第1話
文字数 2,026文字
1
僕は、身体の中隅々までを照射し染め尽しても飽き足らぬような、濃密な茜色の中で木偶のように立っていた。
ここで何をしていたのか、ちっとも思い出せなかった。
ここは、学校の教室のようだった。
机と椅子の高さからみて、中学か高校、もしかしたら大学なのかもしれない。それが一列に五つずつ、六列で並び、全部で三十。この教室の収容人数は三十人。
僕は教室の中、少し窓寄り、後ろ寄りのところに立っているのだった。
頭の中にまで茜色が入り込み、充満して、うまく物を考えたり、思い出したりすることができないようなのだ。
いったい、ここは何処だ?
僕は、窓へと近づく。外を見たら、何か思い出すかもしれない。ヒントがあるかもしれない。
窓は開いていた。窓からは、少しの風が流れ込んでいて、その空気は教室の中よりも少し冷たくて、それで少しだけ、頭の中の茜が晴れるような気がした。
窓からは、校庭が見えた。広い校庭だった。左に野球グラウンド、右にはサッカーグラウンド。奥には砂場と鉄棒が見えた。でも、誰もいない。生徒も教師も、人影はまったく見えない。声もしない。鉄棒のさらに先には申し訳程度の防砂林が並び、そして海。海が水平線まで、揺らぎながら、茜を撥ね返しながら、静かに広がっていた。
それは声も出せないような美しい風景だった。いつか、見たことがあるような、でもやはり、頭の中には記憶が残っていないのだった。
まいったな。
僕は独り言ち、途方に暮れた。
ここが何処なのか、ここに何の用があったのか、その用は済んだのか、何も分からない。ここを出て帰ってしまっていいものかどうか。
そこまで考えて、ふいに気付いた。
帰るって、何処へ?
家は何処なのだ。
何を言っている? 自分の家が分からない?
そうだ、スマホだ。
僕はスラックスの尻ポケットを探るが、スマホはない。
僕は、ベージュのスラックスを履いている。上はネクタイは無し、長袖のワイドストライプのボタンダウンシャツ一枚。それを軽く腕まくりしたくらいで、ちょうど良い、気持ちのよい温度。
他に何か手掛かりはないかと、スラックスの四つのポケットを順番に探ってみるが、どこにも何も入っていないのだった――いや、何かが指先に触る。
小さな紙の切れ端だ。
それを引っ張り出してみる。
またも茜色。茜色に塗れた紙。一通りの茜ではない。ほんの数センチ四方程度の大きさの中に、幾通りもの茜。赤に近い茜、橙に近い茜、白が混じる茜、黄色い茜。それに青――朝の青が混じった茜、夜の青が混じった茜、藍に消えそうな茜。それらが溶け合いつつ、でも独立しつつ、単なる機械的なグラデーションではなく、そこにある。
ああそうか、忘れていた。一つ、思い出した。
僕はそれで、教室の中、窓の外、空の、海の、校庭の、防砂林の茜に目を向ける。やはり茜色に染め抜かれている。
でもそこには、紙片にあったように実に多くの色が溶け込んでいて、それらが溶け合いつつ、でも独立しつつ、単なるグラデーションではなく、そこにあるのだ。
僕はそれで改めて周囲の光景に見とれる。そうすると、ついさっきとは全く異なった美しさが見えてくる。空気の、水の、土の、草木の粒、一つ一つが躍動する様が立ち上ってくる。僕はそれを自らの手で残したくなる。
猛然と、残したくなる。
その欲望は、腹の下の方、性器の少し上の辺りから、猛然と立ち上ってくる。それは性欲とは違う、確実に違うが、でもどこか似ている。欲望は満たされるまでは止まない。どこにもやり場のないまま、その欲望は身体の中でどんどん膨らみ、満ちていく。
ああ、なんて美しいのだろう。
この美しい瞬間を残したい。
この景色を、鈍感な茜色一色ではなく、自分が今、掴んでいるように、百万の色彩で粒子一つ一つを残すのだ。
そんなことが出来たなら、どんなにか楽しいだろう。
なぜそれが出来ないのだろう。
本当に出来ないのだろうか。
僕は出来ないのだろうか?
風が強く吹いてカーテンが大きく揺れた。
ああ、早くしないと、早く残さないとこの景色が終わってしまう。光輝く時間が終わってしまう。
茜の色合いは一瞬ごとに移ろうのだから。
僕はそのことを、よく知っているのだから。身を以て知っているのだから。
そう、この時間の光の加減は移ろうのだ、一秒ごと、コンマ一秒ごとに。
それで僕は、数え始めた。
一、二、三、四、五……。
僕は六十、つまりだいたい一分経ったところで、数えるのを止めた。
光は移ろわなかった。
――ありえない。
僕を取り囲む全ての茜色たちは、茜色と混じりあった百万の色彩たちは、その粒子一粒一粒に至るまで、何ら変わらずに、時は一向に降り積もることなく、風が吹けばゆらゆらと揺れはしても決して移ろうことなく、死んでいくことなく、徹底的にあらゆる事象を滞らせて、そこにあるのだ。
ああ、時間が止まっている。
この夕陽は、沈まない夕陽だ。
僕は、身体の中隅々までを照射し染め尽しても飽き足らぬような、濃密な茜色の中で木偶のように立っていた。
ここで何をしていたのか、ちっとも思い出せなかった。
ここは、学校の教室のようだった。
机と椅子の高さからみて、中学か高校、もしかしたら大学なのかもしれない。それが一列に五つずつ、六列で並び、全部で三十。この教室の収容人数は三十人。
僕は教室の中、少し窓寄り、後ろ寄りのところに立っているのだった。
頭の中にまで茜色が入り込み、充満して、うまく物を考えたり、思い出したりすることができないようなのだ。
いったい、ここは何処だ?
