第1話

文字数 9,762文字

 アフリカ大陸は世界で二番目に大きい大陸である。
 ピラミッド、世界最長のナイル川、キリマンジャロ山やケニア山、ビクトリア湖やタンガーニ湖、大湿原やサンゴ礁と自然豊かである。ダイヤモンド、金、鉄、銅、石油などの地下資源が豊富で、コーヒー、カカオ、砂糖、茶、綿花などの農産物も多い。
 五十四か国、人口一一億八〇〇〇万人(二〇一五年統計)、民族は約九〇〇、言語は一五〇〇に及ぶとされ、民族によって体格や性質が異なり、言語、宗教、文化、慣習も違う(部族か民族かの論争があるが、韓国人と日本人、中国人ほどの違いがあるためここでは民族と表記する)。人種も多様で、アラブ系、アジア系、イギリス系白人、インド系住民、中国人……と複雑である。
 十五世紀、ポルトガル、ドイツ、フランス、イギリスなどの西欧列強がアフリカを次々に植民地化した。
 西欧列強はアフリカ大陸を地形や民族、言語に関係なく国境線を引き、民族間の対立を煽り支配した。植民地の人々を奴隷として輸出し(人身売買)、石油や鉱物(ダイヤモンド、コルタン、金、銅など)を採掘させ、その富を独占した。農民から取り上げた土地で大規模農場(プランテーション)を開き、コーヒーやカカオ、茶、落花生……といった宗主国向けの輸出原産品を作ることを強要し、日常食べる主食や野菜を育てることを禁じた(モノカルチャー)。
 アフリカの人々は低賃金・長時間労働を余儀なくされ、子どもは家計を助けるため学校をやめ働く。農産品や鉱物は宗主国の企業や個人に取り上げられ、自分たちの食糧は他のアジア地域の植民地から買い取らなければならなかった。
 宗主国は自国利益のみを追求し、植民地の学校教育や医療サービス、社会福祉、水道・電気・道路などのインフラ整備には無関心であった。
 こうした植民地政策は三百年以上続き、一九六〇年以降にアフリカ諸国が次々に独立を果たした(『アフリカの年』)後も、多大な弊害をもたらす。
 三百年以上に渡る人身売買と(独立運動などの)内戦により労働人口は国内外へ流出し、そのため伝統的な農業技術は衰退し、国土は地雷や不発弾が埋まり荒廃した。学校教育の遅れから人材は絶対的に不足し、教育、医療、福祉、農業、製造業……、あらゆる分野が立ち遅れる。農業は植民地時代前と同じ雨水を頼る天水農業で、干ばつになると飢饉が発生した。不衛生な水と低栄養状態から病気が蔓延し、人々は治療を受けることなく死んでいった。
 独立後、旧植民地時代の国境線をそのまま引き継いだ指導者は『国の指導者』としての意識が薄く、身内や出身民族と軍に、国家の利益を分配し、他民族が住む地域は顧みなかった。クーデターや暴動を防ぐため国家予算の半分以上を軍事費へ回している国もあると言われている。油田や採掘場で生まれる利益は全て国家や国家と締結する外国企業が吸収し、地元住民には還元されない。
 首都や都市部は空港、幹線道路、レストラン、ホテル……などが次々と建てられる一方、都市から離れた農村部は電気や水道、道路も通っておらず、学校や病院もない。
 都市部は地価が高騰し、輸入品に頼るため物価は先進国並みかそれ以上である場合が多く、一握りの富裕層と外国人しか開発の恩恵を受けられない。世界中の料理を味わい、ワインやビールをたしなみ、キャッシュレス決済で買い物をするなど先進国並みの消費生活を送る人々がいる一方で、国民の大部分が一日二ドル以下で暮らす貧困状態に置かれている。
 著しい格差と貧困は紛争と内戦をひき起こすだけでなく、病気や飢餓の蔓延、児童労働、児童婚、人身売買、奴隷労働、薬物依存、売春、子ども兵……、様々な社会問題の要因となっている。
 (主に『アフリカは今 カオスと希望と』を引用)

 ※

 スーダン(現在の『スーダン共和国』と『南スーダン共和国』)はエジプトの南に位置し、アフリカで一番広い国土面積を持っていた。
