第4話

文字数 10,361文字

7・ 曙光


“ここまで一人で来たの? たった一人って、なぜ? どういう事なの? でも嬉しいわ。今日から私の弟が二人になるのね”
“ナガはどう? 楽しい? 城館の皆が貴方を褒めてたわよ。みんなが貴方を好きだって。勿論、私も好きよ”
“ねえ、お願いがあるの。もっとラディンの話し相手になってくれない? あの子、私以外には誰とも親しくしならないのよ。お願い。貴方を信じているわ、ハンシス”

 ゆっくりと、世界は色を帯び始めていた。
 闇から濃紺へ、さらに薄紫へと変じ始めていた。
「月だ」
 ハンシスが呟く。
 陽が昇る直前、山の端に弱い月が留まっている。空気は冷え、湖からは僅かな水霧が漂っている。湖に突き出したアルアシオン城の全景が、大きく視界を占める。
 一晩の静寂と孤独の果てに、感覚は冴えていた。その感覚のままに、前方を見た。前方の緩い斜面の上の、小さな城門に感覚を集中させた。夜明け前の薄紫をまとった視界の中――、城門が少しだけ開いているのに気付いた。
 立ち上がる。僅かにけぶる焚火の燃えかすを踏み、数歩を進み出る。そして、待った。
 待つ時間を長く、酷く長く感じた。風すらない無音の中に、自分の息音が聞こえた気がした。少しずつ明るさを帯びてゆく視界に集中し、そして途方もなく長い時間を覚えた頃。
 ――青色に、見えた。青色の長衣を着たシャダーが約束の通り、夜明けの城門に現れた。
 ハンシスの表情が変わった。ちょうど初めて会った時の少年のような、僅かに当惑した表情を示した。

「来た」
 ハンシスの背中の側。遥かに遠くそして高い位置。黄色い木立を透かした場所。
 乾いた小声が告げた。灰色の城門、青色のシャダー、立ち上がったハンシスの後ろ背を一直線に見捕えて、淡色の視線は張り詰めた。
「さあ、もう少し前に出てこい。そこじゃ駄目だ」
 湖を遠く見下ろす崖沿いの僅かばかりの草地の上に、カティルは腹ばいに身を伏せている。腕に十字の形をした巻上式弩弓を握っている。
「もう少し。もう少しだけ右だ、そうだ。右だ」

 青色を着たシャダーが城門から出てくる。足場の悪い斜面をゆっくりと下って来る。
 ハンシスは戸惑いとも喜びとも、どちらともつかない顔だ。ただ静かに、ゆっくりと斜面を登っていく。そして、告げる。
「……。来てくれると、信じていました。ありがとうございます」
「皆が幸せなのが一番良いと思ったから。だから来たの」
 その答えに、ハンシスは強張るように笑う。その笑顔に、シャダーは素直に笑う。
「とにかく今は、ワーリズム家が一つにまとまった方が良いから。もう争うのは嫌。貴方とラディンが平和にまとまった方がよいから」
 それが望みだ。深い事情も奥底の感情も思わない。弟と従弟と自分が穏やかに親愛を交していけばそれで良い。とにかく今は、目の前の従兄が穏やかな好意を示してくれれば、それで良い。
 月はとっくに消えている。今ようやく、山の稜線から金色の曙光が射しこむ。湖面の朝霧に光が透ける。
 背後からの光に、ハンシスの顔は陰になっている。だからその顔の示す複雑の感情を、シャダーは読み取れない。呼吸七回の、長い沈黙となった。
 ハンシスの、子供のように素朴な口調が告げた。
「今。一つだけ、私の願いを聞いてもらえますか?」
 そして言った。
「今。ここで、貴方を抱き締めて良いですか?」
 シャダーは答えられない。ただ、僅かだけ体の重心を後方へと動かした。その時に山の端に出てきた太陽をまともに見てしまい、目を細めた。

