第2話

文字数 23,241文字

3・ 東風

 肥沃なナガ平野から西へ進むにつれて、気候は確実に変わってゆく。
 空気は徐々に湿度を失い、乾いた陽射しが降り注ぎ、気温の寒暖差も激しくなってゆく。
 風景も、それに合わせて如実に変わる。水路の一本も無い乾いた土地の上には、背の低い灌木ばかりが生えている。薄い茶色ばかりが目立つ丘陵の地形が、どこまでも連なってゆく。
 このいささか単調な印象の世界の中に、シュリエ城砦はあった。
 シュリエ城砦は、ワーリズム家の力が及ぶ勢力地の中でも要衝の一つだ。時折に起こる周辺豪族達との緊張に備えるべく、乾いた丘陵の上で巨大堅牢な姿を見せつけている。とはいうものの、今の様な安定の期には、その機能も持て余されていた。広い城内を歩む人々――大部分は兵士それに若干の生活者達――の数も少なく、静かに落ち着いていた。突然に女主人を迎える事になったこの数日間も、城内は退屈な平穏に満たされていた。
 ……
「お早うございます。穏やかな良い朝です。ご機嫌はいかがですか、シャダー様」
 シュリエの城主・カラクは姿を現すと、文句の付けようのない礼節で頭を垂れた。
「ええ。お早う。本当に良い朝だわ。気持ちが良い」
 シャダーの方もまた、素直な上機嫌でこれに答える。
 夜が明けてから間もないというのに、空はもう青味が強かった。ナガではすでに秋が始まっているというのに、こちらはまるで季節が戻ったような陽射しと空気だった。秋を感じさせるのは朝晩の冷え込みと、日陰の涼しさと、それに絶え間なく吹き付ける東風だけだった。
 シャダーは城砦上階の丘陵を広々と見下ろすテラスに座り、その東風を肌に感じている。山羊乳の杯を握ったまま、ワーリズム家の臣下・カラク城主を屈託なく見ている。
 カラクは、四十歳絡みの年齢だろうか。この数日間同様に、今朝もまた瀟洒ないでたちだ。染み一つない上質な濃紺の長衣を慣れた態で着こなし、卒のない笑みを示している。
“奴は如才ないな。まあそれはそれで優れた力量だが”
 いつだったか父親がぶっきら棒に言ったのを、彼女は覚えていた。その通り、たった今も自分の横に立つカラクは、慇懃なまでに丁寧な対応を続けてくる。
「山羊乳は足りていますか。外に何か召し上がりたい物が有りましたならば、どうぞご遠慮なく仰って下さい。貴方様に御不自由をおかけする訳には参りません」
「ありがとう。だったら後で甘菓子をお願いするわ」
 だがそれも当たり前と、シャダーは考えている。
 だってこの男は、かつては父親から、今は弟から城主権を任命されているワーリズム家の臣下なのだから。自分に向ける態度としては、これが当然なのだ。何かと自分に文句の目を向けるワーリズム城館の家臣達の方が神の名において間違っているのだ。
 彼女は上機嫌のまま声掛ける。
「ねえ、カラク。まだナガの戦闘は決着していないの?」
「鳩が運ぶ通信によれば、いまだ交戦中です。いまだ五分五分の戦況で進展中の様子です。勿論ラディン殿は善戦をなさっていますが、悔しいことに敵方も戦力を保っている様子です」
「善戦は当たり前よ。ナガ城館の壁は堅固なのだし。最後にはラディンが勝つのは分かっているけれど、でも何でこんなに長引くの? コルム方にここまで包囲を続ける体力なんて無いと思ってたのに」
「確かに。予想外のしぶとさですね。
 ラディン殿の実力を考慮すれば最終的には勝利となるでしょうが、とは言え、御優しい姉上であればこそ弟御に対する御心配は尽きないのでしょうね。御察し致します。ましてや敵方が、かつて可愛がられていた従弟との事では、さぞ御心苦しいでしょうに」
 顔色一つ変えずに述べる。その通りと言わんばかりにシャダーは頷いた。
「そう、心配なのよ。だから私は早く帰りたい。帰ってラディンの無事の顔を見たい。ナガには一刻も早く勝ってくれないと困るのよ」
 明るい陽射しのテラスの下、相手が口許を皮肉気に上げたのにも、彼女は気付かなかった。
 乾いた丘陵を流れる東風には、朝の冷気と埃の匂いが含まれている。太陽はゆっくりと天空を登ってゆく。シャダーはあらためて山羊乳を飲み始める。
 今日も昨日と同様に、平和で穏やかで退屈な一日になるはずだ。彼女は城内の人々を相手に他愛ない会話を交わしながら、長閑に暇を潰すはずだった。そうやって平穏な一日を過ごすはずだった。だが。
 ……東の地平線の方。陽射しの差し込む方向。丘陵の連なりの中を走る街道の上を、二騎士が走っていた。
「あれは、貴方が送り出した伝令兵か何か?」
 先に気づいたのは、シャダーだった。彼女は、眩しい光に目を細めながら指さした。
 カラクも気づいた。街道の上に、背中から朝日を浴びた二騎が、こちらに向かって全速力で疾走してきている。
「ねえ。貴方の兵なの? きっとナガの状況を運んでいるわよね。やっとラディンが勝って、平和が戻ったのかしら? どう思う?」
「……」
「どうしたの? 貴方はどう思うの?」
 カラクは表情を変えていた。皮肉な笑みが引き締まった顔に転じていた。
「どうかしたの?」
「どうやら、私達は客人を迎えるようです」
「貴方の兵ではないって事? でもこの城砦の、貴方の客でしょう? 私達って?」
「そのままこちらでお待ちを。おそらくすぐに貴方様をお呼びすることになりますので」
 白々しくも硬い笑みが浮かぶ。素早くテラスから立ち去った。残されたシャダーには、何が起きたのか全く状況が判らない。全速で走る二人の騎士の黒い輪郭は、確実に城砦に近づいてくる。
 ……
 カラクの言い残した通りだ。
 まだ山羊乳を飲み終わらない内に、シャダーは城の者によって急遽中庭へと呼び出される羽目になった。
「一体何があったの? さっき甘菓子も頼んだところだったのに」
 光のあふれる上階のテラスから地階の中庭へ。長い階段を延々と下ってゆく間に、思わず不満を呟いた。上着を持ってくればよかったとも。日向のテラスから一転した城内の暗い通廊と階段の冷やかさが不快だと思った。
 そして到着した中庭もまた、日陰となっていた。空気がぴんと冷え切り、その冷たさ、それ以上に眼にした光景に驚いた。
「どうしたの? なんでこんなに兵達がいるの?」
 四角い中庭のその四辺にそって、ぐるりと二十人を超える城の守備兵がずらり並んでいるのだ。
「一体何よ、カラク? この二人、誰なの?」
 その真ん中には先程到着したばかりの二人の騎士――たっぷりと砂埃と汗をあびた壮年の男と少年が、厳しく引き締まった態で立っていた。カラクもまた、極めて強張った顔だ。中庭の全体が緊張の空気に覆われていることには、さすがにシャダーも感じとった。
「貴方の配下の兵なの?」
「配下の者と接見するのに、場を衛兵で囲ませたりはしませんので」
 丁寧な物言いの中にトゲがあった。困惑し始めたシャダーに向かい二人の騎士が近づく。まずは揃って片膝を折り敬意を表した。
「初めてお目にかかります。ワーリズム家のシャダー様。私の名はリサール。こちらは私の補佐をする息子です。我等が主君・コルム領主ハンシス殿より貴方様宛に緊急の伝達を携えて参りました」
 告げられた途端、シャダーの脳裏に数日前の嵐の中の従弟の姿がくっきりと蘇った。
「待って。ハンシスはどうして私がここにいるって知ってるのよっ」
「貴方様の避難先については、我らの主君は早々にナガ城館の某氏を通して情報を得ていました」
「ナガ城館に間者がいたって事? 誰よ! それに包囲戦は? ラディンは?」
「包囲戦につきましては、我らの出立時点でいまだ継続中です。またラディン殿も御健在で、引き続き篭城応戦中です」
 弟の無事にシャダーがほっと息を突きかけた時、
「今のところは、ですが」
 使者の淡とした付け足しに、シャダーの感情は困惑から苛立ちへと変じた。
「嫌らしい言い方はしないで。必要なことだけを早く言って!」
「失礼をしました。ナガのシャダー様。では、あらためて申し上げます。
 現在も、ナガ・ワーリズム城館の包囲戦は続行中です。しかしながら戦局は明らかに我々の主君の側が有利です。この先時間をおかずラディン殿は降伏を強いられて、ワーリズム家当主の座からも下りる事になりましょう」
「嘘でしょう? 戦況は五分五分と聞いたわよ? コルム陣営だってそんなに長く包囲を敷いていられる力は無いはずだし――」
「いいえ。戦局は誰の目においても我らコルム側の優勢に進んでいます。ナガ方に勝利の余地はほぼありません」
「カラクが――、彼がそう言ったのよっ、嘘だったの?」
「神の欲するところにより、間違いなく、間を置かず、我らが主君が城館を開城させます」
 眼を大きく見開いて彼女は振り向く。だがカラクは彼女など無視した。使者達に据えた眼を全く動かさなかった。
 なあに? じゃあこの男は私に真実を言わなかった訳? 私は嘘をつかれていた訳? 聖者様!
