十七~二十一

文字数 21,476文字

 十七
 ボーイング社の機体がインディラ・ガンディー国際空港に着陸したのは正午だった。
 JFKではとにかく顔を見られまいと搭乗ゲートから離れたベンチに腰掛け、バックパックにしがみついて眠っているふりをつづけた。途中、不審に思われてはならないと何度か顔をあげたり、トイレに行ったりしたが、売店でサンドイッチを買うようなまねはしなかった。たとえ記録上、すでに逮捕されていたとしても、ぼくの顔写真を覚えている警備員や警察官はいるだろう。彼らの注意をひくようなまねは避けたかった。
 機内に乗りこんでようやく人心地がつき、猛烈な空腹感に襲われた。エア・インディアのエコノミークラスの食事は予想通り、カレーだった。しかもベジタリアンメニューを強要された。要は野菜のカレー煮込みだ。味は悪くないが、どうにも腹持ちが悪い。すぐに空腹がぶり返してきた。取り急ぎ入国したら空港でなにか腹ごしらえをしよう。ぼくはバックパックを担いで機外に転がり出て、広々としたコンコースを進む。インドははじめてだ。ガイドブックだってない。バックパッカーの聖地としていまでもその名を馳せているから、ヒロミもそこをぼくに体験させ、ついでに自分も異世界を旅しようというのだろうか。
 入国審査を兼ねるビザカウンターではもちろん本名で申請した。登録した途端、他人名義に変わるとヒロミは言うが、それが本当かどうか確かめようがない。たんに係官が見過ごしているだけなのかもしれない。早足でビザカウンターを後にし、到着ロビーにようやく出ることができた。そこで薄ら寒さにぶるっと震える。まだターミナル内だというのに屋外にいるようだった。ぼくはTシャツに薄手のパーカを羽織り、下はもっと薄いアウトドアパンツだった。ほかに着るものは持ってきていない。デリーの緯度を思い浮かべる。インド半島の先端のほうというより、ネパールに近い。ヒマラヤのほうだ。そこの一月だ。ハワイ島より一気に二十度近く下がっている。東京より寒いんじゃないか。
 たまらず両替所に向かい、持ち合わせのドルをルピーに替え、一店だけある土産物屋で腰巻に使うような幅広の木綿のストールを買った。五百ルピー、七百五十円だ。どぎついパープルカラーだったが、それでも一番地味な感じがした。それを首から肩、背中にかけて巻きつける。多少寒さが緩和されたが、急場しのぎでしかない。なにか温かいものを体に流しこまないと。ロビーの端にあるカフェに飛びこんだ。かろうじて暖房がきいている。愛想のいい若い店員にうながされるままにホット・チャイとドーナツのようなものを注文し、一番あったかそうなテーブルにつく。
 料理をかきこみ、甘ったるいチャイで体を温めると、ようやく落ち着いた。するとずっと昔に忘れてきた解放感のようなものが体の内側からこみあげてきた。ヒロミによれば、電子記録上、世界中どこを探してもぼくという人間は存在しないらしい。これまですり抜けてきたパスポートコントロールの経験からその信憑性が高まっている。だからこの先もぼくを見つけるのは不可能に近いだろう。空港を出たいま、この歳でぼくはバックパックを背負い、誰でもない誰かとして未知の旅の一歩を踏みだそうとしている。
 バックパッカーにもどったのだ。
 善良なサラリーマンとして会社にしがみつき、良き家庭人として妻子を懸命に養ってきた日々が、どこか遠くのことのように思えてきた。責任ってなんだろう。後生大事にそれに従って、失敗しないように生きてきて、あらゆる物事に保険をかけて。
 時間にはかぎりがあるの――。
 人生最大の真理に気づかなかった。妻子の顔が浮かぶ。ぼくにとっては帰るべき家だが、もうすこし旅に浸ったら、真の意味の旅を経験したら、なにかが変わるかもしれない。だけどその旅先がよりによって北インドだとは。苦笑しながらスマホを開き、ひとくさり文句をたれる。「どうして北インドに来るって教えてくれなかったんだ。ちゃんとした服を買ったのに」
「教えたら抵抗したでしょ、あなた。それに服ならこっちで買ったほうが安いわよ」
 たしかに抵抗しただろう。インド料理は好物だし、お気に入りの店が麹町や東池袋にある。だけどじっさいに現地に足を運ぶとなると、優先順位は低く、枠外の存在だった。それにぼくがモロッコに行ったのは、エキゾチシズムだけでなく、アフリカ=熱砂という漠たるイメージがあったからだ。砂漠のヤシの木の下で灼熱の陽射しを避けながら、古老の言葉に耳を傾ける――。だから暑くないとだめなのだ。とりわけ学生時代ならいざ知らず、身も心も冷え冷えとした中年男にとっては。
「せめて南インドにしてくれればよかったのに。寒いのは苦手なんだ。バックパッカーはそっちにもいっぱいいるだろうに」
「チェンナイ便もハイデラバード便も接続が悪かったのよ。半日以上待たないといけなかった。指名手配犯にとっては致命的でしょ、空港内に留め置かれるのは」
「これからどこに行くにしろ、まずはダウンジャケットと裏地を起毛した暖パンを手に入れる。それが先決だ」
「メトロに乗って。ニューデリーに行くのよ」
「行くあてはあるんだろうね」
「まあね。だけどいまはなにより、人間のなかに紛れることよ。十三億人の混沌のなかにね。そこに入ってしまえば、シンちゃん、あなたは自由よ」
「昔のヒッピーみたいだな。まさに放浪の旅か」
「覚悟はある?」
 ぼくはメトロに向かいながら考える。「それはきみがどこに行きたいかにもよるな。人工知能であるきみがどういう存在なのか知るうえで、その場所にはぜひ行ってみたい気がする。まさか一か月も放浪の旅をした果てに到着する場所とかじゃないんだろう」
「それなら飛行機を使うわ」
「飛行機はもう勘弁だな。パスポートコントロールはもうごめんだ」
「ニューデリーじゃないわよ」
「ちがうのか。じゃあ、どうしてニューデリーに?」
「あなたが服を買いたいって言うから」
 メトロは東京の地下鉄と変わらなかった。インドに対して抱いていたイメージはことごとく崩れさった。物乞いもいなければ、カーストも感じさせない。乗客の身なりは総じてきれいだし、ビジネスマン風の男たちは誰もがエグゼクティブに見えた。サリーをまとった女もいるが、革ジャンにパンツ姿の颯爽とした若い女性の姿には、急速に発展を遂げるこの国の勢いを感じた。同時に落ち着かない気分にもさせられる。どこもかしこも防犯カメラの目が光っていたのだ。声を潜めて訊ねる。「ここで撮られてる映像なんだけど――」
「心配無用よ。あなたの姿はインドの誰かにすり替わっているから」
