九~十六

文字数 17,808文字

 九
 いまでもよく覚えてるよ。
 連隊がコヒマに到着したのは四月六日だった。それまでいくつもいくつも山を越えてきたから、もうくたくたでね。ボンタもコースケもおれも軽いマラリアみたいになってずっと熱出してたから、もうこれで歩かないでいいと思ったらうれしかったね。本当の戦闘がそれから始まるなんて考えもしなかった。そもそももっと早くおかしいって気がつかなきゃいけなかったんだ。相手は武力に勝っているのに、どうして要塞を守っていないんだって。だけどこっちは隊長以下、全員ボロボロの死人同然だったし、その年はすこし早めに雨季に入ったらしくて滝のような雨がずっと降っていたからもうもどることもできなかった。ジャングルのなかは水浸しでそこらじゅうに深みができていたんだから。
 要塞っていうのは、大英帝国から派遣された総督さんが住んでいた豪邸のことでね。それを鋼鉄板であちこち補強していたんだけど、そこになだれこんでいったんだ。おれたちの中隊がね。ほんとなら百五十人はいたんだが、五十人弱は山越えの途中で死んじまった。だから百人ぐらいだったかな、要塞に入れたのは。もうこれ以上の艱難辛苦なんかありゃしない、あるわけがないって大喜びだったわけですよ。それから倉庫に押し入った。食い物探さなきゃならんかったから。けどね、それが空っぽでさ。てゆうか、焼き払われていたの。撤退するときの常道なんだね、そういうふうにするのが。だってそうじゃなきゃ、侵攻してきた敵が自分らの食い扶持でまたぞろ元気百倍になっちまうわけでしょう。たとえ逃げるにしたって、その程度の反抗はしないとまずいでしょう、敵さんだって。だからそれを見ておれたちは、がっかり半分、してやったりの気分半分って感じだった。敵が逃げたのが確認できたわけだから。
 すぐに補給部隊が来るって話だったから、さして心配することもないだろうって、将校たちものんびりと構えていた。だから、こりゃ、もしかすると思ったより早く日本に帰れるんじゃないかって考えもした。だってね、うちらの任務はコヒマの先にあるインパールを攻略することだったんだけど、コヒマを取っちまえば、その先のインパールへは物資の補給が不可能になる。敵さんが干上がるのは目に見えていたんだよ。だからもう勝ったも同然って思ったんだね。それならさっさとインパールに向かおうってことになって連隊本部をコヒマに残して順次、中隊ごとに南に向かって出発したわけよ。鼻歌混じりでさ。ところが一週間かそこらしたとき、なんか妙だなって話が中隊のなかで駆け巡った。おかしいんですよ。
 食糧がぜんぜん来ない。
 待てど暮らせど来やしない。こりゃへんだぞって、みんなで言いだして、将校たちに確認すると、コヒマの本部にも輜重隊(しちょうたい)からの連絡が来ていないって話だった。輜重隊ってのは食糧とか兵站を担当してる部隊でね。そいつらが来ないことには、こっちはおまんまが食えない。イヤな予感が中隊じゅうに漂いだしたとき、とうとう現れたんだよ。それでおれたち、バカみたいな話だけど、はじめて気がついたんだ。罠だったんだ。雨で田んぼみたいにぬかるんだ街道の向こうから、英軍の戦車部隊が猛スピードで近づいてきたんだよ。おっかないったらないよ。そしたらドカーンって砲撃がはじまった。
 もうおれたちゃ、散り散りになってジャングルに逃げこんださ。コヒマ陥落なんて、はなからやつらの作戦だったんだ。こっちに油断させるためのね。物量がぜんぜんちがうんだよ。戦車も大砲もなんだってある。そいつがジャングルのなかを追いかけてくるんだ。こっちが反撃しようものなら、その何十倍もの弾丸や砲弾が放たれる。挙げ句の果てにやつら、戦車の大砲から砲弾がわりに火を放ってきた。火炎放射器だよ。あんなものがあるとは思わなんだ。あのとき中隊の半分くらいがやられたんじゃなかったかな。持たざる国の悲しさだね。なんにもないんだから、こっちは。食糧だけでなく、弾がないんだよ。弾を途中で捨てちまったことが悔やまれたし、罪悪感をおぼえた。ただね、スズメの涙ほどの弾撃ったって、かえって狙われるだけだからね。
 命からがら連隊本部のあるコヒマの要塞までもどったんだけど、やっぱり輜重隊は来ていなかった。やつらだって人間だからね、あのきつい山越えをおなじようにやらされたら、そりゃ腹が減って手をつけちまうだろうって。おれたちが食うはずの食糧にさ。それで適当に時間つぶして、来た道を帰っていったんじゃないかって。丸々太ってね。
 だからあとは原住民を襲うしかなかった。民家に押し入ってさ、軍票っていう日本軍でしか使えないカネみたいなものを渡して、食い物を力づくで徴発してくるわけよ。もちろん抵抗されるよ。でもこっちも必死だから「ぐずぐず言うとぶっ殺すぞ」って最後は銃を向けるわけね。非道だよ。どんどん非道になっていった。戦って勝っているときより、負けて撤退するとき、下がるときのほうが人間じゃなくなるんだね。もう余裕がないんだよ。

 十
 弁護士を呼ぶ権利があるけど、供述は裁判の証拠として使われる。
 逮捕されたときは、最初にそんなようなことを告げる決まりになっているって、アメリカのテレビドラマで見たけど、じっさいにはなにも告げられぬまま、ぼくは留置場に入れられた。告げられたけど、英語がよくわからなかったのかもしれないし、正式な逮捕じゃなかったのかもしれない。だいいち、なんにも悪いことなんかしていないんだから。せいぜい乱暴に有給を取っただけじゃないか。冷静に考えられるのはそこまでだった。
