第6話

文字数 19,965文字

9・ 静寂


 ラディンもまた、闇の通廊を走る。
 通廊に一つだけぽつりと灯されていた燭台を血塗れの手で掴み、その灯りと共に階段を走り登る。闇の角ごとに警戒を払う。武装した衛兵が自分に飛び掛かってくる危険に、最大限の警戒を払う。
 彼は知らないのだ。今この城内には、探し求める二人以外には、先程閉じ込めた男と、後は寝汚い料理番の夫婦と雑務の男二人しかいないと、知らない。だから彼は、これ以上無い警戒を剥きだしながら進む。両掌を中心に体の内外に走る痛みを無視しながら、通廊を走り進む。
 ちらりと一瞬だけ、明り取り窓から外を見た。厚い雲間に月が光っていた。先ほど泳いだブハイル湖の湖面が淡い月光に浮かび上がっていた。
 ……城内に入るには、湖の側しかない。日没直後の夕光の中で城の全景を見た時、瞬時でそう判断した。
 陸に接している城門部分は必ず夜警がいるはずだ。侵入するには、湖に面している側から壁を登るしかない。判断した以上、躊躇は無かった。闇の水の冷たさに溺れるのではとの恐怖など意識すらせずに、すぐに湖の中に入った。
 思い出そうとしても、その時の事をよく思い出せない。おそらく水の冷たさは刃物のように体を苛んだはずだ。だが寒さを感覚しなかった。ただ漠然と、体が上手く動かないと思っただけだった。聖天使の御加護により手足の感覚が消える前に泳ぎ切れたが、水から上がった最初の一歩、足が動かなくて大きく転んだことだけは、妙に明確に覚えていた。
 次は、湖水に洗われる城壁の基部に足をかける。ごつごつとした壁を掴んだ最初の瞬間だけ、傷の掌に走った激痛に短く悲鳴した。だが、あとはもう感じない。ただ、登る。なぜなら、登らないとシャダーに会えないから。
 コルムとの戦役が始まった時から、シャダーに会っていない。会いたい。とにかく会いたい。
 そして、あの男。
 会いたい。全ての質において自分を上回る男。自分と同じくシャダーを求め、自分とシャダーの間に割り込んだ男。あの男にも会いたい。心から会いたい。会わないと、先に進めないから。
 燭台を握る左手が、血と体液と苦痛に塗れているのに気づいた。
 閉じ込められた部屋の扉に苦心の末に火を点け、狂ったように蹴り続け、煙を吸い、叩き続け、手の皮を切り、手の皮が剥け、それでも叩き続けた掌のことを、初めて意識した。意識した途端、猛烈な痛みが蘇った。だから痛みを無視する。痛み、冷え切り、動きたがらない体を無視して、目指す場所へ向かう。
 最上階にたどり付いた時、もう一度窓から黒に沈んだ湖面が見えた。初めて、世界が静寂していることを意識した。
 音の無い薄闇の中、最も奥の部屋の前に立った。ラディンは、燭台を床に置いた。通廊に湿った夜風が抜け、無意識に息を深く吸う。掌の痛みを打ち消し、奪い取った長剣を握り直す。――そして、扉を押す。
 その時に、頬に隙間風の冷気が触れた。音の無い室内に灯るたった一本の蝋燭の火が、揺れて動いた。
 室内の隅の寝台の上に、ハンシスは寝ていた。
 ハンシスは何も気づいていない。静かな寝息を立てながら、深く冷えた夢の中に眠っていた。室内は冷えた緩い風と、押し殺した静寂に満ちていた。ラディンは無音の数歩で近づき、その横に立つ。見下ろす。
 傷だらけの右手を、持ち上げた。長剣を高く持ち上げ、鋭い尖った切っ先を垂直に下に向けた。最も柔らかく最も無防備な場所を、喉の下を狙いゆっくりと、ゆっくりと動かしてゆく。
 その時――ハンシスの目が開いた。
 互いが、互いの眼を同時に見た。この時が来た。
「動くな」
 この時が来たと、ハンシスは思った。この時が来ると、ずっと前から分かっていた。必ず、いつか来ると。ずっと前から。
 ずっと前? いつからだろう。ナガの城館に居た頃からだろうか? シャダーへの親愛が親愛の域に収まらなくなったと自覚した頃から? シャダーの愛を一身に受けている従弟に、淀んだ嫉妬を自覚した頃から。
 内臓が引き締まる感覚を覚えた。従弟が冷酷な眼で自分を見おろしているのを確認した。
「絶対に動くな。少しでも動いたら、喉を突く」
 ラディンは剣先を相手に向けたまま動き、ゆっくりと従兄の体の上に跨り乗った。
「聞いているのか? ハンシス。答えろよ」
「どうせ動けない」
 答えた。ラディンの視線が動く。ハンシスの身体からゆっくりと掛布をずらしてゆき、右の肩から胸にかけて分厚く巻かれた包帯を見た。
「傷を負ったのか」
「腕を動かせない」
「最悪の時に、悪魔に気に入られたな」
「お前も、手が酷い。どうした? 火傷か? 傷口から血と膿が出ている。何があったんだ?」
 途端、剣の先が包帯の上からゆっくりと傷口を押した。ハンシスが顔を歪め、苦痛の呻きをもらした。
「止めろっ、――ラディン、何があった? 今までどこにいたんだ?」
「地獄へ行け。貴様が謀ったくせに。しゃあしゃあと」
「何の事だ? 私はずっとお前を探していた。お前の護衛だったカティルがここにいる。彼も山中でお前を見失ってからずっと行方を捜し――」
