第9話
文字数 4,558文字
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アイシャが亡くなって数日が経った。
シドは家畜小屋の番に向かう。小屋の前に幌つきのトラックが停まっていた。イルシャードのトラックだ。商品を出荷するために訪れたのだ。
――………………。
あれほど待ち焦がれていたのに、少しも嬉しくない。腹も立たない。
遅すぎる、なにもかも。全部、終わってしまった。
何が、と己に問うても、答えが出る前に考えるのを止めてしまった。どうでもよかった。
イルシャードはジェイクと楽しげに話をしている。こちらに目をとめ、親しげに笑いかける。
「奥さん、死んだんだって。残念だったね」
ジェイクをちらりと見る。ジェイクは胸をそびやかし、すごんだ。
「俺がすぐ死ぬぞと言ったのに忠告を聞かないからだ」
イルシャードが自然な仕草でシドの肩に腕を回し、家畜小屋の扉を開ける。
「新しいのを一人見つくろう。どれでも好きなのを選ぶといい」
「……え、……あ、いまは……」
すっと視線を下に向ける。小屋の中は見たくない、アイシャはいないから。
「気晴らしに私と散歩しようか」
シドは驚きイルシャードを見上げた。イルシャードは柔和な笑みを向ける。
「こいつは仕事中だ。特別扱いはするな」
ジェイクが目つきを険しくする。
「彼は奥さんを亡くして傷心なんだ。少し休ませてあげよう。私も商品を運ばなければならないからそれほど時間は取らない」
ジェイクは眉を吊り上げ肩を怒らせシドを睨みつけたが、
「一時間で戻れ」
と許可した。
イルシャードはゆっくり歩く。目的地があるわけではないらしい、岩や茂みに突き当たると向きを変え、またふらふらと歩く。
シドは黙ってついていった。
射撃訓練をしている男たちが手を止め、ぽかんとする。示し合わせたように首を左から右へ動かす男たちが滑稽だった。
笑い者のシドがジェイクの友人イルシャードと歩いているのが不思議で仕方がないといった様子だ。
ジェイクの片腕、組織のナンバー・ツー、二強の一人、仲買人……、イルシャードが何者なのか、組織の中でも意見が分かれた。姿を見せない時はどこで何をしているのか、ジェイクさえ知らないようだった。
「君の奥さんはどこに埋まっているのかな。お墓を参ろう」
特に行きたい場所も見当たらないしひとまず行っておくか、といった口ぶりだ。
イルシャードにとってアイシャは、アイシャだけでなく兵士も奴隷も大して意味を持たないのだろう。
どれでも好きなのを選ぶといい。
新しい服を見つくろうような軽い口調だった。
イルシャードに会いたいと思っていた。会って話が聞きたいと。組織で一番まともだと思っていたから。けれど……。
――……もしかしたら、一番歪んでいるのはこの人なのかもしれない。
「案内してくれないかな」
イルシャードが微笑むように目を細め、首を傾ける。
「……墓は、村外れにあります。今から行くと仕事に間に合いません……」
シドは遠回しに断った。アイシャの死が汚される気がして案内したくなかった。
「それは、困るね」
幸い、イルシャードはすんなり納得した。
「奥さんのことを愛していたんだね。聞いたよ、家事も洗濯も代わりにしていたんだって」
イルシャードは柔らかく微笑む。
――……愛して、なんかいない。
すぐ死ぬと聞いたから引き取ったくらいだ、愛していない。なら、どうしてこんなに虚しい。なにもやる気にならない。地雷の上を歩かされても面倒くさくて避けないかもしれない。それくらい何もかもが億劫だった。
アイシャは責めなかった。恐れなかった。仲間に蔑まれ罵られる自分を嘲笑わなかった。悲鳴をあげ、苦痛に顔を歪め、虚ろな目で下を向く女たちのどれともアイシャは違った。