 一八九九年以降、スーダンは植民地国家としてイギリスとエジプトの共同統治下に置かれる。イギリスは、(イスラム教徒のアラブ系住民が多い)スーダン北部と(キリスト教徒及び土着宗教信仰者の黒人系住民が多い)スーダン南部を分離し統治した。
 イギリスが敷いた『南部政策』により、南部は政治を担うような人材が育たず貧しいまま放置され、やがて北部は南部の住民に差別意識を持つようになる。北部住民による南部住民の奴隷狩りも行われていた。南北の分断は進み、政治的、経済的格差が拡大し、南部住民の不満が蓄積していった。
 一九五五年に北部と南部の内戦が始まる。
 一九五六年一月、北部と南部は『スーダン共和国』としてイギリスから独立。北部の指導者はアラブ・イスラム化政策を国内に推し進め、これに反発した南部の住民が分離独立をめざし対立が激化していく。
 第一次内戦(一九五五~一九七二年)と第二次内戦(一九八三~二〇〇五年)を経て、二〇〇五年一月に南北スーダン包括和平合意(CPA)が調印され、内戦が終結する。
 (主に『南スーダンの歴史と現状』を引用)

 内戦が終結した三か月後の二〇〇五年四月 南部スーダン(後の『南スーダン共和国』)。
「アニヤ、シドを頼む」
 妻アニヤにそう言い、アキム・カダルはまだ日が昇らないうちから藁葺の家(トゥクル)を出た。
 久しぶりの大雨で地面はぬかるんでいる。アキムは空に瞬く星を頼りに、膝まで泥に浸かりながら仕事場までの道のりをぼろぼろのサンダルで歩く。
 冷たい風がむせるほどの草と泥の匂いを運んでくる。
 少し前から遠くの空に黒い雲が雷を落とし霞むほどの雨を降らせる光景を見かけるようになった。
 数日前、ここら一帯にも低い黒雲が現れ、太陽の光を遮り、雷を伴った激しい雨を降らせていった。水がめをひっくり返したような大雨は乾いた大地を萎びた草ごと押し流し、地形を変え、川を生み、池のような水場を作る。新しい川は蛇行し、枝分かれし、魚が泳ぎ、草木を芽吹かせる。青々とした草は人の背丈を遥かに超えて茂り、木々は幹を伸ばし、枝を伸ばし、葉を茂らせ、木の実をつける。
 雨期が訪れ、赤土と枯れ草が目立っていた広大な大地は緑輝く草原へと生まれ変わっていた。
 牛や羊は青々とした草を食み、川縁や水場で喉を潤し、木陰で昼寝をする。子どもたちははしゃいで水をかけ合い、魚を捕っていた。
 村に最初の雨が降った翌日、村人総出でモロコシの種を蒔いた。アキムも仕事を休み、村の男たちと共に稲を植えた。
 モロコシは次の収穫の時まで家族が食いつなぐ大事な食糧だ。乾期は雨が全く降らない不毛の季節。雨期に種を蒔き、実ったモロコシを刈り取り貯えておかなければ乾期を乗り越えられず家族ともども餓死する。米は高級品で金になる。稲が育たなければ現金収入が途絶え野菜や肉が買えず暮らしが困窮する。
 牛や羊といった家畜がいれば不作であっても売って金に換えられるが、牛は高額で、貧しいアキムには手が届かない。
 家畜を持たないアキムにとって作物を収穫できるかどうかは生き死にに関わる。
 ――……種は蒔いた。稲も植えた。後は雨を待つだけだ。
 アキムは満天の星空を見上げ雨を願った。
 仕事先の採掘場まで歩いて一時間半かかる。朝六時から夕方五時まで働いて日給一五〇円、これで家族四人分の食事を賄う。
 生まれる前から戦争続きでアキムは学校へ行けなかった。そもそも学校自体がなかった。アキムは三十歳を過ぎても読み書きができず自分の名前すら書けない。賃金が不足なく支払われているか計算できず、雇い主は公用語である英語とアラビア語しか理解できないため、公用語が話せないアキムは賃金の増額や前借りを相談できない。
 内戦が終わり、避難先から人々が戻り始めている。遅刻や欠勤をした者はすぐに解雇され、翌日には新しい労働者が雇われた。賃金や待遇に不満があっても我慢するしかない、代わりはいくらでもいるのだ。
 妻アニヤは乳飲み子を背負い朝早くから水汲みに出かけ、日中は村の家畜を世話する代わりに野菜やミルクを貰う。五歳になった長男のシドは一週間前から高熱にうなされていた。