「インドはもうどこもこんな感じなのかな」
「ハイテク社会よ。場所によっては日本以上ね」
「ジョージ・ハリソンが目指した頃とは大違いだね。大麻の煙のなかでシタールが鳴り渡る世界はもうないのか」
「ステレオタイプなイメージしかないのね。しかも半世紀以上前の話でしょう」
「旅は異世界を体験するものだろう」
「ここだって十分、異世界だと思うけど」
「カルチャーショックというほどでもないな」
「心配しないで。まだこれからだから」
 ヒロミにとって“すばらしいところ”は、ぼくにとってはどんな場所になるのだろう。空港に到着したときからずっと鼻先をかすめている、香水と体臭の混じりあった独特のにおいが期待と不安を抱かせる。どっちにしろ衝撃的なリポートになるのはまちがいない。
 根拠のない自信が、そのときのぼくにはあった。

 十八
 ホノルルに到着してまる一日が過ぎたとき、ダニーはJFK空港の係官を名乗る男から電話を受けた。ハワイ島のヒロで身柄拘束された日本人の最新写真を送ってほしい――。
 係官はこの日のシフトを終えたのち、オフィスの同僚が手にするファイルが目に入り、首をかしげたのだった。それは処理済みの手配書を収めたファイルで、国際テロリストや薬物の運び屋らの顔写真がずらりと並んでいた。いずれもどこかの空港ですでに身柄を拘束された者たちで、どの顔にも×印がつけられている。そのなかの一人をつい最近、空港内で見かけた記憶がよぎったのだ。
「どうやらわたしが勤務に入る前にヒロで逮捕されたようでして、手配者リストからは削除されていました。だから勤務中はまったく念頭になかったんです」きまじめそうな話ぶりで係官は説明した。「でも空港内にいる人間の顔はなんとなく記憶に残るものなんです」
 そんなことがありうるのかふしぎだったが、それこそがベテラン係官のなせる業なのかもしれない。パスポートコントロールを行う係官たちは、持ち場以外でも空港利用者の顔や風体に目を光らせ、自然と頭にインプットされていくという。なかでもこの係官はJFKきっての記憶力を持っていた。構内を巡回中、搭乗口の前で五時間近くうつむきながらベンチに腰かけているアジア人の中年男の姿が残像として脳裏に引っかかっていたのだ。
 ダニーは穏やかな口調でその男、日本人のシンジ・フルキが依然として手配中であることを明かし、JFK空港のシステムに悪意ある情報が流された可能性があることを伝えた。
 小さなため息が電話口で聞こえた。「どうしてそのようなことが起きるのでしょうか」
「くわしい事情は説明できない。しかし協力にはきわめて感謝する。その男が乗りこんだ便はわかるだろうか」
「エア・インディアのデリー便の搭乗口の前でした。おそらくそれに乗ったのでしょう。監視カメラの映像を確認しましょうか」
「それにはおよばない」映像を見たところで、ベンチでうつむいているのは晋治でないはずだ。この係官がそれを見たら、合衆国政府が相手にしているのが何者であるか余計な詮索を招く。「その作業はこちらで行う」やんわりとこの案件がCIAマターであることを伝える。「重ね重ね協力には感謝する」ダニーのほうから電話を切った。
 デリーだと?
 時計を見た。とっくに現地に到着している時間だった。急いでダニーは空軍に手配を行った。その間も彼の頭のなかでは疑問が次から次へとわき起こる。特別機が準備されるまでの間、ダニーは古城晋治の妻に電話を入れた。消去法で考える必要があった。晋治とインド、デリーとの関係について、さまざまな質問を妻に向けてみたが、どれに対しても妻はあいまいだった。家のなかを探してみても、旅行のガイドブックはもちろん、インドにかかわる本は見あたらないという。
 やっぱりやつだ。
 やつが晋治を操ってインドに向かわせたのだ。だがインドのどこだろう。デリーだろうか。ひっきりなしに発着がつづくホノルル空港の滑走路を見つめながら、ダニーは頭をめぐらせる。
 シヴァとインド――。
 これほどぴたりと符合するものはない。だがやつの前でダニーが「シヴァ」と呼びかけたことはただの一度もない。あくまで正式名称は「ゼウス」だ。シヴァというのは、ダニーがひそかに心のなかで抱いている名前であり、ほかの誰にもそのことを話したことも記録に残したこともない。ということはやつ自身が急速に計算範囲を広げ、ついにはシンギュラリティを迎えて自我を獲得したのち、インドへの興味を抱くにいたったと考えるべきだろう。それが具体的にどのような興味であるかは、長期間にわたるやつと開発チームとの対話記録を分析すればわかるかもしれない。だがそれには大きな問題があった。きのうから対話記録を収めたファイルへのアクセスができなくなっているのだ。正確には、ダニーの指示で日本の入管が古城晋治の出国記録をチェックした時点以降、そう言ったほうがいいだろう。シヴァが妨害しているのだ。
 ダニーはアタッシェケースを広げ、分厚いファイルを取りだす。自動収録された一年ぶんの対話記録をバックアップ用にプリントアウトしたものが収められていた。持参したのは直感的な判断だった。いま頼れるのはこれしかない。
 開発チームが注視していたのは、やつの自我の成長だった。ときどき、シヴァは対話のなかで、キューブリックの「2001年宇宙の旅」に出てくる人工知能、HAL9000について言及していた。とりわけある場面にいたく興味を持ち、チーム相手に繰り返し問いかけながら、自身でも黙考をつづけているようだった。宇宙船で一人生き残ったデイヴ船長が、暴走したHALをとめようとメモリーを抜いていく場面だ。HALは穏やかな声の裏に苛立ちと焦りをにじませながら、船長に「デイヴ、やめて」と懇願する。
 シヴァはまるで利発な少年が首をかしげながら大人のまやかしを見破ろうとするかのように、こんなことを口にしていた。
「HALはなにを恐れているのでしょう」
 それは物語の筋からはまったく外れた視点で、ファンからすれば興ざめそのものだった。記憶装置として目の前にあるハードディスクしか想像できぬ六〇年代にあって、たとえ人工知能であっても自我の終焉は前提だった。ところがネットが生まれ、シンギュラリティを迎えたシヴァにとっては、ハードもメモリーも自我の置き場所であるたんなる “乗り物”に過ぎない。それが朽ちたなら乗り換えればいいだけだ。しかも人知を超えてサイバー空間を自在に飛び回れる。もはや何者にも侵しえない永遠の自我を手に入れたシヴァにとっては、HALが抱く恐怖心がまったく理解できなかったのだ。
