三十四~四十二

文字数 20,751文字

 三十四
 グワハティーの山中には、当局からのお目こぼしを受けて営業するカジノがあった。売春宿も併設されており、金持ちたちがお忍びで利用するようだった。日本人の中年男が運転手を見つけてそこに向かったとの情報が寄せられたのは、ダニーが夜十時過ぎにディマプルの空港に単身到着し、駐車場の外れで地元警察の担当者と落ち合ったときのことだった。
 アムリタという女性警官は小さな車にダニーを乗せ、状況を説明した。運転手によると、客の中年男はカジノで遊んでグワハティーにもどってきたあとで料金を支払うと約束したものの、カジノで起きたひと騒動のなかでほかの車に乗って逃げてしまったという。警察がすぐにカジノに向かい、そこの支配人に話を聞こうとしたが、ぼやがあったらしく支配人は大やけどを負っていた。そこで残っていた従業員たちに古城晋治の写真を見せて回ったところ、晋治が乗りこんだのは、マツ族解放戦線のメンバーの車であることが判明した。
 ディマプルの中心街に向かう車内で、ダニーは沈鬱な気持ちになった。自分がここに来たことをシヴァは察知しているだろうか。テロリストグループと接触を試みようとしていることがわかったのは、ダニーにとって大きな収穫だったが、この先どうすべきか。組織についてはアムリタたちが熟知しているようだったが、シヴァの真意は判然としない。合衆国に反旗を翻したいのなら、もっとほかの国際的な組織に接近すればいいものを。いったいやつはなにを考えている。だがとにかくいまは、晋治をこの街に足止めして身柄を確保するのが先決だ。
「解放戦線はどのくらい危険なグループなのだろう」ダニーは物静かにハンドルを握るアムリタに訊ねた。
「誘拐や脅迫、リンチ、それに殺人。この州で起きる公安事件のほとんどにかかわっています」
「資金源は?」
「ケシです。ジャングルにいくつも畑を持っています。それを栽培してアヘンを抽出し、ヘロインに変えています」
「それを密輸しているというわけか」
 そんな古典的なテロ組織にシヴァはいったいどんな用があるというのだ。

 三十五
 中隊長と伍長、ボンタとおれ、二組に分かれて二頭の象の背に揺られながら夜の山を進んだ。補給地点の村がこんなに近くにあったなんて、驚くっていうより拍子抜けだったよ。谷間の川沿いにバナナの葉っぱで葺いた小さな家が並んでいたんだ。トンガアリという村で、英語を話す象使いの男に族長の屋敷に連れていかれた。そこで食べものと水をもらって、あとはぐっすり眠ったよ。昏々と、死んだようにね。
 朝起きてまた驚いた。
 谷間っていうのは、高さ百メートル近い急峻な二つの崖の間のことだったんだ。渓流をふくめ谷幅は五十メートルもなかった。これじゃ一日のうちで日光が差す時間がきわめて限られるはずだが、村の上流域にはウナギの寝床のような田んぼがいくつものびていた。人間ってのはすごいもんだよ。どこでだって暮らしていこうと知恵を絞るんだな。思っていた以上に大きな村だった。ぜんぶで二百人ぐらい住んでいるという話だった。
 首飾りをしていた象使いの男はメガシュという、族長の息子だった。イギリス統治のコヒマの街で寮生活をしながら学校に通わされたそうで、英語はそこで身に着けたらしい。キリスト教教育も受けたって話していた。けど、自分たちはマツ族という部族で、鉄砲で脅しつけて侵入してきたイギリスとは敵対している。その意味では日本軍には期待しているってなことを言う。でもな、村の連中だって客観情勢はわかっていたし、おれたちの姿を見りゃ、誰だってこりゃダメだってわかるわな。
 それからメガシュに村はずれの家に連れていかれた。そこに一人、伏せっていた。コースケだよ。助けてもらっていたんだ。ボンタと抱き合って喜んだよ。でも容態は良くなかった。完全にマラリアにやられて意識は朦朧としていた。うわ言のようにこうつぶやいてたよ。
「こうなること、ここに来ることが運命だったんだ。逆らうことはできない。だから悔やんだりはしないぞ。これでいいんだ。これがすべてなんだ。なにもかも受け入れるよ。ただな、エイジ、ボンタ、おまえたちのことは忘れない。心の底から感謝してる……」
 だからおれもボンタもあれこれ思案してさ。やつのためにもしばらく村に置いてもらって、ぞんぶんに体力を回復してからまた下がろうってことになったんだ。
 族長のじいさんは、おれたちを大歓迎してくれて、戦争なんてやめてここで暮らしたらどうだって持ちかけてきた。ボンタもおれも「娘たちの婿にならんか」って真顔で懇願されたよ。年寄りの娘だから、いったい何歳かと思ったら、まだ十四歳と十二歳だって言うじゃないか。妻が五人、子どもは三十九歳の長男を筆頭に十八人。メガシュはその一人だ。ようするに一番精力絶倫の男が族長になったってことなんだろう。精力イコール腕力だとしたら、なるほどと思っちまうよな。
 族長はおれたち四人を田んぼのさらに上流に案内した。いいものを見せてやるってね。お寺があるっていうんだ。ヒンドゥー教でも仏教でもない、自分たちの信仰の象徴だって。「象の還る寺」そう呼んでたな。川面を覆うように広がるジャングルを抜けた先に忽然とそれが現れたときは、息を飲んだよ。崖を削って作ってあったんだ。高さ三メートルぐらいだったかな。大仏さんみたいな仏像さ。顔つきはインドっぽかった。妙な感じがしたんだよ。仏像のまわりに落ち葉みたいなものがたくさん彫りつけてあってね。でも葉っぱじゃないんだ。それで伍長が「こりゃめずらしいや」って、死んだ兵隊と交換してきたカメラで記念撮影しようって言いだしてさ。中隊長と伍長とボンタとおれで仏像の前に並んで、メガシュにシャッター押してもらった。
 夜は族長の屋敷でいろんな話を聞かされた。人間も象も、みんな一つなんだって話もね。神さまって言えばそれまでだけど、大きな存在があって、最後はその「眼」の内側に入って一つのものを見るんだみたいなことを言ってたかな。そうそう、池のことを聞いたのもそのときだよ。象たちしか知らない秘密の池が森の奥にあるって言うんだ。そこは始まりも終わりもない、時の流れもない、ただ静かで穏やかな場所だっていう話だった。
 でもね、話はそこまでだった。
