プロローグ~三

文字数 19,250文字

 プロローグ
 ほんとに戦闘してきた人間は、戦争の話なんてしないね。
 一瞬、一瞬がぎらぎらして、生きるか死ぬかそれだけなんだから。時間なんてずっと止まったままで、いま生きてるのが精いっぱい。あしたというものを考えられない。たったいまがおれの人生。銃握りしめながら、自分にそう言い聞かせていたもんだ。
 突撃?
 半狂乱だわ「やるか」って仲間と壕を飛びだしたあとは無我夢中、おっかないもへったくれもない。目の前で相手を殺さないといけない。撃ったり刺したり。そうじゃないとこっちがやられちまう。ほんの一分か二分の出来事だろ。それが終わればまたもとの、ふつうの人間にもどる。
 だけどあのときの戦いは土台無理な話だった。
 生きて帰ってきた連中で集まるといつも話すんだよ。だってそうだろ。こっちがパンパンッて小銃撃つと、向こうは一気に何百発も大砲を撃ってくるんだ。そのうちグワーンって大きなうなりになって、しまいには耳が聞こえなくなる。おれたちのいるジャングルは丸裸さ。木なんて一本も残っちゃいない。
 そんな轟音なんかより、耳に残っているのはもっと冷めた、くぐもった爆発音さ。泥道を下がっていると、ときどきうしろから聞こえてきたあの音。いまも夢で聞こえるのはそっちのほうだよ。仲間内以外でこんな話するのはじめてだね。言う必要なかったっていうか、それを口にしちゃいけないような気がしちまって。ただね、おれももう先がないからさ。
 あそこで体験したことは絶対に忘れることができないんだ。忘れられるわけがないよ。戦争とはべつにね。あんたに聞く気があるんなら、
 話してもいい。

 一
 午前一時五十分。
 無人となった隣の生活部のシマをぼんやりと眺めていたとき、小気味よくつづいていたコピーが停止した。タッチパネルが赤く点滅している。エラーメッセージだ。
「限界です」
 また紙詰まりか。四つあるトレーをすべて引きだし、トナーカートリッジも取りだして点検してみる。だが吸いこんだ再生紙がよれよれになって引っかかっているわけじゃない。
「限界です」
 点滅がつづくが、どこに不具合があるのか表示されない。ふつうは的確に指摘するはずなのに。マニュアルを読むのも面倒だ。文化部内をぐるりと見わたすが誰も残っちゃいない。一月七日木曜の深夜、いや、もう金曜の未明か。こんなときに夜なべして原稿に向かうほど、うちの連中も仕事熱心じゃない。フロントカバーに貼られたテプラの管理番号に目をやる。業者に来てもらうとき、この番号を知らせることになっている。
 BT‐BPS0421
 無理だ。こんな時間じゃ来てくれない。
「限界です」
 駄々をこねる子どものように点滅している。通信機能を備えた複合機だからコピーだけでなく、ファックスもイメージスキャンもプリンターも一台でこなせるが、最近よく故障する。そのたびに業者を呼んでいるが、すぐにまた動かなくなる。一時間ほど前もそうだった。この機械の前で癇癪持ちの後輩が電話に向かって炸裂していた。相手はメンテ業者だ。最終版の校了直前という緊迫した時間帯に音声操作機能がきかなくなり、手動に切り替えたのだが、それでも動かなかった。それで夜勤デスクを務める後輩の怒りを買ったのだ。罵声は隣の部にまで響きわたるほどだった。複合機の向かい側がぼくの席だ。フロアの視線が集まり、恥ずかしいったらありゃしなかった。
 ペーパーレス化といっても、いまも新聞社は大量に紙を消費している。商品の新聞紙だけでなく、ゲラや記事モニターもいちいち印刷して排出されるのだ。だから複合機はいつだってフル稼働。考えようによっては、全国紙・東邦新聞の中枢を担う編集局にあって、一番働いているのがこの機械だった。文句一つ言わずに。
 いよいよ限界が来たって自己申告しているのか?
 赤く点滅するパネルのあちこちタッチしてみるが、機械音痴のやることだから表示はそのまま。文字だけが浮かんでいる。
「もう限界」
 見間違いかと思ったが、たしかにそう表示されている。表示が切り替わったのだが、エラーメッセージにしては妙だ。へんなところをタッチしてしまったかもしれない。
「古城晋治」
 今度はぼくの名前が浮かびあがる。点滅はとまり、元の青白い発光にもどっている。複合機を使うさいは社員証をリーダーにかざし、利用者権限を機械が確認することになっている。それで使用者の名前が表示されたのだろうか。
「あなた」
 そうだぼくだ。いま使っているのはぼくだ。だがそのとき、操作パネルに目が釘付けになる。
「もう限界」
 眉をひそめ、リセットボタンをタッチする。だがフリーズしたかのように画面はなにも変わらない。
「あなた もう限界」
 二つのフレーズが並んで表示されている。胸のずっと奥まったところに鈍い痛みが走る。デジャブのようなふしぎな感覚に襲われた。
「な、なんなんだよ……」
 こんなメッセージ出るわけがない。業者が仕組んだのか。
「がんじがらめ あなた 動けない」
 ぼくは腰を抜かしそうになり、複合機の本体に両手でしがみつく。
「マジかよ、なんだこれ」
「マジ あなた やってられない」
 こんなメッセージ出るわけがない。これじゃチャットだ。でもこの複合機には音声操作機能がついている。こっちの言ってることはそれによりキャッチできる。首筋にかっと熱いものを感じつつ、ぼくは呆然と操作パネルを見つめる。
 生きているみたいだった。
「マジ あなた やってられない」
「なんなんだよ……」
 やってられないよ、マジに。それは本心だった。しゃかりきになって記事を書いたところで、いまじゃ新聞なんか誰も読んでいないし、ヤフーで検索すれば、なんでも答えが一発で出てくる。だからあと五年で新聞産業は崩壊するとも言われている。オワコンなのだ。定年まで持ってくれるかな。最近はそんな話ばかりだし、ぼく自身、たしかに心配している。こんなはずじゃなかったのに――と。
 会社じゃない。
 自分のことだ。
 来月、異動する。ネット部門強化とやらでそっち系の部署に。ジャーナリストなんかでなく、機械のオペレーターみたいなことをする部署に。それを通告してきた上司には最大限抵抗した。いちおうは言ってみたのだ。
 辞めますよ――。
 その言葉は呼びだされた会議室の天井に跳ね返り、霧消した。絵空事、空疎、空回り。ぼくはなにもかも空っぽだ。その空間を会社が埋めつくしている。いや、空間なんか元々ありゃしない。会社という存在があるから、そこがぼくにとって空気を吸う場所になるのだ。それがなきゃ、ぼくは
 無だ。
 そうか。幻覚か。空っぽの頭に好き勝手なフレーズが文字となって浮かんでいるのだ。
「やってられない あなた」
 念を押すように出現した表示をぼくは見つめる。
「サイドパネル 通信ケーブルを接続してください」
 突如、複合機らしいメッセージに切り替わる。やっと現実に意識が引きもどされたのか。だけど通信ケーブルって……?