「黙れ」
 黙る。喉に触れた金属の冷たい感触に黙らざるを得ない。
 剣の切っ先の向こう、ラディンの眼に静かな、本気の殺意を見つけてしまう。本能的に知覚した恐怖はチリチリした感覚となって身を縛り出してゆく。
「本当に……、私を、殺すのか」
 抑揚のない冷めたさで答えた。
「そうだ」
「殺したら、どうするんだ」
「シャダーと共に帰る」
「どこに帰る? まだ知らないのか? ナガではとっくに戦闘が終了している。ナガ方とコルム方のワーリズム家は一つにまとまった。そして――当主は私だ」
「――」
「私を殺すという大罪を犯して二人で帰っても、ナガ城館は受け入れない。帰るところは無い。だから止めろ。その方が私達にとって、皆にとって良い未来だ」
「――」
 黒い猫のような眼が迷ったのは一瞬だった。薄闇の中、一分も隙なく真っ直ぐ見据えながら、
「殺す」
言った。
「それでも殺す。そして、俺は先へ進む」
 言い切った。
 即座、ハンシスはその言葉を真意と理解する。――本当に殺される。今、この従弟に理論は通らない。ただ、自分がいるから殺す。それしか無い。もう止められない。でも、
 嫌だ。自分は今、死にたくない。
 まだ生きたい、シャダーと共に生きたいっ、殺されたくない!
 反射的、相手の身体を蹴った。一瞬剣の切っ先がずれた隙、体ごと寝台から転げ落ちることで逃げる。
「イッル! ルアーイド!」
 途端、再び上から圧される。左腕を踏まれる。剣が振り下ろされるのに一瞬早く気づき、右腕で相手の手首を掴み引っ張る。虚を突かれてラディンが剣を落としたのを、素早くハンシスが奪う。
「右手が動くじゃないかよっ、糞の噓つきがっ」
「もう止めろ!」
 だがハンシスには長剣を扱えるまでの力はない。とにかく剣は寝台の下の床に投げ捨てる。
「ルアーイド! イッル! 誰か!」
「呼ぶならシャダーを呼べよ」
 三度目ラディン襲い掛かり馬乗りになる。今度こそ万全の態勢で押さえつけた。血塗れの両手を伸ばして首を掴みとった。従兄の息の自由を奪った。
「そうだな。分かってる。お前の方が上だ。お前が当主だ」
 淡々とした口調が、静寂の中に響く。
「お前の方が、全てで俺を上回っている。分かってる。当主になるべきだ。お前は支配者に相応しい男だ。そうあるべきだ。貴様は俺に勝って当然だ。敵わない。だから貴様が好きだった」
 え?
 ハンシスが表情を変える。首に従弟の生温かい血と膿を感じながら。
「貴様の方が上で、だからずっと憧れた。好きだった。きっといつか、必ずシャダーも貴様を選ぶと、貴様に奪われると分かっていた。
 俺は貴様に勝てない。シャダーも奪われる。だから、貴様を殺すしかない」
 違う! 何を言っているんだ、だったら私たちは争う必要が無いじゃないか!
そう叫びたいと思った瞬間、ラディンの両腕に力が加わる。息を奪われる。息が出来ない。声にならない叫びを上げる。
 それならば違う! 好意を持ってくれるなら、だったら他の道が開けるじゃないか、私はずっとお前から憎悪されているものだと――、
 ……いや。奴の言う通りなのか?
 やはり道は変わらないのか? シャダーがいる限り、自分達二人の命運の流れは変えられないのか?
 脈打つ血流が頭を覆う。苦しい。視界が闇に落ちてゆく。それでも考えようとする。道はあるはずだと。皆がより良い場所に立てる道があると。だが――息が出来ず、苦しい。
 自分はこんな所で死ぬのか? シャダーにも会わずに? そして、目の前の、最後の視界。
 ラディンの眼が哀しんでいる。自分を殺すことを心底望んでいる男が、自分を殺すことに心底悲しんでいる。なぜ?
 だが。苦しい。息が出来ない。息が止まる。
 ――
 カティルが飛び込んできたのはその時だった。
(間に合わなかったのか! ハンシス!)
 弾かれた如くの動きで馬乗っていたラディンを殴り、ハンシスから引き離す。
(間に合わなかったのか! 間に合ったのか! 慈悲の聖者!)
「ハンシスっ、息をしろ! しろ!」
 動かなくなった親友の上体を起こす。
(いやっ、間に合わせる、まだ間に合う、間に合う、間に合わせる!)
 夢中で揺さぶる。顔を叩く。頬をきつく三回叩き、四回目に手を上げた時、
「慈悲の聖者様……」
 僅かに胸が、包帯が緩んでしまった胸が、僅かに動き出した。歪み閉じていた瞼が、うっすらと開いた。
「間に合ったのか……生きてるのか? 生きてるのか、ハンシス?」
「……、私は、生きているのか……?」
 乾いた声が、僅かに答えた。それはカティルが生まれて初めて、全身全霊全てをもって神と聖者に感謝を思った瞬間となった。
 だがそれでも猫は諦めない。寝台の下に身を伸ばして剣を拾い上げ、それでも従兄の許へ近づこうとするのを、カティルが真っ向から妨げた。
「もう止めろ」
 かつての主君であるラディンに向かい、カティルは胸元から自身の短剣を取り出した。その上で、珍しくも柔らかな口調で告げた。