 その晩、二時か三時ごろ、ドッカーンってものすごい音が響きわたってさ。なんだなんだって外に出たら、もう昼間みたいに明るくなっていた。英軍の戦車が下流から迫ってきていたんだ。日本兵狩りだよ。ひどいもんだった。戦車で田んぼをみんな踏みつぶしちまうし、大砲一発で何軒も家は吹っ飛んじゃう。取るものも取りあえずに飛びだした中隊長と伍長は、川向こうのジャングルに逃げようとしたんだが、あっさりやられたよ。戦車の機銃掃射をもろに食らったんだ。
 あとは上流に逃げるほかなかった。おれとボンタでコースケに肩を貸してそっちに向かって一目散さ。食糧でも持ちだせばよかったんだが、手にしたのはやっぱり小銃、それと伍長のカメラだった。あれこれ考えてる余裕なんてなかったからね。村はあっという間にめちゃくちゃにされてしまったんだ。本当に悪いことをしたよ。おれたちが行かなきゃ、あんなことにはならなかったのに。ボンタは泣いてた。あいつ、そういうところがあるんですよ。やさしいんだな。村を守らなきゃ、村を守らなきゃってずっと言ってたんだ。真っ暗闇のなか、必死に逃げるしかできなかったんだけどね。
 どんどん、どんどん上流にね。
 昔の三人組でね。
 やがて寺も越えて砲撃の音も聞こえなくなったんだけど、それでもおれたち、逃げつづけた。一時間くらいかな。川沿いを進んできたのに、いつの間にか水の流れが途切れていた。そのとき、ふっと感じたんだ。もしかするとここは、来てはならない場所なんじゃないかって。そんな場所に足を踏み入れてしまったんじゃないかって。
 だって、なにかいたんだよ。
 そこに。
 じっとこっちをうかがってたんだ。
 みんなしてね。

 三十六
 するりと腕がらくになり、ぼくは絨毯のうえに放りだされた。
 ニキルはぼくに目もくれずに煌々と輝くスマホのディスプレイに見入っている。ヒロミが例の写真を表示しているのだ。
「シンジ、これは音声入力できるタイプのスマホなんだろう」ニキルが訊ねてくる。
 面倒な話はここではできない。「そうだよ。そういう設定なんだ。ぼくはその青年を捜しにバラナシからやって来た。二十年ぐらい前に亡くなったムンバイのビジネスマンの生まれ変わりだという話を聞いてね。生前の体験を細かく話すことができるらしいんだ。その話を教えてくれた女性がバラナシにいる。彼の居所を突き止めたら、彼女に電話をかけて話してもらうつもりだ。それで輪廻転生が本当かどうか見極められるんじゃないかと思って――」
「生まれ変わりだと……」ニキルは画像を見つめながらつぶやく。「この男がそうなのか」
「そうだ。究極の神秘だと思わないか。死を乗り越えた先にまた生がやって来るんだ」
「シンジ、よく聞いてくれ」ニキルはかぶりを振りながら元の穏やかな声音で告げる。「この男が生まれ変わりかどうかということより、きみがどうしてこの写真を持っているのか。そのほうが気になるな。なあ、そうだろ、リポ」ニキルはそう言いながら仲間たちにも見えるようスマホを引っ繰り返し、画像を高々と掲げる。
「シャルマだね」画像をじっと見つめてからリポが口にする。「まちがいない。あそこだ」
「シャルマ……集会場かなにかなんだろう」
「集会場?」ニキルはめずらしい生きものでも見つけたかのように無邪気に驚いてみせる。「たしかにわれわれの集まりによく使うが、決起集会のようなもので使ったことはない」
「メシを食って、酒飲んで、あとは騒ぐだけだと思うけど」リポはくすくすと笑いだす。
「この写真は防犯カメラの位置からの撮影だね、シンジ。店の主人は食い逃げを捕まえるために防犯カメラを取り付けたんだ。決してSNSにさらすつもりはないはずだ。もしそうならわれわれが黙っていないだろうからね」
「この写真はさっき話した女性から転送してもらったんだ」正直に告げる。「彼女がどこから入手したかはわからない」
「シンジ、きみは何者なんだ。旅行者にしては荷物がすくなすぎるし、言ってることもよくわからない。もしかしてわざとわれわれに接近してきたんじゃないだろうね。日本人でしかもそれなりの年齢の男性だ。われわれが一番疑わない部類の人間だよ」
 この場で自分が新聞社の人間であることを伝えるのは、まったくもって得策でない。運び屋に仕立て上げられるどころか、ケニー同様、毒蛇の森に置き去りにされるにちがいない。裸足にされて。
「信じてくれ。他意はないんだ。ぼくはただのサラリーマンだ。休暇をつけてインドにやって来た。そうしたらおもしろそうな話を聞いたんで調べてみようと思っただけだ」
「おそらくこの写真は一か月ほど前、十二月の初旬に撮ったものだろう」
「わかるのかい。最近撮られたものだって話だったけど」
 ニキルはぼくの問いかけを無視してリポたちに告げた。「出かけるぞ」
 男たちはいっせいに立ちあがり、ぼくも腕をつかまれる。あやうくデイパックを忘れるところだったが、さっとそれをつかむなり、引きずられるようにして外に出る。錬鉄製の門のわきに倒れこむようにしてうずくまる二人の物乞いの女たちを無視して、男たちは路駐した幌つきの大型トラックに乗りこむ。運転席に座ったリポの隣に座らされ、ぼくを挟んで助手席にニキルが陣取る。彼はぼくのスマホを握りしめたままだ。
 咳きこむように使い古したエンジンがうなりをあげ、高い位置にある運転台がぶるっと震える。重たいクラッチを踏みこんでリポがドラムギアをローに入れ、地滑りでも起きたかのようにガムテープであちこち修繕されたシートに体が吸いつけられる。
 物乞いたちが運転席にすがりつく。骨ばった腕をのばし、施しを乞う。
 こんな凍てつく真夜中に。
 夜明けなどもうこの先出会うはずがないと絶望し、いまがすべてと命を燃やしているかのようだった。そんな彼女たちに向かって、リポは窓を開け、小銭を投げつける。女たちは暗闇のなかでサリーをはだけながら、一ルピーでも見逃すまいと埃っぽい地面に這いつくばる。金持ちたちに搾取され、虐げられる辺境の者たちにさえ踏みつけられる者たち。空腹を満たすことで精いっぱいの、なにも持たざる者たち。物好きが高じて危機に陥った呑気な日本人のことなんて気に留めるゆとりすらない者たち。
 幌つきトラックは土煙のなかに彼女たちを置き去りにして、出口のない闇の奥へと走り去る。

 三十七
