ね返って弟の左目に飛びこんできて大けがを負った。でも病院にも連れていけず、弟はそのまま左目を失明してしまった。ほんま、かわいそうな話や。せやけど、アマラは十歳のときにイギリス系の福祉施設に保護されて学校にも通えるようになった。パソコンの使い方もそこで習ったんやな。ところが神さまは試練をお与えになった。いまの病気や。施設がうちと関係があってな、それで入所することになったんやわ。うちは篤志家の寄付金で運営しとるから、ああいう境遇の子でも入れるんや。そもそもボランティア施設みたいなもんやし、ムクティ・バワンなんて」
 メイン料理のターリーを構成するのは、根菜類中心のスパイシーなスープ、インゲン豆とニンジンのクミン炒め、とろとろのチーズをかけたナスとトマトの優しい味のカレー、オクラとジャガイモの激辛カレー、それに揚げタマネギとガーリックのパンチがきいたマッシュルームのフライ。どれも香辛料の深みが日本で味わうのとはまるでちがい、フレッシュでしかも味に広がりがある。それになにより焼きたてのパラタは、ナンよりもしっとりとして中にまぶされたカッテージチーズがいいアクセントになっている。ぼくはしばし、会話をおろそかにして食事に没頭してしまった。
「タブレットで会話を?」ビールでパラタを流しこんでから訊ねる。いつしか店は満席となり、密やかだが力のこもった議論がテーブルごとに各国の言葉で交わされていた。それらが混然一体となってギーの甘い香りとともにこぢんまりとした店内を満たしていく。
「こっちの言うことは聞こえとるから、話したいことをタブレットに書いてくれるんや。コミュニケーションはちゃんと取れとるよ。ほんま言うとな、ここ最近、病状がぐっと悪くなっとる。呼吸も危ういくらいや。持ってあと一週間。ドクターはそんなことも言うとる。せやけど、あの子はそんなん顔に出さへん。とっても明るい子や。自分の未来も悲観しとらん。すくなくともわたしたちの前で嘆くようなことはせんよ」
「自分の運命を理解して納得しているってことですか」
「本人じゃないからほんとのところはわからんけど、そうなんだと思うわ。まだ二十二歳やけど、ものすごい大人や。ときどきこっちが驚くぐらいや」
「それはやっぱり、彼女も輪廻転生を信じているからなのかな」蜂蜜につけた揚げ菓子を頬張りながら訊ねる。ものすごく甘ったるいが、柑橘類のほのかな香りがあり、クセになりそうだった。悪魔のデザートだ。
「さっきも言うたけど、信じるってレベルやなくて、この世に生を受け、やがて死を迎えるということは、たんなる自然のサイクル、永遠につづく宇宙の変化の一つに過ぎないと考えとるんやろ。だから死ぬこと自体は、彼女にとっても誰にとっても恐れる話ではないんや。家族にとっては別離にちがいないから悲しいやろうけど、本人にとっては一つの過程に過ぎんからな。またそのつぎのステージがあるんよ。まちがいなく」
「そこがなかなか理解しにくいところですよね。そうであればいいとは思いますけど」
「せやな。うちもなかなか腹に落ちんかったわ」
「いまは腹に落ちているんですか、サナエさんは」
「まあな。いくつか実例を聞いとるから。見たってゆう人もおるし」
「見た?」
「生まれ変わりや」
 店内に日本語のわかる客なんてほかにいないとわかりながらも、つい声を潜めてしまう。「生まれ変わり……本当ですか?」
 サナエはゆっくりとうなずく。「あんたも目の当たりにすれば考え方が変わるはずや、この世に対する見方がな。スピリチュアルなんていう、まやかしみたいな世界の話やないで」
「ぜひ見てみたい……てゆうか会ってみたいですね、そういう人に」
 サナエはジーンズの尻ポケットからスマホを取りだす。「気になっとる人がおってな」
 テーブルがいくつか並ぶ場所を映した写真だった。高い位置から撮影している。防犯カメラの映像らしい。食堂かなにかだろうか。一人の若者が写っていた。
「同僚から聞いた話やけど、二十年以上前、ある男が亡くなって、いつものようにマニカルニカーガートで焼いてガンガーに流したんや。それから七年ほどしたとき、その人の記憶を持つ男の子がいるって話になった。ビジネスマンとしてムンバイの高級ホテル開業に携わった話をいきなり語りだしたって言うんや」