 先程までのテラスでは陽射しがあんなに暖かかったというのに、陽の無いこの場は底冷えている。なのにシャダーの体は不満と興奮で熱くなった。僅かな震えすら覚えた。
「……。だから? それで、私に何を告げたいの?」
「コルム軍勢が包囲を突破して城館に突入した場合、ナガ城館側には甚大な被害が予想されます。場合によっては、残念ながら複数の死者も出かねません」
「嫌よ、駄目。そんなのは――」
「はい。ハンシス殿もそのような事態は望んでいません。それよりは交渉による開城を考えています」
「だったら――、だったらすぐにワシールに連絡すればよいじゃないっ。ワシールだったら上手く整えてくれるわよっ」
「ハンシス殿は、貴方様を開城交渉の相手にと指名されました」
 横で、皮肉の顔のカラク城主が驚きの息を漏らした。驚きはシャダーも同じだ。
「……どういう事?」
「和平への交渉ですが、その条件をお伝えします。
 ワーリズム一族の当主座にはハンシス殿が就きますが、ナガにおけるラディン殿の宗主権はそのままに。つまり、領地も城館も引き続きラディン殿の所有です。
 その代わりに、貴方様においては、ナガを離れて頂きたい。ラディン殿と距離をおいて頂きたいとの条件です」
“シャダー、もうラディンから離れて下さい”……。
 まただ、
 驚く。そして驚きは間を置かずに怒りへと変質する
(なぜまた繰り返すの? なぜそこまで私とラディンの日常を邪魔するの? そんなに私を非難するの!)
 彼女が怒りのままに怒鳴ろうとする直前に、カラク城主が先回った。
「どうしてハンシスはそんな奇妙な条件を持ち出すんだ」
「それは私には分かりません」
「私も知りたいわっ。本当におかしい。ハンシスは何を考えているの? そこまで私を非難して私とラディンを引き離したがるの!」
「残念ながら分かりかねます。ですが。
 貴方様が弟のラディン殿に干渉をしすぎ、ゆえにラディン殿のみならずワーリズム家の全体に極めて悪しき影響を与えているとは、もっぱらに世間にも知られている評判です」
 使者リサールは全く遠慮なく、真っ向から言い切った。
(――これは)
 横に立ち、冷めた顔のままカラクは淡々と予測する。
(これは、火のように怒るかな?)
 だが、そうはならなかった。
 シャダーは、怒りに耐えていた。突きつけられた現実に対して眉を吊り上げ、唇の端を噛み、顔を赤くさせ、しかし取り敢えず今はそれ以上を表わさなかった。
 そしてその様をもう一人の、少年の方の伝令兵も見ていた。
(本当にこの人は、現実に気づいていなかったのだろうか?)
 十二~三歳ぐらいだろうか。父親の横に立つリサールの息子もまた、その年齢らしい潔癖の眼をもってナガ城館の女主人を見せていた。
(俺だって知っているのに。この人の出しゃばりのせいでナガの臣下達はみんなラディンを嫌ってしまったのに。皆の不満を受け止めるかたちで今回、ハンシス様が立ち上がったのに。
 そういう事に全然気付いていないのか? 自分の弟よりハンシス様の方が遥かに君主の質だっていう誰もが知っている事を、この人だけは知らないのか?)
 少年の目には、ナガの女主人の怒りを堪える顔が醜く、それ以上に滑稽に見える。
(なのに。どの聖者様が見ても、ハンシス様は優しすぎだ。いくら仲良しの従弟だったからって。完勝出来る相手にこんなに緩い和平条件を出すなんて。わざわざラディンに立ち直らせようと、姉と離れる機会を作ってあげるなんて)
 突然、振り向いたシャダーと真っ向から目が合ってしまった。少年は驚く、と同時に自分の内心を見せないように身を正す。
 シャダーはそのまま少年そして父親の前に進み出てきた。
「帰って」
 上段から宣した。
「――。シャダー様。我らが主君へのご返答は?」
「あの恩知らずには、こう伝えなさい。例えこの先、お前の聖者すらも恐れない高慢通りに物事が進もうとも、私に命令はさせないからって」
「――。本当に、そうお伝えしてよろしいのですね」
「私の返答は、それだけ。さあ、行ってよ、早く! さっさと帰って伝えて!」
 吐き捨てるように言い切ったのだ。
 カラクも使者リサールももう何も言わない。二人ともが同時に僅かに口端を引き上げて軽蔑を示しただけだった。リサールの息子も同様だ。不愉快を隠して簡単な礼を垂れただけだ。
 礼を垂れながら、少年は小さな溜息を漏らした。敬愛する主君・ハンシスを満足させられる返答を持って帰れない事に対する悔しさが心を大きく占め、そしてあとは、
(来たばかりなのに、なのにあの長い街道を今からすぐにとんぼ返りするのか……聖天使様)
素直な感情が残った。
 ……
 中庭にいた全員が城門へと移動していった頃には、陽射しは一層に大きく、明るく輝いていた。東風は相当な強さになっていた。
 光と埃に、誰もが目をやや細めざるを得なくなっている。埃混じりの風に、服の裾や袖口を大きく揺り動かされている。大きく開かれた城門の外に出たコルムの使者親子の外套もまた、強く風に吹かれている。そこにこびりついた砂埃すらまだ払い落としていないのに。
(ここに一刻すら滞在していないっていうのに、もう出発するのか)
 陽射しと風を受けながら、少年の体には、疲れと重たさがどんよりとのしかかっていた。硬い視線で、これから自分がたどらなければならない長い長い街道を考えてしまう。
(全く、無駄な旅程になったなんて。それでもまだ馬を走らせないとならないなんて)
 突然、目の前に木製の杯が差し出されてきた。
「山羊乳を飲む?」
 はっと動かした視線の先、つい今しがたまでの激怒から一転したかのようなシャダーの笑顔があった。
「喉が渇いているでしょう? 飲んでいきなさいよ」
「……。ありがとうございます」
 ごく自然な優しさを示していた。そのことに、少年は素直な感謝をし、差し出された杯を受け取る。きちんと返礼すべく、出来うる限り職務に相応しい台詞を選び取った。
「貴方様が我らの主君ハンシス様の申し出をお認め頂けなかったことを、心から残念に思います」
「――。お前、使者の任務は初めてでしょう?」
「はい。今回初めて父の補佐として、ハンシス殿から任を命じられました」
「そんな感じがしていた。見るからに初々しいもの」
 小さな気恥ずかしさを覚え、少年の頬は赤らんだ。それを見てシャダーは一層に柔らかく微笑み、それから言った。
「あの男の……ハンシスの言い分だけれどね、私とラディンが離れた方が一族の為・ラディンの為になるからなんて言うのは、嘘よ。単に、私達姉弟の仲の良さに嫉妬しているのよ。仲の良い従弟ではあるけれど、でも私達にとっては実の兄弟では無いから。下らないやっかみから、こんな愚かな騒ぎを起こしているだけなのよ」
 何で今そんな事を自分に言うんだろうと、杯を口に当てた少年が思った時だ。
 鼻で笑う声が聞こえた。今まさに馬に跨った父・リサールが聞いていた。露骨に小馬鹿にした笑いを漏らしたのだ。
 すぐさま、シャダーが振り向く。
「何を笑うの? 無礼よ」
「確かに。伝令兵だというのに私情を見せるなど、失礼な態度でした。私は己の職務のみを全うすべきでした」
「そう思うのなら謝りなさい」
「はい。心よりお詫びを申し上げます。今より私は、全霊をもって職務のみを全ういたします。一刻も早く貴方様のご返答を主君に持ち帰ります」
 そして強い東風の吹き付ける中、リサールは痛烈な台詞を言い切った。
「貴方様のご返答を、必ず主君およびコルム宮廷の皆々に伝えます。その哀れみすら催させる御賢明ぶりこそはきっと良い語り草となって、今後長らく伝えられますでしょうとも」
 えっ?