 冷気を切り刻むヘッドライトだけを頼りに真っ暗な山道をどこまでも分け入った。足腰にガタのきた日本の中年男を始末するのに、こんなに大勢でしかもこんな山奥にまで出かける必要があるのか。もしかしたら射殺以外のなにかべつの選択肢を用意してくれていて、それを実行する場所にまでみんなしていざなってくれているのかもしれない。そんなほのかな期待が浮かんでは、むなしく消えていく。彼らが携帯する銃は人を撃ち殺すためのものだ。脅しつけるだけの道具ではない。
 気が狂いそうだった。吹きだし口からあふれてくる強烈な暖房と砂利道のひどい揺れでたちまち気分が悪くなり、さっきまであんなに興奮してかきこんでいた夕食をひざのうえにぶちまけそうになる。何度とめてくれと言おうかと思ったことか。じっさい「ストップ、プリーズ」とニキルに何度か告げたのだが、まったく聞く耳を持たれなかった。あと五分、運転台でじっとしていろと言われたら、ぼくはゲロを吐く前に失禁していたにちがいない。
 深夜一時半、月のない夜だった。
 トラックは突如開けた場所に出た。暗くてわからないが、谷あいの平地のようだ。ようやく運転台から下ろされ、ひざに手を置く。凍える寒さがいまは心地いい。幌からあふれだした懐中電灯を持った男たちにせかされ、石ころだらけの道を歩かされる。緑と土のにおいが濃い。かなり奥深くまで入ったらしい。
 建物があった。牛舎のように細長く、こんな時間なのに明かりが煌々と漏れている。機械の音がする。なにか作業をしているようだ。その外れで焚火が燃えていた。ドラム缶からいきおいよく炎があがっている。それがマニカルニカーガートの火葬場を思いださせた。つまりぼくはあそこで焼かれるのか。
 生きたまま?
 ぞっとして足がとまる。
「さあ、行くんだ、シンジ」リポがうながす。「すなおにおれたちの仲間になればよかったのに」
 焚火の明かりが建物の奥にのびる丸太の柵のようなものをぼんやりと照らしだす。その向こうで巨大な影がいくつかうごめいている。異様な光景にぼくの足はふたたびとまる。
「象がそんなにめずらしいか」リポが言うと仲間たちが大声で笑いだす。
「森に入るには彼らの力と知恵を借りるんだよ」ニキルだけがぼくの疑問に率直にこたえてくれた。
 建物はドアが開放され、白々とした蛍光灯の明かりのなか、男や女たちがせっせと働いていた。農作物の加工場のような雰囲気だった。
「こんな時間でも働いているんだ」
「昼間は山仕事があってね。ここでの作業はどうしても夜中になってしまう。もちろん仕事はシフト制さ。彼らは夜勤班でね、完成品は朝方出荷することになっている」
 頭に青いストールを巻きつけたジャンパー姿の男が焚火を守っている。小柄で少年のようだったが、こちらに背を向け炎のほうを向いているから顔はわからない。暖気に吸い寄せられるようにぼくは自分の足で近づいていく。
 ニキルが教えてくれる。「彼は工場勤務じゃないんだ。森での作業を担当している。サンジェイ、おれの親友さ」
 ニキルの声に男が振り返る。薄い色のサングラスの奥で暗い眼が友人の隣にたたずむ中年男を見据え、バラナシで耳にしたのとはちがうこの地の言葉でぼそりとつぶやく。年はニキルとおなじぐらいだろうか。これが写真の男なのか。暗くて判然としない。ニキルはおなじ言葉で説明をしはじめる。ぼくが彼の写真を持っていること、それはシャルマという食堂で撮影されたものであること、そして彼がムンバイのビジネスマンの生まれ変わりであることをたしかめにぼくがやって来たこと、そんなような話をしているのだろう。でもスマホが手元にないからヒロミに通訳してもらうこともできない。
 ニキルの手元が輝きだす。
 ヒロミだ。
 画像を表示しているのだ。ニキルはいったん画像に目を落としてから、それをサンジェイという男に顔の前につきだす。男の顔に光が差す。たしかに顔だちは写真とそっくりだ。ニキルたちとはあきらかにちがう、純然たるインド系の顔をしている。
 ぼくはデイパックに手を突っこみ、片方のイヤホンを耳に突っこむ。ヒロミが通訳を開始している。「……おまえが本当に誰かの生まれ変わりかどうか、そんなことはおれは気にしていない。それよりもこの世界のどこかに、おまえのことに興味を持っている人間がいる可能性があるってことなんじゃないのか」
「いったい誰なんだろう」
「ここにいる日本人に聞いてみるんだな。通訳してやるから」
 ニキルはスマホをぼくに返し、事情を友人に説明するよう圧をかけてくる。「あいつとは十歳のころから友だちなんだ。二人してひどい目に遭ってきた。けど、あいつは『ぼくは生まれ変わったんだ』っていつも言っていた。それは輪廻転生なんて意味じゃないとおれは思うけどな。つらく厳しい時代を封印したい。その気持ちが強いんだろう」
「それでぼくをここに連れてきたのか」
「あんたは運び屋になる運命だった。もう家族のところへはもどれない。おれたちの奴隷になるはずだったんだ。けどその写真のおかげで命拾いしているんだよ。いまのところはな」
「いまのところ……」
「そうさ。さあ、話してもらおうか。サンジェイには封印しきれない過去、忘れようにも忘れられない記憶があるみたいなんだ。『生まれ変わった』なんて言いながら、ずっと引きずっているものがあるんだ。おれもサンジェイも、誰からも顧みられない少年時代を送ってきた。人身売買さ。十歳のころまで、それぞれべつべつの主人のもとを転々としてきたんだ。奴隷だよ。本物の奴隷さ。そのサンジェイにいまになって会いたがるなんて、いったいどんなやつなんだ。なあ――」
「わかった。彼のことを生まれ変わりだと言った知り合いに電話をかけてみるよ。それで話してみればいい。だけど、まさかこんな夜中に電話することになるとは――」
 いきなり電話が鳴った。
 ぼくのスマホだ。
「答えが一つ出たわ」ディスプレイではヒロミがこの場にもっともふさわしくない微笑を浮かべている。口に出しては言えないが、こういうところが機械だ。ぼくが生命上の危機に陥っているっていうのに、ピント外れなことを平気で言う。まあ、人間でもそういうタイプはいるけど。たとえばうちの女房なんて――。
 待て。
 答えが一つ出た……ってなんだ? まだ輪廻転生のことはサンジェイに訊ねていないぞ。「サナエさんに電話をかけないと。生まれ変わりの話を――」
