第3話

文字数 26,147文字

5・ 霧雨


 シュリエ城砦のある乾いた丘陵地から、さらに西へ。
 丘の連なりはやがて、ジュバルと呼ばれる山地へ変じてゆく。
 少しずつ標高が増すにつれ、少しずつ気候も地勢も変じてゆく。丘陵地の単調な風景から、断崖や渓谷といった変化を帯びてゆく。乾いた空気に湿度が増し、まばらだった灌木に代わり高い木々が増え、木々は茂り出し、いつの間にか豊かな林を形づくってゆく。平地よりずっと進んだ秋の中、その林では黄葉が始まり、風景を一層に彩ってゆく。
 ワーリズム家のシャダーの馬車は、この変化と色彩に富んだ世界に山道をたどっていた。
 ……
 朝からずっと、消えそうなほどに細かい霧の粒だった。濡れた葉の黄色に薄霧の白色が混ざり、世界は不思議な色彩だった。
 しかし、シャダーはそれすらも見ない。強張った顔で膝に置いた自分の手だけを見ている。これまた何一つ喋らずに堅苦しい顔の護衛兵達に囲まれながら、薄霧のかかるうねった山道をたどっていく。
 唯一の例外は、少年兵のティフルだった。彼だけが、
「シャダー様。見て下さい。霧が少し薄くなって来ましたよ。黄色い林が綺麗ですよ」
馬車の窓のすぐ横に馬を寄せながら、必死に女主人に気遣っていた。
「ずっと山道が続いて馬車が揺れますからお疲れですよね。でも、もうそろそろ峠の頂きです。もう少しで到着しますから……。もう少しでアール卿の城に着きます。馬車を下りて、乾いた火の焚かれた部屋で休めますよ。今夜は柔らかい寝台でお休みになれますから」
 夢中で笑顔を作りながら言う。
 しかしそれでも、ナガの女城主は憔悴しきった顔だった。ただ、ぽつんと呟いた。
「早く、休みたい。――早く全てが終わって、帰りたい。ラディンに会いたい」
 シュリエ城砦での悲劇的な事態から、すでに二夜が過ぎていた。城主カラクからは厄災者呼ばわりをされて、城を追い出された。その際に浴びせられた罵倒の句に、
「貴様のせいでラディンもワーリズム家も飛んでも無い悪運に捕まったんだ! 俺もだっ、貴様にかかわったばかりに飛んでも無い面倒に巻き込まれただろうが! 悪魔とでも寝やがれ! 自ら災いを受けやがれ!」
罵倒句の強さに衝撃に絶句してしまい、何の反論もできなかった。その果てに今、こんな陰鬱な霧雨の山道に馬車で揺られていた。こんな寂しい僻地で、内臓を絞られるような屈辱をに苛まれながら馬車に揺られていた。
 ティフルだけだ。それを気遣うのも。
「シャダー様。城主のアール卿の事をもっと話して下さい。どんな方ですか? 昨日も少しお話を伺いましたが、続きをどうぞ教えて下さい」
 シャダーは少しだけ目を上げた。少年を真似て少しだけ笑おうとした。
「そうね。どこまでを話した? アールがナガの為にグータの領主と友好の約束を取り付けるのに成功をして、それを父が感謝して、祝って、城館で宴会が催された話はした?」
「いえ。まだです。是非聞かせて下さい」
「あの時は、普段は厳格な父上も心から上機嫌になって、アールにしきりと酒を進めて。私にも酌をするように命じて。私が十五歳の時だったかしら……。
 アールの一族は代々にわたってワーリズム家の忠実な臣下だから。だから私に対しても存分な敬意を示してくれて。実際、一度は私との婚礼の話も出たことがあったし。あの男は本当に優れた卿だった」
 言葉と共に、蘇る。
 アールは完璧な騎士然で。あの時の大宴会は光に満ちていて。大変な人数がいて。笑い声と喋り声で賑やかで。愛する弟がいて。
「……」
 また黙ってしまった。幸福な思い出が、現実の惨めさを際立たせた。疲労が、肩に重さを加えた。
 だが、彼女よりもさらに疲れている者なら居る。周囲に護衛兵達こそが疲れ切り、苛立ちと不満を内心の一杯に溜めている。でも彼女はそれにも気付いていない。自分の失意と疲れとばかりに気を取られ、そのまま山道を進んでゆく。前後を衛兵に護られながら、馬車は少しずつ険しくなってゆく峠道を登ってゆく。
 心底より待ち焦がれていたアール城への到着は、夕刻になったのだが、
 ……
「ねえ。まだなの? 何をしているの?」
 護衛兵の一人が、小ぶりの城門を叩き続けている。
「疲れているの。早くして。早く開けてもらって、早く」
 確かに彼女は疲弊していた。先ほどティフルの手を借りて馬車を下りる際には思わず老婆じみた溜息を漏らしてしまった程に疲労していた。
それでも待ちきれずに、自らも城門の前に立ってしまう。
「ねえ、早くしてもらってっ」
 ナガからまとってきた薄色の外套はすでに埃を、そして霧雨をたっぷりと含んで重たくなっていた。フードの下で、髪は額に張り付き、化粧も落ちていた。
 本当に、早くして欲しい。雨はもういい。早く乾いた空気に当たりたい。温かい食事と柔らかい寝台が欲しい。それらの全てならば、この城門一枚の向こうにあるのに。
「なぜこんなに待たされるの? 門を叩いているのに気付いていないんじゃないの?」
 すると門前にいた衛兵隊長カワーイドが、冷淡な顔でこちらを振り返った。
「こちらがここにいる事は知っているはずです。必ず物見が出来る場から見ているはずです」
「だったら直ぐにここを開けるはずよ。なぜ? 理由は?」
「理由は、私達が拒絶されている為です」
 淡々の口調で返された途端、彼女は苛立った。
「何を言ってるの? そんなはず無いじゃないっ、お前だってアールは覚えているでしょう? 若いのに礼節を貴ぶ忠臣として有名だったじゃない。今はナガ城館に出仕していないけれど、あんなにワーリズム家への義に篤かった者なのに、それなのに何でそんな事を言うの!」
 苛立ちはすぐに腹立ちに変じ始める。外套の下で肩が小刻みに震え出した。
 何で皆が私の邪魔をするの?