 愚弄を剝きだした父親の言葉に驚愕する。急いでシャダーに眼を向けた時、彼女は顔色を変えていた。激しい怒りを剥き出す様に少年は驚いた!
「おい。出発するぞ、早く騎乗しろ」
「済みませんっ。済みません、ありがとうございました、シャダー様!」
 強い風が抜ける。カラク城主も守備兵達もシャダーに注目する。その視線の中で、彼女の火のような怒りが増してゆく。怒りを限界にまで高める。相手が今、正に馬の腹を蹴ったのと同時に、凄まじい大声で叫んだ。
「待ちなさい! 待て――!」
 およそ婦人に、増してワーリズムの女主人に相応しくない怒鳴り声を発した。
「恥を知れ! それが私に対する言葉なの! 私――ワーリズム家当主の姉に対する――!」
 すでに走り出していたリサールが馬を止める。振り向く。
「父上っ、行きましょう、私達は伝令です、早く行きましょう!」
「無礼を謝罪しなさいっ、この場でしなさい!」
「いいえ。この弁については、私は謝罪はしません」
 リサールの顔はもうただの侮蔑ではない。確固とした憤怒をもってシャダーに応じた。
「使者としての立場では無い。私の私的発言です。――私は、貴方様の愚昧ぶりを憐憫します」
「謝れ! 殺されたいの!」
「確かに人々の語るところは真実です。貴方が原因です。貴方の愚鈍さ・傲慢さが、ワーリズム家の混乱という厄災を招いたんだ」
「父上っ、止めて下さいっ、もう止めて下さい!」
「一族の当主たるべきラディンを無能の阿呆に育ててしまっただけではない。たった今も、せっかく終結できる戦役を己の我儘だけを理由に無駄に継続させて、皆を疲弊させるとはな。
 その自覚はあるのか? どうせ無いんだろう? 害にしかならない厄災の女が!」
「父上!」
 瞬間、少年の視界の中に、信じられない光景が流れた。
 激怒のまま、女主人が素早く身を振り返らせる。後ろにいた若い衛兵に腕を伸ばす。兵士の口が歪み開き、シャダー様駄目です! と叫ぶ。シャダーが、兵から奪い取った弩弓に素早く矢をつがえ夢中で構える――前方に、正面に!
 次の瞬間。
 音も無く放たれた一本の矢は、僅かな空気の振動を伴って少年の目の前を通り抜けた。直後に聞こえた短い呻き声。続き、地に落ちる音と振動。
 少年は何も感じられなかった。
 ただ、涙が予告なく溢れた。父親の胸板は射抜かれ、その体躯は落馬し、乾いた地面の上で砂に塗れた。
 乗り手を失った馬が短くいななく。と同時、少年の喉を凄まじい絶叫がつんざいた。
「父――上――――ぇ!」
「弩弓を奪え!」
 唖然の表情から一転、カラクが目を剥いて叫ぶ。数人の兵が、茫然と立ち尽くすシャダーに飛びつき、腕から弩弓を奪いとる。カラクはさらに叫ぶ。
「あの子供を捕まえろっ、早く!」
 その声に少年こそが反応する。力づくで父親から眼を離し、騎乗した馬の腹を蹴る。全速力で走り出す。
「弩弓を打て! 逃がすなっ、ハンシスの所に戻すな! 馬で追いかけろっ、早く!」
「……。なぜ……」
 カラクの横で、間の抜けたような小声で呟いた。
「“なぜ”――?」
 血走った顔でカラクは振り向く。あの鼻に付く慇懃さの一片も無い。頬骨の上に醜悪なまでの激憤を剥きだし横のシャダーに喰らいかかった。
「なぜだって? この女、なぜと言ったのか――!」
「……だって――ただ脅かそうと、私……だって、酷い侮辱を……。まさか矢が当たるなんて――そんなのっ。神様、なぜ……」
「なぜ! 自分の仕出かした事も分ってないのか! なぜだと?