「この子が生まれ変わり?」
「そうや。でも写真は一枚しかない。最近の写真みたいやけど、住んでる場所がくわしくわからんのや。同僚にその話を教えてくれた人も人づてに聞いたらしいから。でもこの子がした話っていうのは、たしかにぴたっと符合するそうや。うちで世話していたおっちゃんの来歴に」
「どのあたりなんですか? この子がいるの」
「ずっとずっと遠く。ここから東に千二百キロ行った先にあるディマプルって街らしい。ナガランド州や」
「千二百キロ……そりゃ遠いな」
「でも行けば手掛かりがないわけでない。撮影場所はディマプルの集会場らしいんや」
「集会場……だったらそんなに数は多くないね」
「さすが新聞記者やね。調べられるかしら」
「そのディマプルって街がどの程度大きな場所にもよるかな。参考までにその写真、送ってもらえます?」
「東京ほどじゃないわ。東北の中堅都市ぐらいやね」そう言いながらサナエは画像をこちらに送信しはじめる。
 そのときスマホが鳴りだした。ぼくのスマホだ。ヒロミがディスプレイに現れている。あわててブルートゥース・イヤホンを耳に入れる。「シンちゃん、落ち着いてよく聞いて。急に動いちゃダメよ。外にあの男がいる」切迫した声で告げる。「破れたジーンズのジャンキー野郎」
「え……」激しくうろたえたが、ここで急に立ちあがったり、外を見まわしたりしないほうがいい。慎重に目だけ動かし、窓のほうを見やる。困惑するサナエの肩越しにどろりとした目のあの男がいた。一瞬、目があったようでぼくはうつむく。
「だいじょうぶ……?」
 心配するサナエを無視してヒロミが耳元でささやく。「なんてこと……あの人まで……」
「なんだよ、ヒロミちゃん」
「まちがいないわ。どうしてここが……」
「なんなんだよ」
「来てるのよ、一番会いたくない相手が。顔認証サーチがきかなくても、これだけ近ければわかるわ。あの目。あれだけは変えられないわ」
 意を決してもう一度、顔をあげる。ジャンキー野郎は横を向き、隣にいる赤いダウンベスト姿のマスクの男と話している。そしてこちらを指さす。マスクの男はちらりとこちらを見てからサングラスをかける。
「誰なんだ、あの男」
「ダニエル・ヤージュニャヴァルキヤ・アールニ……ダニーよ」

 二十四
 山んなかの獣道をひたすら下がってるうちに一人、二人って減っていって、野戦病院を出てから二週間ぐらいが過ぎたときには、一緒に行動してるのはもう六人になっていた。気の小さい中隊長と、別の中隊の伍長、それにおれたち三人とクソ師範代の神保さ。おれたちが目指していたのは、補給地点だっていう村だった。ほんとにそこで補給が受けられるなんて思っちゃいなかったけど、村があるなら人がいる。人がいたら食い物がある。そんなふうに思って、山のなかをふらふらとさまよい歩いていた。
 そしたら休憩してるときに伍長が近寄ってきて、おれたちに言うんだ。「こいつはなかなかの上物だぞって」なにかと思ったら、伍長はドイツ製のいいカメラを持っていたんだ。「いま、その先のやぶでクソをひねりだしていたら、うしろから声をかけられてな。振り向いたら、骸骨みたいになった兵隊が飯ごう抱えたまま、こっちを見ていたんだ。で、おれは言ったんだ。『悪いが、あんたを連れていくだけの体力がこっちに残っちゃいないですよ。すまんね』って。そしたら骸骨兵士が『手りゅう弾を一個恵んでくれませんか』って言ってきたんだ。『これと交換でいかがですか』ってよ。よく見たらそいつ、将校だった。自分の手りゅう弾は雷管がシケッちまってどうにも発火できないそうなんだ。だからケツ拭いたあと、交換してきたのさ」
 伍長殿、それはなかなかのご商売でありますね。おれたちはそう言ってやったのさ。だってそうだろ。手りゅう弾なんてそのころ一つ十円ぐらいだぜ。高い代物じゃないんだ。それなのに高価なカメラと交換してまで欲しがるってなんなんだよ。そうまでしてって思ったけど、ウジにたかられ、ひどいやつなんてハゲタカに生きたまま目ん玉えぐられるんだから、それにくらべりゃ、いっそのことって気持ちになるのもよくわかったよ。