 私は何か悪いことをしたの? 何がいけないっていうの? シュリエ城主の酷い言い様のように厄災の魔物に取り憑かれているの? 厄災はハンシスなの? まさかここまで先回りしていてまた邪魔をするの?
 顔が強張る。両の掌に力が入り、強く握り締める。感情を抑えきれず、思わず大きく声で喚き出しかける直前だ、
「お願いします! 早く開けて下さい! ワーリズム家のシャダー様がこちらまで来ています、困っています、お願いします、開けて下さい!」
唐突にティフルが叫びながら駆け寄り、力一杯に城門を打ち始めた。
「今、シャダー様は本当に困っています! ずっと旅を続けていて、しかも困難に見舞われて、本当に疲れて困っていますっ。ワーリズム家の忠臣であられたアール城主、お願いします。シャダー様を休ませて下さい。拒否をしないで、ここを開けて、中に入れて下さい!」
 夢中で門を打つティフルの顔を、細かな霧の水滴が覆っていく。いくら叩いても何の変化も示さない城門を、それでも散々に叩き続ける。見る見るうちにティフルの手の拳が赤味を帯びてゆく。赤味がどんどん酷くなってゆく。
 意外な事が起こった。ティフルの熱意が報われたのだ。
 シャダー達の目の前で、城門が開いていった。当地の領主・アール卿は、たった一人だけで立っていた。

       ・          ・           ・

 数日という時間を経ただけだが、乾いた丘陵地でも着実に季節が動いていた。残っていた夏は過ぎ去り、空は曇りがち、鳥の声も減りだしていた。短い秋が始まっていた。
 ……
「全く、不幸な偶発でした。 私もその瞬間にどうする事も出来ず……。
 使者を射殺してしまった事にあの御方は半狂乱に陥られて、私が止めるのにも聞かずに――。何とか思い留まらせようとしたのですが、誠に申し訳ありません、叶いませんでした」
 城主カラクは今日も洒落た刺繍取りの長着をまとっていた。その姿で長々と、いかにも心底より苦悩したという顔を作りながら続けた。
「シャダー様の行方ですが、当然ナガに御帰還されたのだと思っていましたが、違ったのですか? 街道ですれ違われなかったとすると、まさか別路をたどってお帰りに? だとしたらば何とも心配ですが、しかしなぜそのような事を……?
 それにしても――。本当に、あの時私が無理をかけてもお停めしていれば……。悔いても悔いても、悔いきれません。神の御前に幾重にも幾重にも、お詫びを申し上げます」
 ラディンとカティルは、無言だ。
 その時も、丘陵のただ中のシュリエ城砦は絶え間ない東風を受けていた。曇った空の下、二人は無言で城主の弁を聞いていた。城内に入ることもなく、巨大な城門の前で騎乗のまま、ただじっと長々の弁を聞き続けていた。
「あの御方がナガ以外の場に向かわれたなどとは考えられません。何かしらの危険を避けて、付近のどこかに待機なさっているのでは。
 ――ところで、貴方様がここにいるという事は、ナガの包囲戦は終結したのという事ですよね? 貴方様はナガの為、一族の為、姉上の為にもすぐ様にも御帰還なさった方がよろしいのでは。ラディン殿?」
 カラクの大仰なまでの心配面が、灌木の丘のはるか東の帰路の方へと見据えられる。
 だというのに、二人は帰還への道を取らなかった。馬を進めるのは、帰路とは真反対の方向だった。さらに西のジュバル山地への方向だった。
 ……
「城主のカラクが嘘を言っていると思っているのか?」
 すでにジュバルの山道に入りだしている。狭い登り道に、馬を横に近づけてからカティルが訊ねる。シュリエ城砦を出てから五回目だ。
「俺も、あんたの姉はナガへ戻っていると思うがな。何をおいてもあんたに会いたいと強く願ってるはずだ。たまたま帰路で何かが起こったんじゃないか? 事故か、もしくは何かしらの事情で身を隠しているとか」
 しかし。
「――」
やっぱりラディンは応えない。今までの四回と同じく。ラディンは城砦を出てからまだ一言も口を効いていない。
 くねった狭い道の周囲で、風景は著しく変わり始めていた。急激に数を増した樹々は黄色く葉を染め出し、空気が湿度を含み出し、空では雲が厚く、暗くなり始めていた。
「間違ってないだろう? どうして戻らないんだよ、ラディン」
「――」
 応答無し。今回も無視されたなと思った時だ。ついに友人でもある主君は、視線を全く動かさずに言った。
「シャダーはナガに戻っていない」
「やっと口を効いたか。俺はまた、愛しい姉の行方不明に気が動転して喋れないのかと思ったんだがな。――で、今どこにいる?」
「この先の峠を登り切った、アール卿の城だ」
「言い切ったな。絶対なのか? 見えてるのかよ。そんなにあんたは姉の事を知り尽くしているのか? “髪の毛から爪先まで”か?」
 その時、ラディンがカティルを振りむいた。真っ黒の眼が示した不快な怒りは、この一番の友をしても一瞬気を飲む強さだった。
「俺とシャダーを茶化す気なら、この場で殺してやるぜ」
「……。怒るなよ」
「シャダーなら、アールの所だ。俺の父親の代からあの男はワーリズム家への忠義を持っていた。シャダーにも礼節を尽くしていた」
「それだけか? それだけが理由で、大勢いるワーリズム家臣下の中でアールとかいう奴に限定するのか?」
「ワーリズムの臣下でシャダーに敬意を持つ者なんて、他にいない」
「え?」
 言葉の辛辣さに、思わず一瞬だけ馬を止めてしまった。ラディンだけが全く変わらない歩調で山道を先行していく。前方だけを真っ直ぐに見ている。