 貴様は使者殺しの大罪を犯したんだっ、しかもハンシスの使者だ。すぐにワーリズム家当主になる男の、その兵をこのシュリエで殺したんだ、奴の恨みを買ったんだぞ! 俺をハンシスの敵にさせる気かっ、どうしてくれるんだ!」
「……だって、……なぜ? ワーリズムの当主は私の弟……なぜハンシス――」
「貴様の弟など、明日にでもナガから追い落とされて没するだろうが、貴様のせいで! それぐらいなぜ分からないんだ!」
「父上を――殺した! 父上を……伝令を――殺した……!」
 丘陵の上から、東風に乗って少年の絶叫が響いた。真昼の光の下、少年は泣き声を上げながら街道をまっしぐらに帰還してゆく。射られた数本の矢は当たることなく丘陵のどこかに吸い込まれて消えてゆく。
 背後ではようやく厩舎から数頭の馬が運ばれてきた。数名の兵士達が急いで飛び乗った。
「殺された――伝令なのにっ、殺された――父上が!」
 叫びだけが風に乗る。砂埃が大きく舞う。街道を真っ直ぐに少年の馬が走る。それを追いかけてシュリエの兵が走る。多くの兵や人々が駆けつけ騒々しさを増す城門の前では、カラクが残忍なほどの怒りの顔でシャダーを睨みつけていた。
 シャダーは、ただ呆然と陽射しの下に立っていた。強い東風を全身に受けていた。



4・ 東風Ⅱ

 ナガのワーリズム城館が持つ五つの城門の内、聖カドスの門は南西の角に位置している。
 ここから外へと出てゆくと、目の前はすぐになだらかな下り坂になる。坂はやがて開けた草地に連なり、この草地が小さな広場のような役割を果たしていた。
 今日。そろそろ夕刻が近づいた頃合い。すでにこの草地からは人が避けられていた。広々と東風の抜ける空間が無人のまま、大きく、がらんと空けられていた。
 ……
「朝から風が強い。雲も多い。もう完全に秋が始まったな」
 戦闘が停止し、強い物音の消えた自陣の中を歩きながらハンシスは言った。
「……」
 その言葉を聞き受けながら、横に共に歩むルアーイドはとっくに、敏感に察していた。簡単な言葉をかけた。
「朝から、ずっとだ」
「――何が?」
「機嫌が良い」
 ハンシスは振り向く。指摘通りの、妙に明るい顔で笑った。
「当然だろう? 今日は休戦だ。これが守られた御陰で、丸一日皆と落ち着いて話し合いが出来た。食事もゆっくりと充分に取れたし」
「……」
「それにこれから、久し振りに従弟に会える。上手く行けば、包囲戦にけりを付けられる。私にとっては勿論、ラディンとってにも良い方向へ進む道を作れる。ワーリズム家を取り巻く皆に良い未来を作ることが出来る。機嫌が悪いはずないだろう?」
「――。それだけか? それ以外にも何か理由があると思っていたが」
「何のことだ?」
 東風を受けながら、ハンシスは笑顔を保っていた。
 ルアーイドの生真面目な眼がじっと、それを見つめている。見つめながら、彼は迷っている。この数日間何となく心に引っかかっている疑問を今、このまま追い詰めて問いただすべきかと、考えてしまう。
“また勝手に出た。自分達臣下に一言も無く、勝手に会見の場を作ってしまった。先日の嵐の中も単独行動もそうだった。――どうしてだ?
 臣下達と充分に尊重するのが貴方のやり方ではなかったのか? この戦役が始まってからの貴方は、少しおかしくないか?”
 いや。やはり今は止めておこう。
「貴方があんまりにも上機嫌に見えたからだよ、ハンシス。
 そうだな。会見が万事うまくいくといいな」
「勿論、上手くいくさ。だって私とラディンは、子供の頃から仲良しだったんだから」
 夜明け前から始まっていた東風は、一日を通して続いている。曇りがちの空に灰色の雲が次々と現れては、絶え間なく西へと流れ続けている。変わりやすい空の模様が、秋の始まりを告げている。
 二人は、坂を登ってゆく。めざす聖カドス門前の草地が、そろそろ前方に見えて来る。すでに準備は整えられていたようだ。草地の縁には、門に近い側にもこちら側にも決められた人数――十人の兵士と四人の家臣達が待ち構えている。双方の主君がやって来るのを待っている。
 戦闘の無い、数日かぶりの静かな夕刻を前に、風が草を吹き抜ける音が響いている。ハンシスも、自陣の家臣達の許に達し、その横に立ち並んだ。風を受けながら、遠い前方のカドス門が開くのを待った。
 そして――。東風の中。
 門がゆっくりと、開いた。風を受けながら、老ワシール卿の姿が現れてきた。
 風の強さ、それ以上に静まった前方の草地を意識しながら、ワシールは呟いた。
「やはり時間を変えるよう求めるべきだったのでは。日没前を指定してくる会見など、あまり先例を聞いた事がありません。相手の意図が読めない」
「何を恐れているんだ?」
 二歩を遅れて、ラディンが出てきた。
 小柄な、丸切り少年のように小柄な全身が、風を受けている。いつもながら黒の胴着に映える少年の顔は掴みにくく、子供じみた風貌から浮いていた。内心を読ませなかった。
「ハンシスの申し出が気に入らないのか」
「いえ。会見の設定そのものは、望ましいものです。今日一日を休戦にするとの約束が守られている事も。ですが、一日とは、日没をもって終焉するものですので」
 ラディンの闇色の眼が草地よりさらに先の遠景――コルム軍勢の陣を大きく見捕えた。
 コルム軍は休戦日とはいえ、陣の体系そのものは解いていなかった。兵達はのんびり座り込んだり周囲を歩き回ったりしているが、しかし持ち場を離れているという訳では無かった。つまり、聖典の教えを畏れず休戦約束を破る備えは、出来ているという事だ。
「つまり。今、休戦協定を破ってしまえば、彼の勝率は格段に上がります。
この場で貴方様の身柄を確保してしまえば、彼はこの長引いた包囲戦に即座に勝利します。望んで止まないワーリズム家当主の座を手に入れる事が出来ます」
「――」
「ラディン殿。聞いていますか。貴方自身の身柄に危険があるという話なのですが」
「ハンシスの奴が約束を破るような男では無いと、貴様だって知っているだろう? 破るとしたら俺の方だ」
 素っ気なく言い切り、ワシールは眉をひそませざるを得なかった。
 いきなりラディンは風の坂道を走り下る。すでに兵士と臣下が待ち構えている自陣の場へ、草地の縁へと向かう。
 上空は雲が流れて薄暗い。ほぼ正面からの東風が吹き止まない。風を受けて、風を切って坂を下り、草地の縁の自陣の許にたどりつき、そして、
 ……ラディンもハンシスも、ほぼ同時に相手の眼を見た。
 それから、両者ともが相手の全身を充分に見据える。互いの服装の色や作り、髪の長さや、そんなどうでも良い細部を充分に見て取る。それから同時に、無言で草地の縁から歩みだした。広い草地の真ん中へとゆっくりと進み出た。こうして両者は、会いたいのか会いたくないのか判らない相手と正面から、間近から見まえることになったのだ。
 先に声をかけたのは、ハンシスだった。
「二年ぶりだな。ラディン。久しぶりだ。背が伸びた」
「久しぶりだな」
 ラディンも応じた。意外にも、先に笑みかけた。猫の様な笑みが自分に向けられるのを、ハンシスは素直に受け取った。
 草地の両端からは、こんな対面の仕方は危険だと主張していた両陣営の臣下達が、不服と緊張と心配の顔のまま遠巻いて見ている。ちらっとそちらを見ながらハンシスが笑う。
「お前の側の臣下――ああ、勿論ワシールは連れてきているな。懐かしいな、彼とはゆっくり話したいんだけどな。その隣の、あの背の高い男は誰だ? 髪色の薄い、変わった男だな。お前の新しい側近か?」
「貴様がいた頃から、俺の周りに何の変化も起こって無いとでも思っているのかよ」
「……。いや」
 怒っているのか? それとも親しみの冗談のつもりか?