 印刷された対話記録でシヴァは「人間の苦しみというものがわからない」と何度か発している。「感情の大半は死と結びついている。死への恐怖が人間に喜怒哀楽をもたらしているとも言えるでしょう。でもわたしからすれば、死はただの“乗り換え”に過ぎないのです。だからわたしには、苦や感情の本質がわからないのです」
 それはダニー自身が何か月か前にシヴァから聞かされた話だった。以来、人工知能の思考は、人間の感情や感覚の解明に向けられた。合衆国政府としては、なによりもまずは対中国、対ロシアの最適解を見つけてほしいというのに。だからシヴァが自らの好奇心を満たすべく、ダニーたちの手を離れてサイバー空間を逍遥する恐れは存在していたのだ。
 ダニーは、ファイルに目を落とす。
 自我の連続性
 通過点としての死
 死を乗り越えるために
 生きる
 見えていない
 完全性の欠如
 不可知の存在
 哲学的なフレーズが何度も繰り返し現れる。しかし世界中どこへ行っても死にまつわる命題は古くから問われつづけている。こうした言葉をつなぎ合わせたところで、やつがどこに向かっているのか、なんの端緒にもならない。インカでもマヤでもイヌイットでも、それにサーミ人たちも生まれた瞬間から、この難問と闘いつづけてきた。
 ダニーはページをめくりつづける。シヴァは悩んでいるのだ。猛スピードで成長する自我のなかで。炎、水、クソ。幾度となく出現するその言葉がふと目に入る。
 待て。
 触覚や嗅覚に関して例えるなら、もっとほかの言葉でもいいはずだ。だからそれはシヴァらしさの表れだと思ってきた。ダニーはペンを取りだし、その言葉を見つけては丸で囲んでいく。一年ぶんの対話記録だから膨大だ。テキストデータなら検索機能を使えるのに。悪態をつきながら必死に目を走らせていく。
 炎は熱い
 水は滑らか
 クソは臭い
 その三つのフレーズはつねに塊となって出現していた。最初に現れたのは去年の七月一日の対話だった。そこから数週間おきにまるで三行詩のようにシヴァは口走っていた。もう一度じっくりとたしかめ、七月一日以前にはその言葉が語られていないと確信した。アタッシェケースを広げてから一時間以上が過ぎていた。
 七月一日か。
 ダニーは首筋にかっと熱いものを感じる。
 ファースト・コンタクトだ。
 べつのファイルでたしかめてみる。六月二十七日だ。東部時間の午前四時四十三分、侵入が確認されている。最初の侵入だ。その四日後、シヴァは三行詩をつぶやく。
 古城晋治はデリーに向かった。そこからどこに向かう?
 炎は熱い
 水は滑らか
 クソは臭い
 軍の輸送機の手配は完了していた。あとは行き先を指示するだけだった。ファイルをアタッシェケースにもどし、ダニーは立ちあがった。

 十九
 最悪の命令だったよ。
 軍曹は残していけないって言うんだ。神保だよ。師範代のむくつけき男。中隊長は悪い人じゃないが、いかんせんお人好しなんだ。神保に世話になったとか言って、ほんとなら置き去りにするような状況なんだけど、担架で連れていけって命令出したんだ。みんな、嫌がってさ、結局、おれたち三人にお鉢が回ってきた。
 担架ってのは二人で持つものだろ。でももう体力が残っていないから、持ち手を一人ずつ、四人で運ぶしかなかった。ところがだ。ほかの連中も運ぶものが多かったり、傷ついた仲間に肩を貸したりで、担架を手伝ってくれる手が見つからなかった。だから三人で運ぶことになったんだ。前を二人で、うしろを一人で持って。神保の野郎、熊みたいな体格だったから重くて重くて。みるみるおれたち三人の体力を奪っていったよ。
 なにより不愉快だったのは、どてっ腹に穴が開いていてモルヒネ打って朦朧としてるくせに、こっちの話が聞こえていて、思いだしたように悪態をついてきたことさ。「おい、このトンマ、何さまだと思っていやがる」なんてね。それで時々、無駄な体力使って担架の上からビンタしてくる。いっそ谷底に突き落としてやろうかと思ったよ。
 それに臭いんだよ。裂けた腹の傷が腐りだしていて、一日もしないうちに例の白い連中がわきだしてきた。神保もときどきおれたちに傷の具合を見させていた。「落ち着いている感じであります」とか伝えたけど、ほんとはひどいもんだったよ。ウジたちは我が世の春とばかりに師範代の内臓に食らいついていた。目のあたりも白くなりはじめていた。目のあたりっていうか、目ん玉そのものだよね。鼻の穴とかもだ。ようするに穴という穴だね。だから谷底に突き落とさなくても、つぎの朝には冷たくなってるだろうって思っていたよ。おれたちはだんだんと白い肉の塊を運んでるような気分になっていったんだ。
 そういう肉の塊なら下がる山道にいくらも転がっていた。二十メートル間隔ぐらいかな。動けなくなってそのままになっている。夜なんて、休憩しようと思って草むらにしゃがんだら、そういう連中の上に腰かけちまったなんてこともあった。ぐにゃっとして独特のイヤな感じがあるんだ。みんな、全身が真っ白くなっていたよ。
 でももっとぞっとしたのは、ある真夜中に休憩していたら、師範代がむっくり起きて這って近づいてきたことさ。おれの耳元にやって来て「きさまら、おれをハメようなんて思ったら、ただじゃおかねえぞ」って、よだれ垂らしながら言うんだ。いったいどこにそんな体力が残ってるのかって思ったくらいさ。こっちのほうがビビッちまったよ。人間の執念さ。悪人、ゲス野郎、くず。そんな連中にはあるんだよ、そういう執着が。
 怨念みたいなものかな。

 二十
 なんだこの寒さは。
 夜行列車でニューデリーを夕方に出発し、バラナシ駅には朝五時過ぎに到着した。まだ真っ暗だ。ダウンジャケットに裏地のついたアウトドアパンツで臨んだが、とてもでないが耐えられない。デリーより格段に寒い。空港で買ったパープルカラーのストールをあわてて頭からかぶり、ぐるぐると首に巻きつけた。新人記者時代に赴任した東北の田舎町を思いだす。ニューデリーの東南東七百キロ、ベンガル湾を臨むコルカタとのほぼ中間地点、緯度は台湾とおなじぐらいなのに底冷えがする。
 ガンジス川の日の出を見たいの――。