 ……その頃から、ジュバル山中では空の暗さが目立ち始めた。いよいよ空気に湿度が増し、薄い霧がかかり始めた。
 峠への道を登るのにつれて、樹々は一層に茂り、木の葉の黄葉が色を強めてゆく。風景を埋めてゆく。風は無い。鳥の姿も消え、物音も無い。静けさに満ちている。
 馬の蹄音だけが不規則に響く。狭くうねった山道を、二頭の馬は登ってゆく。二人はもう口を利かない。少しずつ霧の白さを増していく。静寂の世界は霧に包まれて始めている。
 ――突然、静寂が崩れた。
 ラディンの猫の目、カティルの淡色の目がほぼ同時に捕えた。ラディンの唇が聖典句を口走った。
「守護天使は我が右肩にあり」
 彼らの左手、渓流が削った谷の向こう側だ。崖の斜面の小道を、ハンシスがたどっていた!
「天使は讃えられよ、神の栄光の光を受けて」
 黄葉した木立の間に、確かに見える。濃緑色の外套をまとい目深にフードを落とした姿で葦毛馬に跨ったハンシスが、脇目も振らず進んでいる。
 辺りに物音は無い。鳥すら鳴いていない。薄い霧が僅かにゆっくりと動いている。その中、ラディンは丸切り感情を含ませず淡々と言った。
「奴は、こっちに全く気付いてない。――やれ」
「え?」
 猫の目がこちらを、カティルを向いた。
「早く。やれ」
「何のことだ」
「早くしろ。さっさとしないと行ってしまう。今ならちょうど木立の隙間が広く開いている。すぐやれ。早く弩弓を出せ」
「――。ここで、奴を射殺すのか?」
 簡単に、ラディンの首は頷いた。

     ・             ・             ・

 当地の領主アールは、ただ一人で立っていた。
 彼は、雨よけの外套を着ていなかった。黒色の胴着も短く刈り込んだ髪も、水滴をたっぷりと吸っていた。この場に長く、無言で立ち続けていたことは明白だった。
「アール卿、ご無沙汰をしております」
 カワーイド隊長が頭を垂れる。
 が、アールは返さない。高い上背の背筋を伸ばしたまま、全く動かない。三十歳程という実年齢よりよほど潤沢な現実経験を感じさせる鋭い表情もって、来訪者を見据えている。
 嫌な沈黙になった。と、早くもティフルの若い勘が不穏を察した時だ。
「アール!」
 シャダーが滑りやすい地面をぎこちなく歩いてきた。相手の前まで達すると、彼女は即座、夢中で相手の手を取って握ったのだ。
「ああ、良かった、全然変わっていないわね、貴方……会いたかったわ! 貴方がナガに戻って出仕するのをずっと待っていたのよっ、本当に会いたかった」
 その言葉に偽りの欠片もないとは、誰の目にも明らかだ。苛立ちから一転、シャダーの顔は鮮やかに笑んでいた。たった今までの憔悴は消え、一気に生気を取り戻していた。
「貴方は本当に、全然変わっていないっ。ラディンの代になってすぐに貴方が領地へ戻った時は驚いたわ。あんなに止めたのに――。でも、こうやって再会出来て本当に良かった。話したいことが一杯あるの。疲れているけれど貴方とは直ぐに話しをしたいから、さあ、中に入れて」
 だが。
「アール? ずっと山道で揺られていたから疲れているの、早く中に入れて。どうしたの? とにかく乾いた空気にあたりたいから、早く」
 無言の、微動だにしない眼でアールはただ見据えている。
「何なの? 早く……、何?」
「貴方を受け入れません。お帰り下さい」
 一瞬、シャダーは意味が理解できないという啞然の顔になる。しかしすぐに察した。顔はまた変わる。苦々しい苛立ちの態に戻る。
「ハンシスね」
「何の事ですか」
「誤魔化さないで。ハンシスね! あの恩知らずがここにも先回りしていたって訳ね。
でも、だからって、聖天使様、信じられません! 貴方が……父上からあんなに信頼を受けていた貴方が……その貴方がハンシスに買収されるなんて!」
「私は買収など受け入れたことはありません。万事を、自分の意思のみで決定します」
「だったら早く入れてっ」
「意志をもって、貴方を拒絶します。私は貴方と、貴方の弟に嫌悪を覚えています」
「……。何を言っているの?」
「早く去って下さい。さもないと私は武力をもって貴方を追い返しますよ」
 白い細かい霧雨の中、アールは言葉も、態度も、どこまでも冷徹だった。
 周囲の衛兵達は、誰一人も言葉を発しない。ただ、言葉を失ってしまった女主人を見据えている。次の瞬間に彼女が次に何を言い出すのか、どんな態を示すのかを無言で待っていた。その言葉を予測している。
「酷い……」
 聖者よ。予想通りだ。
 シャダーは怒る前に、涙をにじませ出した。予想だにしなかったという衝撃に打たれ、口端を僅かに震わせ、必死で相手を睨みつけた。
「貴方だけは、ワーリズム家の危機にも頼りになると――一番頼れると、信頼出来ると思っていたのに……この、罰当りの裏切り者……っ」
「背信者呼ばわりは止めて下さい。私は、先代ワーリズム殿にとって最高の臣下であったと自負しています」
「だったら私を助けなさい! 今すぐ私を城に入れなさい!」
 シャダーの激しい怒りに対して、
「少しは現実を見なさい。愚か者が」
アールは見事なまでに淡然を貫きながら、決定的な言葉を言い放った。
「無知で、傲慢で、現実を見ない愚者が、ワーリズム家を害した者が、私の城に入らないで下さい」
 だが、シャダーもひるまなかった。
 シュリエ城砦の時には、突然の罵声に何も言えなかった。為に惨めさに泣く羽目になった。もうそれを繰り返すのは嫌だ。身じろぎもせず自分を見る相手に、感情を剥いて叫んだ。
「私が何をしたっていうの! どこが無知で一族を害しているっていうの!