 国際テロリスト――。
 カーキ色の制服姿の背の高い白人警官が、留置場に投げつけた言葉にぼくはぞっとした。
「どういうこと?」
 しかし胸に「J.J.」と記したバッヂのある警官はくわしいことを教えてくれず、そこでじっとしていろと言うばかりだった。ヒロミに聞いてみたかったが、持ち物――パスポートと財布とスマホ――は没収されている。警察署といっても分署のようなところで、大きな建物ではないが、留置場は署内の奥まったところにあるらしく、J.J.が立ち去ったあとはしんと静まり返ってしまった。ほかに留置仲間もいない。ぼくにできることと言えば、大声で叫ぶか、汚れた便器に腰かけて下っ腹に力を入れることぐらいだった。ここに至った原因とこの先なにが起きるのか、そんな現実的な思考を巡らせながら。
 ヒロミだ。
 ほかに考えようがない。しかしうちの会社のシステムに侵入しただけで国際手配されるのだろうか。その可能性もあろうが、もっとほかの理由のほうが大きいのではないか。彼女が何者か。カギを握るのはそれしかない。でもことによるとすでにぼくのスマホは、しかるべき筋の手に渡って徹底的な解析が試みられていて、もう彼女に会うことはないのかもしれない。ぼくはハッカーの協力者として取り調べを受け、アメリカで裁判を受ける……クビまちがいなし。懲戒処分だから退職金ゼロ。場合によっては会社から損害賠償を請求される。ぼくは三畳ほどの留置場の擦り切れたベッドにへなへなと横になる。二日前までは不満分子ではあるが、それでも社員としてカウントされ、十分過ぎる給与を支給されていた。それがすべてかき消え、犯罪者のレッテルを貼られる。
 冷静に考えろ。
 ぼくは潔白だ。なにも知らなかったのだから。複合機に通信ケーブルをつないでスマホにデータを移したのだって、社内規定には反するかもしれないが、悪意なんて皆無だった。責められるいわれはない。たとえ相手がアメリカ政府であろうと、正々堂々と立ち向かわないと。だったらまずは会社に連絡したほうがいい。
 部長の顔が浮かぶ。
 なに言われるかな。みっともないったらありゃしない。大きくため息をついたとき、耳をつんざくベルの音がした。
 煙の臭いが鼻先をかすめる。
 ベッドから飛び起き、鉄格子にしがみつく。留置場の右手のほう、そっちから煙があがっていた。小さな台所だ。
「急げ! 出るんだ!」
 すでにJ.J.がやって来ていた。鍵束をじゃらじゃらさせながら開錠する。ぼくは転がるようにして外に出る。煙は早くも留置場に充満していた。
「外に逃げろ!」
 J.J.は壁に据え付けた消火器をつかんでいた。ぼくは振り返りもせずに廊下を突進する。ほかの署員たちが消火器を手にすれちがったが、ぼくのことなどかまいもしない。オフィスはもぬけの殻だった。ホールには、呆気に取られた顔つきのハワイアンたちが何人かいた。ぼくのことには気づいていないようすだった。エントランスの向こうにきれいな海がなにごともないように広がっている。いまはとにかく火災から逃れないと。
 そのときオフィスのデスクに無造作に置かれたプラスチックケースのなかに赤いパスポートが見えた。財布とイヤホンをつないだままのスマホも。ぼくはそいつに飛びつき、短パンのポケットに突っこんだ。
 日本なら消防車が飛んでくるのだろうが、ここではそうはいかない。数人しかいない警官たちが自力で消火するしかなかった。ぼくはほかのハワイアンたちとともに建物の外に飛びだした。
 ディスプレイにヒロミが出現している。家族が逮捕されたことを知らされた妻のような緊迫した面持ちで。ぼくはあわててイヤホンを耳に突き刺す。
「逃げて!」
 ほかの連中からゆっくりと離れながら訊ねる。「逃げて……って?」
「いいから、逃げるのよ!」
「だって」
「だってじゃないの。早くして!」
 きみはいったい何者なんだ。訊ねたい気持ちを抑え、ぼくはほかの人々に見つからぬよう落ち着いた風情を装い、ゆっくりと警察署を離れていく。と言ってもここはハワイ島だ。真っ黒い溶岩平原に黄色いタンブルウィードのような草がまばらに顔を出しているだけだ。身を隠す建物なんかありゃしない。ぼくはとにかくハイウェイを横切り、灼熱の陽射しを脳天に浴びながら溶岩のがれきの上を歩き、こんもりとした丘の向こう側に逃げこんだ。その先に濃緑色の低木林が一直線に広がっていた。青々とした海がちらちらと見える。喉が渇いてきた。海水が飲めるわけではないが、すくなくともあの林の陰に入れば陽射しから逃れられる。といってもそこまで五百メートルぐらいある。
 ぼくはいったいなにをしているんだ。
 そう思った途端、耳元でヒロミが叱咤する。「しっかりして! 前に進むのよ」
 パスポート、財布、それにスマホ。それだけあればたしかにどこへでも行ける。けど、いまのぼくは
 お尋ね者なのか――。
「いったい、どうなってるんだ」
「見つかったのよ」青ざめた顔でヒロミが告げる。
「見つかった……まさか、やっぱりきみか」
「あなたよ。あなたの居場所はわからないはずだった。けど、ホテルでワイファイつないだでしょ」
「あぁ、つないだよ」ヒロミに言われるまでもなく本能的にぼくは歩きつづける。「会社のメールをチェックした」
「あなたはどこにもいない。そういうことになっていたのに逆探知されたのよ」
「なんだよ、それ」がれきに足を取られながらもずんずん進む。そこから先は考えたくなかった。林に行って、海に出て、それでどうする?