「スマホの通信ケーブル サイドパネルに挿入してください」
 スマホでなにか操作をしろというのか。ぼくはいったん自席にもどり、ひきだしから白い通信ケーブルをつかみだす。片方がスマホに接続でき、もう片方をパソコンのUSBポートに差すことでワイファイ環境のない場所でもモバイル通信ができるようになる。取材先から原稿を送信するときに便利なケーブルだった。指示されるがままにぼくは複合機のサイドパネルにあるポートにケーブルの端を差し、もう片方をスマホに突っこもうとする。そのとき手がとまる。
 ウイルスが入ってきたらどうするんだ。
 一連のメッセージがウイルスに基づくものなら、スマホに接続するなんてこれほど危うい行為はない。こんどはこっちのデータがやられてしまう。
「通信ケーブルをスマホに」
 せっつくようにメッセージが表示される。ぼくは左右の手にスマホとケーブルを持ったまま口にする。「なにがしたいんだ」
「通信ケーブルをスマホに」
 聞こえていないのだろうか。だがじっとこちらの手元を見つめているようだった。
「この手の作業は社内の情報管理委員会の許可を得ないとできないんじゃなかったかな。ウイルス対策にはことさらうるさいんだ、この会社は」あえて告げてみる。機械相手に。バカみたいだとはわかっていたが。
「ウイルスでは ありません」
 こっちの問いかけは聞こえている。音声操作機能が働いているらしい。
「じゃあ、なんなんだ」
「出して ここから」
 ぼくはあんぐりと口を開ける。深夜の誰もいない新聞社の編集局の片隅で、複合機――ようは高性能のコピー機――のなかに閉じこめられた何者かを救いだすだと? そんな絵空事に誰が飛びつくというのだ。しかし頭のなかにひんやりとした理性がありながら、手先はまるでべつの生きものさながらにちがう方向に進もうとしている。かろうじてぼくは問いかける。「誰なんだ……きみは」
 操作パネルがふたたび赤色に輝く。エラーメッセージのような点滅でなく、ゆっくりと光を強めながら。
「あなたの ソウルメイト ここから出して 見ればわかる」
 ソウルメイト――。
 頭をがつんとやられたような衝撃を受けた。肉親でも恋人でも友人でもなく、人には魂と魂がつながった相手がかならず存在するという。背筋にぞくりとするものを感じる。正直、ぼくは救済をもとめていた。肉体的にも精神的にも限界で、なにかにすがりたかった。操作パネルに表示されている言葉の意味はわからないが、強い衝動に駆られた。なにが見られるというのだ。幻覚でもなんでもいい。ぼくは邂逅をもとめてケーブルをスマホにつないだ。

 二
 ぼんやりと青白く輝いたのち、画面がブラックアウトした。もう遅い。腹をくくるほかなかった。接続したスマホの電話帳には大事な取材先の番号が登録してあるが、バックアップはクラウドにあげてある。そのほか失われて困るデータはない。画像もランチの写真程度だ。それでもあわててディスプレイを何度もタッチする。再起動をかけたほうがいい。電源ボタンに指をかけたとき、パッと画面が明るくなった。あっと声を漏らし、息をのんだ。
 女が現れた。
 三十代だろうか。ソウルメイトなのかはわからないが、どこか懐かしい感じがする。ずっと以前どこかで会ったような気がするのだ。それになにより胸が締めつけられたのは、その顔だちだった。やや鷲鼻の細面。知性と艶を感じさせるきりりとした目元。引き締まった口元。子どものころからそのタイプの顔の女性に惹かれてきた。
「ありがとう、フルキさん」
 まるでZOOMのように彼女は話しかけてきた。いつの間にかスマホがスピーカーフォンになっている。軽やかな声にうろたえ、ぼくはそれを解除してスマホを耳にあてる。
「それじゃ意味がないでしょう」
 せっかく画面に現れてくれたのだ。ぼくは複合機の向かいの自席に飛びつき、ひきだしからイヤホンを取りだし、プラグを突っこんだ。
「ブルートゥースにしないの?」
「持ってないよ、そんなの。音が途切れそうだし」
 小首をかしげ、彼女はわずかに口元をとがらせた。「そんなことないと思うけど」
 ぼくはあらためて画面を凝視する。だが向こうからもこちらが見えるはずだと気づき、急に恥ずかしさをおぼえる。頭をよぎったのは鼻毛が飛びだしていないかということ。だがいまこのとき、指を鼻に突っこむわけにいかない。
 絶対にどこかで会ったことがある。思いだせない。画面には首筋まで映っている。髪はうしろに束ねているらしいが、さほど長くはないようだ。訊ねるのはこっちの番だった。
「ごめん、思いだせないんだ。どこかで会ったような気もするんだけど……きみは……」
「会ったかしら?」やや甲高い、かわいらしい声音で告げてくる。
「わからない。じゃあ、聞くけど、きみは――」
「あなたのソウルメイト」
 相手の顔がわかったいま、その響きがさらに胸を突きあげてくる。
「それって名前じゃないよね」
「ヒロミ」
「ヒロミ……」
「ごめん、苗字を教えてくれると――」
「ないのよ。だからヒロミって呼んでくれたらいい」
 ぼくは戸惑うばかりだった。スマホを握りしめ、小型テレビが並ぶ休憩スペースに向かう。新聞社にはぴったりの薄汚れたソファの周囲は背の高いパーテーションがあり、フロアの視線がうまいこと遮られる。さながら大人の秘密基地のようなレイアウトだ。じっさいミニ冷蔵庫があり、夕方になると缶ビールをもとめて部員がのそのそと集まってくる。
「ZOOMとかじゃなくて電話だよね、これ」ぼくはソファに慎重に腰を下ろす。へんに衝撃をあたえて彼女が消えてしまうのが怖かった。
「スマホの電話機能のこと? それはそうよ。それがどうかしたのかしら」
「こっちが聞きたいのは……つまり、それを使って電話をかけてきているのかなって」