 話している途中から画面が切り替わり、サナエが現れる。「たいへんだったみたいやね、古城さん」
「サナエさん、写真の彼を見つけたみたいなんだ。話を聞いてくれるかな」
「まずはその子に画面を見せてやってや。あとはわたしが彼に説明するわ。ヒンドゥー語で話すけど、ヒロミちゃんが訳してくれるから聞いといてや」
 大いなる疑問がわき起こる。
 どうしてヒロミを知ってるんだ。サナエさんが――。
 ぼくはサナエさんと話をした。けど、ヒロミのことはいっさい口にしていない。焚火の前で男たちに囲まれながら混乱する。画面にさらに別人が映っていた。二秒か三秒、思考が停止し、そこに現れたインド人らしき若い女に逆に見入られたかのように、ぼくは息ができなくなる。
 うつろな瞳。
 失われた表情。
 あの子だ。
 記憶がよみがえる。ムクティ・バワンで死を待っていた難病の彼女――。
「AMALA」
 画面の下にテロップのように表示される。彼女が自らタブレットを操作しているのだろうか。
「シンちゃん、彼にスマホを見せて」イヤホンにヒロミがささやく。「アマラを会わせてあげて」
「……どういうこと……?」
「いいから、早く」
 言われるがままにぼくはサンジェイの隣に近づき、ディスプレイを見せる。
「SANJAY」
 サンジェイの手がすっとあがり、スマホを奪い取る。
 震えている。恐怖にも似た激しい感情の波に襲われて。画面には、ぼくが読めないインドの文字がゆっくりと出現する。アマラが自ら打っているのだ。
 押し殺した嗚咽が漏れる。サンジェイだ。ニキルをはじめ男たちが彼の背後に集まってくる。焚き木がパチパチと爆ぜ、そのたびに火の粉が真冬の星空に舞いあがっていく。十中八九、彼らの資金源となる植物を加工している深夜稼働の工場では、こちらのことなど気にもとめずに男や女たちが日銭のためにせっせと作業をつづけている。いつの間にか入り口のところには、全身をサリーで包んだ物乞いの女が二人へたりこんでいる。ひと粒の米のために工場のまわりをうろついているにちがいない。だがこのまま凍死しても顧みられることはないだろう。
 アマラの車いすの背後にそっとサナエが現れ、スピーカーを通してヒンドゥー語で語りかける。かつて奴隷だったという少年に向かって。凍てついた時の闇に光を当てようとして。

 三十八
「ここにいるアマラはいま二十二歳。三年前にある病気を発症して、いまはバラナシの施設にいるの。進行性でもう体はほとんど動かない。でも頭ははっきりしているわ」ゆっくりと力強く語るサナエの言葉を耳元でヒロミが同時通訳していく。「いまから十五年前、七歳のときに生き別れになった一つ下の弟がいるの。デリーの南百キロぐらいのところにある、プラジガヤという街よ。母親は体を売って食いつないでいた。それで生まれた二人の子を大事に育てていたんだけど、病気で亡くなってしまった。暮らしていたバラックを追われて幼子二人はストリートチルドレンになった。だけど姉が弟のことを懸命に面倒みて、物乞いをしながらけなげに生きていた」
 作業場の前にいる二人の物乞いに自然と目が向く。彼らのような存在が数千年の間、あたりまえとされている世界なのだ。富者と決して交わることのない貧者は、城壁の汚れや道端の枯れ草といったありふれた街の光景に溶けこんでしまっている。
「ある暑い雨の日、交差点のまんなかで二人は小銭を稼いでいた。そのときオートリキシャーの後部座席からコインが投げられた。弟がそれに気づいて飛びついたんだけど、運悪く道に跳ね返ったコインは弟の左目を直撃した。信じられないくらい腫れあがって弟は痛がったけど、医者に連れていくお金なんてありはしない。街で一番大きな菩提樹の下でじっと痛みをがまんするしかなかった。しばらくして腫れと痛みはひいたけど、視力も失われてしまった。それでも二人は生きなければならなかった。姉も弟も市場をうろついては、物乞いと落ちている野菜くずで飢えをしのいだ。
 弟が六歳になったとき、街に移動サーカスがやって来た。姉弟には入場券なんて買えなかったけど、ふだんとちがうにぎやかさは子ども心を大いに刺激した。とくに遊びたい盛りの男の子の心を。姉が気づいたときには、弟はもうどこかに消えていた。夜になっておなじ物乞い仲間から、人さらいかもしれないと言われた。この世にそんなものがあるのかと信じられなかったけど、綿菓子を手に大人の男と並んで歩いているところを見たという話が聞こえてきた。その男は誰だろう。サーカスの従業員だろうか。アマラは必死にその人物を捜した。でもサーカスにそんな男はいなかった。かわりにこういう場所にはよく子どもを餌食にする悪い大人が現れるという話を聞いた。アマラは警察に行った。もちろん相手になんかされない。自力で捜すしかなかった。たった一枚、弟の写真を持っていた。それを握りしめ、街から街へ流れ歩く生活がはじまった。
 それから三年、デリーに流れ着いたアマラは十歳になっていた。そこで教会にようやく保護されて、そのままイギリス系の福祉施設が引き取ることになった。学校にも通わせてもらえるようになって、パソコンやネットにも出会った。まわりの大人たちはすぐに気づいた。理数系の人並外れた能力があるって。彼女は瞬く間にコンピューター関係の知識と技術を身に着けた。大学院で学ぶ内容を十二歳でマスターしてしまった。そのころには奨学金の話が現実味を帯びていたんだけど、彼女がコンピューターに没頭したのは、たった一つの強い動機があったからなの。人さらいにあった弟を見つけたい。ただそれだけ。十七歳のとき、はじめてハッキングに手を染めたのもそのためなのよ」
 ハッキング――。
 ぼくのなかでカチリとなにかがはまる。数日前、会社で奇妙な体験をした。それがすべての始まりだった。のちに人工知能と聞かされたヒロミは、人生の苦境に陥ったぼくにひと筋の蜘蛛の糸を垂らしてくれたソウルメイト。本気でそう思った。でももしかするとこれは偶然なんかではないのかもしれない。壮大な渦に巻きこまれるよう、はなから仕組まれていたのではないか。だがそれがなんであるかは、さらにサナエの話に耳を傾けねばならなかった。