「そこだっ、もう誰も動くな!」
 研ぎ澄まされた淡色の視線が定まった。
 草地の上、カティルの弩弓は完全に定まった。一分たがわず狙いを定め、右の指先が今、動いた。矢が飛んだ。
 一瞬の空気の振動。
 ――研ぎ澄んだ知覚が僅かに捕える。はっと振り向く。
 それが何かハンシスは分からない。ただ黒い軌跡を感覚が捕える。反射的に右足が地を蹴る。目の前のシャダーを突き飛ばし、そして、
 静寂になった。
 シャダーは自分の足元を見た。呼吸二回の間沈黙し、そして三つ目、
「嫌ぁ――――っ!」
絶叫した。

「まずい!」
 カティルが舌打つ。その真後ろでルアーイドが声を失う。いや、声を失ったのは一瞬だ。裏返る叫びが喉を突き破る。
「聖者様! ハンシス――!」
 外した! シャダーではなくハンシスを射てしまった!
 そのまま草地を飛び出す。湖畔までの崖の急斜面を転落も恐れず、滑るように夢中で走り下る。千切れそうな息で走り湖畔に達した時、視界の中に主君の姿が大きく迫った。
 自分にとって最も大切な男は、動きを止めている。倒れた地面には早くも赤い血だまりが出来上がっている。赤い血だまり――血の始まっている所――右の肩の下を射ている一本の矢!
「ハンシス!」
 駆け寄った途端かがみ込み、顔に手を当て息を確認する。
 神様、まだ死んでいない、でも神様――すぐに死んでしまう!
「助けて! 死んでしまう……血を止めてっ、早く! いきなり私を押して――その代わりに……! なぜそんな……自分の命を捨てて、そんな――!」
「ハンシス!」
「早く助けてっ、やっと和解できると――やっと今朝――っ、私を愛しているって……! だから私の代わり……命を捨てて――そんなの嫌っ、ハンシス! 助けて!」
「ハンシスっ、死ぬな!」
 ルアーイドの声も泣き出す。その間にも血は大量に失われてゆく。とにかく血を止めないと。この矢を抜かないと。意識の無い友の顔は苦痛に歪み、血は流れ続けている。
「愛しているって言ったのっ、言ってくれたのっ、だから私は――早く! 早く助けてっ、矢を抜いて!」
 多量の血が流れ続けていく。意識の無い顔が、それでも苦痛を訴える。そして、激しい息使い。もう躊躇出来ない。泣きながら、混乱しながら、しかしルアーイドは覚悟を決める。泥の地面の上、ルアーイドは左手で相手の胸上を抑え、矢の付根を掴む。その手に力を込める。
「止めろ!」
 唐突、カティルの怒鳴り声が後ろから響いた。
「殺す気か! 抜いたら体中の血が抜ける!」
 振り向いたルアーイドも引きずられたように怒鳴る。
「貴様のせいだ! 貴様が失敗するから――だから――っ」
 途端、カティルは相手の目の前で馬から飛び降り、相手の顔を殴った。ルアーイドに凄まじい怒鳴り声で命じた。
「城に運ぶぞ! 早く脚を持てっ、絶対に揺らすな!」
「駄目よ! こんな状態で運んだら、もっと血が流れる。死んでしまうっ」
「シャダーっ、先に行って城の全員を叩き起こせっ。ハンシスを横たえられる場所を見つけておけっ。清潔な水と布もっ、薬もあるかもしれないからっ。早くっ、急げ!」
 曙光の中、淡色の眼が血走っているのがわかる。この男もまた動転している。こんな時なのに昨夜の言葉がルアーイドの頭を過る。
“同意見だ。俺も奴の未来には、心底から期待をかけている。奴には何が有っても、最高の為政者になって欲しい。
 だから、貴様の案に同意する。奴の障害を取り除く。――殺す”
 ルアーイドの目から涙が流れる。この場に座り込んで、自分の行為を責めたい。叫んで身を投げだして詫びたい。泣き続けながらルアーイドは、ハンシスの体を運んでゆく。アルアシオン城内の石床に、血のシミが続いてゆく。ハンシスの身体は地階の埃臭い一室に運び込まれる。粗末な敷布の上に横たえる。