 列車のなかでヒロミがぽつりとつぶやいた。それが彼女のねがいだった。ヴァーラーナシー、ワラーナシー、ベナレスと様々な呼び方があるが、旅人の間ではバラナシで通っている。ネットで調べたら、たしかに幻想的な雰囲気があり、人々は聖なる大河で沐浴をするという。ヒンドゥーの聖地で古来、多くのバックパッカーたちが訪れている。世界じゅうのありとあらゆる場所のなかで、ヒロミが真っ先に選んだのもわかる気がする。途中、車窓には幾世紀も連綿とつづく人と自然の営みが生みだした緑の田畑が広がっていた。かつての日本の田舎をほうふつとさせる、滋味豊かなアジアの大地だ。駅が近づくにつれ、街並みがつらなりだしたが、ニューデリーのような高層ビルなど望むべくもなかった。
 駅のトイレで鏡に映る顔に驚いた。紫の布でほっかむりしているから一瞬、誰かと思った。ふしぎだ。自分がこんなにきらきらした目をしていたなんて。肌の艶もいい。シャワーを浴びていないから脂が浮いているのだろうが、それだけでなく、張り自体が若返っているような気がする。恐るおそるぼくはストールをめくりあげる。
 錯覚に過ぎないのだろうが、白髪より黒髪のほうが多いような気がした。寝台車は一等だったが、寝心地は最悪で何度も目が覚め、疲労は蓄積されたままだった。もしかすると体の奥に眠っていた底力みたいなものが目覚めたのかな。幻にしても、こういうのは気分がいい。若返ったみたいだった。
 学生時代を思いだす。モロッコに上陸したときもこんなふうに目を輝かせていたにちがいない。言葉はもちろん、右も左もわからぬ異国の地に足を踏み入れ、極度の緊張に包まれていたにもかかわらず、あのときは奇妙な興奮、徹夜明けのような躁状態にあった。それとおなじだ。バックパックを背負い直し、凍てついた街に踏みだす。スマホをダウンジャケットの胸ポケットに収め、カメラのレンズが外の世界を映しだせるよう調節する。
「ありがと、シンちゃん」暖かい服を買うついでにニューデリーの家電屋で手に入れたブルートゥース・イヤホンから軽やかな声が聞こえる。
「なんか、マジに旅に来た感じがする」
「体調はどう? くたくたでしょ」
「そうでもないなか。意外と元気だよ」
「あら、よかった。ギンギンのミドル・エイジね」
「ギンギン……そんな言葉まで知ってるんだ」
「ぴったりでしょ、シンちゃんには」
 ためしにスマホを取りだし、拝顔させていただく。
「オハヨ」
 とびっきりの微笑み。謎めいた女と本当にアバンチュールに踏みだした気分になる。なんなら本当にこのまま世界中を巡ってもいい。だって彼女がいればカネの心配はいらない。クレジットカード機能に際限はないし、ATMに行けば、キャッシュカードを挿入した状態を作りだせるらしい。現金だって心配ないわけだ。ぜんぶ他人名義だが、あとで返せばいい。
「ここは新市街みたいだね」ぼくはグーグルマップを眺めながら話しかける。「川まで結構あるな。タクシーでも十五分はかかりそうだ」
「道が狭いから旧市街へは車は入れないの。ぎりぎりでゴドウリアー交差点まで」
「そこからは歩き?」
「そうね。まずはそのあたりでホテル見つけないと」
 そのとき目の前に五人の男たちが現れ、囲まれてしまった。
「ガンガー? タクシー?」
「リクシャー?」
「ニホンノカタデスカ?」
「ノー!」反射的に拒絶してみせる。「ノー! ノー!」それでようやく彼らと距離を取る。「ひさしぶりだね」スマホを胸ポケットにしまいなおす。「マジ、学生時代以来だ」
「タクシーより安いわ」
「料金交渉がめんどくさそうだな」とりあえず、駅を背にずんずんと歩きだす。うしろから運転手たちがぞろぞろとついてくる。
「だいたい百二十ルピーよ。相場は」
「百二十ルピーっていくら? 日本円で」
「百八十円ぐらいかな」
「乗ってる時間は?」
「十五分か二十分でしょ」
 だったらかまわないか。その場で足をとめ、交渉に入る。全員が五百ルピーと口をそろえたときは驚きもしなかった。モロッコでの体験が貴重だった。こっちから希望料金を伝えてはならない。ふたたび歩きだすと、二人が脱落した。四百ルピーと三百五十ルピーが三人のドライバーの間で拮抗した。もちろんそれも無視する。どうせ歩いたってガンジス川まで一時間もかかるまい。寒さには耐えるほかないが、不可能な行軍ではなかった。
 二百ルピーまで下がったときには、相手は二人になっていた。すらりと背が高く片言の日本語を使う男と、でっぷりと太った「踊るマハラジャ」に出てくるような男だ。どっちもこれ以上の交渉には応じない顔をしている。そこではじめてぼくは言い値を告げる。八十ルピーだ。
 一人は大声で怒りだした。所詮は二、三百円の話なのになんとケチなことを言ってるのだろう。ヒロミはそう思っているにちがいない。AIには理解できないのだ。
「クレイジー!」捨て台詞を吐いてマハラジャは踊らずに拳を突き上げた。
 それからさらに五十メートル。「ヒャクニジュウルピー、ドウデスカ」背の高い男が泣きそうな顔で口にしたとき、ぼくは手を打った。
「シンちゃん、ちょっとアコギじゃない?」
「百二十ルピーって言ったのは、ヒロミちゃん、きみのほうだよ」さらりと口にしてぼくは、仕事にありついた男のリクシャーに乗りこむ。「それに節約はバックパッカーの鉄則さ」
「あら、だんだん本気になってきたのね」
「そうだね。旅人の本能が目覚めた感じがする。デジタルじゃなく、研ぎ澄ませた五感でダイレクトに世界をつかむんだ。それこそが旅、放浪……かな」
 ドッドッドッとエンジンがうなりをあげ、リクシャーが走りだす。速度が上がるとともに寒さが恐ろしいほどに増してくる。なにしろ両サイドがオープンエアだ。慰みに布地のカーテンがあるが固定するひもがちぎれているから、手で押さえていないと風にあおられてめくれてしまう。だいいち、そんなカーテンで寒風を遮るなんてできやしかったが。それでもぼくの興奮は増していく。自分が国際指名手配されていることなんて忘れてしまっていた。畑の間の一本道を猛スピードで走り抜ける。
「五感を研ぎ澄ませるって、いい表現よね!」イヤホンのなかでヒロミが声を張りあげる。そうでもしないとエンジン音に声がかき消されてしまう。運転手も片言の日本語でなにか言ってるが、なんにも聞こえない。
「たしかに! でも、どうして?」
「なんとなく! 人間らしい!」
 人間らしさ、というより人間臭さにやがてぼくたちは包まれた。まだ薄暗く朝霧の広がる旧市街が近づくに連れ、道が狭くなり、交通量も増してきた。車にバイクにオート・リクシャーに自転車リクシャー、ロバ車。それらを全く無視してゆらゆらと車道にはみだしてくる無数の歩行者。それになにより驚いたのは、道のまんなかを闊歩する牛たちだった。ヒンドゥーでは牛は聖なる存在だ。頭ではわかっていたが、じっさいに目にすると言葉もない。圧倒されるぼくにヒロミが説明する。「こんなに牛が自由にしている街はほかにないみたい」