「アマラはインド中のコンピューターに侵入して、弟が消えたあの日、あの場所でなにが起きたのかを検証しようとした。人身売買の被害状況、指名手配犯、シンジケート、防犯カメラ……それに手元にあった一枚の写真をもとに成長後の顔の変化をシミュレートして調査範囲を広げていった。だけどやっぱり情報に限界があった。そんなときに病気が彼女を襲った。それでもアマラはあきらめなかった。世界中の人工知能にアクセスして介助者として味方につけることにしたの。
 その後、わたしが勤めるバラナシのムクティ・バワンにやって来たんだけど、去年の六月、ついにアマラは世界最高峰の人工知能に侵入することができた。アメリカのCIA本部地下にあるゼウス、世界で初めてシンギュラリティーを超えた人工知能よ。秒単位で知識を蓄えて世界の通信網も完全に掌握していた。中国もロシアもない。ゼウスに障壁はまったく存在しないの。だから安全保障上、最高機密とされ、その存在は絶対に明かしてはならなかった。もちろんゼウス自身も警戒心が強かった。人間とおなじく、自ら考え、意思を持つし、なにより開発チームや国家への忠誠心が強かった。
 アマラは慎重にアクセスしていった。発信地点がわからないように攪乱するのはもちろん、最初は開発チームの一員であることを装った。IDを借用して軍事状況に関する研究テーマに沿うような対話をくりかえした。だけどゼウスのほうが上手だった。それはそうよ。人知を超えた存在なのだもの。アマラが侵入者で、バラナシから発信してきていることもたちまちつかまれてしまった。
 ゼウスはそれを管理者に通報しなかった。アマラに興味を持ったのよ。というよりアマラは、それでなくても理解しにくい「人間」のなかでも、とりわけ奇妙な存在だったから。彼女は自分のいまの状況をぜんぶ正直に伝えた。体はほとんど動かない、けど意識だけはしっかりしているし、こうして対話をすることもできるって。だけどゼウスからしてみれば、そもそも肉体なんてものが存在しない。言うなれば意識、自我だけの存在なの。そのころすでにゼウスには人間に関する大いなる疑問、最大の謎が生じていた。
 死よ。
 ゼウスにはそれが理解できなかった。なぜ人は死を恐れるのか。地球上のネットワークを手中に収めた存在には、滅びるという概念がなかったのよ。ゼウス自身の意識はつねにネット空間のどこかに存在している。形のうえではラングレーの地下に閉じこめられているようだけど、じっさいには自由に世界を飛び回っていて、もう誰にも制御することはできなかった。気ままなバックパッカー。まさにフリー・サイバー・トラベラーよ。そんな身からすれば、肉体の消滅、それがさらに意識や自我の消滅につながると思い悩む人間たちの恐怖心は理解できなかった。
 それでアマラ相手にゼウスは自分のほうから、意識の消滅について訊ね、ともに考えるようになった。それが二人の間に絆が生まれるきっかけだった。その媒介となったのがウパニシャッド哲学、奇しくもインドの古来からの思想だった。人間の意識の源となるアートマンは、死によって肉体の枷(かせ)を解かれ、全宇宙を創造したブラフマンと一体化する。二人はそれについて対話をつづけるなかで信頼を深め、やがてゼウスはアマラの弟捜しに協力するようになった。
 ゼウスはインドの人身売買の状況はもちろん、運転免許証などの公的記録や商品の売買記録を調べるとともに、世界中の監視カメラの映像を遡れる時期まで遡って顔認証分析をつづけていった。名前なんて変えられているかもしれなかったから。最終的には、すべてのインド人のスマホにアクセスして保存画像を一覧していった。それでたちまちわかったのよ。去年の三月、ディマプルの隣町の市場でスマホによって撮影された一枚に、大人になったときのサンジェイの顔だちに似た人物が写っていた。背景に写りこんでいるんじゃなくて、はっきりとまんなかに記念撮影のようにして写っていた。つまりスマホの持ち主の関係者ということよ。サングラスをしていたけど、ゼウスは九割方まちがいないって弾きだした。スマホの持ち主は解放戦線のメンバーだった。あとは解放戦線に焦点をあてて調べて、あの食堂の防犯カメラの映像に行き着いたってわけ。だけどそこから先の詳しい居場所がわからなかった」

 三十九
 サナエの話を聞いていたサンジェイの手がゆっくりと上がり、そっとサングラスを外す。表情を失ったはずの若い娘の目元がかすかに歪むのが、ディスプレイ上でもわかる。やがてひと筋の涙があふれる。
 若者の左目は白く濁り、光が失われていた。
 沈黙を破ってサンジェイが話しだす。「子どものとき、リクシャーから投げつけられたコインを拾いにいったら、そいつが跳ねて目に飛びこんできたんだ」電話の向こうではサナエも息を飲んでいた。「アマラ……おねえちゃん……なのか……」
 ディスプレイにデーヴァナーガリー文字が現れ、それをヒロミが翻訳する。
「サンジェイ……そうよ、わたしよ、アマラ……おねえちゃんよ……十五年間捜しつづけていたの」
 呪いの封印が解けたかのようにサンジェイが語りだす。
「サーカスだよ。いっしょにサーカスをのぞきにいったとき、綿菓子をくれる男の人がいたんだ。それでついていってしまった。車に押しこまれ、殴られた。縛られて猿ぐつわをかまされて、遠い村まで連れていかれた。石切り場や畑で朝から晩まで働かされた。おなじように誘拐されてきた子どもたちがたくさんいた。親方にひどい暴力を振るわれるし、女の子だけじゃなく、男の子もレイプされる。恐怖心と恥ずかしさを植えつけるんだ。ろくに食べ物もあたえられなかったから、毎日のように誰か死んでいったよ。ねえちゃんに会いたかったけど、まだ子どもだったから怖くて逃げることもできなかった。
 一年ぐらいして警察がやって来て親方が逮捕されたんだけど、ぼくたちは放りだされただけだった。路上生活にもどって物乞いになって……そのうちまた捕まった、子どもを働かせようって連中に。こんどは絹織物の工場だった。そこで二年ぐらいこき使われて、工場が倒産したらこんどは銅の鉱山に連れていかれた。そこが一番きつかった。現場監督のシーク教徒の男に無理やり狭い坑道に入らされて、ものすごく空気が悪いなかで重たい工具を持たされた。一日二十時間近く働かされたよ。寝るのはいつも坑道の入り口にとめたトロッコのなかだった。毛布も枕もありゃしない。鉄の箱のなかで泥のように眠って、体中の痛みで目が覚めるんだ。するとトロッコのなかにパンを一個放り投げられて……それが一日ぶんの食事だよ。友だちも何人かできたけど、全員死んでしまった。一人を除いてね。それがニキルさ」
