第6話
文字数 3,054文字
いくら経っても夕陽が沈んでいかないのは不思議な感覚だ。あくまで今は美しい夕暮れ時で、風が心地よくそよぎ、暑くも寒くもなく、そういえば喉も乾かず、トイレにも行きたくならない。
疲れてもこない、ような気がする。
この「夢」は何時まで続くのだろう。いつ、覚めるのだろう。
「大学に行ってから後、俊祐は絵を描いた?」
怜の声が尋ねる。
「描かない。――戯れには、ちょっと描いたりもしたけど、あんなのは絵とはいえない。俺は描いていない」
「そうだろうね。それは、僕にも分かっていた。俊祐も、そうなることは分かっていた」
「――ああ、分かってた」
沈黙が落ちた。
怜が、――姿が見えず、黙っているけれど、怜がそこにいるのは分かった。
「俊祐は、今、しあわせ?」
今?
自分の今?
自分は今、何をしているのだろう。
そもそも、自分は今、何歳になったのだろう。
「もし、もう一度、絵を描き続ける人生と、弁護士になる人生、その分岐点に戻れるとしたら、やっぱり俊祐は弁護士を目指す?」
それは、今の僕には答えられない問いだった。
僕が何になったのか、本当に弁護士になれたのか、なれなかったのか、それとも今まさに司法試験の勉強中なのか。それを僕は知らない。
それに、絵への熱い感情を失くしてしまったのだ。自分だけの絵を描くことの苦悩、そして喜び。
あの頃、怜と並んで、毎日ここで、この美術教室で、夜の帳が茜色を全て飲み込んでしまってもまだ、あれほど夢中になって絵と、自分と向かい合い、絵筆を動かし続けていたのに。それはもう、何世紀も前の古代史のように遠く。
この美術教室――?
僕はそれで気づいた。
僕は窓辺に駆け寄った。
野球グラウンド、サッカーグラウンド、鉄棒、砂場、防砂林、そしてその向こうに広がる茜色に染め上げられた海。波は白っぽい茜色、深いところは濃い茜色。夕陽に近いところは燃えるような茜色、夕陽から離れるにつれ、薄まる茜色――。
さっき、階下の教室から見たものとほぼ同じ風景がそこにある。
でも、違う。この風景は違うのだ。
記憶が降りてくる。
この風景は、僕たちが、僕や怜がいた高校の教室からの風景ではない。
僕たちの高校は、東京の街中にあった。海なんか見えないし、こんなに広いグラウンドだってない。
見えたのは、マンションと密集した住宅、遠くに高架線を走る電車や自動車道。
ここは僕たちの高校じゃない。初めにこの「夢」の世界に来た時は、何も記憶がなくて、だから教室からただぼんやりと外を眺めた。眺めて、綺麗なところだと思っただけだった。それが、怜の声と話し、過去を思い出し、それでようやく気付いた。
それにしても、この高校には違和感が無かった。僕はこの高校を、ここからの風景を、とてもよく知っているのだ。だから、教室から迷うことなく美術教室へと来られた。
いったい、ここはどこだ――?
