第5話 専務室の通気口から①

文字数 2,773文字

 乗客の乗り込んでくる物音で目が覚めた。昔の事件を思い返すうちに眠ってしまい、気づけば名古屋駅だった。出発間際に通路を老紳士が通り、その後をスラリとした女性がスーツケースを引いて行く。二人は前方のグリーン車に入っていった。
 女性の背筋の伸び具合や、グリーン車の閉じていく扉から見えたテキパキと荷物を棚に乗せる様子から女性は秘書なのだろうと俺は思い、昔坂田と共に手掛けたとある事件が思い出された。ちょうど世間がお盆休みに入る直前の頃だった。
 有名ではないが安定した売り上げを続ける老舗の部品メーカーの専務が死亡した事件だった。専務の名は柴崎正太郎。死体となって発見されたのは鍵のかかった専務室で、飲みかけの水が入ったコップから致死性の毒が検出された。
「部屋の鍵をかけ、自ら服毒したのだろうと捜査一課では見ているんだが、次期社長に目される人物であったし、本人が意気込みを周囲に語っていたらしいことからは、自殺をする動機が俺にはどうにも見つからない」
 俺が坂田の自宅を訪ねたのは夜遅くで、彼は百合ちゃんが眠っているからと家に入れようとせず、寒い日であったが自宅前の道路脇で俺たちはひそひそと話し合っていた。
「仕事の顔と家庭の顔は違うものだ。職場でどれだけ立派であっても家に帰れば専務ではない。家庭で何かしら悩みを抱えていたのではないか?」
 坂田は面倒くさそうに尋ねた。
「当然、調べはつけている。柴崎は妻や息子にも自信が社長になるのだと自慢げに語り、家族からは一定の尊敬を集めていたようだ」
「だとしても……亡くなっていたのが鍵のかかった専務室なのであれば、つまりは密室だったのじゃないのか? もちろん例えば扉の鍵が外から開けられる構造であったとか、窓に細工がされた形跡があるとか、そうではないのであれば他殺の可能性もあるのだろうが」
「捜査一課としては、外部からの侵入の痕跡は見つけられていない。だが、俺は一ヵ所だけ怪しい場所があると思っている。専務室の天井には通気口があるんだ」
「映画のようにダクトを通って殺害しに入ったと?」
「ちょうどコップの置かれていた棚のうえに通気口がある。しかもコップの側に、通気口からだろうと思われる埃の塊が落ちていた。専務室はどこも掃除が行き届いているのに、そこだけに大きな埃があったんだ。おそらく通気口からコップに毒を盛ったんだ」
「まさか俺にビルの天井裏を調べて、人がいた形跡を探せとでも云うのか? 俺はもう刑事じゃないのだから勝手にそんなことをやったら不法侵入になるだろう。しかも、今週末は百合がお友達を家に呼ぶ予定なんだ。料理の下ごしらえやらに忙しくてな、本職の刑事がやるべき体を張った捜査の代行をしている暇はない」
 呆れたように坂田は云って、家に戻ろうとしたので俺は慌てて静止した。
「ダクトは既に俺が調べた。人間がそこを通った形跡はあったんだが、残念ながら事件前に保守業者が入ったらしく判別は不可能だった」
「なら俺に何を調べろと?」
「柴崎は社長候補であったと同時にライバルも存在し対立していた。俺はそれが殺害の動機になると踏んでいる。社長レースのライバルたちと関係者のうち、柴崎が殺害された時間前後のアリバイがない者を洗い出した。そのうちの誰であれば、天井裏のダクトを通ってコップに毒をしかけられたのか、特定して欲しい」
 俺が興奮気味に声を大きくしたので、坂田は近所迷惑になると注意たが、仕方がないと依頼を受けた。俺は手帳に挟んだ写真を取り出し、犯人の候補となる人物を挙げていく。
「一人目は副社長の片桐大吾。柴崎より年長であるし、元々は片桐が社長候補であったらしいが女性関係で問題を起こしたのが問題視されたとのことだ。そして二人目は柴崎の片腕である野上隆部長。柴崎が社長に押されたのは業績改善の実績によるものだが、実質的には野上がそれを担った訳だ。表面的には良好な関係とのことだが、酒の席で野上が柴崎が手柄を独り占めすると愚痴っているのが目撃されている。最後にライバル関係にはないが……社長秘書の真鍋優香。落ち着いた雰囲気の女性でそつなく仕事をこなすと聞いている。周辺関係者の中でアリバイがなかったことから一応名前を挙げている。ちなみに専務室の通気口は、調べた限り、役員室のあるフロアの部屋ならどこからでも繋がっている」
 俺がそこまで話したところで、坂田は百合ちゃんが呼ぶ声がしたと部屋に戻っていった。その後俺は別の事件で忙しくなり、一週間ほどして坂田が約束通り調査に動いてくれているだろうかと思い出したところで、坂田から呼び出された。場所は柴崎が死んだ会社ビルの中央管理室で、俺が着くと坂田は防犯カメラの映像を再生するように守衛に頼んだ。どうやら坂田はそのビルで撮影された記録映像を一通り調べたようだった。
「防犯カメラが設置されているのは、出入口と、役員室のあるフロアの廊下だ。副社長である片桐や社長秘書の真鍋はもちろん、当時部長であったの野上にも片桐の隣の部屋が割り当てられていたとのことで、事件当日全員役員フロアを訪れている姿が確認できた」
「犯人が事件の起こった時間帯に専務室に入っていった姿が記録されていたか? それとも天井裏に上がっていく人物が映っていたか?」
「いや。そうではないが……殺害した可能性の高い人物が映像から分かった」
 坂田は表情を変えずに云った。殺された専務の柴崎の部屋は中から鍵がかけられ密室状態であった。防犯カメラの映像は役員室のフロアを廊下を映しているが、各部屋の中で何が行われていたかは分からない。しかし坂田はその映像から三人の犯人候補から怪しい人間を絞り込んだという。役員フロアを行き来する片桐や野上、真鍋、そして殺された柴崎の姿を見ながら、俺は何かしら変わった行動でもしているのだろうかと目を凝らした。
 野上と片桐がエレベーターから出てきて、コソコソと会話しながらそれぞれの部屋に戻る。野上の手にはジュラルミンケースがあり、片桐はラベルのついていないペットボトルの水を持っていた。次に、会議室に置く観葉植物なのだろう、真鍋が良く育ったポトスを秘書室から会議室に運び入れた。その暫く後、おおよそ儒分程してからだろうか、殺された柴崎が社長と共にエレベーターを上がってきて部屋に入った。ちょうどその時間帯が柴崎の推定死亡時刻となっている。
 暫くすると、まず片桐が廊下に出てきて、上着を脇に抱えネクタイを締め直しながら足早にエレベータで降りて行った。次に真鍋が会議室から現れストッキングを気にしながら秘書室に戻っていった。最後に野上がスマホを操作しながら、無人の片桐の部屋へとノックもせず入っていった。
「怪しい人間が分かっただろう?」
 坂田は云った。俺はもう一度動画を再生してくれと答えた。
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