第15話

文字数 5,161文字

 ※

 シドは首都ジュバにある刑務所に収容された。
 刑務所というより倉庫に近く、出入り口は鉄製の扉が一つあるのみ、壁の両側にずらりと檻が並び、天井近くにある鉄格子入りの窓がオレンジ色に光る。夕陽は内部まで届かず、照明は消され、一足先に夜が訪れようとしていた。
 檻の中から囚人たちが目を光らせる。シドは一番奥の檻に入れられた。
 敷物の類はなく、片隅に排泄用の穴が一つ黒い口を開けゴキブリや黒い甲虫が蠢く。灰色の壁や床に血をなすりつけた跡や引きずった跡が黒いシミとなって残り、排泄物の臭いと腐敗臭が建物内部に染みついていた。ほのかに漂う消毒薬の臭いが死を予感させた。
 シドは壁際に腰を下ろし、両膝を抱えうずくまる。
「おい、クソガキ、何をやらかしたんだ」、「監視に金でも払ったか」、「ケツを差し出したんだろ」
 反政府組織で生き残ったのがシド一人だからか、檻には誰もいない。他の囚人たちには一人でゆったりと檻を占領しているように見えるのか、野次と嘲笑が絶えない。
 どうでもよかった。一つのことで頭がいっぱいだった。
 ――……ディオに、見られた。
 一番知られたくない身内に見られた。ディオは知ってしまった。自分の兄が村を襲い、人を殺し、女を強姦し、家財道具や家畜を奪い、村とその周辺を焼き払った反政府組織にいたことを。
 知ってしまった、ディオは。
 知られてしまった、ディオに。
 シドは両膝を強く抱きかかえる。服に張りついた背中の傷がバリっと裂け、じわりと濡れる。ズキズキと痛み、頭の芯を刺激する。だからか、淀んだ頭に一瞬風が吹いた、気がした。
 ――………………。
 両の脚に爪を突き立て、ぎりぎりと引っ掻く。鋭い痛みが鳩尾を抉り、頭の芯を刺す。黒一色に沈む思考と鬱ぐ精神を強い痛みで紛らわす。
 脚の皮膚が破れ爪の中に血が溜まる。爛れた腕の傷が滲む体液で黄色く光る。
 首の根が攣るほど、背骨が軋むほど深く、深く俯き、皮を破るほど強く脚を掻きむしった。

「シド・カダル。強盗、強姦、殺人、密輸、政府転覆を謀った罪で広場にて銃殺刑に処す。許可が下り次第、執行する」
 軍服に腕章を付けた男が告げて行った。
 どうせ死刑になる人間だと思っているのか、檻に閉じ込められたまま放置された。外を歩くことも、体を洗い流すこともない。一日中閉めきられた室内はうだるように暑く、便所の穴からは汚物が溢れ、無数の蝿が集り、異様な臭気が充満していた。
 食事は一日一回一切れのパンとお椀一杯の水が提供されるのみ。他の囚人は狭い檻に押し込められ横になって眠ることもできない状態だ。二人、三人と倒れ、動かなくなった。
 食事が配られる時と死体を運び出す時以外出入り口が開く気配はなく、処刑が近いのか、新しい囚人も来なくなった。
 ネズミが走り、大量の虫が蠢き、無数の蠅が飛び交う。
 吐き気を催すほど強い臭気に気力も体力も尽き、食欲もわかない。誰とも話さず片隅にうずくまり息を潜める。
 何もせず、暗い牢獄で糞尿と悪臭に包まれているからか、幻覚を見るようになった。
 感情はないとばかり思っていた。友達だった頃の記憶は失くしてしまったのだとばかり思っていた。最期に見せたあの顔が、自分を信じてくれていたのだと気づかせてくれた。
 極限まで大きく開いた目は血走り、驚き、傷つき、絶望していた。
 目を閉じても目の幻影は消えず、四六時中暗闇から自分を見つめる。今も――。
 地雷原から連れ出してくれた。自分の代わりに罪を犯してくれた。薬に翻弄されながら傷ついていた。生きるか死ぬかの状況で自分を連れて逃げてくれた。殺されかけたこともあったけれど、もし立場が逆だったなら自分も彼を殺そうとしただろう。
 目つきが鋭くなった。顔つきが険しくなった。笑わなくなった。冗談を飛ばさなくなった。平気で殺し、放火していた。
 カシルは全てのものから心を閉ざし、完璧な兵士になろうとしたのかもしれない。本当のカシルは誰にも胸の内を打ち明けられず苦しんでいたのかもしれない。少なくとも、危険を顧みず炎と黒煙の中から自分を救い出してくれた優しさは、本物だった。
 避けなければよかった。もっと話せばよかった。もっと理解しようとすればよかった。お互いの苦しみを打ち明け、分かち合い、支え合えばよかった。そうすればまだ友達でいられた。カシルを殺すこともなかった。
 同じ困難に耐え、人殺しの罪を背負い、あらゆる屈辱と痛苦を味わった。あの地獄の中を共に生き抜いた友だった。
 仲間を失ったことより、一人生き残ったことより、カシルを裏切ったことが辛かった。
 耳の奥がざわざわとする。
 カシルかもしれないと耳を澄ませても、声なのか音なのかさえ分からなかった。

