第2話 天使のケア

文字数 3,983文字

「子供みたいなこと言ってんじゃないわよ!」

 午後4時半すぎ、講師控室へと戻るため渡り廊下にさしかかったら、くぐもった怒鳴り声がした。なんだなんだと目を上げるや、

(あっ先生)

 突き当たりに見慣れた顔が覗いた。二年生のHさんだ。

(こんにちは)
(おとといぶり~)

 続けてぽろぽろ覗く。丁寧な会釈のMさん、ひらひら手を振るIさん、そろって実技科目の後らしく白衣姿である。小声なのでひとまず真似して、

(Aさんはお休みですか)
(せっ、きょう、ちゅう)
(バイ、アン、ドー)
(課題が間に合わなかったんです)

 HさんIさんが講師控室をリズミカルに指さして、Mさんが不安げに答える。角を回りこんでみると在室時は原則開放のドアがぴったり閉じていて、

「なにが『おなか痛くて』よ、バカにしてッ!」

 バァンと机を叩く音とともにガラスを掻きむしるような声が漏れてきた。確かにアンドウらしい、二年次の専門科目を担当する元看護師の、60手前の非常勤講師である。

「あなた先月もそれ(﹅﹅)で遅刻してたわね。やる気あるの?」
「……あります」

 渡り廊下のはじっこの壁に四人並んでへばりつき耳を澄ませる。

「じゃあどうしてそんないいわけするの」
「……」

 四人は一年次からの仲良しである。

──どうして看護師になりたいと思ったんですか?
──あの、タイトルは忘れちゃったんですけど、むかし伝記を読んで。
──白衣の天使系?
──それ系です、ふふふ。

 前年の春、初めての女子大また看護学部の初回授業で、新入生だったMさんにまず話しかけた。背もたれを使わない居住まいが気になっていた。

──Aさんは、どういうきっかけなんですか?
──背おっきいですね。
──なるほど背が大きいから看護師にね、把握。
──ちがいますよ先生が!

 Aさんは「バレーボール中の怪我のリハビリで会った看護師に憧れて」、Hさんは「食いっぱぐれそうにないから」、Iさんは「祖母も母親も看護師で」とのことだった。

「それで社会に出て通用すると思うッ!?」
「……すみませんでした」
(先生あいつ黙らして、それか殺して)
(殺しでいいよ、まじ殺そ、殺す)
(……)

 キイキイ叫びほそぼそ謝る、暴力的な構図に義憤の念がたぎる。白衣姿とは裏腹に二人も気色ばんでいて、両手を胸で握りしめる人にも祈るように見上げられ、ハラを決めた。

──センセみたいなお方だと、気苦労も多いでしょうね。
──いえそんな、へえ。
──お相手はいらっしゃるのかしら。
──や、そういうものは。
──マア、あたしならすぐ食べちゃうのに。ちょんちょん、って。
──エヘヘ……
──やだかわいい、ホホホ!

 世間知らずの人格破綻者アンドウには、初対面で胸をつつかれてから会うたび胸や肩やペタペタ触られていた。どこぞの大学病院のお偉いさんらしい夫ありきの似非アカデミシャンで、かねがね一矢を報いてやりたいと思っていたところだ。

(おれ行くから、ちょっと下がってな)
(おっけ!)
(かあっくい~!)
(すみません)

 言い置いて角を回りこみ、ノックしてドアを開ける。

「はあい、あらセンセ、──ヤダもうこんな時間じゃない!」

 こもった初夏の熱気と粉っぽい芳香を嗅ぐ。すぐそこに黒染めボブカットが座り、奥にAさんが、両手を下腹部で組んで立っていた。

「お疲れさまです、──あっすみません」
「いいのいいの、お入りになって。お待たせしちゃったかしら」
「やっ今来たところで」

 直立不動の両肩がほっと脱力して見えた。バレーボールをやめてから伸ばしているという髪をお団子に結わえて、すらりと白衣が似合っている。

「ごゆっくりなさって。──とにかく来週までにやってきなさいよッ!」
「はい、ありがとうございました」

 主従じみた角度で深々とお団子が下がる。いそいそ立ったアンドウ、ドアを背で支えている目前を通り過ぎかけて、止まる。

「……センセ、ちょっと遅刻を甘く取りすぎじゃないかしら」
「え、そうですかね」
「月経痛なんて、女はなんとでも言えますよ」
「でも、顔まっ白だったり、うずくまってるときもあって──」
「もうっ、だまされちゃだめッ」

 夜伽かとなれなれしい囁き声、(はりつけ)じみた胸に右手が乗る。

「あんまりお優しいと図に乗っちゃいますよ、オンナは」
「は、すみませッ」

 右手がさわさわ動く。そ、と離れて、す、と戻る。皺の指先が一本また一本と左の乳首を舐める。

「それじゃ、また──」
「お疲れさまでした」

 足音なく出ていった。遠くの方でチーンと聞こえ、低頭から直っていた困憊の目がほころんだ、ところへわっと三人が飛びこんできた。

「行った行った」
「がんばったね」
「先生ナイスう」

 次々抱きつかれる口からぶつぶつ呪詛がやまない。

「まじ殴りたいしねヒスババアしねしねしねしね──」
「しねしねしねしね──」
「せんせえハモんないでえ」
「アハハハ!」
「言ったじゃん、アイツに生理は通じないって」
「だってほんとなんだもん」
「他にもやってない子いるのにね」