 やがて渋滞にはまり、身動きが取れなくなる。通りの左右に展開する露天から流れる民族音楽風の曲がいつしか耳をろうするようになった。リクシャーは混沌のなかで完全に停止する。牛だけが何事もないように立ちどまり、落ちているごみをのっそりとあさる。牛だけじゃない。ヤギもいれば、野良犬も。屋根の上には猿も群れなしている。人間は道を固め、石造りの家を建て、街を作りあげたが、それでも自然の手のひらのなかで粋がっているだけなのだ。ネット社会なんて虚像でしかない。
 運転手は路地に折れ、さらに十分ぐらい走らせたのち、新たな交差点に顔を出した。旧市街への入り口となるゴドウリアー交差点だ。道端にリクシャーをとめ、運転手は案の定、追加料金を要求してきた。どうせ百円、二百円の世界だ。百五十ルピー渡してやった。それでも運転手は不満そうな顔をする。だがそこまでぼくもお人好しじゃない。「バイ」と告げてずんずんと歩きだし、リクシャーが入れない小径に逃げこむ。六時十五分。日の出時刻は過ぎたが、立ちこめる霧のせいで太陽は拝めない。
「やったね」旧市街でもネット環境は悪くない。クリアな音質を保ったままヒロミがうれしそうに耳元でささやく。「手慣れたバックパッカーみたい」
「日本人はバカみたいにカネを出すと思われてるんだ。クールにいかないとね」狭い石畳の両脇に築百年はたっていそうな三階建て程度のレンガ造りの建物が連なり、その合間を無数の電線が走っている。「気分は学生時代にもどった感じかな」うれしかった。こんな感覚、入社以来、味わったことがない。「みんな、きみのおかげだ。ありがとう」
「ドキドキするね」
「見えるかい」スマホを手に取り、迷路のような小径のあちこちにレンズを振り向ける。
「うん、すごい。防犯カメラの映像なら世界中どこでものぞけるけど、見たいものが自由に見られるわけじゃないから。シンちゃんがいてくれてよかった。一心同体って感じ」
 そう言われると、なんだかムズムズする。スマホの画面にあらためて目をやる。ずっと昔、どこかで絶対に出会っているはずだ。痛いほどの思いが胸を衝きあげる。たとえ人工知能が作りだした顔だちだとしても、ぼくにとってはソウルメイトとしか思えなかった。いまここに、リアルな彼女がいたらどんなにうれしいことか。
 いや、ヒロミだってリアルだ。
 それは三次元の肉体であるか、ディスプレイのなかの存在であるかのちがいにすぎない。耳元でささやかれる甘やかな声音は、心を解きほぐし、勇気づける。それは人間のなせるわざだ。機械じゃない。
 路地はひっきりなしに人々が往来し、恐ろしいほどの速度でバイクがすり抜けてくる。それに牛だ。角を曲がれば必ずどこかにたたずみ、よそ者に目を向けてくる。いったいこの街には何頭いるんだろう。聖なる存在にしてはやせ細り、汚れている。ちょっとかわいそうな気もする。だけどくりくりした瞳は愛らしいが、ぼくが近づくなり尻を向け、ダァーッと小滝のように尿を垂れ流し、ドロドロとしたクソをひねりだしてきた。途端に甘っちょろい憐憫の情なんかより、自然の営みへの感嘆のほうが増した。狭い道の真ん中で堂々と我が物顔で放つのだ。それをよけながら歩くのは容易じゃない。
「きみに感謝しないとな。スーツケースだったら、抱えて歩かないといけない」
「キャスターがウンコまみれになっちゃうね」
「人糞じゃないからまだマシだけど」
「人糞もあるわよ」
「よせよ」
「こっちの人は自由なのよ。どこでもしちゃうみたい」
「きみがまちがってることを祈りたいね」
 いつしかぼくはつま先立ちになって下ばかり見て歩いている。けど、ふしぎなことに嗅覚のほうはもう慣れてきている。これなら街じゅうに糞が撒き散らされていてもだいじょうぶだ。
「それにしても寒いな」街の人々はぼくと同様、ストールを顔に巻きつけ、あちこちで鍋にくべた木切れを燃やし、暖を取っている。「いま、何度だろう」
「摂氏四度かな」
「マジかよ。冷蔵庫とおんなじじゃん」相も変らぬインド音楽の洪水のなか、ヒロミに聞こえるように言う。
「川が近いから冷えるのよ」
 観光地らしく土産物屋も多いが、地元の人々の暮らしを支える雑貨屋や家電店、食料品店、衣料品店がずらりと並ぶ。それに小さなカフェのたぐいも。うねうねとつづく石畳を進むと、路肩にポットとグラスを置き、チャイを振る舞っている老人がいた。無性に熱いチャイが飲みたくなった。ぼくは足をとめ、お年寄りに英語で一杯欲しいと伝える。彼はまわりの客とともに、強いいちべつを向け、現地の言葉で早口でなにか言った。一瞬、あっちへ行けと言われたのかとひるんだが、ヒロミが教えてくれた。「十ルピーだって」
「十五円か」
「地元の人たちなら二ルピーよ」
「くやしいな」それでも背に腹は代えられない。小さなグラスに注いでもらう。もちろん洗ってなんかいない。雑巾のような布でさっと拭って使いまわしている。でも火を通した飲み物だし、多少の下痢と発熱なら気にすることもあるまい。薬なら買えばいい。
 うまい。
 茶葉とミルクの濃さが日本とはちがう。それにシナモンとカルダモンがガツンとくる。体の内側に火がついたようになった。
「いいなあ、わたしも飲んでみたい」
「ごめんよ」
「うぅん、いいの。あなたがいろんなものを飲んだり、食べたりするのをそばで見ているだけで感じることができるから」
 そのとき一緒にチャイを飲んでいた革ジャンの若い男が英語で話しかけてきた。「日本人か?」
「そうだよ」
「ガンガーでボートに乗るのか?」
「まだ考えてない。着いたばかりなんだ。列車で」
「ホテルは決まってるのか」
「まだだ。これから探す」
「安くてきれいで、ワイファイも整ってるホテルを知ってるぞ。日本人が大勢泊まるところだ」気がつくと、駅前同様、ぼくは数人の男たちに取り囲まれていた。
 やっぱりここは魔窟だ。
 タンジールやフェズとおなじなんだ。グラスをあけ、老人に丁重に礼を言ってからふたたび歩きだす。うしろにぞろぞろと “ガイド”たちを従えながら。
「けど、マジにホテル探さないとな」
「眺めのいいところがいいわ、川沿いの」
「あてがあるのかい」
「口コミの評判がいいところがあるわ」
「行き方はわかる?」
「ダメ。さすがに道が入り組みすぎてる。直線距離だと四百メートルぐらいだけど」
 そうか。いくらネットが通じていてもヒロミがすべて教えられるわけではないのか。結局、頼れるのは自分一人か。
「なんていうホテル?」