 貴方だって知ってるはずよ、知らないなんて言わせない、私こそが現実を見てワーリズム家を支えてきたじゃない! 母上がラディンを産んですぐに亡くなってからは、母親代わりにあの子を育ててきた。ラディンが当主に就いてからだって、いつでもあの子を助けて一族の為に――それを何で――!」
「その身勝手な論理を止めて下さい。聞いていて気恥ずかしい。“私はどれ程弟を愛したか”ですか? その思い込みの挙句に今回の内紛騒動を引き起こしたとなぜ気付かないのですか? そこまでの愚鈍なのですか?」
「そうよ、その通り私はラディンを愛しているわっ、それのどこが悪いの? なぜ責められるの!」
「誰か」
 顔色一つ変えずにアールは声を遠くに放った。同行の六人の衛兵達に向かい問いかけた。
「お前たちの誰かが教えてやれ。この女の弟への執着が、それでなくても無能な弟を一層の阿呆に仕上げたと」
「呪われろ! アール、全ての聖者から罰を受けろ――!」
「早く誰か言ってやれ。ナガ情感にいたお前たちが一番良く知っているはずだ。この女の愛とやらの為にラディンはいまだに乳離れ出来ない阿呆になり、よって当然の結果として無様に当主の座から落ちたと」
「罰当たりな嘘を――! 城館の誰一人だって私達のことをそんな――誰も私達のことを責めたりなど――!」
「『真実は驚愕と共に示される。雨夜の闇を割く雷光の如く』」
 霧雨の中に聖典句が響いた。はっきりの口調でカワーイド隊長は発した。
「神聖なる御言葉が伝える通りです。御理解を。シャダー様」
「……。何を、言っているの?」
「私も、アール卿と全くの同意見です。私も、貴方を拒絶します」
「……」
 もうシャダーには、自分が今どのような顔をさらしているのか分からなかった。喉の底から搾るように、やっと言った。
「……。よく、そんな事が言えるわね……。何十年も城館に仕えてきた果てに、そんな醜い事を……」
「先代のワーリズム殿は、間違いなく尊敬に値する卿でした。しかしながら――。いくら血筋の良い猟犬だろうと、仔犬の時にきちんと躾けられていなければ、殴られて追い払われるのではありませんか? それがラディン殿です。アール卿の言葉の通り、貴方様の弟への執着が、ワーリズム家を悪しき方へと招いていった。
 そうですね。今となっては、従弟のハンシス殿だけが御一族の唯一の希望です」
「――。黙りなさい。黙れ。
 カワーイド隊長。お前をナガ城館から追放します。今すぐ、どこへでも消えなさい」
「喜んで」
 カワーイドはその場で、深々と身を垂れる。そして歩みだした。
「……え?」
 シャダーの目の前、白い霧雨の中、そのままアール城主の許へと進んでいってしまった。絡み付く細かい水滴の中、貴方様の名の許に私の忠義を捧げますというカワーイドの至極簡素な忠誠の辞が聞こえたのだ。
シャダーの顔から激怒は消える。茫然へと変わる。しかもさらに事態は進む。
背後から、泥を踏む複数の足音が聞こえてくる。それらが自分を追い越してゆく。ティフルを除く残りの衛兵達全員が、カワーイドに付き従ってアールの側へと歩んでいったのであった。
「……」
 水滴がシャダーの顔にも絡みついてゆく。もう彼女は感情を上手く表すことが出来ない。言葉も動きも無くしていく。
「ワーリズム家のシャダー殿。この領地内から出て下さい」
 アールの感情の無い言葉が響いた。
「嫌よ」
 何の理由も無く、ただ、そう発した。
「出て下さい。今すぐに去って下さい」
「嫌」
「ワーリズム家のシャダー。出ていけ。拒否するのであれば今、この場でカワーイド隊長に命じ、貴方を追放させる」
「もう止めて下さい!」
 泣き出しそうな顔でティフルが叫んだ。
 ティフルには今、現実がどのようにねじれてしまったのか、それに自分がどう対応すればよいのか判断ができなかった。感情だけが高揚し、勝手に涙がにじみ、ただ大声で叫んだ。
「止めて下さい! こんなの、止めて下さい!」
 泣き出した子供などにアールは見向こうともしない。ナガ城館の女主人にも。
無音と霧雨の中、彼は無言で背を向けた。
「止めて下さい! こんな酷い事は止めて下さいっ」
 少年の叫びの続く中、アールは見捨てた。たった今まで女主人と共にいた衛兵達を引き連れて、城の方へと向かっていってしまった。そして城門は再び、ゆっくりと閉ざされていった。