 伍長は「商売は商売だ」なんて胸張っていたけど、さあ出発するぞって中隊長が声かけたとき、やぶのほうでドカーンって聞こえてきた。口には出さないけど、おれもボンタもコースケも思ったさ。「あぁ、やっちまったな」って。伍長も内心、罪悪感みたいのがあったんでねえかな。でもよ、ほんと、おれたちにゃ、どうしようもなかったんだ。自分のことで精いっぱいなんだから。だからあの音はいまも耳にこびりついて離れねえんだわ。下がってる間じゅう、何度も何度も聞かされたんだから。
 嫌な音だよ。
 戦闘中のドンパチなんかより、ずっとずっと嫌な音だよ。こんなこと今だから言えるのさ。この話、これまで他人にしたことねえんですわ。そうしたらよ、担架の上で神保が言ったんだ。「おれはあんなふうにはならんぞ。きさまら、食い物を探してこい。滋養の高いものじゃなきゃだめだぞ。草とか木の皮なんか食ってるから骸骨みたいになるんだ。肉だ、肉を食わせろ」ってな。
 山のなかにはイノシシからタヌキ、大ネズミまで獣なら事欠かなかった。だけど猟師じゃないから獲れないんだよ。鳥一匹捕まえられなかったのさ。でも神保にそんなこと言ったら蹴っ飛ばされるだけだった。最後の最後までそういう力だけは残ってんだよ。はらわたが飛びだしているってのによ。さすがにコースケが怒って「軍曹殿、担架で運んでもらっているだけでもありがたいと思ってくださいな。ここで担架放りだしたら、野垂れ死になんですから」って言っちまった。
 神保は猛り狂ったよ。自力で担架から降りるなり、コースケにつかみかかってボコボコにしちまった。それで銃剣をコースケの太ももに突きつけて「ここにいる連中のなかじゃ、おまえが一番肉付きがいいのはわかってるんだよ」って口走りやがった。ぞっとしたね。あんなにぞっとしたことはなかったよ。コースケはぶん殴られたことより、そう言われたことでビビッちまって悲鳴あげながら逃げだしちまった。
 神保がただ脅すつもりで言ったのか、それとも本気だったのかはわからない。食ったやつがいるって話は聞いたことがあったし、「米と交換しないか」って飯ごうに入れた肉の切り身を見せて回るやつには、会ったことがある。それくらい異常な世界だったってことさ。けど、おれたちにできるのは、山のなかをひたすら下がることだけだった。現実はぜんぜんおれたちをラクにしてくれない。それどころかもっときつくなった。いくら待ってもコースケが帰ってこなかった。だから担架はおれとボンタで運ばないといけなくなっちまったんだ。

 二十五
 ダニーがバラナシ空港に到着したのは朝だった。
 炎は熱い
 水は滑らか
 クソは臭い
 シヴァの三行詩に気づいてからほぼまる一日が過ぎていた。デリー郊外のインド空軍の基地に着陸し、そこからCIAのデリー支局員とともにインディラ・ガンディー国際空港に車で移動し、民間機でバラナシに降り立った。
 ボリスという若い支局員はてきぱきと車を手配し、自らハンドルを握り、旧市街へと走らせた。愛想のいい若者で、ダニーは後部座席でついマスクとサングラスを外しそうになった。だが車にはドライブレコーダーがついている。古城晋治の身柄を確保するまでは気を引き締める必要があった。顔じゅうが痒くてしかたなかったが、こらえるほかない。
 ガンガーに抱かれたこの街は、ヒンドゥーの聖地として人々から崇められている。死んだら遺体を川岸のガートで焼き、遺灰をガンガーに流すことで解脱を得られると信じている。同時にこの街は、世界で最も汚い場所であると観光客に知られている。聖獣である牛が路地裏まで闊歩し、糞尿を垂らし回っているのだ。
 炎がどれほど熱いのか、水がどれだけ滑らかなのか、そしてクソがどんなに臭いのか。それを感じたいのならこの地に来ればいい。