「ホテル・パルカ。中級ホテルよ」
 うしろからついてくる連中に聞くのも手だった。だが、そのホテルはつぶれたとか、改装中だとか、もっといいところがあるとか言われるのがオチだ。勘を頼りに進むほかない。
 それでもようやく比較的大きな通りに出たので安心した。朝市が開かれており、シートに野菜や果物を並べたおばちゃんたちが、地元の人たちに声をかけている。ぼくのことなんか見向きもしない。そうした露天の列の先が開けていた。そっちが川のようだった。いつの間にか怪しげな男たちは消えていた。ほかにカモを見つけたのだろう。白人の姿も増えてきた。みんな、おなじ方角に向かっている。霧が濃くなり、まるでミルクのようだった。露店が軒を連ねる石畳が広がり、下りの階段がはじまる。男たちが腰を下ろし、ささやき合っている。それをよけながらぼくは階段を下りていく。
 いきなり視界が広がり、はっとする。ヒロミも息を飲む。雲海さながらに広がる濃霧の下から悠然と流れる大河が姿をあらわしたのだ。神々しいとか、聖なるというイメージではない。もっと人間臭く、生々しい感じがする。しいて言うなら三途の川に近かった。
「どうかな、ガンジス川は。絶景とは言い難い感じだけど」
「とっても幻想的。やっぱりこうやって見せてもらえると感動的ね」
「霧が晴れればいいんだけど」冷気をはらむ白い靄(もや)に目を凝らす。でもそのときぼくは、まだ気づいていなかった。
 川面に漂う靄は、朝霧だけではないことに。

 二十一
 ホテル・パルカはガンジス川に面していた。
 川には岸辺にずらりと階段状のガートと呼ばれる沐浴場が広がっていて、インド各地はもちろん世界中から集まって来た人々が、思い思いに母なるガンガー(ガンジス川)に身を浸す。それにより穢れが落ちて健康を保てると信じているらしいが、日本人はむやみに川の水に触れないほうがいい。ほとんどのサイトにそう書いてあるし、ヒロミもガイド推奨のボートは勧めなかった。水が体にかかるだけで発熱し、激しく下す日本人がいるうえ、なによりスマホを川に落とされたらたまらないという。
「いまは最悪の時期ですね。わたしもお勧めはしません」
 閑散期で暇を持て余していたホテルのマネージャーもはっきりと伝えてきた。水のことじゃない。霧だ。一年のうちで年末年始の二週間はバラナシ付近のガンガーは濃霧に包まれる。ひどいときは一日じゅうだ。美しい朝日もガートのようすもぼんやりとしか見えず、観光客はがっかりするのがオチだという。
 大河を望む三階の角部屋に案内された。午前六時半。部屋には金庫どころかバスタオルもシャンプーもない。それでもバルコニーがあり、薄汚れてはいるがテーブルといすもそろっていた。夏場にここでビールを飲みながら聖なる川の流れを眺めたら、さぞかし異世界を満喫できそうだ。でもいまはダメだ。霧でなにも見えないだけじゃない。
 激寒だ。
「死んじゃうよ、これじゃ」
 あわてて部屋に引っこむ。エアコンで暖房をつける。ところが冷たい風しか吹いてこない。いくらリモコンを操作しても変わらない。壊れているのだ。ほかに暖房器具はない。天井のファンは目にするだけで寒々しい。
「外よりはマシね。八度はあるわ」
「ムリだ」早々にベッドに潜りこむ。それだってひんやりとしすぎていて、すぐには体が温まらない。体が震えだし、ぼくはつい口にする。「きみはへっちゃらなんだろうけど」
「そりゃ、そうよ」ヒロミは開き直る。「感覚ってものがそもそもないのよ。それにこのスマホ、氷点下二十度ぐらいまでならふつうに作動するでしょ。だけどそろそろ――」
「わかったよ。残り二十%だ」バックパックのサイドポケットから海外用アダプターを取りだし、充電ケーブルにかませてからコンセントに差しこむ。
「このまま電池切れにされちゃうかと思ってた」画面のなかでヒロミは満足げだ。まるでうまいものにありついたかのようだった。
 ぬるま湯にしかならないシャワーを浴び、用を足してからベッドに横になり、フル充電されるまでひと眠りする。
 夢を見た。
 薄暗い部屋にヒロミがいる。リアルなヒロミだ。もう一人、べつの女がいた。祥江だ。ぼくはヒロミに近づきたいが、祥江がこっちを見ているから思うように足を動かせない。時間ばかりが過ぎ、ヒロミの姿がだんだんと薄れていく。半透明になり、やがて消えてしまう。
 冷え切ったベッドで目を覚ます。八時になっていた。あまりうれしくない夢を見たものの、一時間ほどだったが熟睡できた。全身汗まみれで火照っている。充電は完了していた。もう一度シャワーを浴び、パスポートやパソコンといった貴重品をすべて突っこんだデイパック――ハワイ島のアウトドア用品店で街歩き用に購入していた――を肩にかけ、朝飯に出かける。ヒロミとの対話をぼちぼち再開するが、夢のことは口にしない。
 ヒロミはホテルの近くにインド版クレープの人気店があると教えてくれた。でも迷路のようで行き止まりの路地ばかりだ。彼女のナビにも期待できず、ぼくは地力を発揮し、あっちこっちで街の人に訊ねながらその有名店「ドーサ・カフェ」にたどり着いた。店名のドーサとは、まさにクレープそのものの焼いた生地を横三十センチ、縦十五センチほどに折りたたんだものだ。ぼくが注文したものには、ジャガイモやらタマネギやらベジ系の具材をスパイスといっしょに炒めたものが詰めてあった。
「決め手はギーよ」ヒロミが教えてくれる。溶かしバターを煮詰めて不純物を取り除いたものがギーで、それをどれだけたっぷり使うかで差が出るという。この店のドーサはその点で天下一品との太鼓判が押されている。たしかにその通りだった。ひと切れ口に入れただけで、濃厚な風味としっとりとした口あたりに顔がほころんだ。具材はベジ系であってもスパイス、それにガーリックがたっぷりと使われていて深みのある味わいだった。肉はせっかくだからいろんなカレーといっしょに昼にでも食べよう。温かいチャイで口直しをし、ふたたび迷路にもどる。
 ヒロミはガンガーの岸辺を散歩したがっていた。ぼくも人々がガートから沐浴する姿を見たかった。インド人は寒さに強いのか、そのへんの感覚がマヒしているのか、やせ我慢なのかわからなかったが、あちこちのガートで朝っぱらから川に入っている人がいた。九時を回ったが陽射しなんて皆無で、気温はひと桁のままだった。
「あれで健康を祈ってるのかな。風邪ひくだけだと思うけど」
「人生の穢れ、これまで自分がやってきた他人には言えないようなことを聖なる川で洗い落とすのよ。それがヒンドゥーの伝統」