 アンドウは贔屓がひどい。気に入った学生は自宅に招きまでしてかわいがるが、そうでない大多数はあからさまに悪しげに扱う。基準も日替わりか定かではない、と前年の二年生が泣きながら教えてくれた。彼女は中退した。

「先生ごめんなさい、遅刻ゆるしてくれてるの、言っちゃいました」
「なんも謝ることないです。これからもそのときは遅刻欠席気にしないでオッケー、メールだけください。みんなもよ」
「りょおかい!」
「先生だけだわほんと」

 教員たちは九割が女性のくせ、十割が女性である学生たちに一切の配慮(ケア)をしない。しないで、まるで若い心身を耗弱させるが狙いかと寝る間もないほど課題を出しつづけている。すでに四人も痛み止めの錠剤漬けだった。

「先生ほんとに胸さわられてた」
「えっ見たかったあ」

 アラ還の色情おさわり(へき)については、いつか授業中"harassment"が出てきて解説に使っていた。だれとは明言しなかったが、みんなクスクスしていた。

「通報しないんですか? 完全にセクハラなのに」
「敵に回したら何されるかわからないですからね」
「エッつら~、てかキモッ」
「それで社会がどうこうって──」
「おまいう」
「もうそんなやつばっか」

 アンドウは氷山の一角にすぎない。そこは全学年350人余りが裏アカで「ダマサレタ」と「オワッテル」とひっきりなくつぶやいているほど、理不尽、不条理、稚拙、暴言、えこひいき等々が横行している、ケア(思いやり)の心なき元看護師どもがのさばる巣窟なのだ。

「あーあ、ムダに疲れた……」
「やばッ精神看護のレポート」
「だ~思い出しちったあ」
「わたし心理療法は途中までやってるよ」
「マジなんじ神い」

 過重と暴虐のまっただ中でもくじげず手を取りあう彼女たち、愛でらるるべくして生まれた花のほか何でありえようぞ。

「みんな無理しないようにな」
「はあい」
「先生ばいばーい」
「ありがとうございました」
「──せーんせっ」

 コーヒーサーバをいじくっていると、出ていく三人と離れてAさんが跳ねてきた。恥じらいを噛み含んだような呼びかけに向かい合うと、ぐいっと上体を突き出してくる。

「お、れ、い」
「お礼?」
「さわっていいですよ」

 はにかみがあやしくささめく。

「きゃあ」
「えっなに、うそ」
「おおお……」

 ドアぎわに群がる三者三様の反応に背を押されたように、さらに半歩ぴょんと跳ねていよいよ両肩を反らして、

「助けてくれたお礼です。はいッ」

 どこか弾けそうなほど白衣の一部分が強調される。ふんわり目と鼻の先に花やぐ香り、ガァンと頭の中でなにか金属的なものがぶつかりあった。

「やっば! やァっば!」
「せんせえ見てるだけでいいのお?」
「よくないけど、いや見てないけど、ちょっと待って──」
「ふふふ!」
「待ってな、これまじで、クビ飛ぶやつ」
「だれにも言わないですよ?」

 とてつもない惹句と小首の連携技にコンプライアンスの盾も掲げたそばから木っ端みじん、ああ三千世界の教師を殺し主の団子をほぐしてみたい──

「──や、気持ちだけで十分です、ありがとう」
「えー……」

 かすかに上下するふくらみが、がっくりへこむ。

「先生つまんない! そこはいくでしょ!」
「なんか超かなしい……」
「どんまいどんまい」
「あーせんせえ泣かしたあ」
「ちがうちがう、そういう意味じゃなくて」

 再び駆けこんできた三人に抱きとめられAさんシクシクやりだした。ただし全員が半笑いである。

「強い立場でやりたい放題って、アンドウみたいだしな」
「全然ちがいますよ先生は!」

 Mさんがその日一番の、一年二ヶ月強で一番の、大きな声を出した。

「ありがとう。でもおれもああやって触られてるからさ」
「あッじゃあじゃあ──、せんせえちょっとあっち、ゴー!」

 ひらめき顔のIさんに追い払われて、サーバのコーヒーを手に隅の方に下がる。四つの額がこそこそ明らかに悪だくみをしている──

「ちょっと左腕(さわん)お借りしますねえ」
「右も~コーヒーは机に置いてくださあい」

 散会ただちに元気と陽気に大股で迫られ、それぞれに両腕を取られる。

「はあいゆっくり退()がりましょお」
「アッタマ気をつけましょうねえ」

 そのまま後退させられ壁に押し付けられた。さすがの手並みと感心するや両腕とも肘と手首を各両手に抑えられ体重をかけられ縛された格好、いよいよ磔である。

「これからヒスババアの上書きをします」

 元バレーボール部キャプテンが粛然と言い放ち、パチパチ電気を消して、一歩一歩と近づいてくる。きょろきょろ首だけ廊下に出してから静かにドアを閉めガチャリと鍵までおろした深窓の嬢が並ぶ。

「これは医療行為ですからね」
「先生なあんも悪くないよお」
「はいリラックスう、じっとしてえ──」

 夕焼けの色濃い控室の隅の暗がりで、白衣をまとった四人の天使がケタケタと悪魔のように笑っていた。

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