 村の祈祷師に悪い血を抜いてもらったが良くならず、職場の同僚に腕がいいと評判の祈祷師を教えてもらった。村外れに居を構え、滅多に外出せず、家人と依頼人にしか姿を見せないという。
 シドを背負い初めて住まいを訪れたアキムは、背中が曲がった小柄な老婆が祈祷師本人だと知り驚いた。
 女祈祷師ラデュ・カマンは重々しく告げた。
「体の中に汚れが溜まっておる。家で一番価値があるモノをこの子に与えればたちどころによくなるであろう」と。
 家で一番価値があるモノ。
 日々の食事に事欠く暮らしをしている、値打ちがある物など一つもない。
 シドは見る間に痩せこけ、数日前からは食事も取っていない。
 ――……もう、だめかもしれない。
 アキムは暗い気持ちで仕事場へ向かった。

 監督バデン・ゾロゲに名前を告げる。監督は帳面にペンを走らせシャベルを持って行くよう指示する。
 アキムは無造作に置かれたシャベルを手に取りながら、監督が持つ帳面をちらちらと見る。
 以前、「お前の名前はない」と言われ賃金を貰えなかった。
 ちゃんと名前を監督に言ったし、作業中、監督と何度か目が合った。アキムが現場で丸一日働いていたことは当然知っているはずだし、知らないと言うなら汗だくで疲れきって目の前に立っている男は誰なのだ。そう言いたかったが、監督に反抗し辞めさせられたら家族を養えなくなる、それだけはどうしても避けたかった、アキムは「私はずっと働いていました」と主張するしかなかった。
 監督は「お前の名前がどこにある」と帳面をアキムに押しつけたが読み書きができないアキムは自分の名前を探せない。
「本当にいました。ずっと働いていました」と一緒に働いていた同僚の名前を出し、作業をしていた場所を事細かく説明した。
 監督はうんざりした様子で「次からは自分で書け」とアキムを追い立て、賃金を払わなかった。
 字を書けないことを知っていて……わざとだ、とアキムは悔しかった。
 しつこいと思われたのか、それ以後、名前がないとは言われなくなったが手渡される賃金が毎回違う気がする。確かめたくてもアキムは計算ができない、黙って受け取るしかなかった。
 アキムは目の前を流れる川に膝下まで浸かり、シャベルで川底の泥をすくい上げ、同僚が構えて持つ大皿に泥を注ぐ。同僚は大皿を揺すって泥を流し、ダイヤを探す。
 仕事場は半分近くが子どもで、母子で働きにくる集団もいる。監督は『全ての労働者を子どもに入れ替える』つもりだと同僚が教えてくれた。『安く雇え、文句も言わずによく働く』からだと。
 川は浅く、十五歩もあれば向こう岸に渡れる。流れは緩やかで、少し離れれば草に隠れ、乾期は干上がり細長い窪みに変わる。
 溺れる心配はなく、泥をすくって石を探す作業を繰り返すだけ、下痢や虫にさえ気をつければ子どもで事足りるということだ。
 二十数年前、この川で水汲みをしていた子どもがきれいな石を見つけ家へ持ち帰った。ちょうど村を訪れていた外国からの客人が石を手に取り、「これはダイヤの原石だ。とても価値がある物だ」と大騒ぎした。大人たちは驚き、子どもに川の場所を案内させた。
 川の存在は瞬く間に知れ渡り、一攫千金を狙う者が次々と現れた。しかし、再び内戦が始まり、人々は散り散りになった。
 内戦が終わった今は地主の一族が労働者を集め、シャベルや大皿を貸し出しダイヤの原石を採らせている。雇い主である地主の一族は滅多に姿を現さず、雇われ者の現場監督ゾロゲが主のようにふるまう。
 同僚が大皿の泥を全て捨てる。
 空振りだ。
 アキムはシャベルで川の縁を掘り、同僚が構える大皿へ泥を注ぐ。
 元々大きな鉱床ではなかったのか、ダイヤはなかなか見つからない。雇われの身では例え見つけても報酬は変わらず、儲けは全て監督を介し雇い主の懐に入る。監督がダイヤと労働者の賃金をくすねているという噂もある。
 銃を肩に提げた監視の男たちが川縁に立ち、盗みをしないか目を光らせている。