 鉄の扉が音を立てて開き、二つの異なる足音が近づいてくる。
「兄さん。兄さん、僕だよ。ディオだよ」
 檻の前に立ったのは、弟ディオだった。暗闇の中、手に持ったランタンの灯りにディオの顔が照らされ、ゆらゆらと揺れる。亡霊みたいだ。
 ディオの後ろに軍服を着た男が一人、立っている。檻の前で処刑宣告をしていった男とは違い物静かな印象を受ける。
「話が終わったら出てきなさい。外で待っている」
「ありがとうございます。……あ、あの、こんな遅くまで、ぼくと兄のために、ありがとうございます」
 軍服姿の男は表情一つ変えずに言う。
「君を兄に会わせ、結果を報告する役目がある。礼は不要だ」
 男はシドを一瞥し、硬い靴音をさせ立ち去る。
 ディオは敬礼し男の後ろ姿を見送っていた。
 少し身長が伸びたようだ。軍に入っているからか姿勢がよく、はきはきと受け答えをしている。
 ディオはこちらを向き、思いつめた表情で佇む。
 重い沈黙が流れる。
 なぜ軍にいる。母さんはどうした。ナディアは。学校は辞めたのか。なんで、ここに来た。
 疑問は次々に浮かんだが口にはしなかった。誰とも話したくない、――特に、ディオとは。
「兄さん、誘拐されたんだろ。無理やり嫌なことをさせられていたんだろ。知っていることを全部話して。『政府軍に協力したら命は助ける』ってある人が約束してくれたんだ。だから兄さんが知っていること、どんな目に遭ったか全部話して」
 ディオは母親譲りの大きな目に涙をいっぱい溜めて言った。
 きれいに泣くなあ、とぼんやり思った。
 政府軍に入り最前線に行かされ酷い扱いを受けているのかと勝手に思っていた。けれど、上官は弟の願いを聞き、ここに連れて来た。少なくとも拷問も薬漬けもされていないだろう。ディオの目は澄みきり、殴られたような痣もない。それに、こんなにきれいな涙を流せる。
 誠意をもって接すれば応えてくれる、精いっぱい訴えれば状況はよくなると信じきっている。泣くのは相手に期待しているからだ、期待を裏切られ自分を憐れんでいるからだ。
 泣いて願いを打ち砕いた相手を責めている。
 涙なんて忘れた。悲しいとも、辛いとも感じない。助かりたいとも思わない。ぽっかりと汚泥に満ちた黒い穴が広がるばかりだ。
「兄さん、何か答えてよ。兄さんがいなくなって母さんは死んだ、ナディアも。エイズだったんだ。村の人たちに知られて石を投げられ、家を燃やされた。帰る場所が無くなってしまった。だから僕は軍に入ったんだ。もう兄さんしか家族はいないんだよ」
 ディオは叫ぶように訴える。
 ――……母さんと、ナディアが死んだ。
 ああそうかと納得し、よかったと安堵した。これで負い目を感じなくてすむ。女手一つで育てた息子が反政府組織に加わり暴虐の限りを尽くしていたなんて知りたくないだろう。
「……俺はすぐ死ぬ。お前も俺のことは忘れろ。馬鹿みたいに『俺の兄さんは武装組織にいた』なんて言いふらすなよ。お前まで処刑されるぞ。分かったら帰れ」
 それだけ言うと両膝を抱え深く俯く。
 ディオは鉄格子を揺すり、しつこく食い下がる。
「兄さんは悪くない。悪いのは武装組織の奴らだ。全部話して。そうしたら解放してくれる。社会復帰のチャンスをくれるって。ここを出て二人で暮らそう」
 ディオは繰り返し「兄さん」と呼んでいたが、シドは返事をしなかった。やがて、
「全部話したら助かるんだ。そう、約束してくれたんだ。……ぼく、ぼくは信じて待っているから」
 ディオは自分自身に言い聞かせるように呟き、いなくなった。