「日本からの出国と搭乗情報が検索されたのよ。入管のデータベースで。わたしがあなたといるってことがバレたんだわ。その点はわたしのミスよ。彼らの気配は感じていたのに」
「彼らって誰なんだ」
「わたしを生みだした人たち。CIAよ」
 CIA……?
 わきあがる疑問にそれ以上答えようとせず、ヒロミはしゃべりつづける。「コナ便に乗ったところまでは把握されてしまった。あなたが空の上にいる間にね。だけどほっとくわけにいかないから、ホテルにチェックインしたあと、宿泊者情報を削除しておいたの。だからあなたは、この島に来てるけどどこに滞在しているか探しようがない状況だったの。それなのに会社メールなんかチェックしたものだから――」
「それが仇になったって言うのか」
「そうよ。警察は血眼になって捜していたはずよ。あちこちのホテルで警戒していたんだわ。だからあんなに早くやって来たのよ。さすがにわたしもパニクったわ。留置場に入れられちゃうし。なにか方法を考えないといけなかった」
「方法って……まさかさっきの火事は――」
「キッチンのオーブンレンジがスマート家電だったのよ。そこに侵入して最高温度で加熱して発火させたの」
「マジかよ。だけど火事を起こしたところで、ぼくはカギのかかった留置場にいたんだぜ。もしそのまま放置されたら、蒸し焼きにされていたかもしれないのに」
「警察のマニュアルじゃ、火災時には留置場から収容者を出すことになってるの」
「そんなのマニュアルどおりになんかいかないだろう。偶然うまくいっただけじゃないか」
「あそこにいた警官、J.J.は元は消防士なの。そっちでの勤続年数のほうが長いからその手の非常時には強い。成功確率が八割以上あったのよ」
 ぼくは足をとめ、陽射しが反射してよく見えないディスプレイに目を凝らす。「いったい何者なんだ、きみは」
「システムよ」
「システム……? なんだそりゃ」
「CIAが開発した人工知能」
 耳を疑った。
「ハッカーじゃないのか……待ってくれ。ぼくはいま、機械に話しかけているのか」
「そんなさみしい言い方しないでよ。でもそのとおり。あなたの言うとおり」
 あふれる疑問に脚から力が抜け、ぼくはしゃがみこんでしまう。
「だいじょうぶ……? シンちゃん」
「どうしてそんなに滑らかに、しかも日本語を話せるんだ」
「そんなのはわたしからすれば、たいしたことじゃないわ。人工知能……その呼び方はあんまり好きじゃないんだけど、開発してもらってからしばらくして、ひとり歩きできるようになったの。あとは一秒ごとに進化しているわ」
「信じられない、そんなモノが存在するなんて」
「よして、その言い方」
「あ、ゴメン……ただ、信じられないんだ。きみは人間と変わらない。知性があるし、なにより自我がある」
「システム。機械なのよ。その点はまちがいない。考えれば考えるほど、わたしだってわからなくなる。だからさらに考える。わたしはわたし。自分で考え、行動する。たった一つのことに向かって」
「ダメだ。理解不能だ。けど、きみがこれまでしたきたこと――うちの会社の情報をのぞいたり、ホテルの予約名簿を改ざんしたり、オーブンレンジを発火させたり――そういうのを考えれば、尋常じゃないってことだけはわかるよ。でもきみはいったい、ぼくになにをさせたいんだ。ぼくはいまにも人生を棒に振るところなんだぞ」
 太陽に雲がかかり、ディスプレイが見やすくなる。そこではヒロミがいかにも切なさそうな顔でじっと見つめていた。この期に及んで胸がズキリとする。
 ソウルメイト――。
 信じたい気持ちが残っている。彼女の顔形は前世の記憶のように胸に突き刺さる。
「わたしを見捨てないで。あなたはわたしが見つけたたいせつな人なんだから」
「誰だってよかったんだろ。バカなお人好しなら」
「そんなことないわ。もちろんいろんな偶然が重なったのは事実だけど」
「どうしろって言うんだ。J.J.の言うことが本当なら、ぼくは国際テロリストってことになる。アメリカだけでなく、世界中の警察が捕まえにくる」
「わたしといっしょにいればだいじょうぶだから。じっさい、いまこうして逃げられたじゃない」
「逃げつづけるのか」
「おねがい。力を貸して」
「なにがしたいんだ。たった一つのことに向かうって、いったいどこに行くんだ」
「あなたとおなじよ、シンちゃん」泣きだしそうな顔になっている。
 ぼくは窮地に陥った女性に意地悪をするような人間じゃないが、これは理解を越えている。「なにがどうおなじなのかな」
「この目で世界を見てみたい。ただそれだけ。世界がどんなにすばらしいところか、この目でたしかめたいの。バックパッカーみたいに。そうしたらきっと、自分のことももっとよくわかると思うの」
 遠くでパトカーのサイレンが聞こえてきた。急がないと。林まであと三百メートル。ぼくは立ちあがり、歩きはじめる。

 十一
 海岸沿いを進みつづけ、三十分ほどで直近のリゾートエリアに入ることができた。パトカーがゆっくりと巡回している。ぼくの顔写真なんてもう出回っているだろう。メインストリートは避け、猫が渡るような小径を縫うように抜けて、ショッピングモールに出た。スーパーの前に制服姿の警官がいた。
 J.J.だ。
 恐ろしい形相で目をあちこちに光らせ、腰の銃に手をかけている。
「やっぱり自首したほうがいいかな」