 この時になってハンシスは初めて、漠然と意識を取り戻した。と同時に、限界まで顔を歪ませた。
「――痛い」
 当然の単語に、ルアーイドの泣き顔が引きつる。
「ハンシス! 気が戻ったの? ハンシス!」
 シャダーが夢中で相手を見る。夢中でその左手を掴む。
「どうして――私の為に――、どうして!」
 横でカティルは城の守番男に矢継ぎ早に指示を出す。もっと水を用意しろ、城内には薬草の備えはあるのか、どの薬草がどのくらい、一番近い集落はどこだ、そこに医者か薬はあるか、もしくは僧院は、距離は――。
「ルアーイドっ、このまま山道を西に進むと聖コルドの庵所が有るらしい。そこへ行け! 俺は北の村に行く。とにかく医術に詳しい者か少なくとも腐れ止め薬だけは絶対に手に入れろっ」
 カティルの言葉にルアーイドも即座に反応する。分かった、すぐ行くと叫ぼうと振り向いた時――。
 ルアーイドは気付いた。ハンシスは、必死で従姉の視線を受け止めていた。
 体に走る痛みは想像を絶するだろう。再び失神してしまった方がよほど楽だろう。それを必死に拒否して、シャダーを見つめているのだ。
 そのシャダーの顔こそは、ハンシスが欲するのも当然だった。長い愛憎の過程を経て今、やっと相手を受け入れ始めた眼だ。相手が無二の愛を与えると初めて知り、それに応じ始めた顔だ。それこそは何年も何年もの間ハンシスが渇望し続けたものではないか。
「早くしろっ、ルアーイド」
 カティルの声と同時に室外を出る。アルアシオン城のすり減った通廊をカティルは外を目指して一気に走る。
「イッル! 待ってくれ! 私のせいだっ」
 相手を追いかけながら、泣きながら大声で叫ぶ。
「私のせいだっ、気付かなかったんだっ」
「何の話だっ」
「何も気付かなかった、知らなかった、だから――」
「だから何の事だっ、はっきり言え! ただし、走りながらだっ」
「ハンシスの事を思って! だから君に依頼した、シャダー殿を射殺せと! だってそうだろう? 君だってそう思っただろう? 今のままではハンシスも従弟の二の舞になると。シャダー殿にあそこまで執着してしまうのは危険だと――ラディンと同様ハンシスもまた身を亡ぼしかねないと!」
「思った。だから貴様に同意した」
「そうだろう? そう思ったから……あの執着では従弟の二の舞となるから、だから、君の話を聞いて、思い当たることが幾らでもあって……。私は愚かで、何も気付かなかったんだ! だから、私は――ハンシスの為だと思ったから、だから……!」
「で、俺になんて言って欲しいんだ?」
 城門を出たところ、湖畔へと下る斜面の途中でやっとカティルは振り向いた。
「貴様の感傷に付き合ってる暇は無い。自責にかられるくらいなら初めからやるな。忠義面した自己弁護は苛立つ」
 凄まじく冷たく言い放った。
「俺は貴様の為に矢を射た訳じゃ無い。自分の判断でやった。貴様の下卑た自責など糞に塗れろ」
 後はもう相手など見向きもしない。湖ぎわに乗り捨てられていた馬を目指し走った。流れるような速い動作で鞍に飛び乗った。
「おそらく俺の方が早く戻れる。だがもし貴様の方が早く腐れ止めを持って帰れたら、即座に処置にかかれ。矢の抜き方は知ってるな」
「駄目だっ。私はやったことが無い、君がやった方が良いっ」
「俺にその暇は無い。もう一つ、すぐにやらないとならない事がある」
「何を――」
「ラディン」
 あっ、とルアーイドは思い出した。
 あの黒猫のような少年。あの激しい気性の猫がこの事態を知ったら……?