 物音が消えてゆく。霧雨が深まり出してゆく。世界はどんどん白さを増してゆく。
 その時初めてティフルは振り返った。
 静寂を破って、声が聞こえた。シャダーが、声を上げて泣き出していた。
「シャダー様……」
 霧雨の中、ティフルは本当に、本当にもう、何をすればよいのか判断できなかった。

       ・           ・           ・

 濃緑の外套をまとったハンシスの騎馬姿が、黄色く彩られたジュバル山地の崖沿いの道を黙々と進んでゆく。それをラディンは、猫のような細い眼で見据えている。
 そして、もう一度繰り返した。
「奴を射ろ」
「……」
「お前の腕なら一矢で充分だろう? 巻上式の弩弓は殺傷力が高いから確実に殺せる。本当に天使は肩に居たんだな。ここで俺の邪魔は消える」
 無邪気なほどに喜々と言った。
「……」
カティルは、返答に窮する。相手の平然とした口調に当惑する。
「いや――。一応あんたにとっては、幼馴染の従兄だろう? 会見の時だって仲が良さそうだったじゃないか。何も殺さなくても……」
「俺に戦をけしかけてきた男だぜ」
「今回の包囲戦ならば、明らかに決着は交渉で付けられた。おそらくハンシスも最初からその筋書きだったはずだ。それをあんたとあんたの姉が拒否したんだろうが。
 とにかく、ここで殺さなくても、少し傷でも与えて足を遅らせておけば充分――」
「早く。ほら見ろ、樹の隙間を通り抜けてしまった。次は、あの正面――あそこの岩の所でまた見通せる。早く狙え。あそこを過ぎたらもう狙えないぞ。早くしろ。早く殺さないと、今度は俺が殺される」
「それは無いだろう? ハンシスがあんたを殺すなんて、そんな事を奴――」
「カティル」
 ゆっくりと首を動かし自分を振り向いたラディンの眼が、
「反対するのか?」
凄まじい、とカティルは思った。
 一年半前から護衛として、もしくは質の良くない友人として受け入れられた。一応は信頼を得ている関係だと、ある程度は互いを理解し合える間柄だと思っていた。それでも、
理解できない。ここまで本気の殺意は、なぜだ?
 そこまで憎悪する必要があるのか? 兄のように仲の良かった従兄をそこまでして? 第一、自分が殺されるってどうしてそこまで思う?
 ハンシスの馬は、規則正しく蹄を刻んで進む。真っ直ぐと進んでゆく姿が、渓谷の向こう側、樹々の狭間に見え隠れする。
 狙うならばあの、霧で湿った灰色の岩の所。あの脇を通過するとき、ハンシスの姿は完璧に見通せる。標的に収まる。
「早くしろっ、早く弩弓を準備しろっ」
 カティルは馬から下りると、鞍に下げていた弩弓を取り出す。弦をハンドルで巻き上げ、矢をつがえる。
 ハンシスは何も気づいていない。薄い霧の中を真っ直ぐに死の場所へ近づいて来る。それをラディンは喰らい付くように見続ける。カティルは弩弓を握り直す前にもう一度振り向いて、ラディンの表情を見る。――見て、言い直す。
「……。奴に――仲良しの従兄に恨みがあるのはあんただろう? やりたければ自分の手でやれよ。この距離ならあんたでも外さないだろう?」
「俺に弓を渡すのか。てっきり俺は、貴様がわざと的を外して、それで事を濁すのだろうと思っていたのに」
 辛辣の台詞を言った。なのに表情は少年のように素直で可愛いほどで、カティルの眉を歪ませた。
 ラディンは馬から下り、差し出された弩弓を受け取る。それを目の高さで構える。
「狙うなら首のすぐ下だ」
 カティルが言う。もうラディンは応えない。十字の形をした弩弓の、その支柱をぴたりと頬につける。
 音が無い。谷の向こう側で、ハンシスのまとう濃緑色が黄葉と薄霧の中を動いてゆく。あと呼吸数回分で標的となる岩の前に達する。
 黄葉の隙間に、相手の横顔が見える。普段の明瞭さと違う。感情を殺した固い顔は、何を考えているのか示さない。従弟と同じ様に見える。こちらに全く気付かず、ただ道をたどって進んでいる。
 あと三呼吸。引き金にかけたラディンの指が微かに動いた。
 あと二呼吸。狙う。背中側の首筋、最も柔らかい首の下。
 来る。確実に。ハンシスはそこに、岩の前に来る。あと呼吸一回。
 そこへ、来た! 今!