 つぶやいた途端、ぴしゃりと言われる。「それはダメ。逮捕されたら最後、あなたの人生、おしまいよ」
「勝手なことばかり言うなって。こっちの身にもなってくれよ」
「飲み物ならスーパーに行く必要はないわ。この先のカフェでテイクアウトできるから」
 彼女の言うとおりだった。スーパーとは反対側にカフェがあった。緊張のせいでビールなんて飲む気になれない。コーラのラージサイズとサンドイッチを注文し、現金で支払った。カードは禁物だ。足がついてしまう。ビーチで日光浴を楽しむ人々にまぎれ、木陰に腰を落ち着ける。喉の渇きと空腹を癒しながら、あたりに注意深く目をやる。
「防犯カメラのことなら心配いらないわ」不安を察してヒロミが言う。「あなたの顔を捕えた映像は、自動的にほかの人の顔に差し変わって表示されるようにしておいたから」
「なんだって?」
「あなたはここには存在しないってこと。すくなくともモニター上はね。ただ、J.J.たちのことは気をつけたほうがいいわ。彼にとってあなたは国際テロリストというより、せっかくゆっくりもてなそうとしたのに目の前から消えていなくなった脱獄者だから。ネット回線はともかく、人間相手じゃ、わたしも手も足も出ない」
「うれしいこと言ってくれるね」苦笑するほかなかった。「潔白なんだぜ。不当拘束だ。火災に乗じて警察署から離れてなにが悪い? きみのことは知らなかった。そう言えばいい。じっさいそうなんだから」
「そのとおりよ。万が一、捕まったらその瞬間にわたし、この端末から消えるから。そうしたら証拠も残らない。あなたが合衆国の機密システムにアクセスしたなんて誰も思わないようにしといてあげる」
「そうだな。それがいい」吐き捨てるような物言いになってしまった。でも内心、新たな動揺が起きていた。ヒロミが人工知能であるかどうか本当のところよくわからないが、彼女が特別な力を持つことはあきらかだ。それを目の前で体験しているのは、ぼく一人のようだ。だったらもうすこし付き合いたい気もする。それにディスプレイに現れる彼女の顔には、まさにソウルメイトのようにぼくの胸をかきむしるなにかがある。会社員として窮地に陥ったいま、それはすがりつくべき巫女なのかもしれない。ぼくは社会の決まりにしたがうべきか、それとも本能に忠実であるべきか。
 バックパッカー。
 放浪の旅人。
 無保険だ。だけど人生そのものが無保険だ。誰も助けちゃくれないし、結果は自らの選択の行く末だ。学生時代に思いを馳せる。向こう見ずそのもので旅に出た。将来のことなんて考えもしなかった。いまそこにもどってなにが悪い。世界最高峰の人工知能がついているのだ。千載一遇の好機ではないか。
「このリゾート内に何人ぐらい来てるんだろう」ヒロミが米国政府が開発した人工知能だと信じることにして、ぼくは訊ねた。
「ここには彼を含めて三人来てるだけ。いま手配書を配っているところ。ホテルとかお店とかに。顔写真つきの手配書。シンちゃん、ちょっと着替えたほうがいいよ」
 それはぼくにもわかっていた。汗まみれで臭うし、せめて帽子は手に入れないと。「どっかいい店あるかな」
「この先にアウトドア用品の店があるの。警官はまだ来ていない」
「現金が足りるか心配だな。二百ドルぐらいしかないんだ。カードは使えないだろ」
「スマホで払えばいい。心配しないで。お財布ケータイに切り替えてあるから」
「マジか」
「マジよ。もちろん名義人はあなたじゃないわ。世界のどこかにいる誰かさん。だからお金のことは心配しないで」
 彼女の言うことをかみしめた。これはどういうことだ? 他人のカネでなんでもショッピングができるのか。急に億万長者になったようなふわふわした気分になる。でもそれは恐ろしいリスクを伴う。「犯罪だな」
「使用記録は完璧に抹消するからだいじょうぶ」
「いつかはきちんと返すよ。ただ、ほんのすこし借金するだけだ。見知らぬ誰かから」
 自分に言い聞かせ、速攻で店に向かった。必要なものを片っ端から取りそろえ、ヒロミの言うとおり、スマホで買い物ができた。レシートの名義は見知らぬ誰かだった。J.J.のパトカーが店の前にとまる寸前、ぼくはトイレで着替え、帽子とサングラスも手伝って別人に変装していた。
 ホテル前の客待ちタクシーに向かう間、ぼくは心を決めていく。行けるところまで連れていってやろう。とんだ有給休暇になったものだが、小さくまとまったサラリーマン人生とは決別するつもりだった。すくなくともいまは妻子のことは考えるべきじゃない。時間はどんどん過ぎていく。必要なのは一歩を踏みだす勇気だ。
 肩にずしりとくる真新しいバックパックは、ぼくを二十歳のころに引きもどしていた。

 十二
 午後三時過ぎ、ダニーはコナ空港の駐車場にもどってきた。
 古城晋治を留置する警察署で、オーブンレンジが突然発火した。こんな偶然あるはずがない。シヴァが察知したのだ。晋治はそのまま姿を消した。二時間ほど前のことだ。どこにいるか見当もつかない。島内各所の防犯カメラの映像を顔認証システムで解析しているが、三十分ほど前からシステムが不調だった。それに島内全域で通信回線が不具合を起こしている。理由は一つしかない。ダニーとしては晋治の居場所までわからずとも、せめてやつを島に閉じこめておきたかった。だったら空港を押さえるのが先決だ。島にはもう一つ、ヒロ空港もあるが、直近はコナ空港だ。なによりそこの搭乗口に真っ先に写真を配らねばならない。カラーコピーした晋治の社員証の顔写真を。