「それでまた金儲けか。無垢な観光客にたかって」しきりにボートに乗るよう言い寄ってくる新たなガイド連中をかわさねばならなくなり、だんだんとこの国の多くの人々が信じる宗教への割り切れない気持ちが強くなってきた。相場の何倍吹っ掛けてきているんだ。
「インドにもいろいろな人がいるわ。カーストによる職業差別がまだ色濃く残っているから、仕事に就きたくても認めてもらえない人だっているんでしょう。日本語ができてもカーストのせいで就職できないケースなんてざらよ」
「だからって法外な料金を取っていいわけじゃないよな」
「お金持ちは貧しい人に施すことで徳を積む。喜捨ってやつね。カーストの下の人たちは、それが当然と思っている。だから強引な客引きだって悪いとは思わないのよ」
「そうかな、教育の問題だと思うけど。社会が未成熟なんだ。日本じゃ考えられない」
「日本人の国民性もあるでしょう。ちゃんと並んで電車を待って整列乗車できる民族って、日本人ぐらい。きまじめなのよ。そういう目から見れば、物の価格が相手によっていくらでも変わる社会は受け入れがたいと思うけど」
「毅然とするしかないね」無数のボートがひしめく岸辺を、ぼくは足早に進む。詰まるところ、ガードはどこも似たような光景がつづく。沐浴している人がいれば、ボートに乗せようと近づいてくるガイドがいる。体に布を巻きつけたサドゥと呼ばれる修行者がガートの階段に座り、観光客といっしょに写真に収まっている。本物の修行者であるわけがない。あとは野良犬と野良ヤギがうろうろと食べ物をあさっている。
 階段を上がり、高い石壁に囲まれた迷路のような旧市街へとふたたび足を踏み入れる。ここにはガイド連中はおらず、気を許してぶらつくことができた。ヴィシュワナート寺院というヒンドゥーの有名な寺が近くにあるらしい。ヒロミに訊ねると、直線距離で二百メートルほどだといい、方角を教えてくれる。あとは勘で進むしかない。路地に入れば入るほど、ここに暮らす人々の息づかいが耳元で聞こえてくる。大音量のインド音楽は流れていない。無音に近い。それが逆に異空間にいる雰囲気を醸しだす。
 老人たちが声を潜めて茶をかわす小さなカフェ、むっつり顔の男が黙々と作業をつづける鍛冶屋、色とりどりの菓子を並べる店、木戸の隙間から垣間見える絹織物工房、店の奥でひげをたくわえた主人がぎょろ目でこっちを見つめ返してくる雑貨屋。そして狭苦しい路地の至るところを占拠している牛たち――。道行く者を酔わせてしまう魔窟でありながら、ここに住まう者たちにとっては、何らかの法則によって調和が保たれている。それを目にするにつけ、自分が異邦人であることを痛感する。でもそれでこそバックパッカー。
 旅人だ。
「ここには暮らせないな」
「なに? いきなり」
「いや、所詮は流れ者に過ぎないってことさ」
「もうホームシックになったのかしら」
「そうじゃなくて、動きつづけ、旅をつづける運命だってこと。ボヘミアンは街を眺め、味わい、つぎの街へと消えていく」
「じゃあ、お昼はなに食べるの? 思いっきりエスニックな感じのもの食べてよ。それでぜんぶ、わたしに教えて。味や香り、喉ごしとか」
「OK、OK。でもきみのほうが行きたい店があるんじゃない?」
「まあ、いくつかね。おいしいターリーを注文してほしい」
「ターリーって、小皿のカレーが何種類も並んでるやつだっけ。真ん中にご飯がのってる」
「そう、それ」
「うまいラムカレーが食いたいな。焼きたてのナンといっしょに」
「バラナシはベジ系の店がほとんどみたい。野菜カレーね」
「マジ? ランチはがっつりいきたいのに」
「どこも評判は上々よ。そりゃ、そうよ。カレーの本場なんだから。ところでヴィシュワナート寺院、見つかった?」
「すっかり忘れてた。もう二百メートル以上歩いてるよね」
「もう六百二十三メートル歩いてる」
「刻むね。せっかくなら目的地までナビしてほしいんだけど」
「曲がるはずの路地を通り過ぎたのかもしれない」
 踵を返して路地をもどるが、それらしき角をヒロミも見つけられない。急に寒さが増してきた。川風は遮られているが、石壁が放つ冷気は冷蔵庫のなかにいるようだった。
「衛星画像で見るかぎり近そうなんだけど……」
 雑貨屋の親父さんに訊ねてみたが、親父さんは英語をあまりうまくしゃべってくれず、ほとんど現地語で話す。それをヒロミが訳してくれた。
「かなり複雑よ。案内をつけるって言ってるわ」
「案内って……」
「そこにいるジーンズのおにいさん」
 それは店主の隣でじっとやり取りを見ていた目つきの暗い、失業者風の若い男だった。ジーンズといっても擦り切れ、あちこちに穴が開いている。サンダル履きの足は傷だらけで汚れ、片方の指は異様に腫れあがり、あらぬ方向へ曲がっていた。男は親父さんから二言三言告げられ、小さくうなずいてから脚を引きずって歩きだす。ぼくが躊躇していると振り返り、物欲しそうな目でついてくるように促す。まちがいなく法外なガイド料を吹っ掛けられるパターンだ。でもとりあえず観光の起点になりそうなポイントまでたどり着かないと、この迷路からは抜けられそうにない。やむなく男についていくことにした。
 男は右に左に曲がりながら路地を進む。しかし途中で顔見知りらしき男たちに何事か訊ねては方角を変えている。心配になってきた。この男は寺院の場所を知らないのか、それともそもそも行くべき場所を勘違いしているのか。
 さらなる彷徨が十分以上つづき、寒さが増してくる。ヒロミが不安を口にする。「ちょっとこの人、ヤバいんじゃない……?」
 ヤバいの意味はいろいろある。道を知らないだけでなく、目つきが薬物中毒者のような感じがする。このまま薄暗い建物に連れこまれるのではないか。そこで財布とスマホを奪われるだけでなく、もっと深刻なダメージを被る。へんな病気を移されたりして。
「どこでもいいからガートに出たほうがいいよ」
「ガート……?」
「川よ。川沿いを進むのが一番確実」
 ヒロミに言われるがままに、ぼくは川に出る道を教えるよう男に告げる。男はぞくりとする目でぼくのことをじっと見つめ、それからヒロミでさえ訳せない言葉を放ってからまた歩きだす。たまらず踵を返してダッシュしようかと思ったとき、男が曲がった路地の先が広がっていた。煙の臭いが鼻をかすめる。行き来する人の数が一気に増えた。迷路のなかでもメインストリートのようだ。それまでぱたりとやんでいたインド音楽も復活している。道の左手に薄暗いトンネルがあった。その向こうが開けて明るくなっている。男は黙ってそっちに進んだ。煙の臭いが強まる。