「ラディン。あんたでは俺に勝てない。解ってるだろう? 状況を見ろ。もう負けたんだからこれ以上は無意味だ。止めろ。少しは死や苦痛を恐れろ」
「――。貴様もハンシスに寝返ったのか」
「反発するだけが能じゃないだろう? 現実を受け入れれば、現実も変わってゆく」
「貴様もか。貴様とは結構親密に付き合ってきたと思ったんだがな。冷たいな」
「悪いが、情がどうとか言うのは俺の好みじゃない。それにハンシスとの出会いの方が早い。早い者勝ちだ、――いや、違うか」
「――」
「全然違うな。たとえあんたと先に出会っていたとしても、俺はハンシスの方を選んだ」
「――」
「王に相応しいのはあんたじゃない。奴なんだ。奴が優れた卿となって領地を広げていくのを、ワーリズム家を強くしていく未来を見るのが、心底から愉しみなんだよ」
「なんだ。結局貴様も皆と――俺と同じって事か」
 妙に子供っぽくそう言って、ラディンは笑んだのだ。
 カティルはゆっくりと動いていく。ラディンの目の前に立つと、一瞬で相手の長剣を奪い取った。そのまま相手の右手首を確保した。
「さあ。もう一度牢だ」
「どうした? ここで俺を殺さないのか?」
「それはあんたの従兄が決めることだ。まあ俺としては、あんたはなかなか面白くて好きだから手を下したくないがな。
 ハンシス、こいつを閉じ込めたらすぐに戻るからそのまま待っていてくれ」
 カティルはラディンを引っ張り、通廊に出て行こうとする。それを、まだ朦朧とした意識の中でハンシスは見送る。ぼやけた視界と意識の中、何か言いたいことがある気がする。なのに言葉は生まれない。無言で漠然と見送る。
 これで、終わったのだろうか。自分達が超えなくてはならない時は今、これで、薄闇の静寂の中で終焉したのだろうか。
 いいや。――足りない。
「閉じ込められるならやはり湖側の部屋の方がいいよな? 今回は枷を付けるが悪く思うなよ」
 二人は扉から出て行き、そのまま薄闇の通廊を右へと曲がり――
 静寂の中に、シャダーがいた。
 その瞬間の姉弟の顔を、カティルは見てしまった。二人共の、およそ思いがけない時と場で再会してしまったことへ対する大きな驚きの顔。それ以上に、互いが互いを求め合う眼!
即座、まずいと判断する。ラディンの腕を力任せに引き、逆の方へ引きずろうとする。だが遅かった。シャダーが弟に駆け寄り、強く抱き締めてしまったのだ。
「なぜ、ここにいるの? なぜ? ナガにいるって聞いてたのに」
 喜びを満面で示す姉、そして声を発さず夢中で姉を見る弟が抱き合うのを目の当たりにし、カティルは狼狽する。今どう判断すべき状況なのか判らない。今どう行動するのが正しいのか判らない。判ったのは、
(ハンシスを護らないと――)
 素早く踵を返し部屋に戻ると、取り敢えず、完全に扉を閉め切った。
「待って。開けて。中に入れて」
 扉の向こうから、シャダーの声が響く。
「開けて。ハンシスと話がしたいの。ラディンと一緒に」
思考を巡らせても、全くこの先の状況の予測できない。だから声を無視する。今は駄目だ。取り敢えず今は何よりもハンシスの安全が最優先されるべきだ――と思ったのだが。
「扉を開けてくれ。イッル」
 はっと振り返った。
 部屋の最奥、壁に背を当てて座り込んだままのハンシスの静かな顔が、一つだけの蝋燭の光に浮かび上がっていた。
「二人を中に入れてくれ」
「――。いや。駄目だ」
「良いから」
「あの二人が再会したんだ。ラディンがまた感情を変えるぞ。今は駄目だ。もう少し彼らの、特にラディンの気持ちが落ち着いてから――」
「良いから。頼むから中に入れてくれ」
「止めろ、止めてくれっ。こんな時に何言ってるんだっ」
「“こんな時に”? 君は何を知ってるんだ、イッル?」
 静かな口調の中に、激しい叱咤と絶対に譲らない念があったのだ。
 カティルの淡色の目が揺らぐ。心底からの想いを込めて嘆願してしまう。
「止めてくれ。頼む。頼むから。本当にもう、これ以上、貴方を危険にさらしたく無いんだ」
「こちらこそ頼む。二人を中に入れて、君は出て行ってくれ。三人だけにしてくれ」
「ハンシス!」
「三人で語り合う時が来るのをずっと待っていたんだよ。ナガをいた頃からずっと。
これを避けている限り、私達は三人とも未来へ進めない」
「……」
「安心しろ。私達は仲の良い従兄弟同士だったんだから」
 僅かにハンシスが笑った。揺れる光の中で。この時にカティルは思い知った。
 今まで自分は、独りで何でも判断でき実行できると信じて生きてきた。その自分にも出来ない事もあるのだと、初めて知った。もう、この三人の行く先に自分は関われない。引きさがるしかない。
 自分も笑おうとして、うまくいかなかった。カティルは右手を、扉の握りにかけた。
「聖者に賭けて、充分に気をつけてくれ」
「有り難う」
 扉を開ける。
 薄闇の、音のしない通廊で、姉弟が無言で待っていた。丸切り、扉が開くことが当然のように並んで待っていた。
 彼は二人に中に入ることを促し、そして自分は部屋を出て、扉を閉じた。
 後は、夜の静寂と冷気になった。