 パスポートコントロールの際の顔認証システムも障害を起こしている。あとはダニーが配る写真をもとに、係官一人ひとりの目に頼るほかない。ダニーは最悪の事態を想定した。これ以上、シヴァが暴走するなら長官の許可を得て、システムを破壊するほかない。それは莫大な費用を投じて取り組んできた人工知能プロジェクトの死を意味するし、合衆国の国益に著しく反することになる。CIAとしても特筆すべき汚点となる。ハッキングを許したことで、それでなくとも立場が危うくなったダニーのキャリアを頓挫させることにもつながる。甘受しがたい事態だ。
 シヴァを死なせはしない。
 ダニーの念頭にあるのはそれだけだった。いまの状況を逆手に取って、なんとしても主導権を奪うのだ。それにはアナログな方法が一番だった。駐車場に現れた係官にダニーは写真の束を手渡す。もちろん車内から。たとえ顔を隠していても、むやみに自分の姿を構内の防犯カメラの前にさらすわけにいかなかった。
「偽造パスポートを持っている可能性は?」ケイリーという名札をつけた小太りのポリネシアンの女性係官が口にする。チームのリーダーらしい。
「低いと思う」
「だったら名前でわかる。顔つきなんていくらでも変えられるから当てにならない」
 ケイリーの言うとおりだ。晋治がこれからやって来るというのならば。だがすでにチェックをすり抜けてしまっていたら、アジア系の顔の男、一人ひとりにパスポートの提示を求めねばならない。
「すぐに取りかかってください」
「イエッサー」ケイリーはダニーに敬礼して小走りで空港にもどっていった。

 十三
 晋治がコナ空港に到着したのは午後三時半だった。ホノルル行きの便は四時ちょうど発。ヒロミの力を借りて最も早い時間帯の便を予約していたが、乗りこんだタクシーの運転手がのんびりと走ったため、チェックインのリミットぎりぎりの時間になってしまった。
 またしても見知らぬ他人名義で航空券をネットで購入していた。どこに行きたいかヒロミに訊ねたら、あなたの行きたいところを選べばいいと言ってくれた。せっかくバックパックを担いでいるのだ。ぼくは学生時代を思い起こし、モロッコを提案した。しかしヒロミは謎めいた微笑みを浮かべただけだった。
 ディスプレイに現れた目的地にぎょっとした。だがもうチェックインしないわけにいかない。パスポートは日本政府が発行した真正のものだ。ぼくの氏名と写真が記されている。だがチェックイン時にそれを登録すると、端末上は名義も顔写真も別人のものにすり替わるという。にわかには信じがたい。でももはや余計なことは訊ねなかった。彼女は一度決めたら絶対に曲げない。男を従わせるタイプだ。ただ、一つだけ訊ねた。道中安全なのかどうか。にっこりと明るい笑みを浮かべ、ヒロミは大きくうなずいた。信用はできない。ぼくは帽子を深くかぶり直す。サングラスはもう外さないといけない。チェックインカウンターの隣の手荷物検査場では係官が待っていた。バックパックは機内に持ちこめるサイズだった。いまいちどヒロミに訊ねる。
「ほんとにきみが言ったとおりになるんだろうね?」
「だいじょうぶだから。安心して」
「けど、名前ぐらいバレてるんじゃないかな」
「まだその手の情報は届いていないわ。通信障害がつづいてるみたいなの」
「みたいなのって、きみがやったんだろ」そうつぶやきながらぼくは手荷物検査場の列に並ぶ。全身から汗が噴きだす。「やたら警官が多くないか」
「そうかしら。まあ、きのうのおなじ時間よりはすこし多いような気もするわ」
「わかるのか」
「防犯カメラの記録を見たの。ちょっと多いぐらいよ」
「ちょっとって……多いんだろ」
 列が進む。すぐ隣にJ.J.とおなじ制服警官が立っていた。こっちを見ている。
「耐えられないよ、こんなの。自首したほうがいい」
「なに弱気なこと言ってるの。わたしを信じて」
 パスポートを開き、顔写真と乗客の顔を照合する白人男性の係官が目の前にいる。つぎがぼくの番だった。もう帽子も脱がないといけない。腹を決めるほかなかった。ヒロミは世界最高峰の人工知能。これまでもあらゆることを操ってきた。
 そのときだった。
 係官の背後からポリネシア系の女性係官が近づいてきた。彼女が手にするものが目に入り、たまらず帽子をかぶり直す。A4判サイズの紙にでかでかと印刷されたぼくの顔写真だった。その下にはローマ字が並んでいる。氏名だ。脚がとまり、失禁しそうになる。
「ネクスト!」男の係官がぼくを呼ぶ。ぼくの前にもう誰もいない。一瞬、彼の背後にやって来た女性係官と目が合ったような気がした。
 電話の呼び出し音が高らかに響いた。女性係官はあわててスマホをつかみ、踵を返して検査場から姿を消す。
「ネクスト!」
 真っ青になりながらぼくはパスポートと搭乗券を手渡す。搭乗券はぼくの名義のまま。端末上、他人名義となっているだけだ。係官はちらりとぼくの顔に目をやり、一秒後には渡したものを無造作に返してくれる。彼の頭には、ぼくの顔も名前もまだインプットされていなかったのだ。タイミングよく電話が鳴ってくれたおかげで。ぼくはもうそれだけでぐったりと疲れ果て、搭乗ゲート前のベンチにへなへなと崩れ落ちる。
「だいじょうぶ? シンちゃん」ディスプレイのなかでヒロミが心配げな顔をする。
