第1話 春はバスに乗って

文字数 3,983文字

 春、なんの因果か女子大から非常勤講師の依頼があった。すでによそで手一杯だったし、早々と大学語学に辟易しだしてもいたし、あまり食指は伸びなかった。「女子大生」なんてケッタクソ悪い性産業用語にうかうか乗せられるほどウブでもバカでもサルでもない。

 ところがどうして調べてみたら、キャンパスまでわが最寄駅から片道20分少々の直行バスが出ているという。普段まったく足を伸ばさない方面の、別の私鉄沿線にほど近い山間だ。近代都市文化の産物たる通勤電車も人ごみも蛇蝎のごとく嫌悪する身には大きにそそられる。エッしかも一コマあたり月二八もくれるの? だいたい二五が首都圏私大の相場だってのに。

 なんだかんだと下心くすぐられ面接も首尾よく済ませ、三月末キャンパスへ契約に赴いた。天気もいいし(かち)で行こうと田舎育ちが歩いてみれば、閑静な住宅街を抜け丘陵を越えゴルフ場を迂回して、一時間かかった。

「バカだねえ」

 ようやく正門への回りくどい坂道に差し掛かったら遠く春霞に富士の山がニンマリ覗いていて、なにくそとヒイヒイ登りきった。

 ご多分に漏れず幼小中高を取り揃えた学園タイプである。契約やら説明やらに出てきてくれた同年代らしき事務の女性いわく由緒は大正時代で、

「すみませんッ、今日お渡しするお約束だったネームカードなのですが、ちょっと手続きが遅れておりまして、エエ、まだご用意できていないんですよゥ。初回授業日までにはご自宅へ郵送しますのでェ──」

 物騒なこのごろは大学でも通行手形が携行必須となっている。それなしとなれば女子大では一抹どころか一握も不安になるが、大のオトナが身ぶり口ぶりせわしげにそう釈明するのだから信任しておくしかない。

 さすがに帰りはバスに乗った。

 初日は雨だった。8時半に拙宅を出ても間に合う僥倖を味わうも束の間ポストはやっぱりからっぽで、「仕事しろよタコ」と呪詛を噛みつつ駅むこうのバスロータリーへ向かう。大混雑の改札を素通りしたら遠目にもそれとわかる長蛇の列が見えてきた。だいたいが健康的ウ■チと大差ない髪色をしておしゃべりに夢中の、無論ものみな女子である。

「うそお!」
「ないない!」
「あはははは!」

 本能的な怖気を覚えて目をそらす。その先で店舗がシャッターを開けにかかっている。へえ、あそこ(たな)替えしたらしい。駅のこっち側に来るのは久々だけど、ふうん、お茶屋さんか。9時開店みたいだし、ちょっと覗いてみようかしらん──

 いやいや、なんのこれしき。この実学全盛の時代に文学部を大学院まで進んでは「単位取得満期退学」なんて欺瞞に甘んじるような生き恥晒しておいて、今さらなにを躊躇することがあろう。

 一列の最後尾に加わる。途端、足下から放射状にサアァと広がる見えない何か、それにピタリと吸着されたかあちこちの口と口が閉じる。しとしと雨垂れに気ぜわしい足音、水溜りを切り裂くタイヤのしぶき、

「えっ」

 小さな疑問符がささめく。そりゃそうだ、「【直行】〇〇女子大学」と掲げるバス停に身元不詳のオッサンが連なるなんて、いっそ通報されたって文句は言えぬ。これだからネームカードが要るんだっての。

「それだるくなあい?」
「ねぇえ!」
「ぎゃハハハハ!」

 だんだん喧騒が上げ潮で戻ってくる。その真ん中で白波に揉まれる岩礁のごとく泰然と立つ。見方を変えれば獲物を狙う肉食獣の虎視眈々、おまわりさんこいつです。

「……」

 あら、そこの貴女、手にしているのは防犯ブザー? よく小学生がぶらさげているやつ、自分の身は自分で守るしかない当世それとポーチとスマホが乙女の三種の神器だよね。でも今は、仕舞っておいてくれると嬉しい。

「雨だりぃ」
「それなぁ」
「今日からって知らなくて午後からシフト入れちゃった」
「まじウケるう」

 澄ました顔しつつ早くも梅雨入りかと背に汗じっとり感じていると、ブウンとバスが回りこんできた。かしましい一列が牛歩で進みはじめる。

「ちょこれ見て」
「エエむりぃ」
「立ち止まらないで、お詰めくださァい」

 地曳き網にかかったイワシかとピチつく大群に中年運転士の気の抜けたアナウンスが甲斐なく響く。目前の防犯ブザー嬢が逃げるように乗り込んでいって、それで満杯、目測五万人はいる。

「……」

 むりだ、むりだ、こんな文字通りぎゅうぎゅうひしめく中へ迷いこんだ日には痴漢だテロリストだ好き放題に讒謗(ざんぼう)されてはたちまち堕地獄まっさかさまに違いない。

「まもなく発車しまァす、次のバスをお待ちくださァい」

 運転士の声に車体がブルルと(いなな)いた。次発の直行は10分後、それでも間に合わないことはないし、その方が危なげなく一人席を占めれはする。が、それだと着いてから一服する余裕がない。