       ・            ・           ・

 三人の従兄弟達の再会は、思いの外になった。
 怖れていたより、思いの外に静かだった。三人の誰もが口を閉ざしたまま、ただ互いを見つめていた。壁に背をかけて床に座っているハンシスと。手を握り合って並び立っているシャダーとラディンと。
 ハンシスは、二人を見ていた。
 初めて、よく似た姉弟だと思った。柔らかな頬の線とか、黒いツヤのある髪とか、闇のように濃い瞳とか。何年も深く見知っていたはずなのに、なぜか気づかなかった。姉弟らしく良く似た造作であることに初めて気づいて、少しだけ驚いた。
 全く音の無い、互いの息遣いが聞こえる程の静寂だった。その冷たい空気の中でハンシスは自分のすべきことを確認していった。
 自分のするべき事――ずっと述べたかった事――ずっと怖れていた事……。
“本当に、私だけを愛してくれますか。ラディンではなくて、私だけを”
「何があったの? ここで?」
 純粋な眼でシャダーが訊ねる。たった今ここで弟と従弟が殺し合いをしていたなどおよそ想像の一片にもあるはずもなく。
「こんな夜中に突然、何が起こったの? ハンシス、貴方、酷い顔色よ。それに傷がまた開いたみたい。血が包帯に滲んでいる。包帯も緩んでいるし」
 当然のように彼女が近づいて来るのを、
「来ないで下さい」
自ら止めた。
「ハンシス、どうしたの?」
 ハンシスは壁を背で押しながら、自ら立ち上がる。自分が思いの外に動揺していることを自覚した。右肩の傷が強く痛み、姿勢を保つことに猛烈な困難を覚えた。極力ゆっくりと石床を踏みながら数歩を進んだ。
 シャダーが見ている。やっと愛を交わし合えるようになった眼が、自分を見ている。
 ラディンも見ている。たった今までの殺意は消えている。今は、夜の闇のように感情を示さない眼で見ている。
 この眼は、いつもシャダーの横で自分を見ていた。幸福だったナガの光のような日々、しかし決して欠いてはならない影のように存在していた。自分の目の前で、彼はずっとシャダーに愛され続けていた。
“ラディンがいても、ラディンを上回って私を愛してくれますか?”
 もし、その答えが否だったならば、自分はどうするんだろう? 殺したいと欲するんだろうか? つい先ほどまでの従弟と同じ想いに駆られるのだろうか?
 彼女を愛しているという感情は抑えようもない。神の前にもどうしようもない。だから、そのために長い長い時間と手間をかけて、何人もの手を介して、ついにはこの遠いブハイル湖までたどり着いてしまった。ここで、やっと、彼女の心を手に入れた。
 だが。
 それはもしかしたら、ただの自分の身勝手だったのだろうか?
『俺にナガへ行けっていうのか? あんたの従弟を見張れって? 凄い依頼だな。いいぜ。面白そうだし、何よりあんたの未来には期待しているからさ』
『ついにナガに攻撃をかけるのか! 確かに貴方にはワーリズム家当主に相応しい力量があるけれど、でも、なぜこんなに唐突に? ――軍備と軍策についてすぐに検討に入らないと。皆を招集しないと』
『私に寝返ろと? しかも戦闘が始まった瞬間に? まあ確かに私はラディンには辟易しているが、でも随分と卑怯な筋立てを考え付いたものだ。コルムのハンシス殿』
『私は貴方が当主座に就くことに、秘密裏に同意します。ただし、大願成就の暁には、私のアール城領にも、相応分の領土を割譲して頂きたい。それはワーリズム家から見ると損失に当たりますが、それでもよろしいのですか? ハンシス殿』
 秘かに散々に他者を巻き込み、そこまでをした身勝手と傲慢は、神の前に許されるのだろうか。そこまでして彼女を得たいという欲望は、正当化をして良いのだろうか。それでも自分は今、声に出して言って良いのだろうか。
“私の方を愛してください。私だけを愛して下さい”
 もう一歩を踏み出した時、右足が体重を支えなかった。はっと石床向けてよろけかけた身体をシャダーが飛び出して支えようとし、二人ともに石床にしゃがみ込んだ。
「危ない! どうしてそんなにふらついているの? ハンシス、何があったの? 苦しいの? ねえ」
 崩れるように床に座り込む自分のすぐ目の前に、シャダーの顔が迫った。
「何が有ったの? なぜ答えないの?」
 彼女の掌が顔に触れた時に、皮膚の下で脈打つ血の熱さが伝わった。
「答えないのはなぜ? 何を隠しているの? 貴方が大切なのに」
「――。大切……?」
「ええ。貴方を愛しているの。誰よりも愛している。失ったら生きていけない。なぜこんなに傷が開いているの? 言って。今、貴方を護るのは私だから、言って」
 まるで呼吸のように自然に、ためらい一つも無くシャダーは言ったのだ。
「――」
 ハンシスは、何も応えられない。
 長い時間をかけて澱となっていった恐怖がこんなに簡単に霧散することが、受け入れられない。長い長い時間――シャダーはラディンを愛し――自分は嫉妬し――やっとラディンから離れた時――シャダーは自分の愛を受け入れ――ラディンは自分に殺意を剥き――その果てに迎えたこの時に、何を表現してよいのか分からない。
“では、ラディンへは?”
 やっと言いたい台詞をまとめた。そう言おうとしたその時、
 シャダーはハンシスに唇を押し付けてきたのだ。
 夜風が、窓の隙間から抜ける。一本だけの蝋燭の火が揺れ続けている。心をそのままに映す熱い、長い、真実を告げる接吻をシャダーは与えてくる。目を閉じた闇の中、全ての想いを込めた接吻が、長く長く続いてゆく。
 風が、肌をかすめてゆく。続く接吻の中、頭の隅が微かに思う。
(殺されるのだろうか? この後、目を開けた時に)
 ゆっくりと唇が離れ、終わってゆく。目を開け、シャダーを見る。自分を見つめる深い黒色の眼に、長い願いが叶った事を確認する。
(ラディンに、彼に殺されるのだろうか。今)
 視線を動かし、ラディンを見る。姉とよく似た黒い眼が、薄闇の中で自分を見ている。思考も感情も解らない眼で自分を捕えている
 この眼が、次の呼吸で動くのだろうか。殺されるのだろうか。もう防備は出来ない。これが最後になるのだろうか。自分は殺されるのだろうか。
「殺さないでくれ。ラディン」
 心から吐露した。
「私を、殺さないでくれ……。私はシャダーを愛している。彼女を愛してしまっている。どうしようもない。許してくれ。どうか、受け入れてくれ。頼むから――」
 薄闇の中に、従弟の眼が真っ直ぐに見ている。真っ直ぐの、混じりけ無い純粋の眼。そこに敵意があるのか愛情があるのか判らない。
「私を、愛してくれ」
「――。貴様を?」
 瞬間、その眼の中に拒絶の色を見た。次の瞬間、冷えた風の中、ラディンの右足が前に出た。
「貴様を、愛せって?」
 その時、シャダーが体を動かした。
 床に座したまま、僅かな衣ずれの音と共に彼女は体を動かしハンシスの前に出た。ハンシスと弟の間に動いた。自らが恋人を守る盾になった。静かな、しかし強い眼で弟を見て弟を退けたのだ。
 この後は、誰も喋らなかった。夜の静謐だけが冷気と共に流れた。光が揺れていた。
 ……
 ラディンが動いた。
 従兄の方には進まない。音も立てずに部屋を横切り、扉口へ向かう。部屋から去ってゆこうとするのを、ハンシスが声をかけて止めた。
「良いのか、ラディン? ――私を殺さなくて良いのか?」
「――」
 足を止め、振り向いた。
「許してくれるのか? 私を受け入れてくれるのか?」
 感情も無く静かに、従弟は応えた。
「シャダーはもう、貴様を愛してしまった。どうしようもない」
「だから、私を殺すのではないのか?」
「気付いてないのか」
「……何を?」
「シャダーの心が移ったのなら、もう覆せない。一つのものしか愛さないから。もし貴様を殺したら、俺はこの場でシャダーに殺される」
 横を向き、シャダーを見た。その横顔は何の気負いも無く、真っ直ぐな意志をもって弟を見ていた。その通り、眼にはもう、かつての嫉妬を覚えるほどの偏愛は無かった。溺愛は過去になり、今は純粋な肉身の愛に変じていた。
「だからだよ。貴様。だから――」
「だから――?」
「だから、貴様とシャダーを離しておきたかったものを。会わせたら、確実に貴様に奪われるとは分っていた。怖れていた。でももう遅い。もう移ってしまったから。今さら俺にはどうしようもない。――シャダーに殺されたくない」
 すでに時間は進み、現実は変わっていた。新たな現実を目にして、それをラディンは受け入れたのだ。受け入れ、ラディンは解放された。表情を読ませなかった顔が、薄闇の中でほんの僅かだけ笑んだ。
「ありがとう。ラディン」
 そう言うシャダーの口調には、優しさと慈しみがあった。穏やかな慈愛へと変じていた。音の無い中に去っていく後背を、彼女は無言で見送っていった。
 長い、長い時間が完結した。過去になった。
 終わった。ハンシスは解放された。
 薄闇の中でハンシスは、自分の感情をとらえる事が難しかった。感情を消化するにはまだ長い無音の時間が必要だった。何をして良いのか分からなかった。ただそのままに、ハンシスとシャダーは再び唇を重ねた。

