5. 何日目?

文字数 4,107文字


5. 何日目?

…認識が、あまかった。
…ということは、歩き始めてしばらくして、すぐに気づいた。
夏至前の空梅雨の土曜の夜の湘南海岸は、日が落ちてからもずいぶん人が多かったけれども。
どう見ても未成年なのに酔っぱらっているらしい男の子たちの集団に、あっという間に取り囲まれて絡まれて、「いくつ?」「可愛いね」「せっくす!」「おっぱい触らせて!」「一発やらして!」…なんていう卑猥な言葉で四方八方からガンジガラメにされて、心が殺されかかった。
「…ひっ…!」
章子は叫んで、蹲った。恐怖と絶望のあの日の感覚を思い出してしまって、声も出せないほど青ざめて、がくがくと震えた。冷や汗が出てきた。
犬を連れた家族連れの散歩中の人たちが気がついてくれて、男の子たちを怒鳴りつけて、追い払ってくれた。
「だいじょうぶ? ひとりで帰れる?」
小学生の子どもたちのお母さんらしい人が、心配して腕をとって立ち上がらせてくれた。
ぱさぱさと、優しく、服についた砂を祓ってくれる…
「もう暗いからね~。女の子ひとりで海岸にいたら危ないわよ。上の道路沿いを歩いたほうがいいわ?」
(…やっぱり、あの地獄のドンゾコみたいだった場所よりは、天国に、近いよね…??)
章子は立ち直れる気がした。震えは収まってきた。
お礼を言って、また歩き始めた。
「…あら、逆なのね? 一緒の方向だったら、良かったんだけど…」
よその家の女の子のことなんか心配したって何の得にもならないのに。
非行なら警察に通報するとか、厄介ごとを起こされたら迷惑だとかじゃなくて、本気で…
心配してくれる大人が、いる。
(じゃあ、もう少し… 生きのびて、みよう…。)
しかし。
土曜の深夜の海沿いの国道の…
歩道を歩いていると、次々に車が寄せてきては止まった。
「お嬢ちゃーん、ひとり~?」
「乗ってかな~い?」
「イイコトしようよ~?」
…無視!
下を向いて、カバンを胸にしっかり抱えて、どんどん歩いていくと、たいがいの車は、
「…チッ!」とか「すかしてんじゃねーよ!」とか「なんだよドブス!」
…とか言い捨てて、走り去って行く。
けれども。
外人が四人乗っている車が、音もなく路肩に寄せてきて、停まった。
ドアを半分開けて、上半身だけ乗り出してきた外人男が、腕時計と地図を振り回して、カタコトの日本語で「スミマセ~ン、チョト、オシエテ~!」と、困っているような様子で、叫ぶ。
…迷子なのだろうかと、一瞬、油断した隙に。
がっっと! 腕を掴まれて。車に!
…連れ込まれそうになった…!
必死で。暴れた。
「…何をしてんだッ!」
通りすがった自転車の高校生が、怒鳴りつけてくれた。
暴れている章子を道路に突き飛ばして落として、車は、乱暴に走り去った…。
「怪我した?」
「いえ…」
ぶつけたりすりむいたりはしていたけれども、章子は震えながら立ち上がった。
さっき海岸で絡んできた男の子たちと、同じ制服だ。…怖いッ!
…逃げなければ…!
自分のことまで警戒しているらしい章子の様子に気づいて苦笑して、
「…気を付けろや。このへん夜中は危ないから」
男の子。なのに…
章子を心配する声だけ残して、自転車は何も悪いことをせずに、走り去って行った…
章子は、拍子抜けした。
でもそこへ、今度は、聴き間違えようのない暴走族の暴れる騒音と…
「そこのバイク、停まりなさ~いッ!」
叫ぶパトカーらしいマイクの音が、遠くからこちらへ向けて、真っ直ぐにやって来る…
(…この道は、危ない!)
章子は、次の信号まで走って、急いで渡って、脇道の小さな商店街の方向へと、逃げた。



海岸の国道から直角に曲がる形で続いている商店街をしばらく北上していくと、駅前の繁華街に着いた。そこでほんのちょっとだけ休憩して百円のハンバーガーだけ食べると、章子はまた、線路沿いの細いけど街灯がちゃんと点いてる明るい道を、西に向けて歩き始めた。
歩いて歩いて歩いて行くと、帰宅中の同じ方向の人の姿が途絶えて、今度は向こうから歩いて来る人の数が増えて来て、しばらくまた歩いて行くと、次の駅に近いほうの商店街の外れの明るい場所に着く。
そんなことで何駅分かをしばらく歩いて行くと、本当の深夜になってしまって、開いている店はコンビニと女の人のいる呑み屋さんだけ。という時間帯になった。
章子は疲れてきた。
でもお金はないし、大きなお風呂やさんもないし、どこにも行くアテがない。
小さな公園が目についた。そっと入ってみた。
周りの民家はもうみんな寝付いている風で、用心深くあたりを見回してみたけれども、だれも章子を見ている人はいない。
そーっと。
公園のすみのタコ型の遊具のなかのトンネルをのぞいた。
ずっと前に章子の家の近くのこういう場所でホームレスの人が何日か寝泊まりしているところを見つかって、近所中のオバサン達が大騒ぎをして警察を呼んだことがあった。
「あ~あ。寝心地が良かったのに…」
なんでもないことのように小汚いオジサンは呟いて、荷物をさっさとまとめると、おとなしく追い払われて去った。
あんなふうに…
潜りこんでみた。
案外、居心地が、良かった。
ジャージの入っている袋を枕にして、章子は、眠りについた…。
あまり寒いとは思わなかったけど、けっこう蚊に喰われた。
夕方に海岸沿いでせっかく気持ちよく目が覚めたのに…
そのあと何度も怖い眼に遭ったせいで、あんまり眠れなかった。
明け方に、すぐ枕元を走りぬけて行く新聞配達のバイクの音でびくっとなって跳び起き、頭をトンネルの天井にぶつけて「眼から火花が出る」という痛さを実体験した。
すぐに牛乳配達のトラックのかちゃかちゃ言う音が通り過ぎて、章子は自分のいる場所が裏の家の玄関から丸見えだということに気づいた。
慌てて這い出して、公園の水で顔を洗ってトイレを借りてペットボトルに水を詰めて、歩き始めた。
そんなふうな日々が、始まった。