 となるとタクシーか。あっちの乗り場に数台待っているし──

 アッと心中そこで膝を打つ。平均値にほんのり色付きのコマ給なのは、ここに教員らしき背格好が一人も並んでいないのは、そういうわけか。

「おいおいタクシーなんてやめとけよ。片道二千円はかかる距離と時間帯、昼メシぬき確定だぞ。午後2時半までマイクなし初見の現場、腹が減ってはなんとやらだ」

 そうだ、そうだ、これから週二で通うのに初っ端からそれだと色なんてすぐ消し飛んじまう。せっかく先頭にいるんだし次発を待つにしくはない。

「おいおいタバコはいいのか。朝富士に狼煙を上げようって、絶妙な加減で湿らせておいた無添加ヴァージニア葉を巻いてきたんだ。あいにくの空模様だけど、沁みるはずだぜ」

 そうだ、そうだ、多様性なんて綺麗事だと見事にバラした禁煙ファシズム跋扈の当今、都内なのに敷地内に喫煙所がある珍しい大学へ勤めるとなりゃ、利用しない手はないよな。

「……」

 天使か悪魔か内なる声と問答する間にも背に視線の雨あられがひやびや突き刺さる。最前列につき目前の一本を逃す原因コヤツにありと見なされているらしい。

 お嬢さん方、そりゃないぜ。餅は餅屋に、桶は桶屋に、バスは運転士に任せておくのが道理なんだから、次に乗れと言われたら次に乗るのが吉なりよ。たかだか数分、若い足腰には屁でもないでしょうに──

「ドアが閉まりません、詰めてください」

 一転いかめしい語気のアナウンス、と目前にぽっかり、この身が収まるくらいの空間が開いた。自身が叱責された気になったのだろう、防犯ブザーの彼女が一歩奥へと踏みこんだのだ。

 地獄の沙汰も金次第、気づいたら飛び乗っていた。

「──」

 運転士がマスクの上で両目をかっぴらいている。車内のだれしも生唾ごくりで硬直、ヒッと言わんばかりブザー嬢がさらに一歩を詰めた。長々しい後列も全員たぶんお口ぽかんである。

 ものども落ち着け。こちらはバスジャッカーでもワンカー(おさわりまん)でもない、心身至って健全な小市民ぞ。いや心はいつでもメランコリイの一色だけど、こんな天気だと腰が疼いてしょうがないけど、だからって取って食ったりしやしない。

「……」

 もとより話の通じる気配なし。そこでパスモを取り出したところ、やにわに運転士が左腕を伸ばしてきた。あら拳でわかりあうタイプかしら、と思いきやピッとするところを白手袋が覆う。

「直行デスガヨロシイデスカ!」

 異様なほど早口でうるさい。右手は大きなハンドルの向こうに隠れて、そこに非常用脱出ボタンでもあるかのように動じない。

「はい」

 授業中より多くの視線を浴びつつしっかりハッキリ返事して、ついでに頷いてもみせる。

「〇〇女子大学直行デスガ!」

 いや聞こえてるって。外国人とでも思われているのかしら、十年前くらい東南アジアをふらついていたときもやけに広東語で話しかけられたし。

「ブウウ」
「教員です」

 アイドリング中の巨体までが不服そうに唸った。負けじと少し腹に力を入れて皿の両目へ簡潔に自己紹介をするや、

「はぇ?」

 運転士いかにも間の抜けた声付きでキョトンをコテンと傾けた。

 なんだ貴様。なんぞ疑わしき点でもあるか。整髪料を塗っているからか、目ヤニついていないからか、ちょっと香水を振っているからか、まっすぐ目を見てキョドらないからか。大学の教員なんて最低限の身繕いもできず礼儀作法もなっていない人デナシばっかりだもんなあ。

「教職員です」

 いや失敬、一般ピーポーにはこの呼称の方が膾炙されていましょうね。ただ大学職員なんてのもだいたいロクなもんじゃないから一緒くたにされたくないんです。呼称だけでも独立していたいんですよ、個人的には。

「はあ……」

 釈然としないふうの運転士、しぶしぶ左手をピッから外して姿勢を正しつつ、この胸もとを流し目でひと舐めした。嫌でも聞こえる心理のつぶやき、

「それならネームカード下げてろよ、まぎらわしい」

 仰るとおり。でもそれはこちらの手落ちじゃなくて、七日あってもプラッチックに紙切れ一枚挟めやしないあちら方の怠慢なんですよ。だから職員なんてロクなもんじゃないって────

「ツギハ、△△、△△、──」

 見よ、おでこにデカデカ「【直行】〇〇女子大学」と電光点じたバス一台が、色とりどりのニット、ワンピース、フレアスカートなど春の花々を満載させて、あちらから道をやってくる。

 出立がよほど遅れたか鋼の馬車馬、ブオオと鼻息荒らげギャロップで水捌はけよろしからん悪路をジャアアと疾駆する。アスファルトの継ぎ目をガタンと越えるたび積荷の赤白黄色が()せんばかりに揺れそよぐ。

 そして、ああ見よ、今こそ盛りの花園を雨露から守る大きなフロントガラス、その向かって右側に、ひっそり所在なげに立ちすくむ蜜蜂一疋を。

 まるで両目のごとく運転士と対称の位置に添乗員かと手すりをしっかと(たの)む、せめて初日くらいはと皺まみれの一張羅をわざわざ着込みし男一人(をのこいちにん)、そのあわれな場違いな影を──!


なお、憂きことの積れかし、なお憂きことの積れかし。 
(横光利一)
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