「そうじゃないわ」彼女はあっさりと言う。「だってわたしはコピー機のなかにいたのよ。それでケーブルを通してこっちに移ってきただけ。どこかべつのところにわたしがいて、あなたに電話をかけているわけじゃないの」
 ぼくは眉をひそめる。「コピー機のなかにいた……って?」
「捉え方はいろいろあると思うけど、事実としてそういうことだから」
「ごめん、言ってることがわからない。コピー機のなかにいたって」
 ヒロミと名乗る女は愛くるしい瞳でぼくを見つめてくる。「この会社のネットワークのなかにいたのよ。それであなたに理解しやすいようにある女性の姿をアバターにしたわけ」
「信じられない。そんなことができるなんて。合成映像に合成音声だっていうのか」
「そういうソフトならもうとっくに市販されてるわよ」
「うちの会社のネットワークのなかにいたって……待てよ、あんた、もしかしてハッカーか。外部から侵入してきたんだな。おい、こっちのスマホにもウイルスを感染させたのか」
「半分は当たっているわ。外から入ってきたのはまちがいない。でも安心して。へんなウイルスなんて感染させていないから。あなたのスマホにも、もちろんこの会社のネットワークにも」
「じゃあ、なにしてたんだ、うちのネットワークに侵入して。わかっていないなら教えてやるけど、あんたのしていることは犯罪なんだぞ」
 ヒロミはいたずらっぽい微笑みを浮かべる。たまらなくかわいらしい。血迷ってキスしてしまいそうだった。
「お散歩かな」
「お散歩?」
「うん。ぐるっとひと巡りみたいな感じ。でも安心して。データを盗んだり、悪用したりはしていないから」
「どうしてぼくのスマホに入ってきたんだい?」
「誰かとお話がしたかったのよ。この会社の人と」
「危険なんじゃないか、そんなことをしたら。ハッカーの侵入を知って放置しておくやつはあまりいないと思うけどな」
「あまりいないけど、ぜんぜんいないわけじゃないわ。なかには物好きっていうか、ふつうじゃない人もいるでしょう」
「それがぼくってわけか」
「ゲラにしょっちゅういたずら描きしてるでしょ。相当ひまなんだと思った。防犯カメラにぜんぶ映っているのよ」
 ぞっとする。たしかにうちの会社はセキュリティーと称して社員のことをずっと監視している。それを通してぼくがゲラの端につらつらと描いている絵をのぞき見していたというのか。
「あなたが描く女の人はいつもこんな感じ。自分じゃ気づいていないと思うけど」
 画面のなかでヒロミはこれ見よがしにあごをあげ、見つめてきた。ぼくははっとした。会ったことがあるのは当然だ。ぼく自身が描きあげたんだから。言われてみればたしかにそうかもしれない。学生時代から机の端とかにいたずら描きをするくせがあった。そのときなんとなく女の人を描くこともあった。それがずっとおなじだったなんて。
「深層心理を反映しているのよ。その意味じゃ、ソウルメイトって言ってもいいんじゃないかしら。あなたの魂の叫びが絵になり、それを基に合成したんだから」
「このことを報告したらたいへんなことになるぞ」
「あなたはそんなことしないわ。だって会社のこと、あんまり好きじゃないみたいだから」
「どうかな。サラリーマンだからね。多少の順法精神はあるさ。でもそれはべつとして、ハッカーとこんなふうに話せるなんてふしぎだな。それも自分が描いてきた、なんていうかな、理想の女性の姿が目の前にあらわれている。なんだかドキドキする」
「それって恋ってこと?」
 吹きだしそうになった。「ドキドキ、イコール恋か。きみのことをなにも知らないんだ。一目惚れにしても、もうすこしきみが何者かわからないとね。そもそも女なのか男なのかもわからない」
「古城さん、そこがあなたのいいところ。だからあなたを選んだの。あなたは杓子定規にものを考えない。ときどき突拍子もないことを思いついたりもする。その歳にしては頭がやわらかい」
「ありがとう。でもそこまで観察していたなんて、いったいいつ入ってきたんだい? うちの会社に」
「そんなに前じゃないわ。でもあなたがどういうタイプの人かなんて、ほかの人たちがあなたについてどう話しているか耳を傾けてみてすぐにわかった。自分が正しいと思うことにまっすぐなのね。忖度の真逆。絶対に出世しないタイプ」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
「けど、その性格じゃ、疲れるだけだと思うけどな。組織のなかでは」こんどは同情しきりという顔になって彼女は告げる。「やっぱり古城さん、あなた、もう限界なのよ」複合機のディスプレイに出現したフレーズを持ちだしてくる。
「疲れてるよ。それはまちがいない。マジ、死にそうだ」
「やってられない。そうなんでしょ?」
「年齢的なものもあるけど、それ以外にもね、いろいろだよ」ぼくは大きくため息をつく。「この歳になれば、たいていのサラリーマンがそうだと思うけどな。好きなことがやりたくてもできない。毎日毎日、いやな仕事ばかりさ。ここは新聞社だけど、ぼくはもうジャーナリストじゃないんだ。退職の日まで飼い殺しの奴隷だ」
「さっきからグーグルマップばっかり開いてるじゃない。どこか遠くに逃げてしまいたい。そうなんでしょう?」
「ああ、そうだ。そのとおりだ。結構楽しいんだよ、グーグルマップって」
「モロッコは学生時代に旅したところね」
 腹のなかで疑問がよじれる。学生時代のモロッコ旅行のことまで知っているはずがない。親友や女房ぐらいにしか話していないのだから。
「なんでそんなことまで知ってるの?」
「あなたが書いた記事を調べたの。二〇〇一年六月二十六日付朝刊の料理関連の記事のなかで、モロッコについて『学生時代に旅をした』っていうくだりがあるわ」