 ――矢は飛んだ。
 右手の方向、見当はずれの林の中に音も無く飛び、消えた。横から伸ばされた手が、発射される瞬間に弩弓を押していた。
 ハンシスは何も気付かないまま、何事も無く、規則正しく山道を進んでゆく。やがてその姿は、樹々の奥に消えてゆく。
 カティルもまた真顔で無言だった。何も弁明は無かった。ただ横に立ったまま、進み去っていくハンシスを遠目に見ていた。
 それに対してラディンもまた激怒することもなかった。ただ、唐突に弩弓を上へと振り上げた。一瞬の重い音をたてて護衛の顔を打っただけだった。
 ……霧が少しずつ、少しずつ濃くなってゆく。
 山中に物音は無い。ハンシスはもうとっく霧と黄葉の中に消えている。
 右耳の上の切り傷から僅かだけ血をにじませながら、初めてカティルは言った。
「ハンシスの背中を見張りながら進んだ方が良い。あの様子だと、奴はあんたの姉の行く先を知っているな。俺達に先じてシュリエ城砦に立ち寄り、何かしら聞いたんだろう。シュリエ城主とは以前から通じていたんだろうな」
「そうだろうな」
「あの気取りまくって着飾った城主野郎。しゃあしゃあと惚けた顔で騙しやがって」
「そうだな。奴が俺を捕えなくて良かった」
 丸切り他人事のように答えた。その横顔にはもう、たった今までの冷酷な殺意は残っていない。感情を捕えにくい眼で前を見据えている。
 ようやく今、カティルには判った気がする。この若いワーリズム家当主が周囲から憎悪さている、というよりは敬遠されている理由だ。それは、単に未熟で生意気で傲慢な餓鬼というだけではない。
 怖いのだ。
 何を感じて、何を考えて、何を行動するのかの予測がつかず、だから薄ら怖いのだ。対応しようにもその判断が出来ないことに原初的な警戒と、そして恐怖を覚えさせられるのだ。耳元の血をぬぐいながら、カティルはそう思った。
「奴の後をつける。カティル。行こう」
 ……冷気と湿度が増してゆく。霧が少しずつ濃くなってゆく。
 すでにシャダーは先に進んでいる。ハンシスはそれを追いかけて行く。ラディンとカティルもまた、それを追いかけてゆく。



6・ 灰空


 峠を越えたジュバル山地の西側では、緩い風が吹き続けいていた。
 遠い西から吹く風が、秋の重い雲を大量に運んでいた。空気の質感は温暖なナガ平野とも、乾いた丘陵地とも、山地の東側ともまた変わり、別の風土を作っていた。
 ……その、緩い西風の音だけを聞き続けている。枝の揺れる僅かな音を聞きながら、彼らは狭い山道を下ってゆく。

「何だか静かですね。鳥もいない。生き物の気配がしない。別の世界に来たみたいだ」
 ふと、どこか詩的な言葉をティフルが発した。
 アール卿の城を出た後は、ただひたすらに山道を下っていた。
 自分の護衛兵達は皆、アールの城に入っていってしまった。その城門が目の前で閉じられた時、彼女はもう怒ることはおろか声を発することも出来ず、ただひたすら泣いた。馬車もまたアールに奪われた。僅かばかりの恩情で、馬を一頭だけを許されただけだった。
 その馬に跨り、たった一人残ったティフルに馬の手綱を引いてもらい進む。狭くて急な崖沿いの道を慎重に下りながら、時折にティフルが何やら話しかけるが、もう応えない。もう喋らない。無言で崖沿いの山道を、ただ進んで行く。
 やがてだった。狭い道の左手、崖の下側、木立の間に見え隠れしている青色に先に気づいたのは、少年の方だった。
「あっ、ほら。シャダー様、やっと見えてきましたっ。これが仰っていたブハイル湖ですね。ほら、やっとここまで来た、もう少しですよ」
 左手の下方の、黄葉する木立の狭間だ。広大なブハイル湖の濃青色の湖面が、雲間の薄日を受けて広がっていた。ティフルは馬を止めると夢中で見つめた。
「ああ、湖ってこんなに大きいんですね。ナガの水路で見る貯水の池なんて比べられないくらいに大きいんですね。生まれて初めて見ました。綺麗な青緑色だけれど、でも水が全然動いていない。何の音もしない。少し寂しいけれど、でも綺麗だ」
 だが女主人は、その詩的な言葉も風景も無視した。代わり、アール城を離れてから初めて、心底よりの想いを込めて、発した。
「疲れた――」
 疲弊が、全てだった。シャダーはもう馬に横乗りはしていなかった。男のように鞍に跨がり騎乗していたが、それでもすでに、背骨から腰にかけての凝り固まった痛みが耐え難かった。そして疲弊には抑えようがない苛立ちも含まれていた。
「今は、昼すぎ頃? 薄暗くて判らない。今夜こそは寝台で眠れるの?」
「それが叶う事を私も願っています。シャダー様。アルアシオンの城へは、まだどのくらいかかるのですか?」
「知らないわ。子供の頃に一度来ただけの城よ、そんな昔の事を覚えているはずないじゃないっ。ブハイル湖沿いのどこかよ。お前が探してよっ」
「済みません。でも……道は間違っていませんよね。この辺りは村も無いし、人も全員いませんから……。湖沿いに進めばすぐだとの貴方様の言葉――」
「それで私を責めるの? 私が間違っていると責めるの!」
「いいえ! そんなことは決してっ。ただ、思ったよりずっと大きな湖だったから、もし道を反対側に取ったりしたら大変な遠回りになりますから、一刻も早く貴方様が安全に休める場――」
「お前まで私を責めるの? 間違っているっていうの? 私が信じられないのなら、だったらさっさとナガへ帰れ!」
 甲高い声で苛立ちを発した!
