第4話

文字数 3,010文字

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 おそらくは「夢」の中なのか、時の止まった世界、誰の姿も見えない、茜色だけが濃密に充満した美術教室で、
「怜、『ここにいるけれどいない』というのはどういう意味?」
 僕は、怜の「声」に向かって尋ねた。
「いや、自分でもこれがどういう状態なのか、よく分からないんだ。ただ、僕が声だけの存在なのは、それはきっと僕の問題じゃなくて、俊祐の方の問題なんだと思う」
「ここが、俺の夢だから?」
「これは俊祐の夢なの?」
 美術教室の窓から見える夕陽はいまだ微動だにせず、沈み行く気配はない。これが現実であるはずはない。
「違うのか?」
「さあ、知らない。僕にも分からない。――でも、俊祐はさっきまで、とても多くのことを忘れてしまっていた」
「それはそうだったけど、――ほら、もう思い出した」
「いや、まだだ。まだまだ、思い出してないことがあるよ」
 それはそうかもしれない。何しろ僕は、あの頃のことを、どうやらみんな忘れようとしてきたようだから。
 怜の声を聞いていると、少しずつ、高校の美術部での日々が蘇ってくる。

 


 


 

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 今、茜色尽くしの「夢」の中、美術教室では相変わらず怜の姿は見えず、時は静かに翼を休めている。
 僕は美術教室で、わずかな埃が夕陽の中、星屑のように揺れて漂っているのを見ている。ここでは風も吹けば、埃も舞うのに、なぜ夕陽は沈まないのだろう。なぜ、時は過ぎてゆかないのだろう。
「俊祐は受賞して、それで初めて、一生絵を描いてそれで生きて行くということを考えた」
「父を納得させたかった。――っていうか、自分を納得させたかったんだと思う。絵でやっていけるんだって。校長みたいに、急に俺のことを褒めてくる人はたくさんいた。そういう人たちを見ていると、内心では、絵のことなんて分かりもしないくせにとすごく傲慢な態度を取っていたけれど、でもその一方で、ものすごく不安にもなった。じゃあ、俺には、本当に絵のことが、芸術ってものが分かっているのかって。自信は無かった。自分は出来るんだって、自分を納得させるためには、続けて賞を取るしかないと思った」
 それで僕はそれまで以上に絵を描きまくった。描きまくって、高校生でも応募できる賞を見つけては応募するようになった。
 でも、落ちた。落ち続けた。
 落ちれば落ちるほど、絵を描いて、出して、認めてもらわなくてはと思った。そうして描くうちに、僕はだんだん何のために絵を描いているのか、わからなくなった。どうしたらいいのか、分からなくなった。それで、さらにもっと死に物狂いで絵を描くようになった。
「あの頃のことは思い出したくない」
「あの頃、俊祐はとてもつらそうだった。見ていて痛ましかった。でも、僕に出来ることは何も無かった。ただ、見ているしかなかった」
 怜の声は物静かだった。
「怜は逃げずに、毎日、美術教室で俺の隣で絵を描いていた」
「それが唯一、僕に出来ることだった」
 僕たちはそんなふうにして高校二年の大半を過ごし、父は僕に、父と同じ高偏差値の大学の法学部受験をあからさまに迫るようになっていった。父は絵を職業とすることを止めさせたがり、僕は抵抗した。
 僕はもう絵は楽しくなく、何でこだわり続けているのか、分からなくなっていた。高三になる春休みには、父の圧力に抗し切れず、美大ではなく、通常の受験予備校の春期講習へと通った。
 午前中は春期講習に通い、午後は美術教室で絵を描いた。訳の分からない絵を描いた。描けば描くほど分からなくなっていった。それでも描き続けていた。全然楽しくなく、苦しいだけで、一パーセントの希望と九十九パーセントの絶望という気分だった。それでもそれでも、僕はキャンバスに茜色を塗り続けた。そしていつも、怜は僕の隣にいた。
 そんなふうにして高校三年となり、――そして、あの事件が起きたのだ。
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