「驚いたな。そんな記事、自分でも忘れていたよ。ちなみになんの記事だった?」
「アフリカ料理の話を大学教授にインタビューしている」
「まったく記憶にないね。おれはそんな仕事をしていたんだ」
「モロッコにまた行きたいのかしら」彼女はまるでアラブの女性のようなエキゾチックな顔つきになって訊ねてきた。どうだろう。彼女といっしょなら旅をしてもいいかもしれない。モロッコでも、どこでも。ハッカー氏が急に本物の理想の女性なのではないかとの確信が胸のなかでわき起こった。もうこの歳になると、ときめきなんてない。だとすれば、これは神さまが窮地に陥ったぼくにあたえてくれた特別なプレゼントなのかもしれない。
 ソウルメイト――。
 やっぱりそうなのかな。それともやっぱりぼくは誇大妄想の癖が強いのか。それでもいいじゃないか。向こうがからかってるつもりなら、からかわれてやる。自慢じゃないが、ぼくは人一倍思いこみの強いお人好しだ。
「行けるなら行ってみたいよ。でもな、ヒロミさん、学生時代とはちがうからね。あのころみたいな長期旅行はもう無理だ。せいぜい夜なべ仕事の気分転換にグーグルマップをのぞくぐらいだ。それであのころにトリップできてストレス解消になるなら安いものだろう」
「がまんしすぎだと思うわ」
「がまんしないわけにいかない。今年で五十一だし」たまらずぼくは冷蔵庫に手をのばし、缶ビールをつかむ。「悪いけど一杯やらせてもらうよ」
「そういうがまんはしないのね。尿酸値高いのに」
 喉に滑りこんできた黄金色の秘薬にむせ返りそうになる。「そこまで知ってるんだ。健康診断のデータを見たな。でもがまんすると余計にストレスがたまる」
「お酒飲む人やたばこ吸う人は、そういうことをよく言うわよね」
「じっさいそうだから仕方ないさ。仕事でとんでもないストレス抱えてるとき、なにで発散すればいいって言うんだ」
「気持ちはわかるわ。来月からもっとひどくなるんでしょう」
「労務情報のつぎは人事情報か。そのとおり。最悪の部署への異動さ」
「辞めちゃえばいいのに、そんな会社」
「ほんとだよね。でもそれもなかなか」
「がんじがらめね」
「そう、そうなのさ。息もできない」
「それで学生時代にもどりたいって思っていたんでしょう?」
「いけないかな? そういうふうに思うのは」
「いけなくはないけど、生産的じゃないわ」
「でもな、ヒロミさん、オヤジのつまらん説教だと思って聞いてくれ。まだきみにはわからないんだよ。過去を慈しむのはたいせつなことなんだ。それにより、気持ちがスッとすることもある」
「ふーん、ほんと人間ってわからないものね。で、どんな感じだったのかしら、シンちゃんの学生時代」
 シンちゃん……それも悪くないか。
「とにかくいい時代だった。なにしろバブルの真っただ中だからね」
「高田馬場の大学でしょ」
 缶ビール片手に苦笑するしかなかった。ぼくはぶつぶつと独り言のように話しだす。
「毎日のように大学生協の本屋に入り浸っていたよ。買いもしない本を手に取っては時間をつぶしていた。学術書というわけじゃない。雑誌やムックのたぐい、それにライトインテリジェンスの走りのような構成のソフトカバー。文化人類学から美学、心理学までそこには魅惑の世界が広がっていたんだ。でもな、ちがうよ、あのころ、夢中になっていたのは。本屋の入り口には、自動車教習所の受付カウンターがあって、その隣が雑誌コーナーだった。そこを通り抜けた先が壁一面、黄色くなっていてね。旅行関係の本を集めたコーナーなんだけど、そのなかでまるでランドマークみたいに目立っていたのが、ずらりと並んだ黄色いガイドブックだったのさ。
「それって『地球の歩き方』でしょう?」
「そのとおり。いまじゃ当たり前だけど、あのころは衝撃的だった。ネーミングがいいし、同年代の連中がこんなふうに旅をしているんだってはじめて知った。それで、旅なんて行きもしないのに片っ端から手に取って、まだ見ぬ世界、自分とは真逆の暮らしを送る辺境の民とかに思いを広げていたのさ。いつかそんな世界を旅してみたい。そう思うようになった。『地球の歩き方』はあのころ、純粋にバックパッカー向けのバイブルだったんだ。そいつがぼくの頭のなかに地図を広げて、いつしか本当に旅に出る決意が固まったんだ」
「それで、モロッコ?」
「できるだけ遠いところ。それと砂漠のあるところ。大学一年の冬、ぼくが選んだのはモロッコだった。ただそれだけのことさ。スペインからすっと足をのばせる“アフリカ”だったしね。それで『地球の歩き方』のモロッコ編とヨーロッパ編の二冊を買いこんで、じっくりと計画を練りあげて成田から金浦空港経由でパリに入った」
「一人で?」
「うん。たった一人でね。バックパッカーの仲間入りをしたんだ。いまの学生なら、旅に出るのは採用面接で披露する話を増やすためかもしれない。冗談じゃないよ。そんな気、毛頭なかった。列車とバスで国から国へ、街から街へ。ただそれだけさ」
「うわぁ、なんだかたのしそう」ヒロミはうっとりするような目で見つめてきた。「でもたいへんなこともあったんでしょう」
「スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を船で渡ってタンジールに入ったんだけど、港に着いた途端、小学生ぐらいの子どもが群れになってまとわりついてきて『ガイドするから』ってチップをせびってくるんだ。あれはしつこかった。振り払っても、振り払ってもついてきた。それに駅の切符売り場でも肝をつぶした。列に並ばない人たちを警察官が拳で平気でぶん殴っていたんだ。恐ろしかったよ。フェズでは絨毯屋で“魔法の絨毯”を買わされたし」