 ティフルが全身を縮め、すがるように女主人を見る。その顔が、ほとほとに疲れ切っている。長時間にわたりたった独りで女主人を護衛同行するという責務は、この年少の少年には荷が重すぎた。緊張と不安で心身を疲弊させ、もうどうしたら良いのか分らないという目をさらしながら、なのに心底から謝った。
「非礼をお詫びします。シャダー様、お詫びします。済みません、ごめんなさい」
 その哀れな顔こそが、シャダーをさらに苛立たせる。泣き出したいまでの気持ちに追い込む。
(どうして? 私はほんの先日、夏の終わるあの夜まで、ナガの城館で宴会を楽しんでいたのよっ。それなのに何で今、こんな誰もいない山奥で、薄ら寒い湿った場所で、疲れ切って、苛立って、子供相手に怒鳴り散らしているの!)
 西風がゆるく吹き付けている。薄暗い空に雲がゆっくりと動いている。時折雲間からの陽射しが落ちる間だけ、湖面の色彩は青く透き通る。
「シャダー様――」
「話しかけないで!」
 苛立ちが収まらない。自分でもどうして良いのか判らない。彼女はいきなり馬の腹を蹴った。幅の狭い湿った泥の崖道を下り出した。
「シャダー様、待って下さいっ。道幅が狭いから危険です」
 待たない。必死の声を無視する。
「待ってっ、私が馬の手綱を取りますから待って。シャダー様、私と一緒――」
 声は途切れた。
 物音が響いた。大きく木立がすれて折れる音がした。
 振り返った時、そこに少年の姿は無かった。
「ティフル?」
 何の物音もない。ただ、たたずむ。現実が解からず、ただ呆けたままたたずむ。
 少年が泥に足を滑らせて崖を落ちたと理解したのは、浅い呼吸十回の後だった。無言で、ゆっくりと崖を見下ろした遥か下方、湖の湖畔に、ティフルの身体が落ちているの見つけた。
 湖畔まで降りて行くことを思い立つまでには、何も考えられない長い長い時間が必要だった。急な崖路をたどりおり、少年の許にたどり着いた時には、もう茫然と、何も出来なくなっていた。湿った泥と小石が広がるブハイル湖の水際に座り込んでしまった。
 ティフルの、血と泥と傷にまみれた小さな骸は、――たった今まで一生懸命に元気をふるまって動いていた口は、ぽかんと開けられたまま空気を吸う事を止めてしまった。必死に気遣いを見せていた眼は、もう何も見なかった。瞬きの無い剥きだされた眼球が、西風の抜ける空のどこかに向けられていた。
 僅か十数年を生きただけだ。うら寂しい、人もいない湖の脇で今、ティフルは死んでいた。
「悪いのは、お前よ」
 ブハイル湖の水面は、死に絶えたように静まっている。辺りに物音がない。荒涼とした静寂に沈んでいる。
 湖岸の地面に座り込んだまま、何もしない。泣くこともない。ただ、立つことが出来ず、ぼんやりと、その場にいる。
「お前が悪い。足を滑らせるから」
 緩い西風が湖面を渡る。その冷たさを、僅かに肌に感じる。あとは何も無い。音もない。湖面と、死体と、山を取り巻く黄色い色彩しかない。シャダーはもう何も出来ない。何も考えられない。
「勝手に落ちるから。だから――」
 小声で呟く。音の無い時間だけが流れる。何をすればいいか分からない。
 風が強く湖面を抜けた。風音がした。
「シャダー」
 振り向いた。
 視界に、自分が乗っていた栗毛の馬が映った。湖の水を飲んでいた。
 その向こう側、秋の薄い日差しが差し込む方向の湖畔。水際のぎりぎりを進んでくる影が見えた。
 無音の中に、微かな蹄音が近づいて来る。影は大きくなってくる。やがてそれは、葦毛の馬は自分の横で止まり、鞍から相手が下りる。自分を見ている。
 どちらも喋らない。呼吸数十回分の間、色の無い無音がよみがえる。そして。
「なぜ、ここにいるの?」
 シャダーが言った。
「貴方を追いかけてきました」
 ハンシスが言った。
「なぜ」
 シャダーが言った。
「会いたかったから」
 ハンシスが答えた。その顔が、シャダーが知っているものと違っていた。固く強張り、感情が読めない。いつもなら臆せず真っ直ぐに伝えてくるはずの感情が、消えている。
 だからシャダーも当惑する。今、どの感情を選択すればよいのか解らず、混乱する。再び横の少年の死体を見た。漠然と言った。
「ティフルが、死んだわ」
 ハンシスも振り向き、眉を歪ませる。
「崖から落ちたのか。可哀想に。まだ子供なのに」
「……。可哀想だわ」
「ええ」
「――。本当に。可哀想だわ」
 微妙に語調が変わった。そして立ち上がった。彼女の感情は今、怒りを選んだ。唐突に、獣のように激しい怒りを剥きだし、
「お前が悪いのよ!」
叫んだ!
「お前が全て悪い! お前さえいなければ、ティフルは死ななかった!」
「シャダー?」
「お前がワーリズムの当主座を狙わなければ、ナガ城館を攻撃しなければ、こんなことにはならなかったのよ! お前さえ大人しくしていれば、何も狂わなかったのよ! ティフルは死ななかった!