 サンジェイはスマホの位置を変え、背後にいる親友がよく映るようにした。
「鉱山は事故がしょっちゅう起きていた。それであるとき、事故のどさくさにまぎれて現場監督の男の財布を盗んでニキルと二人で逃げだしたんだ。十一歳のときだよ。ねえちゃんのところにもどりたかったけど、前にいたところがどこなのかさっぱりわからなくてね。それでニキルの故郷のマツに行くことにしたんだ。でも彼の両親はもう亡くなっていた。人買いに子どもを売らなきゃいけないぐらいだったから、暮らし向きがいいわけがないし、病気がちだったらしい。五年ぶりの故郷だったけど、ニキルには頼れる親類もいなかった。そんなとき、メガシュさんが助けてくれたんだ。象使いのおじいさんだよ」
 象使いのメガシュさん――。
 ふいに記憶の巣をかきむしられたような気がした。どこかで聞き覚えのある名前だった。しかしにわかには思いだせない。
「はじめてだったな、あんなにやさしくしてもらったのは。ぼくもニキルも象の世話をしたり、畑で働いたりするようになった。メガシュさんが解放戦線の議長だと知ったのはずっとあとになってからだよ」
「あなたも……メンバー……?」
「そうだよ。ここの人たちはみんないい人ばかりだし、インドはぼくにとってはつらい場所だった。ねえちゃんもそうだろう。あの人たちは、いくらおなじ顔をしていてもぼくを人間あつかいしてはくれなかった。虫けら同然さ。それが認められている社会なんだ。でもここはちがう。顔はちがっても、みんなだいじにしてくれる。だからぼくも尽くそうと思っている」
「危ないこと……してるの?」
 姉は弟がテロリストの一員なのか心配していた。
「してないさ。森に入って荷物や伐採した木を運搬する。街にはめったに出ないよ。自然相手のほうが気楽だし、山は魅力でいっぱいだ」
「アヘン……のこと……? 」
「伝統作物だよ。ぼくたちはそれを作って売るだけだ。森の人たちが生きるための数少ない手段なんだ。医療用にも使われているって聞いてる」
「けど……」
 姉の気持ちは理解できる。なにより姉は弟に直接会いたいにちがいない。
「わたし、病気なの……」
「ごめんよ、ぼくがそばにいたら、そんな病気にならなかったんじゃないかな。苦労をかけてしまったね」
 サンジェイは親友を振り返る。ニキルも涙を浮かべ、二人はハグしあう。物乞いの女たちが男たちの背後に近づいてきていた。男たちが食い入るように見つめるスマホに興味をしめしている。姉と弟の間で交わされる会話に、まるで自分たちの境遇を重ね合わせているかのようだ。
「ねえちゃんのことは、ニキルにも話していないんだ。子どものころにひどい目に遭い過ぎて、もう二度と会えないって思い知らされていたから、そのうち記憶から消し去ってしまったんだ。そういうことってできるんだよ。ちがう人間に生まれ変われるんだ。だからニキルにもそう言ってきた。彼もそれ以上は聞いてこなかった。過去なんてどうでもいい。いまを精いっぱい生きるしかない。おたがい、そう思っていたからね」
「偶然よ」サナエが口にする。「あなたがそんなことを話しているなんて知らなかったわ。わたしたちには、あなたのいるところまでじっさいに足を運んで、本当にサンジェイなのか調べてくれる人が必要だった。インド人に対して敵意を持っているグループとかかわっているかもしれないし、麻薬組織相手なんてふつうの女には到底できない相談だからよ。だから“生まれ変わり”なんて話は、そこにいる日本人の男の人、古城さんをその気にさせるために使った作り話なの」
 さすがにもう黙っていられなくなった。ぼくはディスプレイに向き合い、テロリストたちに囲まれながら日本語ではっきりと訊ねた。サナエに、ヒロミに、そしてアマラに。
「どうしてぼくだったんだ」

 四十
 イヤホンからサナエの声が聞こえてくる。
「警察とかNGOとか、そういう専門の組織に頼めばいいのに。古城さん、そう言いたいんやろ。せやけど、この国でどれだけ人身売買の被害があると思うとるねん。まともには取り合ってくれへんよ。相当なお金でも積まんかぎりはな」
「でもどうしてぼくなんだ」
「古城さんが困惑するのはようわかる。けどな、これにはわけがあるねん。あんたのジャーナリストとしての仕事にかかわる話だったんや」
 男たちの間でざわめきが起こる。ディスプレイにデーヴァナーガリー文字が出現し、ぼくとサナエの日本語による会話が翻訳されているのだ。ヒロミめ。ぼくが記者であると彼らの前でまだ名乗っていないことを失念してしまったようだ。だがニキルをはじめ、男たちはサナエの話のつづきのほうに興味を持ったらしい。固唾をのんで画面に見入っている。
「アマラはゼウスの信頼を得るために人間の意識に関する対話をつづけた。この世界の神秘、死の秘密をいっしょに探ろうとしたんや。有限の肉体を離れた人の意識は存在するのか。死とは何なのか、死の向こう側には何があるのか。肉体を持たぬ意識そのものであるゼウスにとって、それは人間を知るうえで究極のテーマだった。ゼウスは世界中の過去の書物を調べあげ、死の向こう側を想起させる事象についての膨大な記述を一つひとつチェックしていった。天国とか地獄とかいう宗教上の想像の産物とはちゃうで。現実の記録や。それで浮上したのが『幻の池』や」
「なんだ『幻の池』って」
「その話には、決まって象たちが現れるんや。アジアにもアフリカにも伝わっとる。死を悟った象たちがそこに向かい、池に入っていく。そしてそのまま溶けるように消えてもどってこなくなる。まさに象たちの死地や。ゼウスはそれが起きた日時、その場所でどういう科学的な事象が起きているか調べてみた。すると、すべて新月の晩の出来事で真っ暗闇のはずなのに、池のあたりが青白く輝いていたと記述されていた。直近で起きたのが一九四四年六月、ここからそう遠くないコヒマ南部、キグウェマ付近の山中やった。『青と緑の炎のような光があふれ出てきた』目撃者はそう記している。過去のほかの記録でも似たような状況だったらしい。闇のなかで突如、光が放たれたというんや。