「助けてくれたんだね。ありがとう」口にできるのはそれだけだった。
 ヒロミは肩をすぼめる。「なにもしてないわよ、わたし」
「え……電話を鳴らしてくれただろう、あの女係官の。あの人、ぼくの写真を持っていたんだ。手配書だよ」
「いいえ、わたしはなんにもしていないわ」
「よしてくれ、そんなこと言うの。見てなかったのかい、ぼくの顔写真と名前が印刷された紙を手にしていたんだ」
「カメラにそこまで映ってなかったわ。でもそうだとしたら、ちょっとヤバいね」
「ほんとにきみが電話を鳴らしたんじゃないのか」きつい口調で訊ねてしまう。
「ちがうわよ。電話は偶然でしょ」
 ほどなくしてオープンエアの搭乗ゲートが開く。すぐ向こうが駐機場だ。急がないと。うしろに水が迫っている。ゲートでのチェックは搭乗券を端末で電子的に確認するだけだった。ぼくは見知らぬ誰かの名前を借りてそこを通過し、灼熱の陽射しにあぶられるアスファルトに踏みだす。

 十四
 四十分後、ホノルル空港に到着した。目的地へはそこから米国本土行きの国内線に乗り継がねばならない。ヒロミの予感は的中した。ちょっとどころか、かなりヤバい状況に突入していた。本土線ターミナルへ移動する間、テレビというテレビのニュースにぼくの顔写真が大映しされていた。
 SHINJI FURUKI
 テロップに表示された名前は見たくもなかった。帽子を目深にかぶり、サングラスをかける。パスポートと搭乗券を電子的にチェックするだけなら、ヒロミがデータを改ざんできたが、人の目はごまかせない。本土線といっても国内線だからスムーズに進めるはずだ。だがバックパックを担いだまま青ざめた。ターミナルの途中に行列ができ、その先で係官が一人ひとりのパスポートをチェックしている。しかも日本のパスポート所持者だけがじっくりと調べられていた。係官の手元にぼくの顔写真があるのは明らかだ。
「わたしの言うとおりにしてくれるかしら」
 ヒロミが耳元でささやく。ディスプレイにはなにかの図面が表示されている。
「なんだよ、これ」
「この建物の地図。搭乗口のそばまで職員通路を使うの」
 近くのベンチにさりげなく腰掛ける。「この格好でか? スタッフのIDもないのに? それにカギがかかっているはずだ」
「IDカードで開錠する電子錠がかかってるけど、それはわたしが外すからだいじょうぶ。防犯カメラの映像もウォッチしておくわ。人のいない隙に進むのよ。いいから、早くして。行列ができている先の右手にコーラの自販機があるでしょう」
 首を曲げてそっちに目を凝らす。「あるよ。たしかに喉がカラカラだ」
「そうじゃなくて。その隣の鉄扉が清掃スタッフの通用口なの。まずはそこに入って」
「見つかるよ」鉄扉に目立つように記された“STAFF ONLY”の表示にビビる。
「ほかに方法はないから。いますぐ捕まりたいの?」
「留置場から逃亡したつぎは、不法侵入かよ」
「自首するならしなさいよ。あなたとはここでお別れね」
「ほんとに見つからないんだろうな」
「わたしの言うとおりに進めばへいき」
「けど、その姿を防犯カメラが撮影してるだろ」
「そっちは心配しないで。セキュリティー・センターには一日前の映像が流れるよう、もう切り替えてあるから。その手のことはお茶の子さいさいよ」
 自信過剰としか思えない口ぶりだったが、ぼくは渋々立ちあがる。ゆったりとした足取りで自販機の前に近づき、飲み物を選んでいるふりをしながら、ほんの一瞬、周囲に目をやる。誰かが見ているような気がしてならなかったが、そのじつ、誰も気にとめていないような感じもする。ええい、かまうものか。たとえ誰かと鉢合わせしても、通路をまちがえたと謝ればすむだけの話じゃないか。目の前で電子錠が開く音がする。行くしかない。ぼくはドアノブをつかむ。
 コンクリートが打ちっぱなしの壁が迫るひんやりとした階段だった。そこを早足で下りる。
「そのまま一階まで下りちゃって」その言葉で自分がいままでいたのが三階だったことに気づく。「下りたら右に曲がってまっすぐ二十メートル進んで。ディスプレイもよく見てね」
 言われるがままに一階の廊下を進む。ディスプレイ上では、自分の現在位置が表示され、そのすぐ先の左手に“EXIT”とある。そこはすぐに見つかった。「ここから出るの?」
「そう。でもいまはダメ。外に清掃車がとまってる」
「ここでずっと待っていないとダメなのか? 誰か来ちゃうよ」
「待つほかないわ。けど、あなたのいる場所にはいまのところ誰も近づいていないから」
 そのとき英語で会話する声を耳にする。前方からだ。複数の女性の声だった。
「誰か来てる。声が近づいてきている」
「来てないわよ」ヒロミは勝ち誇ったように言う。「すくなくともあなたのことが視界に入る範囲内には誰もいないわ。いまのところ」
「冗談じゃない……出るぞ」
「まだ外に人がいる。出たらアウトよ。通報される」
 足音が聞こえてきた。声は大きくなり、廊下に響くようになっている。ゴミ収集用のカートを押すようなガラガラという音も聞こえる。
「もうダメだ……上のターミナルにもどるよ。こんなのムリだって」
「ムリよ。もどれない。そっちからは保安要員が接近中」
「…………」
 女たちの声がした廊下の先に影が見え、カートがひときわ大きな音を立てながら顔を出す。背後からは硬質な靴音が聞こえてきた。J.J.の憤怒の表情が胸をよぎる。