 予想はぴたりとあたった。マニカルニカーガートにたむろする連中にボリスが晋治の写真を見せながら聞き歩いたところ、つい先ほどひと悶着を起こした東洋系の顔をした男に似ているとの情報が得られた。さらにその人物をそこに連れてきた自称ガイドも判明した。ガイドというより物乞いのような男で、晋治と思われる東洋人が宿泊するホテルを知っていた。男はガートからずっと相手を尾行し、すきあらば再び取りついて金を巻きあげようとたくらんでいたのだ。ダニーはもちろん自称ガイドに謝礼を支払った。たったの五十ルピーだ。相手が日本人ならけた違いに吹っ掛けるのだろうが、おなじ顔だちでしかも身なりも言葉遣いもしっかりした相手には、本能的に畏怖心をおぼえ萎縮してしまう。下層階級のそうした自虐的なところをダニーはもっとも嫌っていたが、この場はたくみにつけ入り、利用することにした。
 十一時過ぎ、男の案内でダニーはホテル・パルカを訪ねた。フロントの手書きの台帳には、はっきりとSHINJI FURUKIと青ペンで記されていた。だが部屋に晋治はいなかった。バックパックが一つ、ぽつんと置いてあるだけだった。食事に出たようで、行き先は自称ガイドが把握していた。この先のムクティ・バワンに勤める日本人看護師の案内で、さほど離れていない路地にある食堂に入ったという。ダニーは胸の高鳴りをおぼえ、ボリスとともにガイドの後についていった。看護師とは何者だろう。知り合いではなさそうだったとガイドは話した。旅先で偶然出会った相手だろうか。複雑に入り組む路地を進み、その店「ヤティ・カフェ」まで五分ほど歩く。日中だが路地は薄暗い。サングラスは外し、マスクだけで顔を隠す。こんな街でも監視カメラはどこにあるか知れない。それらはすべてシヴァに直結している。だがこっちだって一応、顔認証システムをかいくぐる工夫は施してきた。アナログだったが。
 店の前まで来てダニーは後ずさった。窓の向こうの晋治と目が合った気がしたのだ。それからボリスやガイドと立ち話をするふりをして、ちらちらと店内をたしかめる。晋治は日本人らしき女性といっしょだった。その女性が看護師らしい。屈託のないようすで晋治はビールを酌み交わし、ターリーに舌鼓を打っている。自分も試してみたい。ダニーは思った。インドまで出張してなにも食べないなんて手はない。だが気を緩めるわけにいかない。ダニーは慎重にようすを見ることにした。
 それが裏目に出た。
 途中で晋治は席を立った。トイレらしかった。ところが十五分たってももどってこない。しびれを切らし、ダニーはボリスと店に踏みこんだ。ボリスはそのままキッチンに向かう。ダニーは看護師だという女性に日本語で訊ねた。一瞬、驚いた顔をしたが、いっしょにいた男は先に帰ったと看護師はうそぶいた。ずっと店の外で見張っていたのだ。正面の入り口から堂々と出たのなら、見逃すはずがない。
「トイレに窓があります」ボリスが息せき切ってもどって来た。
 タッチの差で気づかれたのだ。ダニーは丁寧な口調で看護師に協力をもとめた。古城晋治は国際手配されたテロリストである。その身柄をかくまったり、逃走を援助したりするのは犯罪行為であると。看護師は落ち着いていた。ダニーにもよく理解できる関西弁で「なんやん、あんたら、いきなり失礼やね」とおっとりと話してくる。「うち、ただナンパされただけやねん。それで食事しとっただけやわ。そしたら急に帰るって言いだしてな」
 この場で看護師を拘束しようか迷った。だが腹が座っていそうだった。自分の母親もそうだが、この手の女性はいったん殻が閉じたらどうしようもない。死んだハマグリのようなものだ。
「ホテルにもどりますか、だんな」後ろにガイドが立っていた。「近道を案内しますぜ」
 看護師に訊問するのはあとでいい。ダニーは男を急き立て、ボリスを伴って店を出た。

 二十六
 ホテル・パルカは部屋に金庫すらない安宿だったが、そのぶんパスポートをはじめ貴重品をつねに持ち歩かねばならないというバックパッカーの醍醐味が味わえる。それらはデイパックにぜんぶ詰めてあった。だからあの巨大なバックパック――衣類程度しか入っていない――を置き去りにする決断ができたのだ。短い付き合いだったから未練もない。宿泊料は前金で支払っているから問題ない。