         ・           ・           ・

 扉の外側、薄闇の通廊で扉に身を寄せ会話を盗み聞いていたカティルは、今、歩みだした。そのまま通廊の端まで進み、すり減った螺旋階段を登っていった。
 最後の一段を登り終えた時、ブハイル湖からの冷たい清浄な風が、体の上を抜けた。低い空に明けの明星が輝いているのを眼が捕えた。
 ようやく、世界は長い夜を終えようとしていた。微かな明かりを帯び始めた物見のテラスの上、緩い風の音を耳が受け入れた。
「やっと、結局、手に入れたか」
 夜明け間近い風が、長い淡色の髪をなぶる。消えていく夜の最後の寒さを感じる。
 終わった。内紛の戦役を起こしてまでして、西の果てのブハイル湖に至るまでして、殺される危険を冒してまででし、そうしてハンシスは手に入れた。それが良いのか悪いのかは判らない。別に自分が判断しなくても良い。ただハンシスが一つの達成を収めたというだけだ。
 珍しく、ごく自然に笑みが浮かんだ。不思議なほど魅かれた主君であり友である男の達成を、素直に喜んだ。
 終わったんだ。やっと成就したんだ。
「さて。ならば。――俺はどうするかな。これから」
 白々の光を帯び始めた空と湖を見やる。
「このままも良いけれどな。ハンシスが一層に力を付けていくのを横で見ていくのも、確かに面白そうだし。まあでも、今回は同じ場に居過ぎた。そろそろここを去る方が、もっと良いかもしれないな」
 視界の前方、ブハイルの湖水が少しずつ、深い瑠璃色を帯び出してゆくのが見える。
「面白かった。ハンシス。それに、ラディンも。――本当に、愉しかった」
金色の明星が消えようとしていた。秋の薄い曙光が、稜線から射し込もうとしていた。
ブハイルの湖の色が、透き通る色味を帯び出そうとしていた。

        ・           ・             ・

 同じ時。
 地階の湖側の部屋。その窓の下。壁を背に当ててルアーイドは座していた。微動だにしなかった。
 窓からは、うっすらと夜明けの薄光が差し込み出していた。だが彼は、微動だにしなかった。
全く動かなかった。表情の無い顔の中で、しかし眼だけが大きく見開かれていた。
 ……
 昨夜、ラディンにより部屋に閉じ込められた。どんなに狂ったように叩いても扉は開かなかった。喚き続けても誰も来なかった。
(ならば窓からっ)
 窓に駆け寄り、身を乗り出す。ほぼ垂直に切り立った壁面の下に、黒々とした夜のブハイルの湖面が広がっている。
 ラディンはここを泳いだのだ。氷のように冷たい闇の湖を泳いでハンシスの許に来たのだ。だから自分もやらないと。ハンシスを守る為に、この湖に入らないと。自分にせいで何度も危機に追い込んでしまったハンシスの為に!
 そう思って、――思って、――何度も思って……
 なのに、どんなに思っても出来ない。どんなに決意しても、本能としての暗闇と酷寒への恐怖が体を縛ってしまい、どうしても湖に飛び込むことが出来ない。
(飛び込め! 何度ハンシスを危険にさらすんだ、何度目だっ、今すぐ飛び込め!)
 そう叫んで、自らを責めて、意を決して、闇の湖面を見て、叫んで、喚いて、泣いて――。
 でも、出来なかった。
 窓の下に座り込んでしまった。感情は高揚し、興奮し、もう何の思考もまとめられず、決意も出来ず、混乱し――泣きたいのに泣けず。こうして、物を考える事を止めてしまった。
 感じる事を、止めた。ただ、窓の下に座った。眠ることもなく。物を考えず、感じず、そうやって一晩を経た。
 ……ゆっくりと、夜の時間が終わりかけていた。
 座ったまま、ルアーイドは全く動かなくなった。
 そろそろ湖を越えた東の山の端が、薄紫の色を帯びだしてきていた。



10・ 薄闇を抜けて光の射す方向へ


 長かった夜は終わった。
 時間は、ブハイル湖を取り囲んで静かに進んでいった。いつの間にか黄葉は消え、風は日毎に冷たさを増していた。短い秋は終わりを告げようとし、灰色の初冬は目前となっていた。この静かな時間の流れの中に、奇跡のような調和が完成していた。
 ハンシスとシャダーとラディン、そしてカティルとルアーイド。
 彼らは、繊細な調和の中にいた。彼らはごく当たり前の会話を交わし、ごく当たり前に静かな、穏やかな一日一日を送っていった。秋の最後の時間を惜しむように、毎日毎日を心から、充分に愉しんでいた。

