第4話 Kの墜落

文字数 3,965文字

 Kも非常勤講師で、担当は語学ではなく専門科目だが、いわば同僚だった。初出勤の四月第二週火曜、ぶじに授業を終えて出勤簿に押印しようと講師控室へ寄ったら出くわした。

「あっ、お疲れさまです~」

 世慣れたふうの語尾上げは160センチ少々の痩せぎすにぶかぶかリクルートスーツ姿である。袖に見え隠れする骨ばった手首、角刈りをふた月放っておいたような野暮ったい髪型にシミシワひとつない白皙の顔色で、まさか中学生かしらと疑りつつも、とんがった喉仏と青々しいヒゲ剃り跡に危なげなく「やや年上」を見抜いた。

「はじめまして、この四月から──」
「Kです、よろしくお願いします」

 二人きりの室内でへこへこ低頭しながら目の端で出勤簿を探す。あると言われていたキャビネット最上段にない、と机上の凡庸なリュックサックのそばに開かれてある。

「今日が初日だったんですよね」
「そうです」
「女子大っていろいろ気をつかっちゃいますよね。あ、どうぞどうぞ」

 大きな机を挟んで対座を勧められる。あちらもリュックを前に腰掛けては骨ばった手指を出勤簿の上に組み、さながら面接でもおっ始めるかのような格好である。

「先生が初めての同年代の同性の同僚なんですよ」
「そうなんですか」
「ぼくここ三年目なんですけど、非常勤も女性ばかりで──」

 にこにこ口角に泡をにじませながら、度の強いメガネをせわしなくいじりながら、口調も二言三言で親しげなものへと変え、最寄駅、出身大学、大学院、研究などなど問わず語りに話す話す。酒が入っていたら確実に酔いが回っているほど頷き頷き、ようやく解放かという段には「五歳年上」ということしか残っていなかった。

「せっかくだしさ、これからも情報交換しようよ」
「よろしくお願いします」

 そうして毎週火曜には控室にほぼ必ずいて、入室するや(かつ)えを癒やすがごとくしゃべってきた。こちらの三コマ連続の二コマめにあちらの一コマが入っているのに昼休みを超えて長々待ってくれていて、

「前に話した常勤採用の口でさ、おととい日帰りで北海道まで面接に行ってきたんだ」
「日帰りはつらいですね」
「それも自腹だよ」
「ひどいですねえ」
「ほんと、半額だけでも出してほしかったよ……」

 狭い業界につき避けるわけにもいかず、さっさと帰りたいのをこらえて付き合っていた。研究畑の出身で現場経験が乏しいせいかあらずか、元看護師ウン十年歴の女性教員たちが占める中で冷遇されているらしいと端々から窺えた。

 それから一ヶ月半ほど経った火曜日、授業後に教卓で出席簿の記入にかかっていると、だらだら駄弁っている二年生の数人が訊いてきた。

「せんせ~、Kしってる?」
「非常勤のですか?」
「そ!」

 Kの担当は二年生の必修科目で、説明わかりにくい、課題多い、命令口調、サイアク、などなど不評は初日から小耳に挟んでいた。

「ともだちですか?」
「ともだちではないですね、年上ですし」
「先生とは釣り合わないでしょ、どう見ても!」
「たしかに!」
「まあ知り合いですかね」
「オトナのカンケー」
「そうそう、挨拶するくらいで」
「えっ、あいつ挨拶なんてできるんです?」
「なにそれ! デキルンデス?」
「ギャハハ!」
「ねえ〜!」

 ヘンテコ敬語に一同破笑、つられて笑っていると、

「せんせ、あいつに『バレてるぞ』って伝えといて!」
「あと『まじくさい』って! あはは!」
「きもいきもい!」
「むり~!」
「ありがとございましたあ」

 けらけら出ていった。やはりKは控室に待っていたが、もちろん「バレてるぞ」をはじめとした悪態については話さなかった。

 その週の金曜は朝から雨だった。控室に傘を置きに行ったら見慣れたリュックがあって、「火曜じゃないのに?」と首ひねりつつ教室棟へ向かった。他に一限が開講されていない三階は8時50分でも閑散としていて、そのまま廊下角のお手洗いへと進んだ。

 女子大にある男子トイレは、利用者が絶対的に少ないぶん、ひらたく言って天国だ。床には埃ひとつ落ちておらず黄ばみ茶ばみひとつなく、格子タイルの壁も鏡かほどピカピカ、アンモニアも硫化水素もスカトールも臭わない。大小便器ひとつずつに洗面台ひとつの六畳くらいだが、冷ややいだ静謐の占める個室など誰彼の出入りしがちな講師控室よりよっぽど落ち着けるのである。

「──わッ! おはよございます」
「おはよう、ごめんなさいね」
「いえ、おかげで目さめました」
「そりゃよかった」

 狭い通路にさしかかるや、奥のドアから出てきた一人を驚かせてしまった。道を譲ると寝ぼけまなこをにっこり、ヒガンバナの模された髪飾りを血の滴るように揺らしていった。

「エッありえなくね?」
「まじまじ──」

 あの二人って仲良かったんだな、と背後を通り過ぎる声と声に教室では離れている顔と顔を当てはめながら、手前のドアを静かに開ける。

「……」

 個室は(とざ)されていた。ジョボジョボかなりの水音、他に一限はないのにどこぞの馬の骨なるや。舌打ちしたくも深呼吸して我慢ガマン、鏡ごしに身だしなみを整えにかかった。背後でドアが音もなく閉じる──

