第3話 オムライスと誘惑

文字数 4,047文字

 十月初週、後期授業が始まった。秋雨つづきで鬱々たる中およそ二ヶ月ぶり大声で270分しゃべり続けたせいか、三限の一年生クラスを終えたころにはクタクタだった。

「先生……」

 次の教室へと散ってゆく花々を尻目に座り込んで、教卓を挟んで目前に来ていた一輪にも声をかけられるまで気づけなかった。

「ハイハイどうしました」

 とにかく腹が減っていた。早起きも久しぶりで朝はバナナにヨーグルトで間に合わせ、それから七時間あまりお茶と煙しか()んでいない。それまでも昼はアメ玉で凌いでいたが、その日は小物入れの巾着ごと忘れてしまっていたのだ。

「成績について聞きたいんですけど……」

 前期の単位を認定しなかった学生である。まだ高校生の休日の域を出ない格好ばかりの四月初回から背のざっくり開いた黒のワンピースを着こなしていて、同じ19とは思えないほど妖艶だった。

「あなたは『不可』でしたね」
「はい……」

 たいてい一人で座り、淡々と受けて出ていって、課題はいつも一着二着で優秀だった。なのに試験日には現れず事前も事後も連絡がなく、落第させざるをえなかった。

「試験日は、どうされたんですか」

 袖も丈も長めのVニットの深い切れ込みに黄白の(はだえ)がまぶしく覗いている。肉、肉だ。少し塩っぱくもふくよかな歯ざわりを、頬の削げんばかり甘美な味わいを、骨の髄までしゃぶり尽くしたい。

「おなかが痛くて、起き()なかったんです……」

 今にもこぼれ落ちそうな潤みを乗せた惹きつけるより引きずり込む種の目色が、余韻を孕んだささやき声に従い長いまつ毛をつれてひたり、ひたりと閉じ開く。

「月経痛ですかね」
「はい、すみません……」
「いや謝ることないですよ、本当に」

 黄色(おうしょく)肌理(きめ)に、ぶりゅ、ぶりゅ、と気泡ひりだし飛び散る赤、──いやいやそれなくてもいい、一度でも「女子大」を味わえるのなら、添加物や化学調味料まみれの据え膳でも構わない。今ならなんでも食える。

「やっぱり再履修ですか……?」
「そうなっちゃいますね。今日が試験当日ならなんとでもなったんですけど」

 雪花石膏めいた肌に鎖骨が(たお)やかに息づいている。教員用の回転椅子が尻の下でギシギシと鳴る。風に吹かれた雨つぶが閉めきった窓をバラバラ叩いている。

「──あの、単位もらえませんか」

 さあ器具(カトラリー)なぞ無用、じかに吸いついてやろう。ふるふる柔らかな皮にそっと歯を立て、柘榴(ざくろ)に似た赤々しい中身をむさぼり、したたる甘露の肉汁(ジュース)を舌で(もてあそ)んで、卵で精をつけるのだ、今すぐにだ。

「おねがいします、『可』でいいです」

 哀願の眼差しが下りてくる。マスクのむこうに湿っぽい吐息を嗅いだら教卓がギイッとこちらへずれた。卓のへりに乗りかかり押しつぶされた(まろ)みの塊ふたつ、そのあわいに開いた深淵が、小さく凹凸(おうとつ)する口まわりの不織布に調和して、かすかに喘いでいる。

「再履修だと留年しちゃうんです……」

 翌年に一年次の科目を再履修するということは、本来その時限にある二年次の科目が履修できなくなる。看護学部は授業日程に余裕がないから、早晩どこかで行き詰まる。そして年間二百万円弱かかる。

「おねがいします……」

 終業チャイムがどこか遠くで鳴っている。次は空き教室、ずっと二人をのぞいて誰もいない。迫りくる濡れそぼった視線が、そのことを確認するかのように扉の方へそれて、しっとりまばたき戻ってくる。

「……」

 (あきた)りないよ。そうやって胸はだけさせて、甘ったるく囁かせて、こんな近寄らせているのは、「あなた」じゃなくて「おれ」なんだよな。あなたが女だからっていうより、おれが男だからなんだよな。そうなったらもう、慊りないよ。

「却下だなあ」
「うそでしょ!」

 マスクをアゴにずらして鼻をぽりぽり冗談ぽく宣告してやったら、とたん突っ伏した。あたりは香水か整髪料か気だるげな香りでいっぱいだった。

「先生おねがい、まじ留年なんです」

 一転ガバッと()ね起きて、肘をついた両手を擦り合わせる。赤い下着が血痕のように深淵をなぞっている。

「まだ確定ってわけじゃないだろ、ほら見えてるから──」
「おねがい! ほんっとおねがいします!」

 視界に赤が入らないよう手をかざしたら、すかさず両手が掴んできた。すべすべとして柔らかくて、死人のように冷たい。

「もう手遅れなのよ」
「なんで? 今って前期の成績変更期間じゃないんですか? 成績は先生が決めるんですよね、ね?」
「決めるのはおれだけど、今もう成績は職員が保管してるから、それ相応の理由がないと変更できない、って感じ」
「それソーオーの……?」
「入院とか事故とか忌引とか、公欠的なの」
「まじ……」
「だから当日に連絡がほしかったのよ、追試をやったら済んだ話だし」
「だって生理痛だったから──」