「覚えている。ナガに来た最初の食事だった。山羊乳のヨーグルトと蜂蜜を使った菓子を食べさせてもらった。あんなに美味しいものを食べたのは初めてだったから、これを毎日食べられるんだったら一生ナガで暮らそうと思ったんだよ」
 ついに秋も最後の時を迎え始めたと思える、薄晴れの夕刻だった。空のくすんだ青色に少しずつ赤い色が混ざり合う頃合いを迎えていた。
 彼らは揃って物見のテラスへ上り、椅子に座り、陽が没するのを待っている。葡萄酒の杯を握り、心地よく酔いながら何の害もない、他愛のない話を延々と続けている。
「良く言うぜ。最初の日、皆が揃った食卓で貴様の顔が強張ったまま震えていたのを覚えているぜ」
 ラディンは口調に皮肉を入れている。だが今、表情には信じられないほどの素直さが見られる。
「覚えているわ。貴方はずっと甘菓子を食べたがっていたものね。今はどうなの? 今も?」
「嘘だろう? 俺の知っているハンシスは甘菓子なんか絶対に喰わないぜ。そんな姿は想像出来ない。ガキの頃の話だろう?」
「実は小さい頃から大好きだったんだよ。でもコルムではほとんど食べられなくてね。今も昔もコルム城館の食事には甘菓子なんてまず出てこないけれど、なぜなんだろう? 一度あの料理番の親父に理由を聞いてみたいんだけれどな。――そうだよな、ルアーイド」
「――。そうだな」
 ルアーイドは僅かだけ口許を上げて笑んだ。
 冷たい夕刻の風の中、誰もが外套をきつくまとい、赤い葡萄酒の杯を進めてゆく。意味の無い会話を続ける。だが決してこの秋の間に起こった波乱の出来事については触れない。それに触れてしまうと、ようやく出来上がった調和が崩れてしまうのではと、誰もがどこかで敬遠している。ただ、赤味を増してゆく空を見ながら、月の出を待ちながら、他愛ない無駄話ばかりを続けてゆく。
「ルアーイド、酔ったか?」
 ハンシスはごく自然に笑いながら言った。
「どうしたんだ? 全然喋らないじゃないか。疲れているのか?」
「葡萄酒の飲みすぎじゃない?」
「確かにこんな僻地なのに、思いの外に美味しい葡萄酒だものな。私もちょっと酔っている。いや、皆の顔を見て喋っているからだろうな、だからこんなに美味しいのかな」
「……そうだな。ハンシス。美味しい。そして皆と一緒に居られて、私も楽しいよ。
確かに、少し酔ってしまったみたいだ。それに、少し風が……」
 複雑な笑顔で、ルアーイドは主君の顔を見た。
 全てを終えた今、ハンシスは満ち足りている。来るべき未来を恐れなく待ち構えるかのように、曇りの無い眼を示している。もう右肩の傷も癒えた。その手でシャダーの手を握っている。並び座る二人の全身が安らぎと至福に満ちているのが、秋の夕刻の光に映えている。
「風が、冷たいから……」
 返してくる笑みが堅い。
 あの長かった夜以来、もうルアーイドは疲労の様を隠し切れていない。ハンシスもカティルもシャダーも心配し何度か声がけをしたのだが、その都度“少し疲れただけだから”と言って微笑んだ。微笑みで調和を保とうとした。
「……済まないけれど、寒くて――。私は、先に部屋に戻るよ」
「そうか。その方が良いな。でもちょっと待ってくれ、ルアーイド。聞いてくれ」
ブハイル湖の許では、今ちょうど、陽が西の稜線に沈んだ。暮光の中に空も湖面も急激に色を変え始めた。世界は明日へ向けて着実に進んで行くのを示す。金色に染まり出した空気の中、ハンシスは一度湖と山を見て、それからゆっくりと言った。
「明日、帰還する」
 はっと、ルアーイドが緊張する。
「ずっとコルムとナガの状況が気になっている。早く帰還に付く必要がある。私の傷と体力ならもう問題ない。明日雨が無かったら、ここを出発して帰国の途に付くつもりだ」
「待てよ。だったらまず俺がアール城へ行く。あそこから護衛用の兵を連れてくる。それから出発しろよ」
「大丈夫だ、イッル。アール城までならシャダーの騎乗でも充分に夕方の早い時間に到着できるはずだ。私達だけで行く」
「カティルが同行するんだから、別に護衛はいらないだろう?」
 ラディンの言にカティルはあっさりと言った。
「俺は戻らない」
 はっと、ラディンとルアーイドが目を向けた。
「ハンシスにはもう伝えてある。ここで別れることにする。
確かに、あんた達と付き合ってワーリズム家のあれこれを観てるのは面白かったんだけれどな。でももう充分に楽しんだ。そろそろ他のものも見たくなってきた」
「一人でどこへ行くの?」
「決めてない。でもこのままジュバル山地を反対側に進んでみるかな」
「さらに西へ?」
「さらに西へ進むと、海が有るらしいから、一度海を見てみたい。何も無い、ただ青い色が無限に広がっているそうだから、見てみたい」
 嬉しそうに言った。
「あんたも一緒に来るか、ラディン?」
「止めて。ラディンは私達と一緒に帰るんだから。
そうよね、ラディン? まさかカティルと一緒に行くなんて言わないわよね?」
「――」
 ラディンは無言で立ち上がった。テラスの縁まで進み、包帯を巻いた両掌を手すりにつけた。
「止めて。そこには座らないで。手の怪我もまだ治りきっていないのよ」
 そのまま、ラディンはブハイル湖を見ている。夕陽の中に金色を帯び始めた湖面を見据え続け、そして言う。
「ナガに帰らない。カティルとも行かない。俺はもうしばらくここに残る」
「なぜっ、 理由は何?」
「もう少しここに残りたいだけだ。気が向いたら、それからナガに戻る」
 それだけ言うと、あとは湖を見ながら葡萄酒の杯を口に運んだ。でも! と姉がさらに続けようとするのを、ハンシスが彼女の手を強く握りしめて止めた。
 終わったんだ。
 調和の時間は、もうお終いだ。時間は、現実は、止まらずに先へ進んでゆく。それだけだ。
 湖の上では、空気の色が赤味を帯びてゆく。秋の夕刻が進んで行く。ルアーイドの疲弊した眼がラディンを、そして手を握り合うハンシスとシャダーを見る。彼もまた、時間が未来へ動いてゆくのを実感している。自分はそれに拒絶したいのだろうかと、体のどこかが思う。感情がくぐもってゆくのを、どこか遠くで自覚する。
「ルアーイド。君ももう少し残った方が良いと思う」
 その時ハンシスが言った。
「ずっと体調が悪そうにみえる。なかなか回復しない様子で心配だ。私達なら大丈夫だから、ここに残って充分に休養をとってからコルムに戻ってきてくれ」
「――。いや……貴方が心配だから、私も一緒に行く。イッルもラディン殿も同行しないのだから尚更……」
「本当に大丈夫だ。アール城から先は護衛を付けてもらうよ。君は残って休んでくれ、ルアーイド」
「――」
 真摯な気遣いの言葉を受けながら、もはやルアーイドは表情を失った。僅かに血走り赤味を帯びた眼でハンシスを見続けるだけだった。
 東の空には、蒼ざめた色彩の月が現れ始め始めている。必死の抵抗を示すように、空は赤味を増していく。風だけが強く流れて、五人の纏う外套の裾をたなびかせて行く。明日が近づいて来る。
「これが、皆で囲む最後になるのね」
 シャダーの声が、夕刻の最後の時間の中に響いた。
「きっと、またいつかは会えるだろうけれど。でも、いつになるか分からないわね。私達は色々とあったから――本当に色々とあったから。別れるのは少し寂しい」
「そうだな。このブハイル湖での時間はお終いだ。これからはコルムとナガで、新しい時間が待っている」
「ああ。長いさようならだな」
 淡色の髪を風に流されながら、カティルが続ける。
「本当に、あんた達に会えてよかったよ。面白かった。」
 ラディンも無言のままこちらを見ている。夕光の中、その顔が少しだけ笑っているように見える。
 すっと、ハンシスの葡萄酒の杯を握った右手が、前に伸ばされた。風の中、真っ直ぐに声が通った。
「皆の未来が、光り輝くよりに。神の御加護の許に、光の方へ進むように。そして、いつの日かの皆での再会を願って」
 赤い夕刻の中に、四人は杯を差し出したのであった。
 ハンシスとシャダー、そしてカティルが笑んでいる。ラディンは再び、広大な湖面の全てを見ている。その眼からはもう、かつての掴みどころの無さが消えている。全てを受け入れている。
 ルアーイドが小さく嗚咽し始めた。赤くなった目に涙をあふれさせ、何も泣くことは無いだろう? とカティルにからかわれる羽目になった。
 風が確実に冷えていった。一日の最後の瞬間に、世界は赤い色に染まった。雲間に見える肥えた月だけが異様に白く、しかし美しかった。