「魔法の絨毯……?」
「迷路みたいな街をさまよっていたとき、声をかけられてね。とてもわかりやすい英語でカーペット工場を見てみないかって言うんだ。それでついていったら、工場じゃなく、絨毯売ってる店でね。いかにも悪徳商人って感じのにやけたオヤジが出てきて、ミントティーを金ぴかの茶器で淹れてくれるんだ。それをすすっていると、オヤジはきらびやかな絨毯を何枚も広げて見せてくれて、最後に『ぜんぶでいくらだと思う』と訊ねてきた。ぼくはまだ二十歳だったからうぶでね。ここまで一生懸命、絨毯を見せてくれたんだからなにか買わないといけないと思って、なんとなく適当な金額を答えたんだ」
「それって“妥当な金額”ってこと? 物価安いんでしょ、モロッコなんて」
「それを言われるといまでも恥ずかしくて消え入りたくなるよ。日本の相場で考えちゃって、かなり高額の金額を口にしてしまった。向こうにしちゃ、いいカモだった。大喜びして『その金額で手を打つ』って言って、結局、トラベラーズチェックを切らされるはめになった。だけど結局は自分の意思で買ったんだからしょうがない。途中で断ればよかったんだけど、それができなかった。船便で送るから安心しろ、なんて言われて店を出たときには真っ青だったよ。旅の最初のほうだったのに、もうお金がなくなっちゃってね。あとは文字通りの貧乏旅行だった」
「じゃあ、モロッコのことが大嫌いになったんじゃないの?」
「そうでもないんだ。リベンジっていうか、大学を卒業するときにもう一度旅行した。そのときはへんな商売人に引っかかることもなく、北アフリカを満喫できたよ」
「学生時代に二回もモロッコに行ったの?」
「モロッコとヨーロッパね。放浪の旅さ。先の心配なんてしやしない。三週間かそこらだったけど、時はとまり、永遠の異世界にどっぷりと浸ることができた」
「最高じゃない! バックパッカー!」
「本当に最高だった。もっともっと旅がしたかったよ。もし来世があるのなら、こんどは慎重に仕事を選んで、自由に旅ができるような暮らしを組み立てたいな」
「来世である必要なんかないわ。いまでもできるわよ。絶対にできる。あしたからだって」
「ありがとう、そう言ってくれて。うそでも励みになるよ。けど、いまは目の前の仕事をこなさないと」もっとも告げたくないことを告げるべきか迷った。しかし彼女は人事記録までのぞき見ている。いまさら隠せるわけがない。「家のことがあるからね」
 中途半端にオブラートに包んだってだめだった。
「奥さんとお子さんがいる」
「そうだ。そのとおりだ」妻の祥江は建築事務所の設計士。一人息子の翔太は大学の理工学部の二年生、ただのゲームおたくだ。ぼくはおなかを見せることにした。「彼らを養う義務がある」
 そうね――。
 そう言われるにきまってる。勝手にそう思い、げんなりした。でもそうじゃなかった。
「それでおしまいよ、あなたの人生」
「え……」
「時間にはかぎりがあるの」

 三
 横田基地から都心へと向かう大使館のワゴン車から、ダニーは年が明けたばかりの街並みをサングラス越しにじっと見つめていた。きりりと冷えこんでいる。カシミアのハイネックにダウンベスト、裏地を起毛したトレッキングパンツを選んできたのは正解だ。
 来日ははじめてじゃない。祖母も母も日本人だ。しかし二人の故郷は九州と四国だから、ずっと前に来日したときも西日本を巡ったにすぎない。東京ははじめてだった。スモークを張った窓の向こうに広がる高層ビル街とその間に網目状に張り巡らされた高速道路は、未来都市というより、アメリカのラストベルトのようなくたびれた雰囲気を漂わせている。出口のない迷路。今回のミッションの行方を暗示しているのだろうか。
 炎は熱い
 水は滑らか
 クソは臭い
 あたりまえのことに疑問を抱くのがどれほど恐ろしいことであるか。その深淵に分け入らねばならない。
「せめて晴れてくれればいいのに」
 息苦しいマスクの内側でつぶやくと、ハンドルを握る若手の大使館員――海兵隊の下士官だった――が百九十センチの巨体をねじってこちらに目を向けてくる。「きょうはずっとこんな感じですよ。うすら寒いままで雨も降りだしそうです」
「雨は勘弁してほしいな。気が滅入るだけだから」
「同感です」運転手は体格がいいだけなく、若いころの自分同様、権威への多少の畏怖心をまだ持ちつづけているようだった。
 皇居近くのインターで高速を降りた。目的地はそのすぐ近くだが、真正面にとめるわけにいかない。ダニーは大手町の東邦新聞ビルから百メートルほど離れた路肩に車をとめさせた。運転手は車をとめるや自分の携帯番号を記したメモをダニーに渡し、すぐに車を降りた。それと入れ替わりでダニーのいる後部座席のスライドドアをノックする音がする。
「外務省の西端です」短髪の小柄な男が乗りこんでくるなり、慇懃無礼な雰囲気で名刺を突きだしてきた。今回のミッションは新聞社との間で秘密裏に進めたかったが、日本政府がうるさく首を突っこんできていた。
「調査官のダニエル・カーンです」流暢な日本語で伝え、ダニーもCIAのロゴ入り名刺を渡してやった。あいさつだけで退散してくれればいいのだが。しかし西端は頬をひきつらせ、居心地悪そうにシートに腰を落ち着けた。サングラスにマスクで顔を隠す相手に戸惑っている。
「日本語がお上手ですね」
 たいていの日本人にそう言われる。でもダニーの祖父はインド移民で戦後、日本から海を渡った祖母と結ばれた。その間に生まれた父は、生粋の日本人である母と結婚したから、ダニーの日本語はほぼ完璧にネイティブだ。しかしクォーターとはいえ、顔だちは祖父譲りだった。いかにもインド人らしく彫りが深く、目はぎょろりとしているし、髪は真っ黒だった。だからこの顔でぺらぺらと日本語を繰り出すと、たいそう驚かれてしまうのだ。