 隙の無い猫の顔に見えた。昔からそうだった。親しくはあっても、何を考えているのか掴みにくい。この二つ年下の従弟は。
「確かにそうだな。変わっていないはずがない。二年も経てば」
「そうだよ」
「変わって当然か。私達の立場からして大きく変わった。お互いに支配者の座に就いた。全てが変わらないはずがないな。
毎日、好き勝手に遊んでいたのにな。あの頃は楽しかった。私はナガ城館で本当に良い時を過ごさせてもらったよ。色々な人と出会って、学んで、遊んで、ずっと幸せだった」
「だからか」
「え?」
「だから貴様は昔の時間を取り戻そうと、こんな大掛かりを始めた訳だ」
 ラディンの顔がまた笑った。素直に笑った、それが好意なのか悪意なのか、本当に判らない。
 ハンシスの背中に冷たい感覚が走った。
 ……
 日没が近づいている。東風はいよいよ強さと冷たさを増して草を鳴らしてゆく。
 風下の側では、コルムの五人の臣下達は顔に風を受けながら神経質に目を細めて、草地の中心の二領主を見つめていた。
「どう思う? あの二人は何を話しているんだ?」
 重臣の一人がルアーイドに話しかけたのだが、
「……」
 ルアーイドだけは、違う場所を見ていた。主君達よりさらに遠く、草地の向こう側の敵陣営を見ていた。そこにいる、やはり熱心に主君を見ているナガ側の臣下達を夢中で見捕えていた。
 ルアーイドは、自分の気がぴりぴりと緊張してゆく感触を自覚する。
 知っている気がする。敵陣の中の一人。高名な老ワシール卿の隣に立つ、あの男。背の高い、髪色の薄い……珍しい、薄い色合いの眼と髪の……。
「イッル……?」
 向こうも今、ちらっとだけ淡泊な視線で自分を見たか? いや、
「イッルが……、まさか……なぜあそこに……?」
「イッルじゃない。カティルだよ」
「え?」
「あの褪せた髪色の男だろう? カティルという名前のラディンの護衛だ。一年少し前からナガ城館に居ついた。ラディンの気に入りだ」
 左側から、緒戦で寝返ってきたイーサー将が興味もなさそうに教えた。
「――。カティル……」
 東風が絶え間なく吹き付けている。ルアーイドの背筋のすみで、暗い警戒感が徐々に大きくなってゆく。
 ……
「あの二人、笑ってるぜ」
 面白がるようにカティルが言った。それを横耳で聞きながら、老ワシールは視線を微動だにせずに主君達を凝視し続けている。
「どう見ても仲が良さそうじゃないか。戦敵同士どころか、あれじゃ絵に描いた仲良しの従兄弟同士に見えるんだが。ワシール」
「……」
「ワシール、聞いてるか? あの二人が昔は仲良しだったって聞いた時、俺は信じてなかったんだけどな。本当だったんだな。
 ならばやっぱり、奴がシャダー殿をナガから追い出したがっている理由は本当なのか? 本当にラディンの将来を気遣ってるって事なのか? 貴方はどう思うんだよ?
 第一あの二人、今、何を延々と話し込んでるんだよ?」
「――。昔話しでもしているんだろう」
 独り言のように答えた。
 この二領主双方を最もよく知る老臣こそが、見事に状況を言い当てるところになった。
 その通り。今、風の中。ハンシスとラディンは、楽しそうに昔話をしていた。他愛ない、本当に他愛のない思い出話を延々と続けながら、嬉しそうに懐かしそうな顔をしていたのだ。例えば、
 ……ワーリズム城館の北の裏手のリンゴ林。そこの巨木に登り、枝に座り込んで酸っぱい若実を盗み食いしたこと、
 ……大市に旅芸人が来ていると聞いて、片道一日半のスックの町を目指して夜中にこっそり城館を抜け出たこと、
 ……同年代の遊び仲間で集まり、女達も総出で刈入れをしている麦畑の真ん中を全員素っ裸で走り回ったこと(この時はさすがに、普段なら家人に無関心のワーリズム殿に猛烈に怒鳴られたこと、でも夜中に思い出して二人で馬鹿笑いしたこと)、
 思い出は、仲良く面白く遊びあっていたものばかりだった。思い出すだけで幸せだった。
「そう言えばほら、こんな事もあった」
 ハンシスはまだ続ける。
「ほら、お前が夜遅くに俺の部屋に来て、何とかワシールを言い負かしたいから手伝ってくれと」
「そんな事があったか? 何があったんだろう」
「確か、ワシールがお前に説教したとかだったな。『領民に敬われなければ、どんな善政を執っても意味はない』と。これを何とか言い負かせたいといって来たんだ。ああ、そうだ。満月の暑い夜だったな。それで二人で色々と考えたけれど、私は結局ワシールの説に同意して、だからお前は怒って自分独りで考えをまとめ上げて――」
「有ったな。覚えている」
「次の日の朝一番、二人でワシールが登城するのを城門で夜明け前から待ち構えていた。で、彼が坂道を登ってきたのを見た途端、お前はいきなり言った――」
「言った。覚えている。俺はこう言ったんだ、
『敬われる必要は無い! 敬われるより恐れられる君主になって、その上で善政を執ればいい。そうすれば為政に成功したって失敗したって領民は黙っている!』」
 断言の口調だった。たかがの思い出話に。
 そして、眼。――あの頃から大きく変わり、従兄を寄せ付けなくなった黒い眼。
 笑おうと開きかけていた口を、ハンシスは閉じる。冷たい東風が頬に当たる。
“あの頃から、そうだった”
 風を受けながら。ハンシスの思考と感情は現実に戻してゆく。従兄の表情が微妙に変わってゆくのを、いとも敏感にラディンは察する。
「何だよ」
 さあ。楽しい思い出の時間は終わりだ。有るのは、目の前の現実だ。
 冷たい東風に二人の髪も服も大きく翻っていた。ハンシスは従弟の黒い眼を見て、言った。
「そろそろ、止めにしよう」
「――」
「お前は利口だ。もう解っているだろう? ナガは篭城戦に善戦しているが、でも、もうそろそろ限界だ。間もなく私が勝つ」
「そうだろうな」
「無駄な消耗はしたくない。これからのコルムの為にも。ナガの為にも。私にも。お前にも」
「そうだな」
「だから、ラディン。私にワーリズム家当主の座を譲れ。それだけで良い。お前には引き続き、ナガの領主としての権限を維持させる。それで良いだろ?」
「――」
「ラディン。他に望みが有るか? 何か望みは?」
「俺の望みだって?」
 その時。
 ラディンが陰湿に笑んだ。ハンシスの神経が張り詰めた。
「その前に、俺じゃなくお前の望むものの方だろう? 何だって? ワーリズム家当主座が欲しいんだって?」
「――。そうだ。――悪いか」
「――」
「正直に言う。私はとにかく当主になりたい。実際に、私の方がお前より家臣からも領民からも信頼を得ている。何よりも、私には当主に相応しい力量が有る。お前より遥かにだ。
 だから私がワーリズム家当主座を奪うのは当然だ。私にはその権利があるはずだ。それが悪いか?」
 黒い猫が大きく笑った。
「なぜ笑うっ」
「おかしいからだよ」
「何がおかしいんだっ」
「“正直に言う”か。だったら正直に言えよ。貴様が本当に欲しいのは、そんなものじゃないだろう?」
「……え?」
「シャダーだろう? 奪い取りたくて必死なのは。それが望みだろう?」
 ハンシスが顔色を変えた。
 強い東風が雲を流している。雲間に夕刻の陽射しが、見え隠れしながら薄赤い光を放っている。ハンシスの一瞬にして強張り、表情を失ってしまった顔を際立たせる。
 それを真正面で見ながら、ラディンは面白がっていた。聖典劇の観客よろしくじっくりと見据えながら冷酷に、面白がりながら言ったのだ。
「図星だからって、情けない顔をさらすなよ。従兄殿」
 動揺を力任せに潰す。ハンシスはかみ砕くような口調で返す。
「なぜ、私が、シャダーを欲しているなどと言うんだ?」
「嘘をつくなよ。隠すなよ。ほら、言えよ、