 シャベルを突き立て泥をすくう音があちらこちらで響く。川縁の草は抉れ、水は土色に濁り、川底はでこぼこだ。
 アキムは場所を変えた。川底を踏み続けた足裏は固く厚く、ちょっとやそっとでは傷つかない。虫に刺されても平気だ。再び川底を掘り始める。
 目の端に何かが映りドキリとした。
 茶色く濁った川底に黄色く光る物が垣間見える。二度、三度と見直し、しかし変わらず光を放つそれに釘付けになる。
 額がじっとりと汗ばみ、こめかみがドクドクと脈打ち、胸が早鐘を打つ。
 シャベルの柄を持ち直し川底をさらうふりをしながら光る物にゆっくりと近づく。足をわずかに浮かし、それを足裏で踏み隠した。
 固くなった皮膚を通しても分かるほどすべすべしている。
 流されてきたのだろうか。それとも、誰かが掘った場所から転がってきたのか。
 傍にいる同僚は背中を向け大皿を揺すり、気づいていない。
 足裏で掴んだ砂がさらさらと流れ、滑らかな塊が残る。
 ――……間違いない、ダイヤの原石だ。それも、大きい。
「どうした、あったか」
 川岸から声がかかる。監視だ。
「いえっ、石ころです」
 とっさに嘘をついた。
 アキムは足裏に伝わる感触を逃すまいと五指に力を入れ、シャベルを川底に突き立てた。

 仕事を終え、アキムは家へと急いだ。
「アニヤ、シドはどうだ」
 乳飲み子のディオを背負った妻アニヤが両目を腫らし泣いていた。駆け込んだアキムの肩に寄りかかる。
「どうなんだ、シドは」
 アキムはアニヤを押しのけゴザに寝かされたシドの顔を覗き込む。口元が濡れていた。
「さっき、泡を吹いて……。呼んでも返事をしないの」
 アニヤが両手で顔を覆いすすり泣く。
 アキムはアニヤの両肩をつかみ、
「まだ間に合う。祈祷師に診せに行こう」
 シドを抱き上げ祈祷師の家に向かった。

 祈祷師の前にシドを寝かせる。シドは呼びかけても返事をせず、体を揺すっても反応しない。目の周りは落ち窪み、頬の肉は削げ、唇は青く粉をふいている。アキムはシドの口元に耳を寄せる、息遣いは弱々しく今にも止まりそうだ。もはや時間がない。
「これを、シドに。これでシドを助けて下さい」
 アキムはポケットから石を取り出し、祈祷師に握らせる。
 祈祷師は手を開き、瞠目した。
「……これは」
 祈祷師は厳しい顔でアキムを見据え、恫喝した。
「精霊様は汚れを嫌う。罪を犯して手に入れた石を使えば精霊様の怒りを買い、どのような災いが降りかかるか分からぬ。お主、その覚悟はあるのかっ」
 アキムは震えあがった。
 石が盗品だと知られればシドを助けるどころか我が身も危うくなる。相手は祈祷師だ、見えないものを見る力があるという、嘘は通じない。跪き、全てを白状し許しを乞うてはどうかと己に問うたが、そんな暇はない、シドは死への入り口をくぐろうとしている。
 アキムはすがりつかんばかりに頼んだ。
「ち、違いますっ。今日の給金です。見つけた褒美です。神が与えてくれた慈悲です。これしかないんです。これでシドを救って下さい、お願いします」
 祈祷師は怒りの形相でアキムを見据えていたが、やがて深々と息を吐き、家人を呼んだ。
 祈祷師は香を焚き、呪文を唱えながら石を布で磨く。黄みを帯びた半透明の石を両手で恭しく持ち上げ、呪文を唱えかしこまる。
 アキムとアニヤは部屋の片隅で膝を折り、神妙に儀式を見守る。
「しっかりと、頭を押さえておれ」
「は、はい」
 アキムはシドの頭元に回り、膝を折り曲げた両脚でシドの両脇を押さえ、両手で小さな頭を挟む。ディオを背負ったアニヤはシドの両脚にまたがり、両手でシドの両腿を押さえる。
「……お願い、します」
 祈祷師はシドの傍らにしずしずと座り、石を掲げ、深々と頭を下げる。恭しく石を家人に預け、呪文を唱えシドの額にナイフを当てる。すっと動かした。
 押さえつけていたシドが引きつけを起こす。
 アキムは仰天し、頭をつかむ手の力を緩めてしまった。
 シドが頭を激しく振る。
「しっかり押さえておれっ」
