第5話 イノチ短シ恋セヨ乙女

文字数 4,009文字

 はやばや女子大勤めにも慣れて無聊に喘ぎだした春、百名足らずの新入生のうち最初に顔と名が一致したのはUさんだった。五月連休明けの授業後、教科書を手にやってきた。

「せんせえ」

 普段耳にしている間延びの「せんせ~」とは異なる十数年ぶりの「感性」に同じ抑揚で、一瞬返事に窮してしまった。いつも廊下側の前方に一人で座っている理由が閃光していたのである。

「……せんせえかあ」
「あっすみません──」

 漏らした感慨にきれいな奥二重が伏せってしまい、あわてて釈明する。

「いやいやっおれもそっち出身なんですよ」
「え、そうなんですか」
「実家は△△ですね」
「えーあたし〇〇です」

 同県の隣の市だ。「卒業時の国家資格取得率100%」という詐欺まがいの宣伝文句を全国津々浦々に垂れ流している看護学部でも、そこまでのご近所さんは初めてだった。それをそのまま打ち明けたら、

「あたしも初めてです、そんな近い人」

 化粧気薄く小ざっぱり整った色白の細面(ほそおもて)が、飾り気ないヘアゴムでくくった傷みない黒髪が、ぎごちない標準語で、ほっそり片手を添えて笑った。なんとはなしに日蔭で咲くシロツメクサを見た。

「せんせえ全然訛らないですね」
「もう長いことこっちですからね」
「いつぐらいから出なくなりました?」
「んー、十年くらいしてからかなあ」
「十年もかかるんですか……」
「そない言うたかて、わい仲ええツレ一人もおらんかったさかいにアテなりまへんで」
「そんなコテコテなん『もろたでクドウ』の世界ですよ」
「どこの世界よそれ、あっ新世界かいな、おおきにおおきに!」
「もう、怒られますよ」

 毎週なにかしら授業の質問をしに来るようになった。Uさんのいる中級クラスは二限で後が昼休みなので雑談が続くようにもなり、あちらは生協のおにぎりを、こちらは持参の飴玉を口にしながら、

「めっちゃ? めっさ?」
「めっちゃです」
「めっさは『もろたでクドウ』の世界ですかね」
「や、京都? じゃないですかね」
「そっちか。最近たまにこっちでも聞くんですよね」
「えっ『めっさ』をですか?」
「そう。『ウチ』みたいになってるっぽいです」
「あっあたしも前『ウチらさあ』って聞きました」
「ね」
「……あれ、カズハって『あたし』でしたっけ」
「ん? だれ?」
「やっなんでもないです」
「ああ新世界の恋人だっけ」
「あはは、なんかその言い方かっこいいですね」

 だいたい上方の訛りを話の種にしていた。二人だとよく笑いよく話すのに周囲とは群れず()れず、授業内でだれとペアを組ませても最低限のやりとりで済ませていて、やはりかとピンときていたが、黙っていた。

「なんだか訛り取れてきましたね」
「そうですかね」
「あんまり違和感ないですよ」
「でも昨日バイト先でお客さんに笑われました」
「バイトしてるんですか、忙しいのによくやるなあ」
「駅前の□□です、せんせえも来てください」
「ファミレスかあ、まあ行けたら行くわ」
「……ひゃくパー来おへんやつやん」
「ハハハ、それ今までで一番『世界』の感ありますね」
「えー『世界』は『来いひん』ですよ」
「確かに、きいひん、しいひん、できひん、──最近よく戎橋をグリコマンに追いかけられる夢を見るんですよねえ」
「ふっなんですかいきなり!」

 身の上話も聞くようになった。寮なので門限があるとか、授業が大変すぎて休日ほぼなしとか、ネズミのランドよりトロルの森へ行ってみたいとか、二つ下に妹がいるとか、看護師志望の理由とか、ぐずつく梅雨空も払えそうな清らかな顔容(かんばせ)で教えてくれた。

「バイトの面接のとき、いきなり店長にボケかツッコミか聞かれて、めっちゃうざかったです」
「いるいる、西の出身イコール全員が漫才師だって信じてるやつ」
「なんでなんですかね」
「まあテレビっ子なんでしょうねえ」

 そうこうするうち前期試験期間が迫ってきた。スパルタクスごっこしかできない視野狭窄症の教員どものおかげで、学生たちは期間中もれなく昼休みも図書館にカンヅメとならざるをえない。歓談は一時中断、グリコマンにうなされることはなくなった。

 英語科目は最終日に筆記試験を課した。無事に終えてさっさと採点しちまおうと控室に戻り赤ペンを振りまわしていたら、開けっぱなしのドアにUさんが顔を見せた。

「せんせえ」
「入っていいですよ、点数ですか?」
「はい、何点やったかなって」
「さっきちょうど丸つけしたんですよ、──はい『秀』確定」
「え、やった」

 手渡す紙一枚より軽やかに、綿ぼうしかとふんわり笑んだ。中級クラス唯一の満点だった。

「他の授業も大丈夫そうですか」
「たぶん……ほんまつかれました……」
「座って座って、もうだれも来ないから。コーヒー飲めましたっけ」
「あっはい、すいません」
「サーバぶっこわれてて冷コーしか出まへんけど」
「大丈夫です、でも冷コーは確実に『世界』ですよ」
「あかんまたグリコーが夢に出てきよる」
「グリコはグリコです」