日曜日は一日のんびり西へ西へと歩いて、夕方早目の時刻に、道沿いにまた大きなお風呂屋さんの看板があるのを見つけた。
今度はゆっくりじっくり料金表をよく読んで、「土日は高い」ということと、「夜十一時以降までいると別料金が加算されて値上がり」するけど、「その前に帰るなら昼のあいだ何時間いても同じ料金で割と安い」と知った。
それから入ろうかどうしようかと玄関前でうろうろしているうちに、この先の西へと続く国道沿いにもチェーン店がいくつもあることが判ったので、地図の乗ったチラシだけ握りしめて、ほくほくしながら店には入らずに歩き始めた。
歩きながら、いくつか作戦を考えた。
家出中だと、ばれたらまずい。
お金はなるべく節約しないと沖縄に着くまで?生き延びられない。
でも何日もお風呂に入らなかったら一目でホームレスと判るくらい汚れてしまう。
だけどコインランドリーはお風呂の中のやつより、商店街の外れのお店のほうが安かった…。
道沿いの百円ショップで小さな目覚まし時計と大学ノートとシャーペンと、古本屋の格安コーナーで大学受験の参考書と、東海道『銭湯・スーパー銭湯・日帰り温泉』というガイドマップを買った。
それから「いかにも地元の人」に見えるように、安っぽいぺらぺらの寝間着ジャージとTシャツを買った。
これだけで一日の予算「千円」を使い切ってしまったけれども、御夕飯は閉店間際のスーパーで半額シールの貼ってあるうちで一番大きなお弁当をひとつ買った。二百円で満腹サイズだ。
駅の待合室で塾帰りの子どもが遅い電車を待ってるような顔をしながら、がつがつ食べた。
トイレを借りて、歯も磨いちゃって…、
また、歩き始めた。
夜更け…
手頃な公園の、小さなベンチの影の、植え込みの下で寝た。
明日は、蚊よけスプレーも買ってこよう。
と、固く決意はしたけれども、昨夜よりは安眠できた。



夜明け。
新聞配達のバイクの音を目覚まし代わりに、ジャージの中学生の朝ジョギングでーす!というふりをして…
西へと、走り始めた。
走ったり歩いたりして、平日月曜日に中学生が街をふらふらしているわけにはいかない時間が近づいてくる前に、どこかの駅前のファーストフードの店の禁煙席の一番外れにそっと座った。
百円バーガーひとつと百円コーヒー一杯で、何時間、粘れるかな…?
店内だけど、深くフードをかぶって、中学生の顔を隠して。
昨日買った大学受験の参考書とノートを開いて、「十八歳の浪人生が受験勉強してまーす!」という偽装をして。
「うっかり寝込んだ」ふりで… テーブルにつっぷして寝ちゃう。
…けっこう、起こされなかった…。
午後二時を過ぎたら、もう顔をさらして中学生が町を歩いていても、大丈夫だと思う。
西へ、西へと歩いた。
ガイドマップで目星をつけておいた銭湯に夕方の早目に入った。
さっぱりお風呂に入って、安っぽい「寝間着ジャージ」に着替える。
脱衣場のすみの畳の休憩スペースで、またしばらく、ぐうぐう寝ちゃう。
目覚まし時計で素早く起きて、もういっかい頭を洗って、閉店準備が始まる前に、さっさと店を出て。
閉店間際のスーパーで半額のお弁当を買って、どこか適当なところで食べて。
またしばらく歩くと、深夜の街道沿いに、大き目の無人のコインランドリーがある。
服を洗いながら備えつけの漫画なんか読んで時間を潰して、深夜になったらまた歩き始めて…
手頃な物陰に潜りこんで、眠る。
けっこうスリリングで、緊張するけど解放感もある愉快な日々で。
毎朝無事に?目が覚めるたびに、
(あぁ… 良かった。今日も、生き延びられた…!)
と、思った。
あの地獄の家に縛られていた何年もの長い半生の間は、一度も感じたことのない歓びだった。
洗濯とお風呂は予算を考えると毎日は無理だったので、二~三日にいっぺんにして節約した。
そんな風にして何日かが過ぎた。
細切れの睡眠で、日付の感覚はなくなってきてしまった。
今が何日かも分からなくなったけど…
家を出たあの日から一万円札が合計三枚、無くなっていた…

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