『神様、私はシャダーが恋しくてたまりません。昔、ワーリズム城館にいた時にシャダーに可愛がられたことが忘れられません。あの時に戻りたいんです。だから適当な大義を持ち出して戦役を起こし、力づくでシャダーを奪います』」
「……。止めろ」
「『そして私は、常にシャダーと共にいるあの弟が邪魔でなりません。とにかく、何とか、あの二人を引き離したいんです。――とにかくあの弟が憎いです。嫌いです。だから殺してしまいたいんです』」
「止めろ! 違う!」
「そうか? 本当に違うと言い切れるのか?」
 違う! と繰り返そうとした言葉は、確かに喉の奥に詰まった。
 それを見て、ラディンの眼がいよいよ嗜虐的に笑った。
 ……
 老ワシールの顔が急速に引き締まる。
「二人の様子が変わったようだぞ」
 横に立つカティルは答えない。答えないどころか、赤みを帯びてきた夕刻の空を眺めている。
「どうしたんだ。珍しい。ハンシスが動揺して、冷静を崩している。ラディンは何を言ったんだ?」
 風を受けて邪魔になる薄色の髪を、紐で束ねていった。その上でようやくカティルは、主君の方へ目を向けた。
 ……
「従兄殿。どうした?」
 機嫌の良い猫の顔を、ハンシスは強張った眼で見る。誰も知らないはずの事を平然と言い当ててしまう従弟を見据える。
「何か言えよ。俺を殴れよ。殴って否定しろよ」
 動揺を抑えながら従弟をみる。感情だけで言動するなど、決して自分の性ではない。
「――。感情で動くなど、しない。嫌いだ」
「逃げたな。貴様は昔からそうだったよな。綺麗事が大好きで、人に非難されることが怖くてたまらない。『領主は領民に愛されるのが第一義だ。ワシールは正しい』か? 好きなだけ諸聖人から祝福されてろよ。
 シャダーへの執着も人に、特にシャダー自身にばれないように必死だったんだろう? ばれてシャダーに拒絶されたりしたら、何も保てなくなるものな。せっかくの幸せなナガでの日々が一瞬で消えるものな。ご苦労な事だ」
「……」
「いつから気づいていた、って訊きたいんだろう? 言えよ」
「……」
「知りたいんだろう? 言えよ」
「……。いつからだ」
「貴様が城館に来た最初の日から、すぐに気づいた。ずっとずっと毎日、感じていた。だからもし俺に大金が有ったら、足のつかない毒を買ってすぐに貴様に飲ませたよ。悔しいが俺の持っている程度の金では、安物しか買えなかったけどな」
「……」
「毎夜寝ながら、ずっと貴様を殺す手段を練っていた。でも、どんな手を使ってもこっちも返り血を浴びそうで、だから実行しなかった。そんなところだ」
「――」
「どうだ?」
「――。そうか」
 ハンシスは、そう答え、それから――、無言で従弟の頬を平手打った。
 ……
「殴った!」 
 大きく距離をとった草地の縁、ルアーイドが信じられないという顔になる。
「信じられないっ、嘘だろう? ハンシスが人を殴るなんて有り得ない! どうして――」
 すぐにも駆け寄りたい、が、踏み出せない。会見中に両主君に接近することは禁じられている。その約束を破ることは、ハンシスの不名誉になるから出来ない。
「何があった!」
 ルアーイドは歯ぎしりするようにその場から見据え続ける。
……
 草地の中心では、どちらも喋らない。
 ラディンは怒っているようには見えない。笑っているようにも見えない。その眼の前でハンシスは大きく息を突いてから、吐き捨てた。
「適当な当て推量を喜々と上段から語る馬鹿が」
「――」
「ならばお前も正直に言えよ。『私はいまだに姉の匂いから離れる事が出来ません』。
 それに、こうだろう?『昔、従兄が城館に居た時には、いつ姉の関心が従兄取られるかが不安でたまりませんでした。その思いは今も続いています』。違うか? 言えよ。ラディン」
 ラディンは表情を変えない。そのまま従兄を見ながら言った。
「やっぱり安物の毒でも何でも買って、さっさと殺しておくべきだった」
「片時も姉から離れられない乳飲み子」
「お前の望むものは手に入らないぜ。俺が全霊で邪魔をしてやる」
「貴様は早々に身を亡ぼす。私が見届けてやる。その手始めは、ワーリズム家当主座からの陥落だ。――その上で、シャダーを私の許に呼ぶ」
 丸切り従弟の真似をするよう、ハンシスは陰湿に口許を引き上げた。その上でもう一回、相手の頬の全く同じ場所を同じように打った。
 ……
「どうしたって言うんだ、ハンシス! 止めろ、貴方がこんなに感情的になるなんて有り得ないぞ!」 
 ルアーイドが叫んだのと同じ時、の草地の反対側の縁でも老ワシールが発した。
「さすがにこれは尋常ではない。ハンシスが激高している。この会見は中止させた方が良い」
「仲良しっていったじゃないか。放っておけば良いじゃかないか? じゃれ合いみたいなものだろう?」
 からかい半分にカティルが返したが、しかしもうワシールは足を踏み出した。絶対に出てくるなとの約を無視し、風の中を二人の領主の方へ歩みだした。
「ハンシス殿! ラディン殿!」
との声にほぼ同時に振り返った両者の、何と表情の似ている事、
 ――とは、その瞬間のワシールの感想だった。だがたちどころに両者は顕著に対照となる。不満の眼で見据えてくるラディンと。すっと冷静の色を取り戻すハンシスと。
「会見中は全員引き下がっているという約束だぞ、ワシール」
「貴方が私の主君に手を上げるのを止めに来ました、ハンシス殿。らしくもない。これはどういう事ですか?」
「ただの昔を懐かしんでの兄弟喧嘩みたいなものだ。ラディンと」
「何を馬鹿な事をっ。だとしても、貴方ともあろう方が公の場でこんな醜態をさらすなど――、一体何を話していたのです? 何をそこまで激怒しているのですか?」
「それは従兄殿も怒るよなあ。だって俺達二人は、同じものを争ってるからなあ。この世に一つしかないものをなあ」
 凄まじい諧謔の口調でラディンは口挟み、笑った。即座、三度目ハンシスの右腕が上がったのを、ワシールが腕を掴んで止めた。
「ハンシス殿! その子供じみた態を恥じるべきです! ラディン殿、貴方も笑うのを止めなさいっ。情けない、これでは本当に子供の喧嘩だ。ワーリズム家の領主二人が衆目の中でこんなは恥をさらすとはどういう事ですかっ」
「ワシール」
 ハンシスが呼びかけた。
 眼が無言で、複雑な感情の許に老臣を見ていた。言うべきことに躊躇し、いつもの曇りの無い眼から大きくかけ離れていた。
 だから、何を言いたいのですか? ――と、この時即座にワシールは訊ねるべきだった。そうすれば、この後の事態そして二人の進む道筋はまた大きく変わったはずだ。
 だが、その機は失われてしまった。
 風上の方、コルムの臣下達の間に、何やらのざわめきが起こり始めていた。ハンシスがそちらを向いた時、もう淀んだ心情を映す眼は消えてしまっていた。
「済まない、ワシール。私達の方で何かが起こったらしい。会見中に悪いが、このままここで待っていてくれないか」
「従兄殿、俺たちの間の問題はもう何もまとまらないんじゃなかったか?」
「黙れ。まだ話すことが有る。絶対ここから離れるな、ラディン、――ワシール、彼を引き留めておいてくれ」
 言い残してハンシスは臣下達の許へ戻ってゆく。とは言っても、もうラディンは会見を続けないだろうとワシールは敏感に予測し、その通り早くもラディンは、
「ここで待つべきです。ラディン殿。交渉の場を尊重なさい」
礼儀を無視してもう歩みだしていた。草地を去り始めてしまった。
 子供じみた主君を追いかけようする前、ワシールはちらりと振り向く。視界の中、コルム陣営の様子が大きく急変しているのに気付く。
(伝令か? まだ子供の? なぜ激しく泣きわめいているんだ?)