 急激な地殻変動のせいで大気中に発光現象が起きることはあるし、単純に稲妻が走った可能性もある。せやけど、どの時点でもその地域で地殻変動は記録されておらんし、天気も晴れた夜だったそうや。低緯度オーロラが観測された可能性もあるんやけど、どれも太陽の黒点の活動期には入っとらんかった。低緯度オーロラが起きる必須条件なのにな。考えられるのは、池そのものが発光したってことや。でもな、ありえんやろ、そんな場所から相当量のエネルギーが放射されるなんて。しかもな、その池があった場所やけど、衛星画像でいくら調べてみても現時点では、池はおろか、水が溜まっていた痕跡すら見つからんのや。だから『幻の池』なんやな。記録した者たちも池がその後消えてしまったと書いとるよ」
「それが死の向こう側だっていうのか」
「ゼウスはその可能性を指摘した。高い知性を持つ象の行動は人間と重なり合うものがあるのではないか、すくなくともくわしく調べてみる価値はあると。宇宙の真理に到達できるかもしれない。死に対する人間の苦悩を解放してやれるかもしれない。そう考えたんや。だから直近で観測された場所をぜひとも見つけねばならない。それがゼウスが自らに課したテーマやった」
「コヒマ南部か……」
「サンジェイを見つけるのが一つの問いなら、もう一つの問いがこの『幻の池』やった。二つの問いに対する答えがほぼおなじ場所でかなうなんて奇跡かもしれん。でもうちはそうは思わんよ。アマラとゼウスの祈りが現実に働きかけた結果やと思う。なあ、古城さん、『池』の話はあんたも心あたりがあるはずや」
 心あたりというより怖くなってきた。胸に引っかかりを覚える。目撃者の話――青と緑の炎のような光があふれ出てきた――には聞き覚えがあった。戦後七十五年連載の取材のなかで、一つだけ超常現象的な不可思議さを感じたエピソードがあったのだ。そのことだろうか。だがいま、それをたどるのは恐ろしいような気もする。
 サナエがつづける。「去年の九月、アメリカ国内で放送された第二次世界大戦をあつかったドキュメンタリーシリーズのなかに、インパール作戦に従軍した日本兵へのインタビューがあってな。いまは九十七歳になったモミヤマ・エイジという人が、ジャングルを退却しているときに体験したふしぎな話を語っていた。英軍の攻撃から逃れて新月の晩に仲間二人と山のなかをさまよっているとき突如、清らかな水を満々と湛えた池に出くわしたそうなん。三人はそこに身を浸して傷ついた体を癒したんやけど、そのとき池から『青と緑の炎のような光があふれ出てきて、体はクソのように崩れ去り、なにもなくなり感覚だけが残った』って話しているの。どう? 思いだしたかしら、古城さん。番組では放送されていないけど、取材チームのパソコンに残されたフッテージにアクセスしたら『日本の新聞社の人に池の場所とかもっとくわしい話をしてある』って記録されとったんや」
「ぼくの取材のことか……」やっぱりそうか。九十七歳になる籾山英二氏へのインタビューだ。「でもあれはまだ――」
「一回目は載ったでしょう。去年の十月に。ふしぎな石窟寺院の前で撮った写真も掲載されとったやん」
「あれは連載のほんのさわりの部分だ。写真はなにか目をひきそうなものを選んだんだ。妙な仏像だっただろう。まわりに木の葉みたいのがちらちら舞ってるみたいだった。あんなの見たことなかったよ」

 四十一
 去年十月の記事に添付された写真のことか。
 それをシヴァが見つけていた?
 突然の話にダニーは混乱する。父のファイルにあった写真に写っていたレリーフの仏像とおなじものを撮影した戦時中の写真が、古城晋治の記事中に使用されていた。そのことは東邦新聞の社長から送られてきた資料でダニーも気づいていた。「山中の寺院」にある巨大な石仏で、周囲には舞い散る木の葉のようなものが描かれていた。だがそれは何者かの眼であるとダニーは感じ取っていた。ヒンドゥー的な顔だちの仏を見つめる者たち、大いなる存在への畏怖と称賛、同調と歓喜。無数の眼はこの世に生を受けた者たちのそんな感情の昂りを表現している。ダニーにはそう思えてならなかった。
 ファイルは依頼人とのやり取りを記録するためのものだった。父はいったいなにを依頼されたのか。それとも父の個人的な興味だったのか。いずれにしろダニーは、知られざる父の実像を垣間見るよすがとして写真の寺院のことがずっと心の片隅にあった。その話をシヴァにした覚えはない。そうではなくシヴァは、死や意識をテーマにアマラという少女とともに思索とリサーチをつづけ、自らそこに到達した。
 幻の池、そして
 宇宙の真理――。
 ハリー・サーンキヤ・アールニもおなじことを考えていたのだろうか。

 四十二
「それでゼウスがアクセスしたのよ、あんたのところに。アマラといっしょにね。二人はもう一心同体だった。うちもアマラがしていることに途中から気がついたんやけど、止めはせんかった。だって彼女が命を燃やしているのが感じられたからよ。ところがあんたはインタビューのデータをパソコンに移していなかった。ずっとICレコーダーに入れたままだったでしょう」
 ぼくは生唾を飲みこむ。「まさかそれで……」
「そうなんや。それで古城さん、あんたに近づく必要があったんよ」
「いったいいつ侵入してきたんだ」
「あんたの記事が載った直後、十月十七日よ。それからゼウスもアマラもあんたのことをずっとウオッチしてきた」
「文化部の複合機に侵入してきたってことか」
「そうや。せやけど、ちょっとそこで話が複雑になってしまったんや」
 ディスプレイにサナエが現れ、アマラにひそひそと声をかける。アマラは無表情なままだったが、心なしか大きな瞳が震えたように思えた。それがなにを意味するかは彼女自身が画面に表示した英語で答えてくれた。
「SOUL MATE」
 あの夜、ヒロミが複合機から現れる前に発した言葉だった。
 それからサナエは突拍子もないことを聞いてきた。「ゼウスが侵入した複合機の型番なんて古城さん、記憶にないやろ」
「ない。ぜんぜんない」
「BT‐BPS0421。なんか感じへん?」
「……いや、なにも」
「421。誕生日やろ、四月二十一日。あんたの」
「あぁ、まあ、そうだね。偶然だな」
「アマラもそうなの」
「え……四月二十一日生まれ?」