「おい、お前、あの可愛い坊やに言ってくれ。『俺の代わりにあのお兄さんを助けてやってくれ』って」
 暗闇にくっきりと浮かぶ白目が媚びるように笑う。
「なあ、いいだろう」
 暗闇に溶けて姿は見えない。目玉が囁いているようだ。
 目玉が焦れたように怒鳴る。
「おい、すましてんじゃねぇ、ガキッ。なにか言え。やっちまうぞ」
「うるせえっ。寝れねえだろっ」
「馬鹿じゃないか。あのチビスケは騙されてるんだ。俺たちは全員殺されるのさ」
 嘲りや罵倒が飛び交い、怒鳴り合いが始まる。
 ――……ばかばかしい……。皆、死んでしまえ……。
 シドは壁に寄りかかり膝を抱える。
 何も話したくない。何も思い出したくない。逃げられなかった。逆らえなかった。死にたくなかった。あそこでしか生きていけなかった。
 そうだよ。無理やり、やりたくないことをやらされた。見たくないものを見せられ、聞きたくもない悲鳴を聞かされた。脅されて仕方なくやっていたんだ。
 地雷原を歩いた、人肉を食べた、血を飲んだ、薬をなすりつけられた。人を殺し、子どもを殺し、女を集め、村を焼き払った。脅されなければできない、あんな酷いことは――。
 《…………うそつき…………》
 ビクッと肩が痙攣する。声が聞こえた。檻には自分しかいない、はず。
 辺りをきょろきょろと見回す。
 《悦んでいたじゃないか。殺したくてうずうずしていた》
 声が直接頭に響く。サーッと血の気が引いた。
「……だ、だれか、……いる、のか……」
 恐怖で声が掠れる。
 《無抵抗の者を虐めて鬱憤を晴らしていた。臆病な自分を強く見せようと狂喜し殺していた。ケダモノどもに『ユウシュウなヘイシ』だと認めてもらいたくて張り切っていたじゃないか》
「誰だっ。出てこいッ」
 立ち上がり、怒鳴りつける。
 《仲間だなんて思っていない。奴らが怖くて仲間のふりをしただけだ。地雷に吹き飛ばされても歩こうとする奴らをせせら笑っていた。薬漬けの奴らが後先考えず火の中へ飛び込むのを馬鹿にしていた。カシルのびっくりした顔、笑えたろう。あいつは目障りだった、殺せてスカッとしたなぁ》
「誰だっ。どこにいるっ」
 たまりかねて腕で闇を薙ぐ。
 《仲間を思ってボスザルを撃ったんじゃない。泣いて命乞いをした自分が恥ずかしかった。殴られても罵られても言いなりになる自分が惨めだった。なりふり構わずしがみついたのにゴミクズのように捨てられた。その恨みを晴らそうとしただけだ。ケツ丸出しで腰を振る野良犬どもに媚びてもいたなぁ》
「黙れッ」
 両耳を強く塞ぎ、アーアーアーと喚き、頭に響く声を打ち消す。
 《薬なんて必要なかった。お前は平気で人を殺せる。悦んで、愉しんで。自分のためなら家族でさえ見殺しだ。赤ん坊も友人も一ひねりさ。偽善者ぶるのはよせ。ちんけな懺悔で醜悪な本性をごまかせるものか》
「うう、うるさいっ」
 空になった銀色の食器を掴み、暗闇に投げつける。
 カンッ。
 跳ね返り、乾いた音を立て床に転がる。
「おいっ、一人でわめき散らして薬でもやってんのか」、「ビビッて頭がおかしくなったんだろ」、「もうすぐ死刑だもんなぁ」
 檻のあちこちで声があがる。
 ――……ちがう、あの声じゃない。
 頭に響く声は消えていた。銀色の薄っぺらい器に目を落とし、もう一度、辺りを見回す。
 誰も、いない。
 びっしょりと汗をかいていた。
 シドは壁に手をつき、寄りかかる。壁が、床がカタカタと揺れる。震えているのは自分。膝が抜け、ずるずると座り込む。
 ……声が、自分の声に、そっくりだった。

 窓に映る月の光は地の底までは届かず、暗闇が支配する。
 腕の爛れが黄色い汁でてかてか光り、寝返りを打つ度に背中の皮膚が裂ける。酷い痒みに寝つけず、一晩中、血が出るほど腕を掻きむしり、背中を床に擦りつける。
 体がべたつき、床に張りつく。どろどろと溶け、ずぶずぶと沈んでいく。膿んだ傷が黄色い汁を出し、不快な臭いを放つ。全身に蝿が集り、黒い虫が這う。足の裏を引っかくのは、……ネズミか……。
 耳の奥でぼそぼそと声がする。
 暗闇から二つの目が凝視する。
 寝ても覚めても幻影と幻聴は消えず、黒い影が覆い被さる。胸は潰れ、腹はぐじゅぐじゅと腐り、重苦しさにすえた息を吐く。
 黒い靄が伸しかかり、意識が遠のいていく。
 瞼が落ちるに任せ、汚泥と腐臭に満ちた深淵へどっぷりと浸かった。
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