ただ微笑み、頷いていた。
言葉が通じないから、知能が低いから、話す元気がないから。そう分かっていてもアイシャの微笑みに救われた。
暗闇に一片の光を見いだした。渇ききった心に一滴の潤いを与えてくれた。
アイシャが死んで光は消え、渇きはより酷くなった。
自分は死んで当然だ、数えきれないほどの罪を犯した。
アイシャはなにも悪くない、ただ弱かった、戦う術を持たなかっただけだ。
「……人を殺してまで、お金が欲しいんですか」
シドは口の中で呟いた。聞こえなくてもいい。腹の底にこびりついた澱を吐き出さずにはいられなかった。
「女や子どもはお金になるんですか。鉱石は高く売れるんですか。罪を犯してまでお金が欲しいんですか。……いつか、報いを受けるとは思いませんか」
押し込めた疑問がぼろぼろ、ぼろぼろと口からこぼれ出る。
不意に日が陰り、風が止む。
シドは顔を上げ、凍りついた。
イルシャードが身を屈め、鋭く見下ろしていた。大きな影が伸しかかり、緑色の目が底光りする。
「子ども兵が好まれるのは愚かで従順だからだ。聡い者は重用されるか殺されるかのどちらかだよ」
風をも凍りつかせるような声だった。
シドは緑色の光を放つ眼から視線を逸らせなかった。イルシャードの本性を垣間見た気がした、――人ではない、獣でもない、もっと別の何か……。
目の前の空間がぱっくりと裂け、裂け目の向こうから緑色の眼が覗いているような、未知のモノとの遭遇に驚愕する。
イルシャードはすいと上体を起こし、辺りを見渡す。シドははっと我に返り、周囲に視線を走らせる。
イルシャードと二人きり、殺されかけても止めてくれる者はいない。いや、ハライタが失礼なことを言ったんだ、と一笑に付されて終わりだ。
死への恐怖より、突然訪れたその瞬間に戸惑い、緊張する。
質問が気に障るくらい己の行いを恥じているんだろうか。少しは良心が残っているんだろうか。ジェイクに災いがふりかかると言ったからか……。
イルシャードの変貌ぶりに動転していた。
イルシャードは柔和な表情に戻り、「内緒だよ」と人差し指を唇に当て悪戯っぽく笑う。
「金銭目的で村を襲っているんじゃない、逃げ場がないんだ。ジェイクはこの国が独立する前からマシャル元副大統領を支えてきた。七月にマシャル派部隊とキール派部隊が武力衝突し、マシャル元副大統領は国外へ逃亡した。ジェイクが属していた反政府勢力(マシャル派部隊)は内部分裂をし、もはや誰が敵か味方か分からない状態だ。
今は政府軍(キール派部隊)による『反政府勢力の掃討作戦』を理由にした無差別攻撃が各地で起きている。兵士の数も武器も政府軍が圧倒的に上だ。戦えば結果は目に見えている。国境は政府軍と他の反政府組織に押さえられ国外へは逃げられない。ジェイクはあの派手な傷痕だ、面が割れている、一般人に紛れ避難することもできない。ジェイクはネズミのように敵の目をかいくぐり国内を逃げ回るしかないんだよ」
言葉の端々に憐れみと蔑みが見え隠れする。
まだ、心臓がどきどきする。シドは動揺を抑え、言葉を慎重に選ぶ。
「……政府軍に、降伏するよう、助言してはどうですか。あなたが言えば、ジェイク上官だって耳を貸すと思います」
敵に捕まるまで黙っているつもりですか。殺されるまで見ているつもりですか。友人なんですよね。
喉まで出かかった言葉を辛うじて呑み込む。
仲が悪いわけでもないのに(楽しそうに話をしていた)、怖がっているふうでもないのに(ジェイク相手に冗談を飛ばしていた)、(友人なら)ジェイクの悪事を止めたらどうなんだ。