 ブハイル湖の水面に、薄い秋の陽が差し込んでいた。その水際をカティルの馬はもう走り出していった。ラディンはどこにいるんだ? どこにいるのか知っているのか? 見つけたらどうするんだ? と聞きたかったのに、その間は無かった。時間は無かった。
 時間は無い。今はハンシスの矢だ。もう泣き続ける余裕もなく、ルアーイド走った。
 ……
 時間は無い。なのに、散々の苦労の果てに薬を入手したルアーイドがアルアシオン城へと戻れたのは、その日の午後も遅い時刻になってしまった。
「ルアーイド! 腐れ止めは有ったかっ」
 城門前に待ち構えていたカティルが、怒鳴りながら走り寄ってきた。
「手に入れたのかっ、早く言え!」
「手に入れた!」
「良かった! 俺の方は熱薬しか見つけられなかった。――時間が無い。俺はすぐに出発する。いいか、必ず一回で抜け、いいなっ」
 相手に有無を言わせず、いきなり熱薬の薬瓶を押し付ける。
「待ってくれ、イッル! やっぱり君がやってくれ――!」
カティルはそのまま馬に飛び乗り、走り出してしまった。後の事は全て、引きつった顔のルアーイドに託されてしまった。
(止めろ! 今、私だけに責務を押し付けないでくれ!)
 そう叫びたいのに出来ない。もう泣く余裕すらない。動悸を覚え、喉が渇く。それでも城内に飛び込み、通廊を走り、瀕死の友が待つ部屋へと走り込む。
 その瞬間に、真正面から目があってしまった。
 ハンシスは、起きていた。ルアーイドの背筋に、震える感触が走った。
「……何で、……お前がここに? ルアーイド……?」
 運が悪いことに、ハンシスは起きていた。起きてしまい荒い、呻くような息を吐いていた。このような時だというのに敷布を敷いた床に寝かされたまま、それでも意思を込めた眼で見つめ、ルアーイドを刃物で切られるような自責と混乱に追い込んだ。
 違う。だから自罰は後だ。自分は今から、もっと重要なことをやるのだ。
「喋るな。全ては後で説明するから。今は」
「……お前が、矢を、抜くのか」
「――。そうだ」
「……分かった……」
 ハンシスが深い、熱くて苦しい息を吐きながら自分を見てくる。思わずルアーイドは泣き出しそうに怒鳴った。
「何で気を失ったままでいてくれないんだっ、起きないでくれ!」
 普段のハンシスならば、気の利いた冗談句でも返しただろうか。だが今は苦痛で歪んだ顔を示すだけだった。
 そして、シャダーは何も言わない。敷布の横に座り、ただハンシスの左手を握りしめている。相手の一呼吸すらを見逃すことなく見つめ続ける様が、こんな状況でもルアーイドの目に焼き付けられる。
 体に震えが走ろうとするのを抑えこんで、ルアーイドは横に座った。取り敢えず血が止まっていることを確認した。シャダーの助けを借りて体の姿勢を正すと、深く矢の刺さったままの矢の周囲をあらためて冷たい水で洗う。
「動かないで。体の力を抜いていてくれ」
 僅かだけ、ハンシスは頷く。彼は、自分の胸上を押さえる友の左手が震えているのに気付いた。
「目を閉じて、力を抜いていてくれ――」
 その通り、目を閉じる。友の手が、刺さったままの矢の根元を握るのを感じる。天上の唯一なる絶対者よ……諸聖人よ……という友の消え入るような祈祷句が静寂の中に聞こえてくる。
友の緊張が伝わって来る。ハンシスは、苦痛を予想する。だが。
 左手が温かい。シャダーが握っている掌が、信じられなく柔らかく、そして温かい。その温もりの時間を長く、近く、長く感じ、
 胸を押さえる手、矢を握る手に力がこもった。祈祷の結句が聞こえた。
「天上の絶対者よ。その名において我を憐れみたまえ……、恵みたまえ――」
 瞬間、目を開けてしまった。友の硬直した壮絶な顔と目が合った、そう思った瞬間――激痛が全身を走りぬけ、悲鳴が喉を突きさし、すぐ消えた。再び気絶した。