「シドは熱があるんです、病気です」
 アキムは暴れるシドの体を必死に押さえ祈祷師に訴える。
 祈祷師は自然界に存在する神や精霊と会話し、時にその神秘の力を借りられる尊い存在だ、疑うつもりはない。
 『病気は体に溜まった悪い血を抜けば治る』
 アキムは承知しているし、アキム自身、幼い頃からそうやって治療してもらってきた。シドも村の祈祷師に散々血を抜いてもらった。効き目がなかったからここへ連れて来たのだ。生死の境にいるシドからまだ血を抜くつもりか、他に方法はないのかと暗に祈祷師を責めたのだ。
「静かにしておれっ。この者の体内にこの石を植えつけるのじゃ。さすれば汚れは浄化され病はたちどころに良くなるであろう」
 齢七〇を過ぎた老婆とは思えぬ手さばきで息子の額をスパッと切り、石をねじ込み、黒い糸で傷口を縫い合わせる。
 シドは悪魔に憑りつかれたかのようにのたうち、唸り声をあげる。五歳の子どもとは思えない力だ。
 アキムは必死にシドの体を押さえつけ、渾身の力で小さな頭をつかんだ、――早く、早く終わってくれと。
 シドの閉じた目から滂沱の涙が流れる。
 シドが抵抗を止めた。
「施術は終わった。手を離してよろしい」
 アキムはシドの頭から恐る恐る手を離し、後ずさる。
 シドは汗をびっしょりとかき、小さく痙攣している。額を割るほどの大きな傷が黒い糸で幾重にも縫いつけられていた。小さな額は大きく盛り上がり、血が顔面を伝い胸元まで流れ、無理に引っ張って縫いつけたからではないのか、縫った周辺の皮膚が引き攣れている。
 妻アニヤは顔色を失い、シドの両脚にまたがったまま動かない。背中のディオは火がついたように泣いていた。
「まもなく、病は癒える。この石が体内にある限り、この者はあらゆる汚れと災いから護られるであろう。……もし、この石が精霊様のお気に召さなければ、お主たちにとって価値あるものを新たに要求されるやもしれぬ……」
 祈祷師は意味深な言葉を言い残すと、一気に老け込んだように家人に両脇を支えられ、部屋を出て行った。

 アキムはシドを抱きかかえ、家人に施術代として今日の給金を渡し、ディオを背負うアニヤとともに家路についた。
 シドは腕の中で静かな寝息を立てている。
 アニヤは黙り、背中のディオも泣き疲れたのか静かだ。
 アキムは後ろからついてくるアニヤとつかず離れず歩く。
 満天の星が瞬き、生い茂る草がざわざわと音を立てる。
「石のことは誰にも言うな。シドにもだ。二人だけの秘密だ」
 アキムは耳を澄まし、返事を待つ。
「言いません。誰にも……」
 か細い声が風に紛れ、消えた。

 翌朝になりシドは目を覚ました。目に生気が宿り、あれほど色濃くあった死の影は消えていた。
「お腹がすいた」と腹をさするシドに、アキムはアニヤと共に安堵の笑みを漏らす。
 お金はシドの施術代に全て使い、食材を買うお金は残っておらず、昨夜からアキムとアニヤは何も食べていない。
 アニヤが近所から牛のミルクを貰ってくる間にアキムは血と汗で汚れたシドの体を水に浸した布で拭う。
 シドは気持ちよさそうに目を細める。
 シドの額は大きく盛り上がり瘤のようになっていた。瘤を中心にミミズばれが広がり、切り株を真上から見るような形だ。驚いたことに糸も縫い目もなく、額を割るように切った大きな傷痕は消えかかっている。
 ――……たった、一晩で……。
 シドが寝ていた頭元に細切れになった黒い糸くずがいくつも落ちている。アキムは二、三本を指でつまみ、よくよく見る。糸の端が溶けたように固く変色していた。
「どうしたの、父さん」
 シドが不思議そうにアキムの手元に顔を近づける。
「それ、ごみだよ」
「……う、うむ……」
 アキムは恐る恐る聞いた。
「……あたまは、痛くないか」
 シドはきょとんとする。
「痛くないよ。……でも、なんかドクドクする」
 意外な答えにおうむ返しに尋ねる。
「……ドクドク、するのか」
「うん。お母さんの胸の音みたい」