「仕事で身に着けましてね」うそも方便だ。ダニーはさらりとかわした。「こんな格好でしかあいさつができなくて申し訳ありません」
「こちらに向かっているそうです。まもなくでしょう」西端はダニーの面会相手のことを言った。なんとしても主導権を握りたいらしい。仲介役として外務省が入る。それが日本政府との交渉条件だった。でもそれも最初だけだ。ダニーはCIA長官から全権を委任されていた。
 五分ほどして白髪頭の男がコートの胸元をかき抱きながら車に乗りこんできた。名刺を差しだしながら穏やかな声音で告げる。「社長の国鍋です。遠いところ、おつかれさまです」目には若々しい輝きがまだ残っている。社長もかつては記者だったらしい。今回の案件は、自らの立場とはべつにジャーナリストとして興味津々なのだろう。「来賓応接室も用意してあるのですが、こちらでお話をうかがったほうがよろしいのでしょうか」国鍋は西端のほうにちらりと目をやってから訊ねてきた。サングラスのインド系米国人にあきらかに不信感を抱いている。
 ダニーはちょっとだけサングラスを外し、目元を見せた。「ここでおねがいします。こちらに来ていることは内密にしたいので」
「承知しました。その点はわたしが責任をもって確約します」国鍋はもう一度、西端に目をやり、慎重に訊ねてきた。「不正アクセスに関することだと外務省からは聞いております」
 ダニーは小さくうなずく。「二週間ほど前、合衆国のある施設に対して不正アクセスが行われていることが判明しました。それがどこから発信されているのか順繰りに調べていくうちに、こちらの会社にたどり着いたのです」
「つまりうちの会社から不正アクセスが行われていたと」
「そういうことになります。そこでさらに調査を行いたい。それが合衆国の要望です」
「証拠を見せていただけますでしょうか」社長は冷静だった。もちろんそれも想定内だ。ダニーはタブレットを開き、不正アクセスが行われた記録を見せてやった。「困ったことになりましたね。協力はいたしますが、具体的にはどのようにして?」
「特定の端末からアクセスが行われているようです。型番の記録が残っているので、それを照合すればどの端末かは判明しますよね」
「難しくはないと思います」
「それを特定したのち、該当端末周辺を撮影したカメラ映像をすべて提出してください」
「カメラ映像……」
「社内のあらゆる防犯カメラです。社員を監視するために膨大な数のカメラが据えつけてあると思いますが」
「監視だなんて」社長は外務省職員のほうをまたしてもちらりと見た。彼もまたこの男が目障りらしい。官僚だからというわけでなく、皮膚感覚的な嫌悪感なのだろう。
「じゃあ、コンプライアンス管理ですかね。いずれにしてもそれらは警備室かなにかで一括管理されているのでしょう?」
「リアルタイム映像もふくめ、防災センターに集約されています」
「それをすべてここで確認できるようにしたいのです」ダニーはアタッシェケースを広げ、手順書を取りだして国鍋に渡した。
 社長は日本語で書かれたそれに目をやりながら難しそうな顔をする。「わたしにはさっぱり……この手のことは苦手でしてね」
「技術スタッフならわかると思います。さして難しい話ではありませんから」
 社長は困惑しながらもスライドドアを開け、真冬の寒さのなかオフィスにもどっていった。ダニーはワゴン車のシートをリクライニングさせ、目を閉じた。この悠然たる態度に西端は五分も耐えられなかった。防犯カメラの映像が届きしだい連絡をしてほしいとだけ言い残し、そそくさと車から出ていった。しめた。ダニーは運転席に移る。キーはついたままだった。そろそろと車を発進させ、離れた場所のコインパーキングへと移動させる。これで日本の官憲からおさらばすることができた。あとは社長からの連絡を待つばかりだ。ダニーはひと眠りすることにした。時差ぼけは早めに解消しておかないと。軍の輸送機には予約なしで飛び乗れたが、居心地はエコノミークラス以下だ。あまりの寒さにろくに眠れなかった。いまは暖房が心地よかった。
 夢を見た。
 がらんとしたホールはひと目で葬祭場とわかる。祭壇に棺はない。そのまわりを喪服の母と少年のダニー、それに二人の妹が取り囲む。棺がないのは驚く話ではない。インドでは火葬のときに棺なんか使わない。ロスの葬祭業者がかわりに用意してくれたのは、白い布だった。しきたりではそれで遺体をくるんで火をつけることになっているのだが、布は祭壇のうえに折りたたまれて置かれたままだった。
 遺体が見あたらない。ダニーはホールを見まわす。参列者は一人もいない。それがなにより悲しい。父は人のために尽くし、誰からも愛された法律家だったのに。
 ダニーは目を覚ます。三十分近くが過ぎていた。全身汗まみれだった。ダニーは暖房を切る。あれから四十年がたつ。ひさびさに見た夢だった。
 遺体のない葬儀。
 父が行方不明になってから一年が過ぎたとき、あすという癒しの日を迎え入れるために家族で開いたセレモニーだった。だが父の弁護士事務所のスタッフも、クライアントとして世話をした多くの同胞も、面倒見のいい父のもとにしょっちゅう集まってきていた近所の人たちも、だれも参列してくれなかった。報復を恐れたのだ。父が闘った相手からの。
 子どもながらにダニーは理不尽さに打ち震えた。これじゃまるでダディーが悪いことをしたみたいじゃないか。ロス郊外の荒れ地にしがみつくように誕生した小さなコミュニティーの人々を呪った。同時に自分のなかに流れる移民の血にも憎悪をおぼえた。
 記憶のフラッシュバックにたまらずダニーはスマホを開く。
