第3話
文字数 2,305文字
高校で、僕を美術部に誘ったのは怜だ。
僕たちは小学校から一緒で、だから怜は小学生の頃から僕の絵をずっと見続けていた。怜は身体が小さく病気がちで、マンガを読んだり描いたりするのが好きだった。僕は身体が大きく運動は何でも一通りこなせて、マンガの読み描きはしないが、絵を描くのは好きだった。
見た目も性格も全く異なる僕と怜の共通言語は、絵を描くこと。
でも僕は、高校ではバスケ部に入るつもりだった。バスケが特別好きだったわけではなく、単にスクールカースト上位のところにいようと思ったからだ。リアルだけれど、くだらない理由だ。
怜は、大人しい彼にしてはかなり執拗に僕を美術部に誘った。
「俊祐には才能があるよ」
いつも二言目には怜はそう言った。僕はそんなことは全く思わなかったけれど、怜のひたむきな押しに絆されたところもあり、バスケ部だけでなく美術部にも仮入部した。僕は週に三回、バスケ部に出て、別の高校でガチで部活に励んでいる人たちに申し訳が立たないようなお遊びバスケをしたけれど、美術部に足を向けることはほとんど無かった。そんな僕に怜は、
「俊祐は絵を描かなくてもいられるの?」
と尋ねた。
そう、あの頃の僕は、別に絵を描かなくても平気でいられた。高校の芸術科目の選択美術だけでも別に良いと思っていた。怜は違った。
「僕はマンガを描かずにはいられない。俊祐に比べたら才能なんて全然ないのに」
「怜、才能ないことはないと思うけど。おまえのマンガ、十分に面白いよ」
すると怜は笑って言うのだ。
「そのへんの限界は、自分が一番分かっているよ。たぶん、僕は本当のところでは、一流の表現者にはなれないと思う」
「え? 一流の表現者って何だ? 描きたいものを描けばいいんじゃないの?」
すると、怜はやけにクールに笑ったものだ。
「趣味でならそれでいいし、もしかしたら、僕も二流にならなれるかもしれない。でも、一流は無理。それは分かる。俊祐は違う。俊祐は、一流になれる可能性があると僕は思ってる」
「分かった、分かった。俺に才能があるかどうか知らないけど、もっとちゃんと美術部に出るから」
僕はいつもそんなふうに、怜のプッシュを受け流した。その場はそうしておいて、実際には、幽霊部員で居続けた。
僕たちの最初の転換点。それは五月の終わり、ちょうど、こんな気持ちの良い放課後のことだった。
その日、バスケ部の練習もなく、帰路につこうとしていた僕を怜が引き留めた。
ちょうど、今くらいの時間、僕らの教室で。
やはり僕は、さっきのように、木偶のように教室の中に立ち、茜色の夕陽に照らされていた。
「きれいな夕陽だろう?」
怜は僕に問いかけた。
その時、僕には、茜色はのっぺりとした一色にしか見えなかった。さっきのように。
「きれいだけど?」
「俊祐、俊祐は昔、小学校の時に、僕にとんでもなく凄い絵を描いてくれた」
「そうだっけ?」
「そうだよ。夕焼けの絵だった。あの時、まだ小学生だった俊祐から、どうしてあれほどのエネルギーが噴き出したのか、今思えば不思議だけど、あの時、俊祐は神懸かりだった、すごかった。――僕は見たいんだ、今の俊祐の爆発した絵を」
僕は、怜の熱弁にも、正直、感じるところはあまりなかった。たしかに僕には、小学生の頃、夢中で絵を描いた時期があったが、それは所詮子供の頃のことだった。中学に上がってからも、授業や、あるいは怜に誘われて時々絵を描いたが、絵に情熱を持っていたわけではない。
でもその日、怜は僕の説得を諦めなかった。怜は言い募った。
「俊祐の絵は素晴らしい。俊祐の得意の色は茜色だった。小学生の頃からずっと茜色。俊祐の茜色は、それを見る人の心まで変える」
「大袈裟だなあ」
怜はその時、心に期するものがあったのだ。
後になって、いろいろ事情が分かって気づいたのだが、あの日の少し前頃から、怜の父の身辺には異変が生じつつあったのだ。怜の父はその頃からもう「戦い」を始めていて、でも怜にはどうすることも出来なかった。怜はただ、僕から離れる日がもしかしたら近いのかもしれないと思ったのだ。たとえそうはならなかったとしても、いつかは、僕らは離れていくだろう。それが何時なのかは、誰にも分からない。怜は、その事実に気付いたのだ。自分たちにどれくらいの時間が残されているかなんて、誰にも分かりはしない。
怜は僕の目を覗き込むようにして言った。
「俊祐はしっかり夕陽を見ている? 茜色を見ている? 世界を見ている?」
「何、どういうこと? 夕陽なんて晴れてれば毎日見てるし。そんなに、まじまじとは見ないけど」
「そう、俊祐はいつの頃からか、ちゃんと見るのを止めたよね。だからだよ、だからもう絵もいらなくなった。俊祐は、夕陽を見るのを止めたことで、他の大事なことからも目を逸らすようになっていない? たとえば、自分自身とか」
怜はおもむろに窓に近づいた。近づいて窓の外に目をやり、それから僕を手招きした。僕が怜の方への歩み寄ると、怜は窓からの風景を見渡した。
「俊祐、見て!」
「見てるけど?」
「もっと真剣に! 目を凝らして!」
そうして僕は、怜に言われるままに凝っと見た。
怜と並んであの日、心を開放して、茜色の景色を見た。
「――まだ?」
「まだだよ。まだまだ。もっとだ!」
二人でそこに三十分も、動かずにいただろうか。あの日は、今とは異なり夕陽はきちっと沈んでいき、そして僕は、少しだけ感じた。
描く欲望。
小学生の頃は本能に任せていただけだった僕の欲望の形と中身を、まだ本当にほんのりとではあったけれど初めて自覚し、それで、再び絵を描き始めたのだ。