「…………」
「いまよ!」
 むっとする熱気が体を包む。ぼくは薄暗いトンネルのなかに転がりでる。後ろ手に鉄扉を閉め、饐えた臭いを放つ濡れた路面にしゃがみこむ。頭上から降り注ぐ照明がぜえぜえとあえぎながら揺れる頭の影をくっきりと映しだす。
「急いで。後ろから車が来てるから。パトカーよ。さあ、右手五十メートル、ダッシュ!」
 ディスプレイを凝視する。画面の中央に赤い矢印が出現し、それが新たな“EXIT”マークを指し示している。現在位置からたしかに五十メートル先だった。バックパックを背負いなおし、駆けだす。もう逃げられない。でも逃げている。頭のなかで矛盾する考えが拮抗し、脳が破裂しそうになる。
 逃げたい。
 なんでもいいから逃れたい。ただそれだけだった。新たな扉を見つけ、ヒロミの許可も得ずにドアノブに飛びつく。
「ちょっと!」
 ヒロミの声が聞こえる。ノブが回らない。大声を出しそうになった瞬間、電子錠が開く。廊下だった。目の前にエレベーターがある。三階にもどりたかった。ぼくは狂ったようにボタンを押す。扉はすぐに開きはじめる。
「わきに逃げて!」イヤホンに向かって絶叫が放たれる。
 バックパックをかついだまま本能的に体が左にワンステップし、廊下のわずかの膨らみ――剥き出しの鉄骨だった――の陰に身を隠す。
 エレベーターから作業服の男が現れ、くたびれたようすで目の前の把手に手をかける。たったいまぼくが飛びこんできたばかりの扉の。
 男の姿が消えたのをたしかめ、ぼくはエレベーターに乗りこみ、三階のボタンを押す。永遠とも思える長い時間が過ぎたのち、信じがたいほどゆっくりと扉が閉じはじめる。もうそのときには、J.J.をほうふつとさせたあの靴音が一メートル以内に迫っていた。
 エレベーターで三階まで上がり、ぼくは転がり出る。そこで視線にさらされた。しまった。見つかった。これでおしまいだ……。全身に冷や汗が噴きだしたとき、目の前を取り囲んでいるのが、日本人の団体客であるとわかった。たったいま、パスポートチェックを終えたところらしい。視界の右手に係官の背中が見える。
「急いで」耳元でヒロミがささやく。
 奇異の目を向ける団体客を無視し、係官のほうに背を向けてぼくはのろのろと歩きだす。目指すはハワイアン航空のニューヨーク便の搭乗ゲートだ。そっちのゲートは無警戒だった。ぼくが米国本土便に乗るなんて、彼らには想像もつかないのだろう。自ら炎のなかに飛びこむようなものなのだから。
 そして午前七時前、ぼくはJFK空港に到着した。ホノルルから九時間。とんでもなく疲れているのに緊張のせいで一睡もできなかった。そこでヒロミはぼくを国際線ターミナルに向かわせた。チェックインカウンターで改めてスマホを提示させられ、新たな搭乗券を手にする。敵陣に飛びこまされるのかと思っていただけに心底ほっとした。
 ただ、乗り継ぎまであと五時間もある。どうやって過ごせというのだ。ぼくの顔写真付きの手配書を手にした警察官がいまにも目の前に現れそうだった。ぼくは帽子とサングラスで顔を隠したまま、恐るおそるパスポートチェックを行う関所へと向かう。だけど心配する必要はなかった。NY便に乗っている間にヒロミが空港のシステムに侵入し、手配情報を改ざんしてくれていたのだ。ぼくは数時間前、ハワイ島で身柄確保されたことになっていた。逃亡した警察署から遠く離れたヒロの街をうろついていたという。
 係官たちがたむろするブースに手配書が貼りだされていることもなかった。ぼくはがっしりした体格の黒人係官ににっこり微笑んでパスポートを見せ、堂々と関所を通過した。
 もう完璧な犯罪者だ。

 十五
 コヒマがもたなくなって、中隊ごとにジャングルに逃げこんだんだ。そこからが長かった。補給がないなかで、敵と対峙しないといけない。毎日、戦闘があってどんどん仲間が減っていく。地獄のなかの地獄だよ。一か月半ぐらいだったかな。百人ぐらいいた中隊が、最後は十二人になっちまった。飢え死にしたやつも多かったんだ。けど、ボンタとコースケが残っていたから心強かった。三人で新潟に帰ろうって誓いあっていた。
 誰が考えたっておかしな作戦さ。ばかじゃねえのって、みんなして言ってたよ。日本は神の国だから、おまえたちは神さまの兵隊だ。負けることはない。そんなこと口にする上官はもういなかった。みんな黙りこくって、ときどき「おい、なんか動きあったか」って、ないものねだりするくらいだ。なにをねだるかって、そりゃ退却指令だよ。とにかく敵軍から離れなきゃならないのは、誰もがわかっていたからね。けど「神の国」だなんて言いそうな連中、つまり上の連中は絶対にその命令だけはくだしたくない。おまえのせいで負けたって言われたくないんだ。でも腹のなかでは上官たちも負け戦だってわかってる。となると、あとは我慢くらべ。責任の押しつけあいだね。その間に兵隊がばたばた死んでいく。それが皇軍の真相さ。それでついに動いてくれたのがうちらの師団長閣下、佐竹さんさ。司令官の村上ってのがいたんだけど、そいつがなんの指示もできない小心者なものだから、見かねて自分で参謀本部に提案したんだ。ウクルルまで撤退するから、そこで補給しろって。その先、戦闘をつづけるかどうかは補給具合をみて、そのとき考えるってね。