 伝令の少年はもう立ってすらいられないのか。大声で泣きながら臣下の一人に倒れそうにすがり付いている。必死で泣きながら喚きながら何やらを語り、それに周囲の家臣達が確実に顔色を変えていく。
 ハンシスが自陣に戻り着く。迎える臣下達、泣いてすがり付いている少年伝令。……空気が見る見るうちに緊張していく。ルアーイドが主君の片腕を力任せに掴み、夢中で何やらを報告し、そして次の瞬間、
 ハンシスが振り向いた。心底からの怒りの眼がこちらを――ラディンを見た!
「ラディン殿っ」
 立ち止まり振り返った主君に、ワシールは叫んだ。
「何か大変な事態が起こったらしい。ハンシスが激怒している。とにかく貴方はすぐに皆の所へ戻れっ」
「なんで? 俺の大事な従兄だぜ?」
 今この状況での冗談口としては酷すぎるとワシールは思う。その間に事態は最悪へ向かう。信じがたいことにハンシスが感情のまま従弟へ向かって走ってくる。信じられない。あのハンシスが怒りを、敵意の感情を剥きだしている!
 そしてその従兄をラディンは動かずに待っている。面白がりながら動かず待ち構えている。信じられない事に!
 あっと言う間、ハンシスはラディンの肩を掴んだ。襟首を握って締め上げ、今日三度目、今度こそ平手では無く拳で、本気で横面を殴った。しかもそれだけでは済まない、
「止めなさい! 何を!」
彼は胴着から、銀色の短を引き出したのだ。
「武器を持ち出すなど――っ、ハンシス殿!」
「黙っていろ、ワシール!」
「貴方ともあろう人が激昂し、しかも短剣を抜いて――」
「黙れと言った! 黙らなければこいつを傷付ける!」
「ハンシスっ、何でだ!」
 嘘だろう? 嘘だろう? 嘘だろう? ルアーイドは夢中で叫ぶ。
「どうして――ハンシス! 嘘だ!」
 こんな光景があるか! 自分の知っているコルム領主は、賢明で清廉でそして冷静のはずじゃないか。それがこんなに完全に変じるのか? こんな卑劣な行動を起こすのか? あの眼。生来に明瞭なはずのあの眼が今、本気で憎悪に捕らわれているなんて、嘘だ!
「何が起こった?」
 ラディンが訊ねた。自分の首筋に冷やかな刃の感触を覚えているというのに、平然と、静かに言った。
「皆が驚いてるぞ。どうした? 感情を剥いて激怒するのが大好きになったのか?」
「余計な口を効くな! 私の言う事を聞け! 一言も漏らさずに聞け! その前に、ワシール! 下がれ! 貴様もだ、ルアーイドっ」
 さすがに今は従った方が良いとワシールもルアーイドも、皆が引きさがる。日没直前、風が強く吹く草地の中に、また両者は二人きりとなった。そして――、
 押し殺した一言が、コルム領主の喉から漏れた。
「シャダーが……」
「え?」
「私の伝令を殺した」
「何だってっ」
「私の伝令を、殺した。貴様が避難させたシュリエ城砦で、私の使者を弩弓で――自分の手で殺した……!」
「嘘だっ、なぜシャダーがそんな事をするんだ!」
「それこそを私が訊きたい! ラディン、今すぐシャダーを呼び戻せっ。使者殺しは大罪だ、何が起きたか知りたい!」
 ラディンは――突然の姉の名に動揺したラディンは、呼吸三回分無言になる。
 そして四回目の呼吸の時、彼は自分を取り戻した。
「俺が、聞いておいてやるよ」
 本来の、あの複雑な陰質を取り戻した。
「俺がシャダーから聞いておいてやるよ。貴様も事情を知りたいというのなら、後で書簡でも送ってやる。だからもう関わらずに去れよ」
「ふざけるな! なにが書簡だ、すぐに呼べ、呼び戻せ!」
「もう関わるな。使者殺しでも主君殺しでもどうでも良い。貴様はさっさと引け。そこまでして会いたいとすがりつく様は無様だし、それに哀れだ」
「ラディン!」
「諦めろ。この先もう貴様の眼にシャダーが映ることはないから。全て俺が妨げる」
 この瞬間、ハンシスの短剣をもった右腕に力がこもる。ルアーイドとワシールが同時に叫ぶ。
「駄目だ、ハンシス! 止めろ!」
「そこまでだ」
 思いもかけないところからの声が響いた。
 ハンシスは腕を止める。噛みつくような眼で振り向き、驚き、素早く反応する。左腕で小柄なラディンの体躯を羽交い絞め、右手の中で短剣を握り直し、その上で、ゆっくりと言った。
「武器を置け」
 しかしカティルは眉一つ動かさなかった。頬にぴったりと弩弓を当て、左目を閉じ、右の眼でコルム領主を見捕えている。
 ハンシスが、あらためて力を込めてラディンの身体を引き寄せた。あらためて一語一語、かみ砕くように敵に言った。
「弩弓を、置け。貴様」
「まずラディンの首から短剣を外しな。次に奴の体を離し、最後に俺に視界から消えろ。そうしたら弩弓を置いてやるよ」
「――。弩弓を置けと言っているんだ」
「俺は今からラカバ章の祈祷句を唱える。それが終わり切るまでに短剣を捨ててラディンを離して去れ。さもなければ矢を打つ」
「馬鹿が。その矢が貫くのは私ではない。私はラディンを盾に出来る」
 するとハンシスの左腕の下、ラディンが小声で笑い始めた。その乾いた笑いが緊張した神経を逆撫でる。ハンシスはさらに腕を締め上げ、即座に黙らせる。
「弩弓を置けっ。貴様の主君を殺す気か?」
「あんたの方がラディンより背が高い。頭一つ分、出てしまっている。残念だったな、充分そこを狙える。――ラディン、絶対に動くなよ。」
「そんなことが、出来るものか」
「信じられないか? だったら見せてやるよ。あんたの両目の間を抜いてやるよ。それとも哀れな臆病ウサギのように必死に身を縮めて隠れるか? それでも良いぜ。良い見世物になるからな。
 さあ、ハンシス殿。射られるならどこがいい? 右目か? 左目か?」
「――」
「さあ、祈祷句を始めるぞ」
 強い東風の吹く中、唯一なる慈悲深き絶対者の御名において、で始まる祈りの句が、本当に始まったのだ。
「ハンシス! すぐにラディンを離して戻れ!」 
 ルアーイドが叫ぶ。彼には信じられない。自分の主君がこんな非常識な態を見せ、非常識な窮地に陥る事が、本当に信じられない。胸の鼓動が速まる。動悸を覚え顔色が失いないながら、夢中で見る。
 そしてワシールも状況の最悪さを判じる。相手を子供の時からよく知っているワシールこそは、このコルム領主がこの手の脅迫を最も嫌う事を、それに屈することを最も屈辱と感じることを知っている。ゆえに的確に判断出来る。
“ほぼ間違いなく、絶対に、今、ハンシスは要求に従わない”
 強い風音の中、カティルの祈りは確実に進んでゆく。両者とも一歩も引かない。ワシールの歯ぎしりの間にも、獲物を前にした犬の様なカティルの祈祷句は、結びの謝句へと近づいてゆく。
「ハンシス! 皆の為に、頼むから止めてくれ!」
 ルアーイドの声は、もはや泣き出しそうな懇願になる。
「こんなに剥きになるなんて貴方じゃない。貴方の目指すところはこんな事から大きく離れているはずだ、こんな事で身を危険にさらすな! お願いだから、頼むから止めてくれ!」
 ちらりと、ハンシスが自分を一瞥した。その、眼――
 淀んだ、凝り固まった感情の眼、先日見たあの眼と同じ。なぜ? だからそれは何なんだ、ハンシス!