 そこは女子大なんて名ばかり「男」の原理で動く看護学部、月経痛は配慮されない。男の教員だとなおさら言い出しづらいだろうし、まず学生にとっては語学担当だろうと同じ「先生」だから同類と思われても仕方ない。まだ柔軟な対応を周知していなかった一年めの秋のことだった。

「おれはそこらへんの教員とは違うから、次からは遠慮なく言うようにな」
「次なんてないですよ……」
「あるよ、死にはしねえんだから。ほら、ちゃんと立ちな」
「えー……」

 やっと離した両手でニットの両肩をつまみふわりと引き上げ、取り出したスマホをかざして顔を右左と確認、襟足から黒髪そよがせて、あはれ狼藉の跡はすっかり消えた。下着も鎖骨もしっかり隠されている。

「すげえなあ本当……」

 いろんな感慨が口からこぼれた。聞きつけた目がニヤリ細まった。マスクのふちに朱がさしている。

「えっ赤くなあい?」
「は? うざ!」

 ますます色濃い赤らみを右手がハタハタあおぎだした。やっと19歳らしい感じがしてホッとする。

「おねがいしますウ」
「ねえ違うから!」

 こちらもVネックにつき首もとを引き下げつつ茶化したら、いよいよマスクをずらして両手で左右から懸命にあおぐ。初めて目の当たりにした素顔は尋常ではなく整っている。

「先生歯並びいいんですね」
「おかげでエラ張ってるけどな」
「そんなの張ってるうちに入らないですよ」
「あなたもきれいじゃん」
「あたしは工事(﹅﹅)してるんで」
「ふうん、って次も必修じゃないんですか」
「んー……」

 始業のチャイムが響く中、「噐」のようなロゴのあるトートを肩に肯定とも否定ともつかない返事をして、ドアぎわまでぶらぶらして柳のように身をもたせかける。荷物をまとめて電気を消して先に出たら、後からついてきた。

「高そうなカバンだな」
「もう飽きました」

 二足を廊下に響かせながらエレヴェータに乗り込む。

「新しいの買ってくれます?」
「買わねえよ」
「ですよねえ……」

 壁にしなだれかかって床の一点を見つめている目が、下がる箱の下の下の奈落の底まで透かしているような、やけにからっぽな色をしていた。一階に着いても扉が開いても動き出さず、やや間があって「すみません」と苦笑まじりに身を起こした。

「あたしも今日は帰ります、どうせ留年だし」

 カバンを両手に提げて、歯列きらつかせ言った。それがなんだか無性に寂しげで、どうしようもなくて、翌週に驚かしてやる気だったのをつい打ち明けてしまった。

「教員の手違いが理由だったら大丈夫よ」
「……?」
「手が滑ったとか目バグってたとか、なにか理由にして間違った成績をつけてしまったから変更したい、って申請したらたぶん通る」
「え! あっでも先生のせいになるってこと……?」

 パッと19年めの花が咲いて、すぐにしぼむ。

「留年したら退学で、家も追い出されるんだろ」
「はい、ってよく覚えてますね」
「覚えてるよ。そうなったらコテツ君が寂しがるよなあ」
「そうなんですよ! それが一番悲しくて……」

 両親が厳格(stern)すぎて実家暮らしには辟易しているけれどかわいいトイプーがいるから頑張りたい、と前期初回の自己紹介に書いていた。

「今回はコテツ君に免じて、おれのせいにしてもよろしい」
「ありがとうございます! なんでもします!」
「言ったな、じゃあ約束」
「はい!」
「さっきみたいなのは二度としないこと、特に大学では」
「え」

 ふっと笑顔が翳る。ややむくれている。

「……だって、正直に言ったってイヤミ言われるだけなんですもん」
「イヤミ言われたらそれ録音なりスクショなりして拡散してやりゃいいんだよ。ここの異常を世にしらしめてやれ」
「えったのしそう」
「自分に間違いがないときは、正攻法でいかないとな」
「──セイコウ、ホウ?」
「まっすぐぶちあたれってこと。あなたには能力もあるんだから、その方がかっこいいだろ」
「……うん」
「自分を安売りしちゃだめよ、こんなところで」
「わかりました。安売りしない」

 食堂の前を通りかかったら、掲示板の日替わりランチ欄は空白になっていた。

「オムライス食いたかったなあ」
「あたしが作った方がおいしいですよ」

 料理が趣味だとも自己紹介の冒頭に書いていた。爪を短く切りそろえていて意外だったのも納得できたほど、毎日いろいろ作っているらしい。

「それで今日のところはイヤミ言われないだろ」

 別れぎわ壁を机にして、余りのプリントの裏に「次が授業と知らず質問に対応していて遅くなった失敬」など走り書きし、日付と署名つきで渡した。

「先生いつか、あたしのオムライス食べてください」
「いつかな。早く行きな」

 送り出したその足で教務課へ寄り、成績変更申請書を書いて、面倒そうな中年職員に頭を下げて、帰路に着いた。その日も朝はタクシーで来ていたから節約の徒歩行である。

 普段なんてことない丘越えでもふらついてしまってしょうがない。両脚からごっそり力が脱けていて、宙を浮いているようにふんばれず、延々と靴底に当たる幕状の雨水にさえ流されてしまいそうだ。

 なんとか頂上にさしかかるや、そばをジャアアと見慣れたバスが追い越していって、右の膝までぐっしょり濡れた。雨はいよいよ降りしきる。

 ああ、腹が減った──

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