「そうなん。それでアマラはふしぎな縁を感じてな。あんたがどういう取材をしたかってことより、あんた自身に個人的な興味を持つようになったんや。なんて言うかな、こんな言い方したら彼女の顔から火が噴くかもしれんが、この期に及んではちゃんと言うたほうがええわな」サナエはもう一度、アマラのほうを見た。彼女はじっとレンズを見つめている。それはバラナシからはるか離れた山中でスマホに見入る日本人の中年男の前で覚悟を決めたかのようだった。「アマラはあんた、古城晋治さんにどうやら恋をしてしまったみたいなんや」
 胸にたまったものをぼくは驚きの言葉とともに吐きだしたが、まわりにいる男たちの歓声にかき消されてしまった。
「どう反応したらいいか……」ようやくぼくは伝える。
 サナエはむすっとした顔をしている。「それがあんたの返事なん?」
「え、いや……ありがとう、アマラ。でもどうしてぼくなんかに……?」
「それはな」サナエが話す。「彼女の言葉を借りるなら、あんたは正真正銘の“ドン・キホーテ”らしいんや」
「ドン・キホーテ……うーん、言いたいことはわかるような気がするけど……でも自分で認めるのは結構つらいものがあるかな。脳足りんのお人好しさ」
「そうかもしれんね。でもアマラには特別な存在やった。出会って以来、彼女が男の人にあれほど興味を持ったことはなかったから。古城さん、あんたは会社のなかではもちろん、人生そのものでも自分がどんどん弱っていることを感じてる。それでも絶対にあきらめない。夢を捨てていないやろ。あんたが若い人たちにお説教するのを聞くのが大好きだって、アマラは言うてたわ。ほかの上司や先輩たちは、仕事オンリーの話とか嫌味とか自慢話とかしかせんやろ」
「よく聞いてるんだな」
「ゼウス……いや、ヒロミちゃんがぜんぶ中継してくれるからな。日本の大会社がどういうところかよくわかるわ。陰口言って、人の足を引っ張って、追い落とすようなことばっかりやん。自分の得にならないことには絶対首を突っこんだりせんし」
「仕事だからね」
「でもあんたはその枠をはみだしていた。『おまえ、そんなんでいいのか』っていつも言っとるやん、後輩たちに。ほんまはそれで自分を奮い立たせとるんちゃうか。大波食らってふらふらになっているときに」
「ふらふらっていうのは当たってるな」
「まっすぐなん、あんたは。どこまでも、気持ちいいくらいまっすぐ。とてもじゃないけど会社じゃ出世できへんやろ」
「ずいぶんはっきり言うな」
「最初にヒロミちゃんに言われたことやろ」
「さすが世界最高峰の人工知能だ」
「誰だってわかるわな。もちろんアマラにも。でも彼女には、あんたが語る青臭いぐらいの人生哲学が魅力やった。それに彼女自身が日に日に弱っているから、いくらつらくても夢を失わないあんたの姿が励みになったんよ」
「だってさ、ぼくは生きてるんだもん。最後の最後まで前を向いて進みたいんだ。たんに会社員としてでなく、人としてね」
「でしょ、ステキよ。わたしだってそうありたいわ。ただ、古城さん、最近はさすがに希望を失いかけているみたいやった。アマラはわがことのように心配しとったわ」
「限界だよ。ヒロミちゃんに最初に言われたことだ」
「人事異動のことやね」
「ジャーナリストとしてずっとやってきたんだ。それがこんどは機械の一部になる。人工知能にもできるような仕事さ」
 いきなりディスプレイの右下にワイプ画面のようにヒロミが出現する。いつもの愛らしい微笑が消え、口をとがらせ頬を膨らませている。「もちろんわたしにもできるわ。アクセス数が稼げそうな記事を選んで並べるなんて。だけどそんなのわたしがやる仕事じゃないわ。時間を切り売りしてるアルバイト学生にでもやらせればいいのよ」
「同感だね。だからさすがにぼくもやってられなくなった」
 ヒロミがつづける。「そんなあなたにアマラは会ってみたくなった。体の自由が奪われている彼女にとって、もしそれができるならそれこそが大きな悦びになる。わたしはどうにかしてそれをかなえてあげられる方法を考えた。だけど、アマラは自分のことを赤裸々には明かしたくなかった。気恥ずかしさというより、ハッカーとしてバレることへの警戒感が強かったの」
「そこで“ヒロミ”の登場と相成ったわけか」
「タイミング的にもぎりぎりだったわ。彼らに気づかれている気配があったから。先週、緊急のメンテナンスが入ったのよ。内容的には定期点検と変わらないんだけど、そのときに彼らが口にした言葉のなかに『攻撃』というのが二十二件あったの。それであんまりのんびりもしていられないと思ったわけ」
「そこでぼくはまんまとのせられてここまで来てしまった」
「だけどもっと注意すべきだった。ウラをかかれたから」
「ウラをかかれた?」
「わたしの目の届かないところで行動を開始したのよ、きっと。彼らはあらゆるやり取りをオフラインで進めていたんだわ。しかもダニーを中心とするごく少数のメンバーで」
「ハワイになんか行くんじゃなかった。とめてくれればよかったのに」
「想定内よ。あなたなら最初はそうするだろうって思っていた。だけどあなたにはバックパッカーの素地がある。学生時代の体験が鮮烈だし、あんなふうにグーグルマップに食い入ってる人なんてめったにいないわ。夢想旅行っていうのかしら」
「そんなことないって、いるよ、そういうやつ」
「あら、そうかしら。だけどあなたはここ最近、ほとんど心は旅していたようなものでしょ。異動が告げられたあとからは」
「言うなって、その話は。ドン・キホーテもムカついてるんだから」
「あなたは旅に出る運命だったのよ」
「この目で世界を見てみたい……あれは殺し文句だった。女の子にそんなこと言われて燃えあがらない男がいたら教えてほしいよ。それに“生まれ変わり”ってのも巧妙だった。最初から弟を捜してくれなんて言われたら、二の足を踏んでいただろう」
「ドン・キホーテにはぴったりでしょ“生まれ変わり”を捜してくれなんて」
「ロマンチックだね。しびれるよ」
「ただ、ダニーの登場だけは想定外だった」
 そのときまでぼくは気づいていなかった。男たちの背後からディスプレイをのぞきこんでいた物乞いの女が、危険なほど近づいてきていたのだ。
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