 その直後の事を、ルアーイドはよく覚えていない。
 再び激しく出血しだした主君の傷の手当のために、様々なことを行っていたような気がする。だが、よく思い出せない。思い出そうとすると、緊張と自責に体の全てを縛られるような恐怖の感覚がする。
 ただ、長い長い長い時間だけがじりじりと流れていった気がする。ひたすらにハンシスの傷口の手当てをし、熱を気遣い、自らの自責に苛まれ続け、窓の外に薄い秋の陽だけが動いていった気がする。陽は進み、陽は没し、夜が始まり、夜が更け、また陽が昇っていた気がする。ただそれだけだった気がする。
 ……ようやくカティルが帰還したのは、その陽が再び沈みかけようとしだした頃合いだった。
 髪色の薄い騎士が帰還してきますと城の者から知らされた時、ルアーイドは弾かれたように城内から飛び出した。城門のところまで出て、声の限りに叫んだ。
「どこへ行っていたんだっ、イッル!」
 それに目もくれずに、カティルは大股で中へ駆け込む。目指す部屋へと通廊を走り進み、即座、ノックもなく扉を開ける。
 そこには――二人の姿があった。
 地階の室内には、窓から淡い夕刻の光が射していた。簡素な寝台の上、傷口に分厚く布を当てたハンシスがいた。今は、薬を与えられて眠っている。というのに、それでも苦痛があるのだろう、眉間が歪んでいる。うめくような呼吸をしている。苦痛に苛まれている様が伝わる。
 その枕元で、ハンシスの左手をシャダーが握りしめ続けていた。
 カティルが現れたというのに、扉口を見ようともしない。彼女は相手が眠りについている顔を見つめ続け、しかし心配と不安を隠すことなく、しかし微動だにせず見ている。ただ相手を哀しみ、慈しむ純粋な横顔が、夕刻の光の中に浮き彫られている。何の音もしない静謐の中で。
“美しいな”
 初めて、カティルは思った。
 確かに、シャダーは美しかった。偽りなく自分を愛する男を受け入れ、そしてそれに応えることで、彼女は確実に変化していた。カティルですら、この二人の静謐の空間に立ち入るのに躊躇を感じてしまう程、それ程に静謐だけの空間を彼女は形作っていた。
 静かに扉を閉じて、通廊に戻る。と、目の前ではルアーイドが待ち構えていた。即座に訊ねてきた。
「ラディンは?」
「ハンシスは?」
 先に、強張った顔のルアーイドが応えた。
「ハンシスは――、矢を抜いた時にもまた大量の血を流した。だが、それも止まった。今のところ、熱も出ていない。傷口の腫れも無い。ずっと、ほとんど意識なく、寝たままだ」
「傷はすぐに閉じそうか?」
「判らない。医者がいないから、判らない。――神しか、判らない」
「そういう言い方は止めろ」
「解らない。私にはこの先のハンシスがどうなるのか解らない。でも、ハンシスはいつでも意志が強いから、だから……だから、回復するかな? 私には判らない、もし回復をしなかったらハンシスは……、だから私――私は何をして償えばよいのか、分からないから……」
 強張った顔が突然、呼吸を荒げて言った。
「ラディンは今どこにいるんだっ」
「――」
「イッル、答えてくれ! 彼は先日独りで去ったまま居なくなった。教えてくれ、頼むっ。これから私は命に代えてもハンシスを守らないといけないんだ、だからラディンの事を知らないといけないんだっ、今どこにいるんだ!」
「ラディンは、ここには絶対に来ない」
「殺したんだな」
 真顔で迫る赤い目に、カティルは驚いた。
「止めろ。そこまではやってない。奴はアール城に閉じ込めている」
「どういう事だ?」
「先日アール城主に会った時、アールの奴がとっくにナガから離反しているとすぐ判った。だから奴には密かに、俺の素性を伝えた。機を見て捕えろとも」
「……。捕える――ラディンを……」
「さすがにもうこれ以上シャダーを追わせるのは危険だと判断した。ハンシスを殺しかねない。実際に一度、やりかけたからな。
 アール城を出た後、あそこの兵士がずっと俺達の後ろを尾行していたんだが――貴様も同時に俺達を付けていただろう? まさか全く気付いてなかったのか? 本当に鈍い野郎が――」
「……」
「たった今アール城に行き、奴が拘束されているのを確認してきた。城主には、ラディンを絶対に逃すな、厳重に拘束しろと念押しした。取り敢えずラディンは取り除いてあるから安心しろ。
ルアーイド。言っておく。俺は今後の事は、神に任せる気はない。俺達で慎重に考えて決める。ハンシスを救う」
「……」
「いいか、分かったな」
「……」
 呼吸五回の間、ルアーイドは息をすることすら失ったように動きを止めてしまった。
 まただった。また自分の知らない所で現実は進んでいた。それを知らされ、どうしてよいのか混乱し、また分らなくなってしまった。
 相手の肩越しに、明り取りの窓が見える。そろそろ陽が没しようとする頃合いだ。あの瞬間から長い時間を経ているのに彼は今、初めて気づいた。そして少しずつ、泣き出すように笑い始めた。
「おい、何を笑ってるんだ。お前はどうしたいんだよ。ルアーイド」
 答えない。笑い続ける。
「取り敢えず、安心しろ。もし貴様が本気でラディンを殺すべきだと判断したら、そう言え。それがハンシスの為になると思ったら、いつでも俺がやってやる」
「……」
「それから。貴様は少し休め。酷い顔だぞ。今はハンシスの看護はシャダーに任せろ。とにかく、笑うのを止めろ」
 笑い声がかすれてゆく。もうどうしてよいのか分からない。そういえば、この丸々一日、いや、さらにその前の夜からか、寝ていない気がする。食べてもいない気も。もう覚えていない。もうどうでも良い。
 カティルはまだやるべき事があるのだろうか。早々に通廊を歩きだし、その後ろ背はあっという間に消えていった。
 通廊に残されたまま、ルアーイドは立ち尽くしたままだった。明り取りの窓の外では、薄い秋の陽がブハイルの湖面に当たり、くぐもっていた。
 ……そして。夕刻は去り、夜の時が始まってゆく。
 ブハイルの湖に面するアルアシオンの城で、世界はゆっくりと変わり始める。