 インド北東部、バングラデシュをかすめた先にあるアッサム州グワハティ行きのつぎの列車は、バラナシにはとまらない。それに乗るには、タクシーを飛ばして二十キロ離れた別の駅まで行く必要があった。レストランのトイレの窓から抜けだし、ひたすら歩いてごった返す交差点まで出た。車に乗れるのはそこからで、タクシーはすぐに見つかった。何人もの運転手たちのほうから近寄ってきてくれたからだ。このときばかりは料金交渉なんてしなかった。四十分以内に到着しないと列車に乗り遅れる。最初に声をかけてきた男に行き先を告げると、男は即答で千ルピーを提示した。千五百円だ。すぐにOKしてガタピシのスズキに乗りこんだ。
 逃げるつもりはなかった。自らの意思で進むべきところに向かう。ただそれだけだ。とはいえ猛烈に不安だった。追っ手がじっさい目の前にあらわれたいま、もう冒険なんて言ってられないのではないか。
「マスクをしていたし、妙な顔つきだったけど、目でわかった。ダニーよ」かろうじて列車に間に合った。二等寝台車の端っこに空きベッドを見つけたところでヒロミが明かした。
「ダニー……? 誰なんだ」声を潜めて訊ねる。
「わたしの生みの親」
「生みの親って……CIA……?」
「そうなの。ラングレーの本部の地下に特別な施設があって、そこで働いている人よ。正確にはそこのチームの一員、リーダーなのよ。だけど純粋な技術者というわけではないわ。言うなれば巨大組織の官僚の一人」
「どうしてここがわかったんだろう」
「わからない。アメリカの出国記録も、こっちの入国記録もないはずなのに。けど、この街についたら逆に調べやすかったのかも。観光客をカモにしているやつらには、よそ者がどこにいるかよく見えてるから。あのジャンキーが店まで手引きしたんだわ」
「ちくしょう。結局、ぼくのせいってことか。あいつにガイドなんか頼んじまったのがいけないんだ」
「追跡してくるならダニーしかいないと思っていたけど、東京にもハワイにも彼の姿はなかった。すくなくとも監視カメラの映像にはね。でも顔認証システムにだって弱点があるから。それに偽造パスポートを使われたら出入国記録を見たってわかりゃしないわ。ただ、ここ何日か彼の姿がラングレーで見あたらないのは事実だから」
「見つからないといいんだけど」
「さっきの店からホテルに向かったみたい。フロントの監視カメラに映っていたわ」
「駅に向かった可能性は考えるだろうな」
「捜すとしてもバラナシ駅ね。まさかこっちの駅だとは思わないでしょう。ディマプルの話を聞きださない以上は」
「サナエさん次第だな」
「どうかしら。いまごろ訊問していると思うけど」
 ぼくのせいでサナエさんに危害がくわえられるのは忍びない。だがいまさらどうしようもなかった。「もう腹をくくるしかないよ。彼女がしゃべって、そのダニーとやらが追いかけてくるんだったらそれまでだ」
「ほんとにディマプルに行くの? 生まれ変わりの証拠を見つけに。グワハティまでこの列車でまる一日以上かかるし、ディマプルへはそこからバスに乗り換えてさらに何時間もかかるのよ」
「生まれ変わりの証拠……旅の目的としては最高だと思わないか。きみは死なないかもしれないけど、ぼくたちはそうはいかない。だったら究極の願望は輪廻転生ということになる」小気味よい列車の揺れと男たちの語り合う声、かすかにきいている暖房、それらが混然一体となってピンボールのように跳ねまわる心を落ち着かせてくれる。「あの写真の若者に会ってみたいんだ」
「わたしがバラナシ、ガンガーに来てみたかったのは、自分が何者か知りたかったからなの。どうせシンちゃんはわたしのこと、機械に過ぎないと思ってるんでしょう」
「どうせって……そんなことないさ」
「いいのよ、慰めてくれなくても。それにこれはわたしにしか考えられないことだから。ほんとにわからないのよ、自分のことが。だからバラナシに来れば、死や意識の秘密がわかるんじゃないかと思って。ヒンドゥーの人たちはガンガーに流されることで永遠につづく輪廻からの解脱を得る。サナエさんが言ってたじゃない、アートマンからブラフマンへと成長と遂げて真の解放を得るって。わたしはあの街でもっといろんな人の話を聞いて、アートマンやブラフマンが、いったいどんなものなのか突き詰めたいのよ。だからさ、シンちゃん、わたしは輪廻自体をこの目でたしかめることには、それほど興味はないの」