鳩尾の辺りがぎゅっと締めつけられ、腹の底から突きあげる激しい怒りに息が詰まる。凝り固まった澱がどろどろと溶け出し外へ出たがっていた。
イルシャードは淡々と答える。
「忠告はしたよ、『マシャルは早めに見限った方がいい』と。マシャルはキール(南スーダン大統領)と共に隣国スーダンと戦っていた時代、属していたスーダン人民解放軍(SPLA)のトップに反旗を翻し内戦を激化させた男だ。しかも、敵対していた隣国スーダンと手を組み解放軍を攻撃した。その後、マシャルは恥ずかしげもなく解放軍に舞い戻り、独立後南スーダンの副大統領に就いた。……私よりジェイクの方がずっと彼のことを知っていたはずだがジェイクは離れなかった。挙句、裏切られた。気の毒としか言いようがない」
イルシャードは微かに嘲笑った。
――……なんだろう……。
怒りに似た激情が急速にしぼみ、代わりに強烈な違和感を抱く。
こんなに口が軽い人だったろうか。一介の兵士に友人の過去をあけすけに話す。ばれたら友人だからって無事ではすまない。絶対しゃべらないと自分を信用しているのか。それとも、やっぱり口を封じるつもりじゃ……。
イルシャードをちらりと見る。
両腕をだらりと下げ、髪をなびかせ空を眺める。
およそ、殺意は感じられない。どこか、超然としていた。
この人は知らないのか。
荒事は苦手だと言っていた。滅多に姿を現さず、狩りが終わった後に酒とカートを積んでやってきて皆とひとしきり騒いだ後、女子どもをトラックに乗せ帰っていく。だから知らないのかもしれない、ジェイクがどんなことをしているか。
自然体で佇むイルシャードに、なぜか、そう確信した。
「ジェイクは、村を焼き、村の住人を殺しています。妊婦の腹を裂き、女を強姦し、子どもを殺しています。赤子も、手にかけているんです。商品になる女子どもはそうやって集められているんです」
言った後に、しまったと思った。ジェイクを批判するばかりか、イルシャードを遠回しに責めている。
ぎゅっと、強く唇を噛む。
死ぬことより、イルシャードを怒らせることが恐ろしかった。まだ、動悸は治まらない。
イルシャードは気分を害したふうもなくゆったりと話す。
「ジェイクだけじゃないよ。政府軍も市民を虐殺し、女をレイプし、子どもを殺している。十八に満たない子どもを兵士に仕立てあげ最前線へ送り出し、無差別に空爆し村ごと焼き払っている。さっきも言ったように今内戦をしている政府軍(キール派)とマシャル派は同じ軍から分裂したものだ。独立前は解放軍として共に隣国スーダンと戦っていた。
軍だけじゃない、ディンカ人もヌバ人もヌエル人も村を焼き払い、土地と家畜を奪っている。人道支援をする国際NGОや停戦を監視するPKО(国連平和維持活動)部隊ですら性犯罪や殺人行為を行っている。独裁者は兵士、民間人に関わらず虐殺し、外国企業は地下資源や農産品欲しさに権力者に加担している。皆、同じさ」
難しくて、理解できなかった。いや、理解したくなかった。政府だけでなく、手を差し伸べてくれる人たちまで汚れているなんて思いたくない。
イルシャードは心を見透かしたように続ける。
「人間の欲は際限がないのだよ。国を買えるほどの富を手にしても更なる富を追い求める。能力と人望を失ってもなお権力にしがみつく。かつて清廉潔白と評されたこの国の大統領も同じだ。搾取された者は更に弱い者から搾取する。持たざる者は死ぬしかない。この世界は金と力が偏りすぎているんだ」
イルシャードは遥か遠くを眺める。
「私は、アフリカを再生させたい。西欧に搾取されるだけの属国ではなく、西欧を従える宗主国へとアフリカを生まれ変わらせたいんだ。……どれほどの時間がかかろうともね」
イルシャードは笑みをこぼし、シドを見ることなく去って行った。