(水の、匂い……、それに、光……)
 淡く、小さく灯った燭台の火が、微かな風にゆれていた。
 ゆっくりと、ワーリズム家のハンシスは目を覚ました。
 と同時に、焼け付くような痛みが体に襲い掛かってくる。耐えられずに顔を歪める。呼吸をするのに苦しさを覚える。
(痛い……矢……肩の上、誰かが――? ルアーイドが抜いた……?)
 記憶が、ぼやけている。霧がまとわりついたようなぼやけた記憶をたどってゆく。
(矢――。湖の水際、音が無く、陽が昇った時……水霧が。あの時に、――シャダー……)
「目が覚めた?」
 左を向こうとし、蠟燭の光をもろに見てしまい、一度目を閉じてしまう。あらためてゆっくりと、ゆっくりと、目を開いてゆく。
 そこに、シャダーがいた。
 慈しみの眼で自分を見ていた。一つだけの光の中。
 握られている左手から、体温が伝わっていた。長い、長く続いた静寂の果て、ハンシスは初めて乾いた声を発した。
「ここは……アルアシオンの城……?」
「そう」
 声がかすれる。声が、喉に張り付く。痛みが頭の中を覆いつくし、何を言って良いのか分からない。
「矢を……。誰かが、殺そうと、矢を……、誰が射て――?」
「知らない」
「――ルアーイド、コルムの……私の臣下が、なぜ?」
「あの茶色の髪の男なら、今も城にいるわ」
「なぜ……? もう、コルムに――ナガにも、使者を……?」
「知らない。どうでも良いから」
 再びの、静寂。
 傷の痛みが熱を帯びて脈づく。漠然と訊ねたい事柄は浮かぶのに、それを声にして訊ねる力はない。ただ目の前にいる、自分を見つめる相手を見てしまう。
 全てが、遠い気がする。遠い過去に思える。あの水霧の朝は、遠い時間だった。あの時は。そして今、目の前でシャダーが自分を見ている。
 ハンシスは、左の掌に力を入れた。自分の手を握るシャダーの手を、僅かに握り返した。
「朝……あの朝。――貴方は、受け入れると言ってくれて……、でも……果たせなかった」
「――」
「唇を、重ねて下さい」
 シャダーが自分を見ている。
 傷の、脈打つ苦痛を覚える。そして、沈黙。そして、冷えた静寂。
 ハンシスは子供のように頼りない感情にさらされる。相手の答えに怯えている。
 一つだけの蠟燭光の中。彼女が自分を見ている。記憶の姿からよほど印象を変えた、静かな、柔らかな、美しい姿だと感じる。
 水の湿度の中、苦痛と沈黙の中、長い時間を待ち続ける。シャダーが自分を見つめている。その姿から伝わる。彼女は変化をしている。受け入れてくれている。そして待ち続ける。
 水の匂いがする。シャダーの体がゆっくりと動いた。彼女は、自分が愛していると思う相手へと唇を重ねた。
 ハンシスの長い時間が今、ようやく完結した。