 だだっ広い机の角で対座する。約ひと月ぶりの目もとに隈か涙かの跡がにじんでいて、前年に退学していった顔と顔がしみじみ思い起こされて、

「よく頑張りましたね」
「もうごはん食べるひまもなかったです」
「まじか……」
「最後の方は毎晩『もうやめたい』って母に電話してました。でも毎回『ヘイジのせんせえとお話してき!』って言われて、ああ頑張ろって──」
「ちょと待ってだれそれ」
「え、せんせえ」
「オカアサン!?」

 くすくす手が楚々と口もとに添う。ちなみに本名はハットリでもヘイジでもない。

「後期もまたお話してください」
「もちろんですよ。──あっでも『秀』なのでクラス上がっちゃいますね」
「えっ」

 当時まだ看護学部の英語科目は二人で分担していた。古参の通称ビビコが一年二年とも上級クラスを担当していて、前期に中級で「秀」を取った学生は献上せよと言いつけられていた。

「……ビビコですか」
「です……」

 自己陶酔型の人格ひん曲がり系で、「わかりにくい」「つまんない」「やつあたりババア」と中級下級クラスでも噂されていた。後から聞いたらUさんもそれは小耳に挟んでいたらしいが、

「上のクラスってせんせえ来ない日ィですよね」
「ですね、木曜三限だっけ」
「あたし『秀』やなくていいです」
「……まじで?」
「いいです」
「でも、せっかく頑張ってきたのに、もったいなくないですかね」
「せんせえとお話できなくなる方がもったいないです」
「あらあ……」

 ビビコの我田引水が気に入らなかったのもあって、善後策を思案してみる。と、前のめりが伏し目がちに引いていった。

「やっあの、最近あたし、また訛ってきた気がして、せんせえとお話してへんからかなって──」

 力なく背をもたせて、肩を落として縮こまり、両の手指を膝もとにつましく揃えて、全体うなだれきっている。

「あたし、自分の訛りが嫌なんです。こっち来たら、もうほんま嫌やなって……」
「わかってますよ、大丈夫」
「すいません……」

 透明なつぶやきが黄昏にするりと溶けた。きれいに櫛のあてられた髪の線また線が一糸の乱れなく束ねられている。

「あなたも語学に向いてますね」
「えっ」

 赤ペンを持ち直したら、ふっと上がった顔が夕焼けに負けじと赤い。

「ひとまず今日から『先生』って呼ばないとな」
「せんせい。……え、なんかきしょ」
「ハハハ、きしょいも『世界』ですよ。あとなんかも『な』が強め」
「──なんか、きも?」
「なんかきもォい」
「なんかきもォい、なんか、きもォい──」

 復唱しているそばで机上の答案を引き寄せ、和文英訳の二重丸を訂正し数ヶ所に下線を引く。ついで点数の「1」を毛虫にし、「0」の下に一つずつ丸をくっつけぐりぐりなぞって「8」二つに改竄する。

「満点には変わりないですからね、これはビビコに見られたときのため」
「ありがとうございます」

 成績「優」に一段下がる点数を認めて、にっこりした。

「あたし、語学に向いてるんですか?」
「向いてますよ。母語の訛りを正したいって思いは語学の二番めの近道ですからね、経験上」
「えっじゃあ一番は──?」
「それは内緒」
「えー」
「いつか自分で気がつけますよ」

 細く開けていた窓から夕風が忍び入ってきた。流されかける机上の答案に片手をそっと置き、

「あたし、英語もしゃべれるようになりたいです」
「楽勝楽勝」
「ほんまですか?」
「ほんまですけど、やり方を間違えちゃったらおしまいですね。半年一年あっという間に終わってなんも残らねえ」
「それが怖いんです。なんか四年すぐ終わりそうやなって、今やりたいことやっとかんと絶対後悔するって、この試験期間中ずっと感じてたんです」

 当時の自分に十発くらい鉄拳を浴びせてから言い含めてやりたい言葉がぽろぽろこぼれてくる。落ちかける日が窓の外はるか遠くにまぶしい。

「正しいやり方、教えてください」
「承った」
「あと、せんせえとごはん行きたいです」
「……」
「黙るのなしです」
「ハハハ、まあ来年ですね、酒呑めるようになったら──」
「いまが良いです、だめならだめって言ってください」

 強勢を「ま、い、だ、だ、言、だ」に置いて、若さ一色ほころびない瞳が見つめてくる。グリコマンが戎橋の欄干でパラパラを踊りながら"Carpe diem!"と叫んでいる──

「じゃ行きますか」
「あっ今からですか」
「もしかしてバイトですかね」
「や、ないです。でも……」
「でも?」
「……寝ちゃうかもしれないです」

 やはりUさんは言語感覚に秀でていた。秋にはすっかり訛りが取れて、おかげか後期は何人かと座るようになり授業後も続けて昼食会みたくなって、年明けには学部初の短期留学へ出た。

「あ、せんせえ」

 年度をまたいだ後も、昼食会の面々と練り歩いているのをしばしば見かけた。髪をほどいたり明るくしたり、大人びた微笑をたたえてこなれたふうに手を振ってきて、しかし「せんせえ」だけは卒業まで変わらなかった。

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