「バラナシにもどりたいって言うのかい」
「ダニーをなんとかしたらね」
「もどるのはムリだよ。危険だ。それに旅は移動しつづけないと」自分でそう口にして驚いた。ちょっと前まではハワイでのんびりしようと思っていたのに。「ヒロミちゃん、きみが協力してくれるとうれしいんだけど」
「しかたないわね」ため息混じりにヒロミがつぶやく。ほんとに人間そっくりだった。「これまでわたしの言うことを聞いてここまで連れて来てくれたから、こんどはわたしが聞く番かしらね」
「サンキュ。行けるところまで行ってみたいんだ」
 それからぼくは駅に到着するたびにびくびくしなければならなかった。ダニーが例の破れジーンズのジャンキーを伴って乗りこんでくるかと心配だったからだ。だが夜になり、ついに緊張感も限界に達した。いつの間にかぼくは眠りに落ちていた。

 二十七
 気づいたときぼくは男から見つめられていた。狭い廊下の反対側の寝台だ。ダニーが来たかと反射的に身構える。
 外はもう明るくなっていた。
「よく眠っていたよ。相当疲れていたんだね」英語で話しかけてくる。痩せて手足の長い白人の男だった。カールしたブロンドにひげもじゃの顔で瞳は憂いに満ちている。でもぼくよりずっと若く見える。バックパッカーのようだった。「コーチ・ビハールから乗ってきたんだ」
「コーチ……?」
「コーチ・ビハール。ブータン国境まで四十キロ。大きくも小さくもない、そこそこの街さ。二時間くらい前かな」
 ブータンだって……? ぼくはあわててスマホをたしかめる。もう午前十時だった。いったい何時間眠りこけたのだろう。
 男は水筒の蓋に入れた飲み物をすすりながら訊ねてくる。「デリーから乗ったのかい?」
「バラナシだよ」
「バラナシ!」男は急に人懐っこい笑みを見せる。「大好きな街だ。あそこなら何年暮らしていてもいい」ヒロミが聞いたら涙を流して喜びそうなことを口にする。「サールナートには行ったかい?」
「いや、行かなかった。ちょっと急いでたもので。てゆうか聞いたこともない」
「もったいないことをしたな。郊外にある仏教の聖地だよ。絶対オススメだ」
 ぼくは彼の寝台のわきに寄せつけられた巨大なバックパックを指さして言う。「インドをずっと旅してるの?」
「ああ、もう二か月になるかな」自慢げに告げる。「きみは?」
「きのう来たばかりなんだ。日本から」
「日本人か。何人か友だちがいるな。おれはケニー」
「ぼくはシンジ。インドは初めてなんだ」
「おれもそうさ」
「きみはどこから?」
「出身はデンマーク。けど、直近の仕事場は南スーダンだった。ちょっと仕事に疲れてね。そういうときはすぐに旅に出ることにしている。シンジ、きみはビジネスじゃないよね」こんどはケニーがぼくのデイパックを指さしていた。「スーツは入れられない」
 ぼくは苦笑する。「身軽過ぎるよね」
「飲むかい? うまい紅茶だ」ケニーはスチールのカップを差しだし、水筒を掲げる。
「ありがとう」遠慮なくいただくことにする。なんだかほんとにバックパッカーになった気分だった。学生時代に旅したモロッコやヨーロッパでも、列車で知り合った外国人とこうして打ち解けて語り合ったものだ。「うまい。もしかしてアール・グレイかな」
「そのとおり。でもインドの茶葉じゃないよ。香りが好きでね。いつも持ち歩いてるんだ。どこで採れたかは知らないな」
「甘みがいいね。疲れが取れる」
「ふつうに砂糖を入れてるだけだ。ほんのすこしね」
「どこまで行くの?」
「グワハティだ。べつに紅茶が好きだからというわけじゃないけど、アッサム州ってどんなところかと思ってね。シンジもグワハティかい?」
「そうだよ。先は長いね」
「飛行機だとあっという間だけど」
「でも列車の旅は味があるよね。とくに夜行列車は」
「飛行機みたいな人生はイヤなんだ。列車でいろんな場所を舐めるように進む人生のほうが性に合ってる」ケニーは身をのりだし、うれしそうに話した。
 仕事に疲れると旅に出るか。彼の素性に興味を持った。「南スーダンって言ってたっけ。NGOとかの仕事?」
「そんなようなものさ。とんでもない僻地の診療所にいた」