・             ・             ・

 全く同じ時。
 こちらの室内に、光はほとんどなかった。小さな蝋燭の灯りだけが不安定に揺れていた。格子のはめられた一つだけの窓からは、夜の冷えた、湿った空気が流れ込んでいた。
 広い空間には何も無い。たった一つの出入り口である木扉には固く錠が下され、開けられることはない。
「開けろ! アールの野郎、悪魔に喰われろっ、俺が食い殺してやる! アールっ、来いっ、開けろっ、ハンシスに寝返りやがって――!」
 捕えられた瞬間から、暴れる獣のように、狂ったように扉を打っていた。
 アール城内の北の片隅、普段であれば貯蔵庫として使われている離れ場に、ラディンは閉じ込められていた。何も無い石組の四角い空間に、たった独りで拘束されていた。
 あの日、カティルと別れた途端に数名の兵士に襲われた。捕縛され、アール城へと連れ込まれた。
 その時点から今に至るまで、誰一人も何も言わない。どんなに喚いても、木扉の向こうからは何の物音もない。日に一度、無言の兵が食事を運ぶ以外は、物の気配も全くない。
 何も無い。鉄格子のついた明り取りの窓が、ぼやけた空と冷たい空気を与えてくれるのみだ。それでも、ラディンは叫び続けていた。
「出せ! アール! 糞な裏切者野郎がっ、殺してやる、ハンシスも殺す、あの野郎も殺す、あの野郎こそさっさと安物の毒で殺しとくべきだったんだ! 殺してやる!」
 どんなに叫んでも、返って来るのは静寂だけだ。それでも叫ぶ。木扉を打つ。今日も、昨日も、さらにその前も。この部屋に閉じ込められた最初の瞬間から絶え間なく、ひたすらにラディンは打ち続けている。
「殺してやる! 貴様を殺してやる、ハンシス! ここを出せっ、シャダーは渡さない!」
 だが。何も起こらない。
 扉を激しく打つ音だけが、何も無い空間に響き続る。


【 続く 】
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