1. 1日目。(バスターミナル。深夜発)

文字数 1,923文字


1. 1日目。(バスターミナル。深夜発)


もう。絶対に。

どうしても、家には二度と、帰りたくない。

…と、章子(あきこ)はおもった。

場所はバスターミナルで、いつもここを通るたびに、いつもいつも、それは考えてきたことではあった。
でも今日は、今日こそは…
本当に、二度と、戻りたいとは思えなかった。
死んでも。

章子はぼんやりとまとまらない考えとしつこくて鈍い頭痛をもてあましながら、いつもの塾帰りの(はずの)夜更けの、この地方の中核都市のひとつの一番大きな駅ビルの地下から、覚えきれないほど多方面への近距離と遠距離のバスが常時頻繁に出入りする、巨大な地下迷路のような、バスターミナルの…
一番かたすみの、地下の食料品売り場からの重たい荷物を大量に提げた兼業主婦層の人たちだけが知っているような狭い抜け道の通路の脇の、寒い、いつものベンチで、いかにも、次のバスまでの長い待ち時間を、持て余しているような風を装って…
壁によりかかって、うつらうつらと寝ていた。
本当はもう何本も、家へと向かう本数の多い直通路線のバスを見送っている。
脚のあいだからはまだだらだらとたくさんの血が流れている感触があって、とても気色が悪かった。
なまあたたかいのに、冷たくて、ぬるくて、痛い。
針でつつかれるような…
鈍痛。
悔しい。
辛い…

いっそのこと、このまま出血多量で、死んじゃえれば、…一番いいのに。

なかば本気でそう思って、ずっと座っていたのだったが…
あいにくと、ただひたすらに気分が悪いだけで、貧血で気絶することすらなかった。
「…あなた、大丈夫?」
時折り、通りすがりの、自分も大変そうなとても疲れた顔色だったり、大荷物を抱えていたりする、それでも困っている他人をみかけたら、つい救けようと思ってしまわずにはいられない、風な見知らぬ小母さんたちが、声をかけてくれた…。
「あ、大丈夫です。…バスまで、まだ30分くらいあるんで…」
章子は礼儀正しく答えた。
鬼母の声がいつも脳内に聴こえる。
『きちんとしなさい! きちんと!きちんと!きちんと!
なんでアナタは出来ないの! きちんと!普通に!よその子たち、みたいに…!』
あの鬼母なんかじゃなくて、このまともで親切そうな小母さんたちの誰かが、あたしの「本当のお母さん」だったらいいのになぁ…。
もっと小さい頃に、本気で考えていた空想をふいと思い出す。
親切そうな小母さんたちは心配そうに、何度も何度も、章子のほうを振り返りながら…
自分たちが乗るバスが来ると、仕方なく乗りこんで、去って行く。
(…いいなぁ。帰る家があって…)
章子はぼんやりと考えた。
そして同時に、
(もう、帰りたくない…!)
絶対に。と、思った。

そう思いながらも体も心も重すぎて、麻痺してしまって、身動きすらもできぬままに、うつらうつら…していた章子の眼に、赤い色が映った。
その方面へ行く今日の「最終バス」を意味する…
通称「赤バス」の時間帯に入った。
あたりの雰囲気が、あまり馴染みのない「深夜」という雰囲気に…
なっている。
ぞくりと。寒さを感じた。
ぶたカバンから、ぐしゃぐしゃのジャージをひっぱり出して上着だけ着た。
制服が、じっとり湿っている。
章子の、不快な感じの冷や汗と…
それだけじゃなく、梅雨のあいまの、霧雨のような…
湿気が、じとりと、肌に冷たく感じた。

霞む白銀の天井灯が照らす地下ダンジョンの構内に、人影はもうずいぶん少なくなっている。
さっきから何度も、章子のまわりを行ったり来たりしている…のは、構内を掃除しがてら監視してまわっている…
警備員の制服だ。
(厄介ごとを起こすなよ?)
その眼が冷たく睨みつけていた。章子を。
(さっさと帰れ。不良の家出娘が…!)
その、陰惨な…顔つきが。
鬼父を、思い出させた…。
ぞくりとした。
思わず、立った。

ちょうど、すぐ目の前を、ちょっと迂回しながらのルートで章子の家に向かう方面の、完全に、今日の最終のバスが、赤い紅い行先表示を魅せびらかしながら…
走って行って、停まった。
停車時間は数分間ある。
のろのろと、歩いていけば…
まだ、乗れる。

章子は考えた。
…いつものように。
あれに乗って…
降りて。
歩いて…
ドアを開ければ。
とりあえず。

食べるものはあって、
眠る場所もある。
着替えるものもあるし、
明日の…
学校の…
課題だの教科書だの、
嫌なことも…
ぜんぶ、有る。

章子は通り過ぎた。
バスの前を。
だらだらと人の群れが乗りこんでいって、
バスは定刻に発車した。

ぐるりと回って、章子の家の方面へと向かう。
その、反対側へ。

章子は、歩きはじめた…。

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