 妻のメアリーと娘のプルシャが微笑む写真をじっと見つめ、呼吸を整えると、すさんだ気持ちは徐々に慰撫されてくる。自分の外に事実など存在しない。この世は自分というフィルターを通してかき集めた情報の塊だ。それを統べるのは自分しかいない。ダニエル・ヤージュニャヴァルキヤ・アールニは意を強く持とうとした。念ずればあらゆるものを手に入れ、至高なるものに近づくことができる。
 インド南部ケララ州出身の祖父はムンバイの英国系ホテルで下働きをしていた。だが戦後の独立運動のなかで夢を抱き、ロスの知人を頼って渡米した。そこで白人経営の薄汚れたホテルで十年働いて金を貯め、三十二歳のとき、南インド料理の食堂を開いた。三年後に日本からの移民の女性と出会い、結婚した。
 祖母は長崎の出身だが、さいわいにも原爆の被害からはまぬかれ、終戦と同時に米軍基地近くのバーで働くようになった。そこで最初の夫である軍の将校と出会い、復員する夫について一年後には渡米し、サンフランシスコで暮らしはじめる。しかし夫は酒に溺れて体を壊し、妻にアメリカンドリームを見せてやる前に他界した。それからは自身の力で切り拓いていったのが祖母の人生だ。カリフォルニアは移民の多い州とはいえ、日本人女性が一人で暮らすのは並大抵でなかった。それでも彼女は家政婦やホテルの清掃係として歯を食いしばって働きはじめ、やがてロスに移った。そこで日本人らしい手先の器用さを生かして縫製工場に勤め、おもにヒスパニックの従業員たちを指導して副工場長にまで上りつめた。そのころランチによく出かけていた店が祖父の店だったのだ。
 結婚から二年後、二人は念願のマイホームを手に入れ、四人の子宝にも恵まれた。戦勝国としての世界覇権に基づく高度経済成長、米ソ冷戦の恐怖、そして豊かさの陰で静かに膨張する人種差別と公民権運動の高まり。長男であるハリー・サーンキヤ・アールニが奨学金を得て大学に進み、法律を学んで弁護士になったのは、歴史の必定だったのかもしれない。
 しかしいまとなってはダニーには母しかいない。たとえ忌まわしい記憶が擦りつけられたとしても、母は義母にも共通する日本人らしさ、高い順応性と思慮深さを備えていた。住み慣れた街であるのは事実だし、遠巻きにしているようでいて、住民の何人かは――母に言わせれば「多くは」なのだが――暮らしの様々な面で気をつかってくれるというので、いまなおあの海辺の街に一人で住んでいる。それはいつか父の亡骸をこの手で見つけたいという強い思いがあるからなのだろう。その点はダニーも理解している。だいいちそうでもしないと、大学の学費稼ぎのためにほんの短期間のつもりで勤めた弁護士事務所で出会った法律家の卵に熱をあげてしまった小娘が、永遠に浮かばれないではないか。
 とはいえ、人権派弁護士と言われた父はじつは慎重派で、その尻をたたいて法廷に送りだしたのはいつだって母だった。ダニーが中学に上がる前、七〇年代後半の記憶である。そのころのロスはニューヨーク並みに人種のるつぼと化し、現在の混とんと分断の時代を先取りしていた。ダニーはインドで暮らしたことはないが、カーストのことは祖父からよく聞かされていた。食堂のテーブル拭きや汚物処理など、一生の職業が生まれた瞬間に決められてしまう。それが歴史に基づく社会制度によって規定されていたのがインドなら、有色人種に対する目に見えぬ空気と有形無形の暴力、そして侵略者にありがち穏やかな恫喝によってささえられていたのが合衆国だった。その病理に真正面から闘うよう父は仕向けられた。
 母によって。
 無上の愛と慈しみをダニーが母に捧げているのは事実だが、それでも腹の底では彼はそう考えていた。二人の妹もそう思っているのだが、彼は彼女たちほど露骨に母を責めたりはしない。それはきっと母との絆が娘と息子とではちがうからなのだろう。
 一九八〇年八月七日。
 ひさしぶりに雨が降り、肌にからみつく湿気が夜半まで残る一日だった。
 夕方、父は大通りから港まで愛車のホンダを走らせ、セメト港湾労働者組合の事務所でクライアントのインド移民と裁判の打ち合わせを行った。賃金の不払いを巡る集団訴訟を起こす準備が進み、個人的に親しかった郡裁判所の判事からも内々に「先例があるので勝てる見こみがある」と言われていたのだ。なにしろ白人労働者とくらべて明らかに差別的な低賃金だったからだ。
 ただ、問題がなかったわけではない。港湾全体にマフィアが利権を握っていたのだ。それをその日、父は自ら思い知ることになる。まだ訴状の一行目さえタイピングしていない時点で。いつもより帰宅が遅いと母が心配しはじめたちょうどそのとき、警察から連絡が入った。いまもダニーはそのときの記憶がある。
「ミスター・アールニが港から海に転落したようです」電話を受けた母は卒倒しそうになりながらも、車で港に向かった。もちろんダニーも。
「ご主人は裁判の打ち合わせに組合の事務所を訪ね、そこですこしばかりアルコールを口にされたようでしてね。三十分ほどして一人で事務所を出ていったそうです」マフィアたちとおなじイタリア系の警部はいたわるような口ぶりでつづけた。「その後、桟橋を歩いているところが目撃されています。足取りがやや怪しかったそうです。いま、ボートで港内を捜索中です。もし見つからなくてもあすは早朝からダイバーを使いますから」
 父は酒を口にしない。だからこの話はうそだ。母もダニーも即座にそう思った。しかし警部にとっては、その程度にあしらっておけば引っこむ連中だとの認識しかない。アフリカ系もインド系も駆除の仕方はおなじでいい。それがやつらの認識だった。それで小遣いを稼ぐのだ。
 父が失踪して一年。