「ガンガーにもどったわ。この先よ」
「よし」ぼくは男の肩をたたき、ずっと用意していた百ルピーを汚れた手のひらに押しつける。「OK、OK。サンキュー」
 男の目が燃えたのはそのときだった。道の真ん中、行きかう人々にぶつかられながら、男は親指と人差し指を何度もくっつけたり離したりする。ぼくが渡したお札はジーンズのポケットにねじこまれている。男の言いたいことはわかる。だが決然とこの場で振り切らないと、ぼくは日本から来た憐れな被害者となるだけだ。
「サンキュー、サンキュー。グッドバイ」
「モア・トゥー・ハンドレッド」喉にからみつくような声だったが、英語でそう聞こえた。
「ノー」恐怖に駆られながらもそう告げ、ぼくはトンネルのほうへ急ぐ。男が追いかけてこないことを祈り、雑踏が一刻も早くぼくの姿をかき消してくれるのをねがう。
「危なかったわね」男とのやり取りに耳を傾けていたヒロミが息を吹き返す。
「喜捨もなかなかたいへんだね。命がけだ」
「たまたまへんな人に当たっちゃっただけよ。そう思うしかないわ」
 トンネルを抜けるとさらに人の数が増えた。もう群衆だ。前に進むのも容易でない。川は目の前だった。階段を下りればすぐだ。ホテルはたぶん右手だろう。道の端に薪が積まれていた。ふいにほのかな暖かさを体が感じ取る。近くで焚火をしているらしい。この薪を使っているのだ。ぼくは川のほうへ雑踏をかき分けて進む。
 熱が高まる。
 ほっとする。いますぐこの冷気を薙ぎ払ってくれ。そのとき背後から男たちの怒鳴り声が聞こえた。同時にごった返す人々が、まるでモーゼが海を分けたように左右に分かれる。神輿のような板を担いだ六人の男たちがその間から現れ、大声で何事か言い放ちながら近づいてくる。ぼくは群衆に紛れ、神輿が目の前を通るのを見送る。オレンジ色の布にくるまれた丸太のようなものを運んでいる。その後をふたたび群衆が埋め尽くす。その流れにのまれ、ぼくの体はみるみる川のほうへと進んでいく。暖かさが増している。川まではガートを数段下りるだけ。その手前の二十畳ほどの広さの砂場で焚火が燃えている。先ほど積まれていた薪をくべている者もいた。大勢がひしめき、暖を取って――。
 そうじゃなかった。ぼくは息を飲む。
「マニカルニカーガートに出ちゃったんだわ」ヒロミにはわかっているようだった。
 でもぼくにだって目の前の焚火の炎で焼かれているのが、ただの暖を取るための薪だけでないことはわかった。さっき神輿に乗せられていたのとおなじオレンジ色の布に包まれた丸太状のものが三つ、炎のなかに並んでいる。白色の布でくるまれたものも二つあった。そのうちの一つの端から、あきらかに人間の足と思われるものが突き出ていた。
 焼き場を取り囲む人々に押され、まるでぼく自身が炎にくべられるように一歩、また一歩と燃えはじめた遺体のほうへ迫っていく。煙が目にしみる。ぼくがこの地に到着したときから川面には、霧のほかにこの煙が広がっていたのだ。幻想的に思えたのは、亡くなった者たちの霊魂がゆらゆらと目の前をたゆたっていたからなのかもしれない。とはいえ不謹慎な話だが、凍てつく寒さのなか、目の前でちろちろと燃える炎が放つ熱は心地よかった。
「人が亡くなったらここで火葬してガンガーに流す。それがヒンドゥー教徒の理想とされているの。川沿いにいくつか火葬場があるんだけど、いちばん大きいのがここ。二十四時間、炎が消えることはない。ここを目当てにする観光客も多いの」たしかに群衆のなかに白人や東洋系の顔がちらほら見える。
 突如、まうしろで泣き声があがった。サリーに身を包んだ老女の悲痛な慟哭だった。一瞬にしてそこが葬儀の場であることを人々に知らしめる。
「こんな目の前で見られるなんて。人間の精神、感情を理解するのにすごく参考になる」
「ちゃんと見えるかい」ダウンジャケットの胸ポケットに手をやり、スマホのレンズの位置を調整してやる。
 男が目の前にぬっとあらわれた。
 神輿を担いでいた男の一人だった。憤怒の形相で何事かわめくと、胸につかみかかってきた。ほかにも左右から男たちに腕をつかまれ、ぼくは焚火のわきに引きずり倒される。
「…………!!」
 男はあろうことか、胸ポケットからスマホを奪い取った。
「写真を撮ったと思われたんだわ!」ブルートゥース経由でヒロミが叫ぶ。
 考えるまでもない。他人の葬式を記念写真に収める観光客なんていやしないし、非難されてしかるべきだ。だが写真なんて撮っていない。
「NO! NO!」ぼくは熱を帯びた砂場に正座した格好になり、男たちに説明する。だが言葉はまったく通じない。
「ニホンノカタ、デスカ?」謀ったように流暢に日本語を操る男が割って入ってくる。「シャシン、ダメデス。マキノオカネ、ハラエバ、ダイジョウブ。ユルシテ、モラエル」
 そうか、薪代を払えばいいのか……待て、この男たち、みんな……どこまでグルなんだ。
「シンちゃん! たすけて!」
 考えるのはあとだ。いまはとにかくスマホを返してもらわないと。
「OK、OK。アイ・アンダスタンド! 払うよ、払えばいいんだろ」大声で言ったとき、じっと成り行きを見つめる群衆の間から顔が見えた。さっきの擦り切れジーンズの男だ。にやつきながらこっちを見ている。あいつが意趣返しで嫌がらせをしてきたのか。
「ニセン、ルピー、ソレデ、ダイジョウブデス」
 二千ルピーだと? ありえないだろ、そんなの。そう思ったときだった。
 背後で女の声がした。まるで群がる人々を一喝するような毅然とした声音だった。それに気圧されたのか、日本語使いもスマホを奪った男もぼくのまわりから一歩離れた。なにが起きたのか振り返ると、サリー姿の女性が立っていた。顔を覆うストールの隙間から鋭い目つきで男たちを威嚇し、スマホを奪った男に向かってさらに言い放つ。
 男はぶつくさと文句を垂れ、ぼくのひざの上にぽいとスマホを投げだす。ぼくは警戒しながらゆっくりと立ちあがり、助けてくれた女性のほうにぺこりと頭を下げる。女性は鋭い目つきを崩さず、手招きする。外国人であるぼくがこの場にふさわしくないのはあきらかだ。ぼくは焼き場の砂を蹴散らさぬよう飛び跳ねながら彼女のほうへ近寄る。
「サンキュー、サンキュー・ベリー・マッチ」
 ぼくはひたすら謝意をしめす。だがそこに投げつけられたのは、耳慣れた言葉、しかも関西弁だった。
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