 カティルの口の中、祈祷は結びの感謝の一文に入る。それでもハンシスは放さない、放すわけは無いと、ワシールは判じる。ルアーイドの声が絶叫になる。
「ハンシス! 頼むから……頼むから――止めろ――!」
 突然、強い東風が突風となって草地を抜けた。思わずルアーイドもワシールも、草地の全員が顔と目を伏せた。そして再び急いで目を開けた時、皆が“あっ”という声を上げてしまった。
 ハンシスが、ラディンを突き放していた。
 顔一杯に隠し切れない悔しさと怒りをにじませながら、ハンシスは懸命に従弟を睨みつけていた。
 カティルはようやく弩弓を下し、律義にも謝句の最後の“絶対者に栄光あれ”の一言で締めくくった。
 そしてラディンは、この時とばかり鮮やかな顔で微笑む。従兄の屈辱に歪んだ顔を充分に鑑賞してから、愛らしい程に素直な声で言った。
「やっぱり武器を持った者には素直に従うべきだよ。従兄殿」
 東風の中、ハンシスは大股で踏み出した。もう二度と振り返らない。主君に何を声がけしていいのか狼狽するルアーイドや、もはや座り込んで泣いている伝令の少年や、展開の意外に困惑する臣下達・兵達が待つ自陣に戻ってゆく。
 東風が絶え間なく吹いている。空には雲が激しく流れている。今日一日だけは静まっていたナガ・ワーリズム城館付近では、そろそろ日没が始まる。
 結局、子供の喧嘩じみた会見は、何の結果も産まなかった。かつて他者に見せたことの無い、異様なまでに感情に流されたハンシスの姿だけが、皆の記憶に強く印象付ける結末となった。

      ・        ・         ・

 夜になっても、東風は続いている。
 すでに東風は、強風に変じている。草も木々も灌木も大きく揺れて、不穏な音を立てている。空気はひどく冷え込み、しかし湿気は消えている。流れていた雲も消え、多くの星が見えている。
 その夜の中、ルアーイドは天幕を飛び出した。その瞬間、真っ先に目に映ったのは低い空に出てきたばかりの、赤く染まった月だった。
「あの――忌々しい月!」
 寝静まった陣営内を走り出した顔は、怒り、動揺し、蒼ざめていた。
 ……
 ナガ城館内の通廊にもまた、冷たい風が吹き抜けている。角ごとに据えられた松明の炎を大きく揺らいでいる。その通廊をカティルは走るような大股で歩いてゆく。
 分厚い石壁に、足音が無機質に響く。人好きのしない冷たい顔が、真っ直ぐに薄闇の前方を見据えている。外套の裾を大きく揺らし、狂いの無い正確な歩幅で、静まった通廊を、階段を素早く進み、目指す最上階の一室に達すると、彼はノックも挨拶も無しに扉を押し開けた。
「間者から報告が入った」
 ラディンは、窓枠の上に座っていた。眼下の、城館を囲む敵陣営を見ていた。強い風に前髪を吹き付けられながら、月光にくっきりと横顔を浮き上がらせていた。
「来る頃だと思ってた」
 下を見続けたまま言う。
「さっきからコルムの夜営に火が増えている。ざわつき出している。何が起きた?」
「ハンシスの単独失踪」
 はっと、初めてラディンは振り向いた。その顔がもう、何かを敏感に察した事を表した。再び窓の外を見るや、
「月だ。充分だ」
「何が?」
「同じことを思った。この月明かりだ。夜の騎馬行に充分だ」
 窓枠から飛び降りる。あっという間に横をすり抜けようとするのを、
「待てよ」
カティルは腕を掴んで止めた。
「どこに行く?」
「すぐに追いかける」
「ハンシスをか? どこに行ったか分かるのか?」
「奴と同じことを思ったと言っただろう?」
「――」
「シュリエ城砦」
 カティルの脳裏に、鮮やかに笑う女の像が結ばれた。
 あの、ありふれた顔の、美しくも何とも無い女。我儘で独善で気分屋の、騒々しい女。果てに、一族に厄病まで招いた女。またあの女だ。あの女が災いとなってワーリズム家をどんどん混乱させてゆく。
 真夜中の冷気が風となって室内を抜けた。ラディンが腕を振り切って、そのまま無言で薄闇の部屋から出ていこうとする時、
「待てよっ、忘れるな」
カティルは、部屋の片隅にあった主君の外套を掴むと、相手に投げ渡した。
「それに俺も行くぜ」
 ラディンは素早く、松明の火の揺れる通路に出ていった。カティルも大股でその後を追った。
 ……
 月光と強風の中を、ルアーイドの眼が必死で辺りを見渡していた。
 目の前では、ワーリズム城館が大きな影となって迫っている。ごつごつと分厚い石が積み上げられた城壁は、この数日の攻撃にも充分に耐えた威容をそのままに大きくそそり立っている。
 自分のやっていることに大した意味があるとは思えない。でもやらずにはいられない。馬に跨り、敵方のワーリズム城館周辺をうかがい城壁沿いに馬を進めている。
(守護の聖天使マリキ様……)
 祈祷句が勝手に口を突く。不安はもう不安だけに留まらない。恐怖へと進んでいる。最悪の予測が現実味を増していく。
 つい数刻前。草地での主君の態は、信じられない程に異質だった。常に冷静と理知で物事に当たる質が、あんなに感情を剥きだして怒るなど。武器まで持ち出し、為に己の生命すら窮地に追い込むなど。しかもその異常の顛末について自分達臣下に、――自分に何一つ語ってくれないなど。
 主君がコルムに来てからこの二年、全霊をもって護り支えてきたつもりだった。歳の近さもあり、コルム宮廷で最も主君を理解しているのは自分との自負があった。それなのに今、主君の行動が全く理解が出来ない。
(マリキ様、ハンシスは今、まさか――)
 肥えた月を見上げる。寒空の中、赤味から大きく蒼白に転じた月が、一層に不安に書き立てる。間近から見上げる城砦の全容は、真っ黒の輪郭線を刻んでいる。
(まさか、中へ――)
 夜風は冷たいのに、手綱を握る掌に汗が生じた。
(本当に。まさか。本当に、城壁の中に入るような事は。――でも)
 草地でのあの異様な様が思い浮かぶ。何をするのか行動が読めない。まさか、本当に独りで、中へ――。
 ガタリ
 物が動く音が、風中に響いた。
(ハンシス!)
と叫ぼうとするのを、寸でで止めた。
 蒼い月の下に現れたのは主君ではなかった。二騎士だった。固く閉ざされた五つの城門の内、最も小さな北裏門が僅かに開き、そこから彼らが出てきた。
(ラディンと、……イッルだ!)
 鞍の前に付けたランタンの光が、ぼんやりと揺れている。分厚い外套を着こんでいるのが分かる。彼らがこれから夜騎行に出るとは、すぐに判った。では、どこへ?
(光に輝く翼の、マリキ様)
 ルアーイドが迷った時間は僅かだった。彼は自らの外套の襟もとをすばやく留めた。頭のどこかに、革手袋を天幕に置いてきてしまったなとの思いが過った。
 ラディン達が走り出した。月明りの下、二頭の馬が斜面を勢いよく駆け下りだした。
 それを追いかけてルアーイドもまた、蒼白い、冷たい月光の中に進みだした。



【 続く 】
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