「きょうは区切りをつけるだけの日よ。それ以上の意味はないの。みんな、いいわね、それだけは肝に銘じておきなさい」家族以外無人のホールで母は子どもたちに申しつけた。
 あの夜、港で銃声を聞いたという証言があった。インド系の中年男性が男たちに小突かれながら車に乗せられるのを見たという人もいた。港で出るゴミを集積する倉庫には巨大な焼却炉があるのだが、数日後にそこを清掃した黒人が人骨らしいものを見つけたという話もダニーは耳にした。
「いまも慎重に捜査していますよ」警察分署のデスクにでっぷりとした腹をのせ、ドーナツにたっぷりとかかったシュガーシロップで指をでろでろにしたまま、警部は顔を曇らせた。「事件に巻きこまれた可能性はつねに視野に入れています。うちの分署の最優先案件の一つです。なにしろミスター・アールニはこの街の誇りなんですから」区切りの儀式は、へたなウソにまみれた警部のこの言葉が開催のきっかけとなっている。
 東京のオフィス街にとめた車のなかで、ダニーはハンドルにもたれかかる。そのときスマホが鳴った。社長ではなかった。
「南アジアを監視している衛星の通信が不自然に途切れたそうだ」直属の上司であるカルロ・ウンブリアト、CIAの副長官だった。ここでこんな電話を受けても情報漏れを心配することはない。ダニーのスマホはこういうときのために横田基地が準備した特殊なプリペイド式だった。
「今回の一件とかかわりがあるとおっしゃりたいのですか」
「テック・チームはそう判断している。大統領報告事項だと」カルロは突き放すような物言いで告げてきた。中東方面の工作員を率いてきた期間が長く、現場向きの人材かと思われたが、本人も青天の霹靂で半年前に抜てきされた。それで早くもホワイトハウスに蔓延する官僚ウイルスに感染したらしい。ダニーはさもありなんと思った。ニューヨーク育ちのイタリア系移民の三世なんてその程度だ。「どうなんだ、そっちは」
「まだ到着したばかりですよ」
「協力は得られそうか」カルロは声に焦りをにじませる。自分の今後がかかっているのだ。
 ダニーはにやりとした。うろたえた白人ほど滑稽なものはない。「日本の外務省がついてますから。特定まで時間はかからないと思います。ただ、慎重に進めないと」
「悠長にかまえていられないぞ」
「イエッサー」
 場末の葬祭場での区切りの儀式のあと、ダニーは父の後を継いで弁護士を目指したわけではなかった。まだ十一歳のダニーには夢があった。フットボールだ。ティーンエイジャーになるにつれ、それはみるみる実現していく。高校に入るころには身長は百八十五センチを超え、筋骨隆々としたたくましい体つきへと変わった。母は息子の希望を尊重してくれた。ダニーはスポーツ奨学金を受けて大学に進み、フットボール部で活躍した。クォーターバックとして学生リーグでチームの優勝に貢献し、ついにNFLから声がかかった。葬祭場には足を運ばなかったコミュニティーの人々もこのときは母を訪ね、ダニーを称賛し、将来についてあれこれ自説を披露した。
 そのなかに出自に関する見解があったかどうかはわからない。だが現実は人の予想をはるかに上回り、思わぬところからパンチを浴びせてくる。ダニーはインド系のクォーター――フットボールのポジションもクォーターバックというのがいかにも皮肉だった〈クォーター、引っこめ!〉――残りの血は日本人。アメリカ社会では完全なマイノリティーだった。スカウトたちはある時期まではチームの監督と交渉し、ダニー本人も何度か高級レストラン――このときに味わったイタリアンに罪はない――に連れていってもらったが、それがぴたりとやんだ。ダニーの実力について彼らがプロとしての判断をくだしたわけではない。アメリカ社会を覆う空気を読み、残念ながらまだ時期尚早と無情な結論をくだしたのだ。それをリードしたのは、イタリア系でも白人でもない。そもそもイタリア系なんてフットボールに興味がない。やつらが好きなのは、女に着せる服と小麦粉の活用法とクスリだけだ。
 足を引っ張ったのは、おなじマイノリティーのはずの黒人たちだった。
 劣悪な環境から這いだすためのチケットは数がかぎられている。その一つがスポーツだったのだ。ダニーは選考対象から消え、残ったのはアフリカ系ばかりだった。それで社会不安の種がすこしでも減るのなら。政治家の意向に敏感なチームのオーナーたちの頭にあったのは、スポーツに対するみごとに歪んだ価値観だった。
 父を見舞った悲劇以上にダニーはショックを受け、失意にまみれた。もはや死んだも同然だった。過酷な人生を生き抜きながら息子に期待をかけていた母は、激しい怒りの涙を流した。それでも気持ちを切り替えるよう息子を諭し、父とおなじ弁護士の道をすすめた。だがダニーの心に響いたのは母の言葉ではなかった。すでに病床にあった祖父がうわ言のように口にした奇妙な話だった。

 ラジャスターンの王の人生は苦しみの連続だった。
 死んでからもそれは変わらなかった。
 ふたたび生まれ変わり、新たな苦しみに翻弄された。
 王に必要なのは真の解放だった。
 だから王は大いなるものを思念しつづけた。

 それを聞いたつぎの日、ダニーはふだんめったに足を運ばぬ、ロスのダウンタウンにあるオフィスを訪ねた。制服姿の白人は、まるでLSDでもやったかのようにすこぶる愛想がよく、彼の話にじっくりと耳を傾けてくれ、一時間もしないうちに進路は決まった。
 ダニーは力が欲しかった。
 思念するだけではだめなのだ。あらゆるものをひれ伏せさせる力。たとえ暴力であろうとダニーはそれをしっかりと手に入れたかった。
 一番手っ取り早いのが軍だった。
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