「やっと、気が付いたみたいだね」
怜の声がした。
「怜、ここは俺たちが通った高校じゃない」
怜はそっと笑う。
「そうだね、厳密な意味では」
「じゃ、緩い意味では、ここは俺たちの?」
「そうだよ。ここは、ある意味では、僕たちの高校だ」
「俺たちの?」
「そう。まだ、思い出さない?」
僕はかぶりを振る。
「だったら、美術教室のこと、廊下のこと、それから下にある普通の教室のこと。それに、外の景色。ここで俊祐が見てきたものをもう一度よく振り返ってみて。どうだった?」
「どこもみんな良かった」
「そうだろう? それはそうだよ。そうなんだよ」
「え?」
僕の中で、埋もれていた記憶がまた蘇りつつある。
そうだ、僕はここの場所のことを本当はとてもよく知っているのだ。
なぜなら。
なぜなら――。
「ここは、最後に、俺と怜で描いた絵の中の高校だ」
僕も怜も国公立は受験しなかったので、二月中に進学先が決まった。それから卒業式までの一カ月ほどの間、僕たちの前には真っ新な時間が広がっていた。
怜は、せっせと高校の美術教室に通い、絵を描き続けた。僕には、これといってやることがなかった。クラスの友だちとカラオケに行ったり、ちょっと気になっていた女の子をデートに連れだしたり、自分の部屋を片付けたりして、日ごとに麗らかになっていく春空を眺めていた。
そう、僕は片付けて、捨てたのだ。部屋においてあった、あるいは学校に置いてあった、これまでに描いてきたたくさんの絵を。小さなものは、そのままゴミ袋に入れて燃えるゴミに出した。大きなものは粗大ごみにするのも面倒なので、キャンバスを枠から剥がし、枠はノコギリで切って小さく纏めた。
父は弁護士をしながらでも絵を描くことは出来ると言ったが、僕にはもうその気はなかった。なにより、もう描きたいという気持ちも、描けるという気持ちも、僕の中からは無くなっていた。
何しろ高校で描いた絵の数が半端ではなかったので、廃棄作業はちょっとした肉体労働になった。僕は何となく怜のいない時を見計らってその作業をしたけれど、おそらく、怜にも気づかれていたと思う。怜は何も言わなかった。
卒業式の前日までに、教室のロッカーや机に残してあった私物を全部、引き取ってくる必要があった。僕の私物は卒業式よりずっと前に片付け済みだったけれど、怜は、一つだけ、キャンバスを美術教室に残してあると言った。
「高校生活最後の一枚を描きたい。俊祐、一日だけ、付き合ってくれないか」
怜は僕にそう頼んだ。
卒業式前日、それは高校最後の一日。僕たちは、まる一日かけて、絵を描いた。高校の校舎の絵だ。
それはちょうど、まだ初めての公募に応募する前、二人でただただ絵を描いていた頃のようだった。
描いているうちに、次第に、実際の高校とは違うものになっていった。
「この高校は狭すぎるから、もっと広くしよう」
「グラウンドは二つ欲しいね。サッカーと野球」
「やっぱ、海でしょう。ビーチサイドの高校じゃなくていいけど、そんなに離れていないところに海がある。それで、教室からちゃんと海が見える。くだらない授業に飽きて、それでぼんやりと外を眺めると、海が見える」
「じゃあ、反対側、廊下側は山だね」
「ビーチサイドとマウンテンサイドって、リゾートホテルの客室みたいだな」
「一クラスは三十人くらいで止めておこう。うちの学校の四十八人っていうのは多過ぎる」
「美術教室は広さを二倍くらいにしよう。とにかく、うちの学校は狭い」
「で、何時頃の高校にする?」
「やっぱり夕方でしょう。だって、そうすれば、俊祐が茜色を塗れる」
「茜色はいいなあ、描いてて筆が乗るよ」
「美術教室は濃く塗ろう。太陽はこっちだけど、ここにももう一つ、太陽があるくらいに、茜を溢れさせよう」
僕たちは、あの日朝一番で美術教室に行き、昼はハンバーガーを食べながら、夕方は物も言わずに、暗くなってからは、かつていつもそうしていたように菓子パンをかじりながら、ぶっ続けで十二時間くらいの間、二人で絵を描き続けた。
そうして、僕たちは、最初で最後の共作を完成させた。
その絵は、百万の色彩を孕んだ茜色に満ちた、僕たちの理想の高校だった。
「俊祐。やっと、思い出してくれたんだね」
怜の声が今までとは異なり、僕の背後、ごく間近から聞こえた。
それで僕は振り返る。
そこに怜がいた。
やっと、怜に会えた。
僕は怜に、言いたい事がたくさんある。
怜は言った。
「さあ、俊祐。僕たちで世界を変えにいこうか」
その時、僕は時が、夕陽が、動き始めるのを感じた。