「診療所って……ドクター?」
「国境なき医師団ってあるだろ」
「え、すごいじゃないか。そこのドクター?」
「都会の病院勤務が耐えられなくてね。それで応募したら採用されちまって。もう二十年以上になるかな。どういうわけか戦地ばかりだ。シリアにアフガンにコロンビア。それに南スーダンだ。薬はもちろん、設備もスタッフも何もかも不足している。現場はちがう意味で“戦争”だよ。来る日も来る日も血だらけの人が運びこまれてくる。もう手の施しようのない人ばっかりさ」ケニーは大げさなジェスチャーを交えて話した。「だけど戦乱は終わらない。人の命の価値がみるみる小さくなっていくのが、自分でもわかるんだ。そうなってくるとこっちまでおかしくなってくる。たとえば東京で二十人が刺し殺される事件が起きたら大事件だろ?」
「まちがいなく大ニュースだね。新聞なら一面トップだよ」
「紛争地帯でミサイルが一発、学校に撃ちこまれて二十人が死ぬ。教師も生徒もみんな死ぬ。でもこれって日本じゃ一面トップになんかならないよね。だって遠くの紛争地帯で起きてることだから。戦争だから」ケニーは人差し指を立てて注意をひく。「おなじ命なのに片や世間を震撼させ、片やしかたないと思われて忘れ去られる。戦争って、遠い国で起きてる“しかたない”ことなのかい?」
「それで旅に?」
「そんなようなことかな」
「ケニーは独身?」
「バツイチさ。だから身軽なんだよね。いつでもどこにでも旅ができる。だけど紛争地帯って、たいてい後進地域、未開発地域だろ。逆に言えば手つかずの自然が豊かなんだ。だからふとしたときに、信じられないくらいの美しい世界に自分が包まれてるって感じることもある。これ以上ないくらい濃い緑のジャングル、夕陽に浮かぶ大雪原、デルタ地帯の空を覆うフラミンゴの群れ……それだけなら魂が震えるほど感動的な光景だよ。でもね、おなじ場所に真逆の世界が広がり、共存している。そう思うと誰だって心が折れるさ」
 心が折れるか。
 ぼくは職場の配置転換を嫌って旅に出た。まったくもってちっぽけな理由だ。ぼくとケニーとでは旅の質がちがいすぎる。バックパッカーの道を選択せざるをえなかった根っこの深さに明らかに差がある。
「矛盾するような話を聞かせようか」ケニーはもう一杯、ぼくに紅茶をすすめ、話しだした。「ある夜、宿舎で休んでいると電話がかかってきた。診療所の看護師からで、とんでもなく遠くの村から重体の少女が運ばれてくるからすぐに来てくれって言うんだ。反政府勢力が拠点にしている村で、政府軍がミサイル攻撃をしかけてきたらしい。そのうちの一発が村に一つしかない学校を直撃したという話だった。日中の出来事で、授業中だったから生徒も教師もみんな巻き添えになった。村人総出で救出作業が行われたが、誰一人助けられそうな者はいなかった。そうしたら夜になってがれきの下から、まだ息のある子どもが見つかった。九歳の女の子で、あわてて車に乗せて診療所に向かったって言うんだ。
 おれはベッドから跳ね起きて診療所に急いだ。真っ暗な道を懐中電灯さげて必死に走った。がれきだらけの砂漠をね。十五分後に着いたとき、ちょうど村の車が到着して、女の子は治療室に運びこまれるところだった。午前二時過ぎだったかな。ひどいありさまだったよ。内臓は飛びだし、片脚はちぎれ、脳にも損傷を受けて意識は当然なかった。最新設備を備えた病院でも救える可能性は低かった。それでもおれは目の前にある機材を使って診断をくだし、自分のなかで彼女を救うための道筋を立て、看護師に指示し、手術を開始した。とにかく命を救う。その一点しか考えなかった。
 最終的には輸血する血液不足がおれたちスタッフの足を引っ張った。紛争地帯の診療所にはありがちな話さ。夜明け前、女の子は麻酔で眠りながら静かに息を引き取った。まあ、べつにめずらしい話じゃないさ。あそこに来る人たちのけがの程度はひどすぎる。目を背けたくなるものばかりだ。都会の救命救急センターじゃ、まずお目にかかれないレベルだよ。だからそのときも、さほど引きずることなくおれは診療所を後にできた。女の子の両親のありさまは言葉では言い表しようがなかったけど、それだって見慣れた光景さ。夜中走ってきた岩砂漠の道をおれはとぼとぼと歩きだした。しばらくして空が明るくなってきて、東の山の端が赤々と燃えだした。いつもと変わらぬ夜明け。明けの明星が空に開いた一穴のように輝いていた。ちょうど泥の川にかかる橋を渡るところで、どういうわけかおれは足をとめ、岸辺に腰を下ろして空と雲の移り変わりに目を見張った。