僕は、窓へと近づく。外を見たら、何か思い出すかもしれない。ヒントがあるかもしれない。
窓は開いていた。窓からは、少しの風が流れ込んでいて、その空気は教室の中よりも少し冷たくて、それで少しだけ、頭の中の茜が晴れるような気がした。
窓からは、校庭が見えた。広い校庭だった。左に野球グラウンド、右にはサッカーグラウンド。奥には砂場と鉄棒が見えた。でも、誰もいない。生徒も教師も、人影はまったく見えない。声もしない。鉄棒のさらに先には申し訳程度の防砂林が並び、そして海。海が水平線まで、揺らぎながら、茜を撥ね返しながら、静かに広がっていた。
それは声も出せないような美しい風景だった。いつか、見たことがあるような、でもやはり、頭の中には記憶が残っていないのだった。
まいったな。
僕は独り言ち、途方に暮れた。
ここが何処なのか、ここに何の用があったのか、その用は済んだのか、何も分からない。ここを出て帰ってしまっていいものかどうか。
そこまで考えて、ふいに気付いた。
帰るって、何処へ?
家は何処なのだ。
何を言っている? 自分の家が分からない?
そうだ、スマホだ。
僕はスラックスの尻ポケットを探るが、スマホはない。
僕は、ベージュのスラックスを履いている。上はネクタイは無し、長袖のワイドストライプのボタンダウンシャツ一枚。それを軽く腕まくりしたくらいで、ちょうど良い、気持ちのよい温度。
他に何か手掛かりはないかと、スラックスの四つのポケットを順番に探ってみるが、どこにも何も入っていないのだった――いや、何かが指先に触る。
小さな紙の切れ端だ。
それを引っ張り出してみる。
またも茜色。茜色に塗れた紙。一通りの茜ではない。ほんの数センチ四方程度の大きさの中に、幾通りもの茜。赤に近い茜、橙に近い茜、白が混じる茜、黄色い茜。それに青――朝の青が混じった茜、夜の青が混じった茜、藍に消えそうな茜。それらが溶け合いつつ、でも独立しつつ、単なる機械的なグラデーションではなく、そこにある。
ああそうか、忘れていた。一つ、思い出した。
僕はそれで、教室の中、窓の外、空の、海の、校庭の、防砂林の茜に目を向ける。やはり茜色に染め抜かれている。
でもそこには、紙片にあったように実に多くの色が溶け込んでいて、それらが溶け合いつつ、でも独立しつつ、単なるグラデーションではなく、そこにあるのだ。
僕はそれで改めて周囲の光景に見とれる。そうすると、ついさっきとは全く異なった美しさが見えてくる。空気の、水の、土の、草木の粒、一つ一つが躍動する様が立ち上ってくる。僕はそれを自らの手で残したくなる。
猛然と、残したくなる。
その欲望は、腹の下の方、性器の少し上の辺りから、猛然と立ち上ってくる。それは性欲とは違う、確実に違うが、でもどこか似ている。欲望は満たされるまでは止まない。どこにもやり場のないまま、その欲望は身体の中でどんどん膨らみ、満ちていく。
ああ、なんて美しいのだろう。
この美しい瞬間を残したい。
この景色を、鈍感な茜色一色ではなく、自分が今、掴んでいるように、百万の色彩で粒子一つ一つを残すのだ。
そんなことが出来たなら、どんなにか楽しいだろう。
なぜそれが出来ないのだろう。
本当に出来ないのだろうか。
僕は出来ないのだろうか?
風が強く吹いてカーテンが大きく揺れた。
ああ、早くしないと、早く残さないとこの景色が終わってしまう。光輝く時間が終わってしまう。
茜の色合いは一瞬ごとに移ろうのだから。
僕はそのことを、よく知っているのだから。身を以て知っているのだから。
そう、この時間の光の加減は移ろうのだ、一秒ごと、コンマ一秒ごとに。
それで僕は、数え始めた。
一、二、三、四、五……。
僕は六十、つまりだいたい一分経ったところで、数えるのを止めた。
光は移ろわなかった。
――ありえない。
僕を取り囲む全ての茜色たちは、茜色と混じりあった百万の色彩たちは、その粒子一粒一粒に至るまで、何ら変わらずに、時は一向に降り積もることなく、風が吹けばゆらゆらと揺れはしても決して移ろうことなく、死んでいくことなく、徹底的にあらゆる事象を滞らせて、そこにあるのだ。
ああ、時間が止まっている。
この夕陽は、沈まない夕陽だ。