 シドは額に手を持っていこうとする。アキムは布で額を押さえシドの手を阻んだ。
 ――……祈祷師の力なのか。これほど大きな傷が痛くないとは……。
 アキムはシドの額に白い布を巻いた。
「これ、なに」
 取ろうとするシドの手をつかむ。
「外すんじゃない。これからは額を誰にも見られないようにしなさい。弟にも友達にも見せるな。絶対にだ」
 シドは物言いたげに上目遣いになる。
 車の警笛がした。高く響く音が家の中まで聞こえてくる。
 村で車を持っている者はいない。車は贅沢品でアキムの収入では到底手が届かない。持っているとすれば……。
「アキム・カダルはいるか」
 アキムはすくみあがった。監督だ。
「出てこい。聞きたいことがある」
 ――……やはり、ばれたか。
 監督が労働者の家に来ることはない、何もなければ。昨日の今日だ、ダイヤの原石を盗んだことがばれたのだ。監視に見つかったか、それとも誰かが密告したのか。
 以前、ダイヤの原石を盗んだ男がいた。大勢の男たちに囲まれ殴る蹴るの暴行を受け、息絶えた。監督は全身が腫れあがった死体を見て「よくやった」と褒めたのだ。
 彼らを責められない。
 アキム自身、盗みを働いた男を忌々しく思った。誰もが食うや食わずの暮らしだ。他人同士でも食べ物を分け与え、金銭を貸し借りし一日一日をしのいでいる。人の物を盗むとは人の命を奪うのと同じ、殺されても文句は言えない。
「早く出てこいっ。引きずり出されたいかっ」
 怒鳴り声とともに銃声がした。
 アキムは息を呑んだ。
 家の前で複数の足音が交錯し、話し声がする。時折、藁葺きの壁を棒か何かで突き刺している。警笛が鳴りやまず、銃声と話し声がひっきりなしに聞こえる。
 ――……監督の他に何人いるんだ。
「アキム。出てきてこの方たちに説明しなさい」
 村長アラン・ドゥの声だ。
 ――……村長も、いるのか。
 アキムの村では村長が強い権限を持っていた。身寄りを失くした村の子どもに村長が村人の中から子どもの育て親を指名し、アキムのような財産(家畜)を持たない男たちに村長が雇い主と話をつけ仕事を世話する。
 両親を早くに失くしたアキムが生きてこられたのも、学のないアキムがダイヤの採掘場で働けるのも村長の口利きがあったからだ。
 アキムにとって村長は恩人だ、逆らえない。そして、村長には揉め事を起こした者を処罰する権限があった。
 盗みがばれたら村を追い出される。もはや、逃げ場がない。
 ――……事情を説明したら……。
 無理だ。村長はともかく、分かってくれる相手じゃない。逆にシドの額を掻っ切ってダイヤを取り出しかねない。村長の信用を落とすことにもなる。そうなれば村の男たちの仕事がなくなる。隠し通すしか……。
 アキムはぎゅっと拳を握った。
「父さん、誰なの。ひどく怒っているよ」
 不安げに見上げるシドの手を取り、言い聞かせる。
「家の裏にある水がめの陰に隠れていなさい。父さんがいいと言うまで絶対に何があっても出てくるんじゃない」
 雨期に入った今、水を確保するために水がめを外に置いてある。
「なんで隠れるの。なにが起こるの」
 シドの顔は強張り、目がみるみる濡れていく。
 アキムは小さく笑い、シドの頭を乱暴に撫でた。
「男が泣いてどうする。母さんと弟を守れる強い男になれ。さあ、早く隠れなさい。絶対物音一つ立てるな」
 雨が降るとこの辺一帯は泥で溢れ家の中まで入ってくる。藁を被せた壁は腐り、開いた穴から虫が入らないよう布を被せていた。布をめくると子どもが一人やっと通れるくらいの小さな穴が現れる。
「さあ、早く行きなさい。いいと言うまで絶対に物音一つ立てるんじゃないぞ」
 シドの背中を押し急き立てる。
「う、うん」
 シドは前屈みになり、首をすくめ体を縮め、小さな穴の向こうへと消えた。
 アキムは穴に布を被せ、心の中で息子に語りかけた、――「母さんと弟を頼むぞ」と。
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