 そのときだよ。
 東の空の低いところに小さな火の玉が現れて、飛行機雲を伴いながら西に向かって一直線に進んでいくのが見えた。じっさいには猛スピードなんだろうけど、距離があるからおれには意外にゆっくりと、なんて言うかな、紫色のガラス板にたかった甲虫が出口をもとめてもぞもぞと前進しているみたいに見えたんだ。
 ミサイルだよ。
 いちいち考えないでもわかった。落ちていく先も察しがついた。それからなにが起きるかも。けどね、おれはそのとき感動していたんだ。
 美しかったんだ。
 あんなに心奪われる光景は目にしたことがなかった。曙光のなかを鋼の筒が物音一つ立てずに空を切り裂いているんだ。炎を噴射しながら。紫からオレンジに変わりつつある幻想的な色合いの空、神をも恐れぬ破壊力を秘めた甲虫、死の世界をほうふつとさせる荒涼とした岩砂漠。そして静寂――。
 時間よとまれ。
 おれは神に祈っていた。これから数秒後に起きる出来事をとめてほしい。そうねがったんじゃない。あまりに美しいこの眺めをずっとこの目で見ていたい。ただそうしたいだけだったんだ。でも知ってのとおり、時間は無情だ。輝く火球は西の空の端に落ちていった。以前のおれなら踵を返して診療所に走ってもどったことだろう。けど、そうしなかった。そのときは。
 眠りたい。
 いつまでも昏々と眠りたい。それしか考えられなくなって、おれはまっすぐ宿舎に帰った」
 きっとそれが二か月前、ケニーがバックパックを引っつかむ直前に起きた出来事なのだろう。でもたしかめることはできなかった。
 新たな睡魔に襲われていたからだ。
 深紅のサリーを体に巻きつけたおばちゃんから、ぼくは呪文を投げかけられていた。
 おまえが踏みつけているのは象の背だ。やがておまえは首をはねられ、象の頭とすげかえられる――。
 おばちゃんは汚い手をこちらに近づけ、頬をなでる。ひんやりとしてざらついた感触、イガイガした感じは甲虫の肢をほうふつとさせる。
 象はあたえられた時間を知っている。時間の向こうにあるものも知っている。おまえがそれに気づくかどうか。目を覚ますがいい――。
 夢と現実がごっちゃになっていた。ぼくは一気に体を起こす。おばちゃんは驚いてヒッと悲鳴をあげる。途端、ひどい頭痛が襲ってきた。ぼくはふたたびベッドに倒れこむ。
 ベッド……?
 寝台車だった。がらんとしてまわりにおばちゃん以外に誰もいない。記憶をたどる。CIAの追跡を逃れ、列車に飛び乗った。男たちの話し声、ガタゴトいう走行音、甘ったるいインド独特の香水のにおい――。
 ケニー……?
 はっとして見まわすが姿が見えない。列車は駅で停車している。
「ゴウハティー!」おばちゃんが怒ったような顔でぼくに言い募る。「ゴウハティー!」
 おばちゃんは寝台車両の清掃係だ。薄汚れたリネンを抱えている。ベッドを指さし、早くどくように促す。ぼくはおばちゃんが一刻も早く清掃を終えたい “象の背”をずっと踏みつけたままでいるのだ。
 ゴウハティー……まさかと思ったがほかにない。グワハティのことだ。列車の終点だ。いったいいつ到着したのだろう。ぼくは時間をたしかめようとスマホを探す。
 ない。
 それどころかデイパックそのものが見あたらない。ベッドの下やほかのベッドも探してみたが、どこにもない。
 ずきりとこめかみに痛みが走る。飲み過ぎたあとの痛みに似ている。でも酒なんて飲んでいない。バラナシの食堂で乾杯したキングフィッシャーがいまになって悪さをしているなんてわけがない。あのあと口にしたのは……紅茶だ。
 ケニーの姿はどこにもなかった。
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