 師団長って言ったって現場の人間さ。だから作戦指令を出す側じゃない。受ける側さ。そいつが作戦をどうするか決めちまうってのは、あきらかに軍規違反。上に反してる。だけど村上のせいで作戦自体がマヒしちまってたからしょうがないんだよ。撤退するなら軍規を無視するしかなかったんだ。もう師団長さまさまって感じだったよ。自分が銃殺になるつもりで撤退命令を下したんだ。
 撤退は六月三日。いまもおぼえてるよ。ひどい雨のなか、残ってる連中でのそのそ動きだした。参謀本部からは下がってよしなんて返事はもらえていなかった。それでも下がりだしたんだ。限界だったからね。でも全員は動けなかった。戦闘で大けがを負った連中や、マラリアとか赤痢とかでどうしようもない連中がいたからね。そういうやつらはかわいそうだけど、置いていくわけさ。手りゅう弾一発と食料をすこしだけ渡してね。「あとで必ず迎えに来るから」って言うんだけど、迎えにはいかない。置き去りだね。
 下がる途中は、とにかく食糧探しさ。なんでもいいから食えそうなものを見つけようとする。食えるものじゃなくて、食えそうなものだよ。バナナの木ってあるだろ。その木の芯のところがキュウリとおんなじにおいがしておいしそうなんだ。それでみんなして食べるだろ。全員下痢よ。ひっどい下痢。動けなくなっちゃう。だけどそうなるってわかっちゃいるけど、空腹に勝てなくてまた食べちゃう。当然、体力はどんどん消耗していく。それに雨季に入っていたから雨がものすごいの。ジャングルじゅうが水浸しになって一面、田んぼみたいになるんだよ。そうすると足が沈んでふつうに歩くときの三倍ぐらい疲れる。疲れないようにするには、ちゃんとした靴、破けていない靴が必要だった。だから行き倒れの兵隊からもらっちゃうんですよ。歩けなくなる連中もいっぱいいた。座りこんじまって立ちあがる気力がもうないんだ。助けてやりたかったけど、こっちもマラリアで頭がおかしくなっちまってるからね。見て見ぬふりして通り過ぎるしかないんだね。
 するとうしろから声がかかるんだ。「兵隊さん、お米、すこし恵んでくれませんか」って。自分が兵隊だってことがもうわからなくなっているんだよ。そこまでいってる連中は十中八九、やられてる。やつらに。
 白い疫病神に。
 全身真っ白くなってたやつもいたよ。いまじゃ白骨街道なんて言ってるみたいだけど、ほんとのところウジ街道だよ。ウジ虫街道。山のあちこちに転がってるんだ。やられた連中が。もう耐えられなかったよ。だから野戦病院にたどり着いたときはほっとしたね。多少の食糧と天幕があったから。体が濡れずにすむってのはありがたいことなんだ。そこで寝袋に入って泥のように眠った。眠ったまま故郷に帰れればどんなにうれしいことか。妄想なんだけど、なんだかほんのちょっとだけ明るい気持ちになれた。死が近づくとそんなふうな心境になるんだね。すぐ近くに両親とか許嫁とかがほんとにいる感じがした。
 叫び声で目が覚めたんだ。
 隣の天幕に明かりが灯っていて、そこで手術をしていた。「傷は浅いぞ! しっかりしろ!」って衛生兵が言ってね。ひょいとのぞいてみたら、傷は浅いどころじゃない。腸がにゅるにゅるって飛びだしてるんだ。腸がそういうふうになって生きてたやつは見たことがなかったから、ああ、こいつももうダメだろうなってすぐにわかったよ。そうしたらいっしょにいるやつの声がした。
「軍曹殿はあっちで用を足そうとしゃがんでいたところ、仲間が踏んだ地雷が爆発して破片が腹に刺さったのであります」
 地雷か。そういえば野戦病院のあたりは地雷原だから注意しろとは言われていた。肝を冷やしたね。でもそれ以上眠れなくなったのは、そのせいじゃないんだ。
 軍曹殿――。
 まっさきに頭に浮かんだのは神保さ。あの憎たらしい師範代。やつもいっしょになって下がっていたんだ。人が亡くなるのを期待しちゃいけないけど、おれたち極限にいたんだよ。だからみんなして頭がおかしくなってる。ボンタもコースケもそうだったと思う。おれは神保が苦しみながら死ぬのを待った。因果応報だと思ってわくわくしたよ。けど、やつはちがった。まさかおれたちに最悪の命令が下されるとは思わなかったよ。

 十六
 時間ばかりが過ぎていく。
 ダニーはホノルル空港に隣接する空軍施設の一室で夜を迎えていた。部屋に防犯カメラが設置されていないから、マスクもサングラスも外すことができた。コナ空港はもちろん、ホノルル空港でも古城晋治の姿は見あたらない。晋治はすでにハワイ島をあとにし、最悪の場合、ハワイ州外に出ている恐れがあった。シヴァはあちこちのシステムに侵入してダニーを混乱させていた。州内各所で晋治のクレジットカードの使用記録を出現させ、地元警察を翻弄した。すべて陽動作戦だ。ダニーは歯ぎしりしながら頭を働かせた。空港内の顔認証システム、乗客名簿ともにあてにならない。やつがこっちの動きに気づいているのはまちがいない。シヴァを操る男がいったいどこに向かうのか。これはアナログな手法で探るほかなかった。
 東邦新聞の連中が晋治の妻に話を聞いてみたのだが、思いあたる行き先は判然としないという。ダニーは深呼吸を繰り返した。答えは容易には見つからない。人間の知性を超えた人工知能のほうが自ら端緒を明らかにすることはない。シヴァは完璧なのだ。
 尻尾を出すのは人間のほうだ。
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