     ・              ・              ・

 翌朝は、秋の最後の朝になった。――
 なんとか、雨だけは免れそうだった。だが灰色の雲が空の大部分を覆い、風は深く冷え込んでいた。強く吹いていた。
 その風を、分厚い外套を着たハンシスとシャダー、そしてルアーイドの三人は、受けている。
「イッルはもう西へ出発したのか?」
 アルアシオン城の城門の許。手袋をはめながらハンシスは言った。
「随分早かったんだな。最後にもう一度会いたかったのに。まあ、奴らしいといえば奴らしいけど」
「……そうだな」
「ラディンは? ねえ、ルアーイド。ラディンはどこに行ったのか知っている?」
 シャダーは早々に馬に跨っている。早く出発したいという想いに満ちた顔つきだ。
「本当にどこへ行っちゃたの? 見送りにもこないなんて……。まあ、すぐにナガ城館へ戻って来るとは思うけど……」
「さあ。――おそらく城内からは出ていないと思いますが……」
「これもラディンらしいな」
 ハンシスは笑う。
“シャダーは渡さない。その為に貴様を殺す”。
 あの夜の殺意の眼はもう、遠い過去になった。古い時間はとっくに終わったのだ。彼もまた今、新しい未来に踏み出そうとしているのだろう。
「ハンシス。本当にもう傷は大丈夫なのか」
「完全に塞がっている。一応まだきつく縛ってあるが、もう痛みもない。シャダーと一緒に急がずにゆっくりと遠乗りを楽しみながらアール城に向かうよ。秋の最後の景色を楽しみながらね」
「……。そうか」
「それより――。君にまだきちんと伝えていない。最後に言わないと」
 すっと、手袋をはめた手が伸ばされ、相手の肩を掴んだ。
「今回は私達の事で、君に大変な心労と労苦をかけてしまった。困難な迷惑をかけてしまい本当に申し訳なかった。謝罪するよ。それと同時に、感謝も述べたいんだ。
 有り難う。ルアーイド。心から、有り難う――」
「……」
「もう何日も顔色が悪くて心配だ。私達のせいで疲れが溜まっているんだろう? 本当に済まない。もう一度繰り返すよ、有り難う」
 強く抱き締めて、深い誠実を示した。
 ルアーイドは無言だった。ただ、泣き出しそうに顔を歪めた。
「目も酷く赤いぞ。本当に大丈夫なのか?」
「……いや、ずっと眠れなかっただけだ。それだけ……そうだな。多分、今夜になれば良く眠れるんじゃないかな」
「そうだよな、私達のような面倒な御荷物の厄介者が去れば、君もやっと安心して眠れるな。
 ルアーイド。コルムで再会できるのを楽しみに待っているよ」
 冷たい風を受けながら、ハンシスは踵を返す。葦毛の馬に跨ると、シャダーの馬の横に並び、二人で顔を見合わせる。だからその時、ルアーイドの顔から何の予兆もなく表情が消えていったのには気が付かなかったのだ。
 ちょうど、灰色の空に雲の切れ間が出来た。秋の最後の陽射しが湖を、そして馬上の二人を照らした。
「アール城までは二人切りの騎行になるけれど、大丈夫ですか、シャダー?」
「じゃあ、今日一日は私が貴方を護るわ」
 極上の笑顔と共に、彼女は当たり前こととして恋人に馬を寄せてゆく。どちらからともなく、鞍上のまま、二人は唇を重ねていった。
 一対の馬はぴったりと並ぶ。二人は会話を交わしていく。急ぐことなく散歩でもするように、湖の水際をゆっくりと進み出した。秋の最後の世界を楽しみながら、光の射す方向へと出発していった。

    ・               ・               ・

 光の射す世界へと進む二人を見ていた。
 最上階の湖側の自室。その部屋の窓からは湖が、山々が、世界が良く見える。その窓枠に丸くなって座りながら、ラディンはブハイル湖の全景を、秋の最後の遠景を見通していた。
 二頭の馬が湖沿いに現れてきたのが見える。水際に寄ったり止まったり。止まって会話を交わしたり。また進んだり。その満ち足りた姿が、淡い光を返す風景の中に映えている。
 ふと、口が動き、呟いた。
「シャダーと、ハンシス」
 王者へと進んでゆくハンシス。
 そのハンシスを全身全霊をもって愛するシャダー。
 光と風の中、二人が笑ったのが遠目からも見えた。自分の感情のどこかを、僅かに何かがかすった気がした。
 ……あの長い夜。 
 あの時。あの音の無い室内。
 シャダーを独占するために、ハンシスを殺すはずだった。
 だが、シャダーが自分の前へと進みはだかりハンシスを護ろうとした時。――もう現実は動いたのだと解かった。
 あの時。もう時間は移ったと知った。シャダーの愛が他者に移った以上、どうあがいても取り戻すことは出来ない。例えハンシスを殺しても、ただ殺される程の憎悪を買うだけだ。決して彼女の感情は自分に戻らない。シャダーはそういう女性だ。長く愛され続けていた自分こそが、誰よりもそれを理解している。
 現実は驚くほど単純に自分を覆う。憎しみや哀しみという感情を覚える余地すら与えない。だから自分も、単純に受け入れた。それが自分を進める道だと分かった。あの長く、冷たかった夜に。
 そこから始まったのは、落ち着いた調和の時だった。もう感情を屈折させる必要も無い。シャダーの愛が変ずることに恐怖と警戒を覚える必要はない。ハンシスを憎み、そして愛していたことももう、否定しなくて良い。
 ……窓枠に座して観る世界に、陽が当たっていた。
 眩しい、と思った。光が眩しく、そして心地良い。もう現実は受け入れた。未来を考えてみたくなった。その為にも二人から離れ、もう少しここに残って陽を受けていたい。
「どうするかな。これから」
 光を体に受けて、暖かい。光を受けてブハイルの色も、世界も美しい。遠景で、愛し合う馬上の二人はまだ水際に遊んでいる。シャダーの顔も、ハンシスの顔も笑っている。
 空を見上げた。大きな鳥が数羽、湖の上を渡ってくるのが見えた。その向こう側では、雲が速く流れていた。風が強かった。冬が近づいていた。
「どうするかな。俺は」
 言った。光を心地良いと感じながら。世界が暖かいと感じながら。
 その時強い突風が抜けた。
 一瞬はっと動かした視界に、鳥がいた。鳥の影が自分の顔の上を走った時、思わず息を飲み体が動き、重心がぶれた。素早く窓枠を掴もうと右手を伸ばし、その掌が巻いた包帯で滑った。
 あっ、という小さな声をもらす。最上階からブハイル湖へと落ちていく時、妙に冷静に死ぬなと思った。そういえば、あの夜も湖を泳いだな。あの時は何の恐怖も冷たさも無かったなと、落ちてゆく僅かな時間に思った。水に触れた瞬間、冷たいとだけ思った。
 あとは、何も無い。
 誰にも気付かれることなく、ラディンの体は瑠璃色のブハイル湖に吸い込まれて、消えた。