 ゾワリと鳥肌が立った。耳が、やむことない「おしり」の作動音とちょろちょろ滴る水音の裏に、かすかに潜む「音」を拾っていた。

「──」

 声には違いない。婀娜な吐息にも違いない。だがすぐそこ扉のむこうで発されている生身の肉のものではない、再生される「音」の漏れだ。

「────」

 ギョッとして振り返る。と、扉下のすきまに丸味ある右左の革靴が並んで覗いている。今どき新卒の足もとにも見ないダサい爪先、その左の片方が、目の遭ったゴキブリみたくザッとわずかに横へずれた。

──バレてるぞ。
──まじくさい。

 とたん嘔気がうごめいた。けらけら嗤笑が聞こえた。いても立ってもいられず、カバンを引っつかんで飛び出した。

「やっば59分!」
「アッせんせ~待ってえ!」

 階段を上がってきたての学生二人が追いついてくる。抜きつ抜かれつふざけながら「おしり」の駆動音が離れない。三人並んでマンガみたく扉で詰まって笑っても、始業の鐘が鳴りわたっても、眠たげな朝顔たちの点呼を取っていても、耳のそばで蠅の王がのたくっているかのようにヴウウンと響いていた。

「あっお疲れさま~」

 授業を終えたら、控室でリクルートスーツが笑いかけてきた。

「昨日メールが来てさ、北海道、ダメだったよ」
「……」

 両足には右左が素知らぬ顔をして収まっている。

「まあまた次があるよ。旅費は惜しいけど、初めて札幌にも行けたしさ」
「……」

 腹の底が熱かった。うつむいて、鼻腔をなるべく内に向けて、息を殺していた。万一なにか嗅ぎつけでもしたら殴りかかってしまいそうだった。

「どうしたの?」

 簡単にへし折れそうな首がきょとんとかしがれた。まるで仔犬が初めて口笛を耳にしたときのような無垢なまなざしをそこに見た瞬間、その瞬間、

──ぼく土日はないようなものなんだ、家の事情で。
──自営業とかですか。
──いや、祖母が要介護なんだよね。
──あっそうなんですか。
──いつも母が面倒を見てるんだけど、休日はパートに出るからさ。
──大変ですね。
──もう十年になるし、慣れたけどね。それより免許の方がタイヘンだよ。
──車ですか。
──うん。去年の冬から通ってるんだけど、いろいろ厳しいね、この年になると……。
──大変ですね……。
──今日もこれから教習所なんだ。この後お茶でもって思ったんだけど、ごめんね。
──そんな全然いいですよ。
──いやあ、せっかくだしね。
──それなら免許が取れたらメシ連れてってください。
──えっほんと? 行こう行こう、なんでもご馳走するよ。
──いいんですか? じゃ寿司で!
──ははは、任せてよ。
──でも車だったら酒飲めないですね。
──あ、ぼくお酒飲めないから気にしなくていいよ。

 いつかの雑談がまざまざ脳裏に甦っていた。デートに誘われでもしたかのようにほころぶ黒い点々ぷつぷつの口まわりが、目の前に重なっていた。

「──や、ちょっと立ちくらみがして、すみません」

 想起が去ったら不快も憤怒も消えていた。

「わかるわかる、授業後ときどきくるよね。大丈夫?」
「大丈夫です。それより今日はどうされたんですか、金曜なのに」
「いや、まあ、あはは──」

 からから笑った四十の(てて)なし子、雨が蕭々(しょうしょう)と窓を打っていた。

 その前期でKは退職した。

「じゃあ、また後期だね」
「はい、免許がんばってください」
「取れたらすぐ連絡するよ」

 最後の火曜日の雑談は、その後に私用が入っていたため早めに切り上げた。Kは普段とさして変わりない気がしたが、その日その後に査問委員会へ召喚されることが決まっていたそうだ。後期になって喫煙所でよく話す若手職員が含み笑いとともに教えてくれた。

「先生ご存知ですか、理由」
「まあ学生の間でも噂になっていましたからね」
「ドン引きですよね。ぼくも一回現場に行ったことあるんですけど──」

 前年度から数十人もの学生たちに訴えられていて、清掃業者に協力してもらい現行犯中らしき扉の前で男性職員たちが張り込んでみたこともあったらしい。「写真を撮られた」という届出も複数あったそうだが、当人はすべて否認、ほぼダンマリだったという。

「最後ワーッて泣きだして、『やめるからあ、やめるからあ』って叫んでて、これやばくねって外で言ってたら、いきなりシンッて静かになったんですよ。後から聞いたんですけど、『救急車呼びましょうか』って声をかけたら、こう、スッと落ち着いて、首を振ったって」
「ふうん」
「課長は『なんだか気の毒な感じだった』って言ってました」
「へえ……」

 結果、それ以上の調査も尋問も通報もなく、依願退職という形に落着した。こちらのメールアドレスは知っているはずだが、今もって音信はない。

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