第1話 神輿の隙間①

文字数 1,978文字

 豚まんの匂いがして我にかえり、新幹線に乗るときはいつも必ず持ち込む筈の弁当もビールも手元にないことに気がつく。
 周りの乗客たちは各々座席のテーブルに飲食物を開き、一日の締めくくりをやろうではないかという雰囲気であるのに俺はただ悲痛だった。
 その時の俺は、数十分前に、知り合いの探偵が撃たれたと聞いていて、逮捕したばかりの被疑者を後輩に託し、新幹線に飛び乗っていたのだった。

 撃たれた俺の知り合いというのは坂田紀和。年齢は37歳。彼が家庭の事情で警察組織を去るまでは、俺と同じく捜査一階の刑事だった。
 坂田が撃たれた詳細は判明していないが、意識がないと電話をしてきたのは坂田の娘、百合ちゃん。小学五年生の彼女は声を振るわせながらも泣き出すことはなく、父親譲りの冷静さで状況を俺に伝えた。
 夕方、幼稚園の帰りに坂田が突然倒れたこと、血がダラダラと流れていたこと、百合ちゃんが大変だと思って近くの大人に助けを求めたこと、坂田は名を呼んでも答えず、救急隊員が、「撃たれたようだ」と話していたこと、病院に運ばれまだ救急治療室から出てきてはいないこと。
「死んじゃうかもしれない」
百合ちゃんはそうも云った。云えば感情が崩壊してしまいそうな言葉であるだろうに、息を荒くしただけで我慢していた。彼女にとって坂田はたった一人の親であり、唯一の家族であるのに、気丈でいた。

 百合ちゃんに到着時刻をメールしたところで車両が動き始める。
 坂田が誰に撃たれたのかは分からないが、原因が俺にあるのだろうとは思う。坂田は二年前に離婚し百合ちゃんを引き取ったのだったが、百合ちゃんの世話をしたいと刑事を辞めた。そんな彼に探偵稼業を薦め、警察が手を出しにくい仕事を斡旋するようになったのは俺だった。

 車窓に映る高層ビル群を視界に捉えながら、まだ見えぬ銃撃犯に怒りが湧く。逮捕された者による逆恨みであろうか。最もあり得そうなのは……
 最初に浮かんだのは、坂田が探偵を始めてすぐの事件だった。台東区の下町、A町で起きた事件で、三十代の女性が死んだ事件だった。
 女性の名は高宮美和。町内の秋祭りの当日、自宅で血を流し倒れているところを夫に発見された。夫義一はちょうど祭りの神輿を担いでいて、赤ん坊が泣き続けていると隣人から連絡を受け、慌てて帰宅すると妻が倒れていたのを発見した。
 美和は義一が担ぐ神輿が自宅の前を通るのを幼子と共に待っていたのだろう、美和が倒れていたのは道路側に窓のある二階の部屋で、抱っこ紐に子を抱いた状態だった。
 部屋が荒らされ、金品が盗まれていたこと及び関係者への聞き込みから親子三人平和に暮らしていた高宮家に怨恨の気配が全く浮かばなかったことから強盗殺人の線で捜査方針を立てたところ、ちょうど別の窃盗事件で外国人グループを逮捕したことがあり、彼らの手口の荒っぽさもあり、確実に一連の犯行であろうと捜査一家は沸き立った。
 しかしそのグループは、逮捕された事件については認めたものの、高宮美和の件については認めなかった。
 そんな状況で、上層部は少々手荒になっても自白させろと強気であったが、俺は捜査が間違っていたのではないかと不安になった。金品がなくなっているからと云って強盗犯と決めつけて良いのだろうか、もちろんそう思ったからには自身が独自に捜査をすればいいのであるが、警察が組織である以上、上官の言葉は絶対である。俺は捜査に疑義を持ちながらも動けず、坂田に助けを求めた。
「他に犯人がいるかもしれないと云うんだな。誰か疑わしい人物がいるのか?」
坂田は百合ちゃんの運動会に出るためだと河川敷でランニングをしており、俺は並走しながら顛末を説明した。
「念のためで調べたのは、夫の義一と隣人で日頃付き合いのあった向井由佳子」
「その二人を調べた理由は?」
「義一は夫であるからという至極よくある理由だな。だが夫婦関係に問題があったとは聞かないし、生まれたばかりの子どもと三人で仲良く出掛けていたという近所の証言もある。形式的に調べたという感じだ。ただ、向井由佳子のほうも、最も親しくしていたというのが理由で、こちらもトラブルはなさそうだったし、空振りだった」
「二人ともアリバイはあると」
「そうだ。義一は神輿を担いでいたし、向井由佳子は、祭りを友人と見物していた」
「祭りか……被害者の美和は夫の神輿を心待ちにしていたところを襲われたんだったな」
「そのとおりだ」
「夫の義一を調べてみるのはどうだろう」
 坂田は息を切らせながらそう云って立ち止まり、膝に手をついた。俺は反射的に首を傾げる。幼い子を持った父である義一。殺害時刻に神輿を担いでいたアリバイを持つ義一。俺が気が付かず、坂田が気づいた矛盾でもあるのだろうか。俺は坂田から次の一言を待ったが、彼はまた走りだし、そのまま行ってしまった。
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