        ・            ・            ・

 陽射しの中、ルアーイドは世界を見ていた。
 秋の最後の陽射しが眩しい、と思った。
 ……
 二人が馬の腹を蹴って出発した後、すぐに踵を返して城内に戻った。二度と振り返らなかった。ただ一歩ずつ歩いた。一歩ずつ、何も考えずに――考えられずに歩いた。城内の通廊を進み、螺旋の石階段を登り、物見のテラスへと至った。
 風が強く、冷たい。雲が素早く流れている。流れる雲間に陽が輝き、光を受けたブハイルの湖面は透き通った青色に染まっている。だが、すぐに雲が空を覆うのだろうか。その時には、湖の色も褪せるのだろうか。
 テラスの最も前へ進む。手すりの許で下を見る。
 ハンシスとシャダーが水際に留まって、何やら喋っているのが見えた。はるか遠目からでも二人の姿からは、未来への希望を感じる事ができた。
 ハンシスは幸福の中にいた。
 ずっとずっと求め続けたシャダーの愛を手に入れて。戦まで起こして。その戦を放棄し失踪してまで。ラディンの前に命を賭してまで。そこまでして。
 シャダーも笑っている。
 愛する男を手に入れて、幸せに笑っている。つい先日まではラディンを偏愛し続け、その為に信頼を失わせ、その為に戦を招き、敗れ、一族の当主座を追われる羽目にまで追い込んで。
 シャダーが幸福に笑っている。彼女は新しい男と共に、新しい未来へと進むのだ。
「それは、正しいことなのか?」
 首を傾け、子供のように素直に疑問を口にする。
「正しい事なのか? 本当に?」
 ならば、もしシャダーがさらに、新たに愛する男を見つけたら? その時はまた騒乱を呼ぶのか? ハンシスは失墜の道をたどるのか? ラディンと同じ様に?
「正しくて、良いことなのか? ハンシスにとって」
 冷たい風に吹かれる。ルアーイドは右手の中で、古びた巻上式弩弓を握り直す。
 ふと振り向くと、昨夕に皆が座った椅子が残っていた。昨日の夕刻、赤く輝いた空気の中で皆がそこに座っていた。“皆の未来が神の御加護で光り輝くものであれ”。ハンシスがそう高らかに言った。
 自分もまた光の射す方向へ行けるのか? 大罪を犯し、永久に嘘を貫き続けながら?
「未来は、光り輝くのか?」
 一度だけ、躊躇する。
 目の前に広がる世界を見る。陽はそろそろ雲に屈して、姿を消すだろう。ブハイル湖の瑠璃色も光を失うだろう。
 もう一度だけ、迷う。
 だがもう思考が出来ない。感情も消え、自分が怒りたいのだか笑いたいのだか泣きたいのかも判らない。低い空に、黒い鳥が数羽渡っていくのが見えた。一陣の突風を全身で受け止めた。
 ルアーイドはゆっくりと右手の握る弩弓を見た。数日前に、城の倉庫の片隅に打ち捨てられていたものを偶然に見つけた。独りで丁寧に修繕を重ねてきた。撫でるように大切に磨き続けてきた。今、その弦の巻上のハンドルを動かし出した。
「光の未来を護らないと。私が」
 腕に力が入らない。苦労をしながらゆっくりとゆっくりと弦のハンドルを巻き上げていく。
「命を賭けて護ることが、大罪を犯した私の贖罪だから。貴方ならば、素晴らしい王になるとずっと信じてきたから。愛してきたから」
 かちりと小さな音を立てて、巻き上げられた弦は固定された。
 その瞬間、吐き気を覚えた。それすらもう、どうでもよかった。銃身に矢をつがえる。テラスの手すりに弩弓を置き、据える。
 世界の中に、秋の最後の陽光が射している。二人はまだ水際にいる。長らく何やらを親しく喋り交わした後、今ようやく馬を並べて先へ進みだそうとしている。光の中にハンシスの纏う外套の濃緑色、シャダーの纏う外套の緋色が映えていた。美しい色だと思った。
「私の、贖罪だから」
 弩弓の尾側を右肩に乗せた時、ずしりとした重さに苦痛を覚えた。緩慢な動きで、弩弓を前方に構えた。標的を、静かに見定める。
 恐怖は無い。それ以外の感情も。何も感じる事無く、引鉄に人差し指をかけた。
「贖罪だから。使命だから。ハンシスを光の射す方向へ。だから。」
 だから。
 体のどこかに微かな喜びを覚えた気がした。僅かな笑顔になった。
 引鉄を、引いた。
 ……
 ルアーイドは笑んだままだった。
 矢が飛んで行く長い長い時間も。その後も。
 矢がシャダーの背中を完璧に打ちぬいた瞬間も。物音も無く、彼女の身体がブハイル湖の水際に落ちて行った時も。
 その瞬間、ハンシスもまた一言も発さなかった。
 幸福が永遠に続くはずだった恋人が今、骸に化してしまったのを目にした時も。ブハイル湖の水が彼女の顔を拭い出したのを見た時も。その現実を理解できずに、無言の、無表情のままだった。その無表情が、ルアーイドの遠目に不思議な程に鮮明に映った。
 次の瞬間、
 ハンシスとルアーイドは同時に叫んだ。長い叫びは、ブハイル湖の透き通った瑠璃色の中に吸い込まれていった。

 風が強い。そろそろ空は一面にわたり、雲に覆われようとしていた。
 陽が雲の裏に消えて、世界の色彩が薄れはじめていった。
 ……短かった秋が終わり、ブハイル湖に灰色の冬が訪れようとしていた。




【 終 】
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