 ティフルは死ななかったよ! こんな山奥の惨めな旅も無かった! 私はアールに裏切られることも無かった! シュリエ城砦を追い出されたり、シュリエで伝令を死なせることも無かった!」
「シャダー、その件――」
「お前が引き起こした! だからお前が代わりに死ねば良かったのよっ、死ぬべきよっ、お前さえあの嵐の日にナガ城館に来なければ、全て平穏のままだったのよっ、私は今もずっとナガにいられたのに!」
 いきなり駆け寄る。両腕を振り上げて従弟を打とうとする。
「戻して! いつも通りのナガの時間を戻してっ、この夏までのナガを! 私にラディンを返して!」
 感情のまま従弟の体を打とうとする。思わずハンシスはその手を掴もうとし、しかし逃す。その手がたまたまハンシスの胴着の胸元に当たった時、そこに収められていた短剣に触れた。それを掴んだ。
「駄目だっ、危ない……っ」
 叫びは一瞬の後、苦痛の呻きに変わった。彼は湿った小石の地面に膝を落とした。右手を左の肘に押し当てて、身を屈めた。
「お前も死ぬの?」
 右手に握る短剣に付いた血と、従弟の腕の血。それを見比べながら表情を変える。
「お前も、死ぬの? 今から? ティフルと同じに?」
 ハンシスは、痛みを噛み砕くように顔を上げた。
「いいえ。かすった程度の傷です。多分血もすぐに止まる」
「ティフルと同じ――、いえ、死なないの――? でも……、死んでも……でも、それはお前が悪いから……。だから、仕方ないわ。お前のせいだから」
 左の肘を押さえたまま、ハンシスは見上げる。その目の前でまたシャダーの表情がさらに変わってゆく。
「あの日。五年前――あの時。お前がナガに来なければ、私は今こんな所で――」
「――」
「あの日から、皆で幸せになれると思ってたのに。でも、私は今、こんな所にいる――。なぜ、こんな事に?」
「――」
「なぜ、ラディンを攻撃したの?
 他の連中ならともかく、お前には分かっていたでしょう? あの子もお前に負けないぐらい力量を秘めていたのに――。まだ十六歳よ? これからも幾らでも良い方へ伸びてゆくのに、だから私が気遣っているのに。なのに皆があの子には当主に相応しくない、臣下からも領民からも信頼されないと言って、……言い切って……。
 なぜなの? なぜあの子はそこまで責められなけらばいけないのよっ」
「まだ、ラディンの事を言うのですか?」
 緩い風の中、ハンシスの低い声が告げた。
「こんな場所に、ナガから離れたこんな寂しい所に追い込まれて、それでも貴方はラディンの事ばかりを言うんですか?」
「なぜ? 当たり前でしょう? あの子は私をこの世の誰よりも大切にしている、だから私もこの世の誰よりもラディンを愛している」
「だったら、私の事も愛して下さい。この世の誰よりも貴方を愛しています」
「――」
 雲に、陽は薄れている。緩い風が静かに抜けてゆく。
 長らくの沈黙になった。人けの全くない、音の無い無機質な世界で、ハンシスは長く長く秘めたものを今、ようやく表せた。そのまま静かに続けた。
「シャダー。駄目ですか。私は愛してもらえないのですか」
 その目の前で、感情はまたぶれる。怒りに傾く。声を荒げて叫ぶ。
「私だって貴方を可愛いと思っていたのに、なのに……! なぜよ! だったらなぜ、今、私をこんなブハイルの湖の岸にまで追い込んだのよ!」
「この騒動を終わりにしましょう。ワーリズム家を一つにまとめましょう。ラディンには今まで通りナガ領主としてワシール卿の指導の許に成長すればいい。
 ――シャダー。コルムの私の所に来てくれませんか?」
「駄目よ! ナガにはラディンを信頼してない者が多いのよっ。敵の多いそんな場所に独りで残すことは出来ない」
「まだ“ラディンが”ですか?」
「実の弟よ? 貴方より可愛いのは当たり前でしょう? 貴方にとやかく言われる筋合いなら――」
「だから攻めたんだ。貴方とラディンを引き離したくて、攻めた」
 率直に、真っ直ぐに言った。
 言う事が救いだった。もう押さえ込まなくて良い。長くひたすらに感情を抑えこむというあの苦痛から解放されたい。今、自分が何を想っていたのかを知って欲しい。
「――私はラディンに嫉妬していた。ナガにいた時からずっと、貴方の眼を自分に向けたくて、猛烈に嫉妬していた。だから、その為に動いたんだ。
 私を受け入れて下さい。ラディンではなく、私の所へ来て下さい」
「でも、あの子――ラディン――」
「だからもうその名前を口にしないで下さいっ。
 アール卿の城に立ち寄った時に確認できた。もうナガでの包囲戦は決着しています。皆が望んでいるのは、私がワーリズム家当主になること、そしてラディンが自力で正道に則った統治をナガ領に敷くことだ。その為にも、貴方には私の所に来て欲しい。お願いします」
「――」
「それでも、まだ貴方には不満が残るのですか?」
 目の前の従弟が、少年のように素直な顔になって言う。その言葉にシャダーもまた同様に、素直に、真っ直ぐに応じる。
(“不満が残るか”って? 皆が望んでいるからって私の幸福を壊して、それで、不満が残るかって?)
 そう叫びたいと思った。顔を打ってやりたいとも。
 だが、静まった世界で相手は見ていた。薄雲にくすんだ光の下、くすんだ濃緑色の外套に包まれて、真っ直ぐに自分を見ていた。
 五年前にやってきて弟同様に可愛がった少年は、とっくに成長していた。人が言う通り、支配者に相応しい質を感じさせた。支配者の質と青年らしい感受性のどちらも兼ね備え、今、自分を見ていた。
「シャダー。どうか――、どうぞ、私と一緒に来てください。お願いします」
 自分がどちら付かずの顔をしているのが自覚できる。
 自分はどう選択すれば良いのだろう。この青年を受け入れてよいのだろうか。
 静寂が耳に付く。だから、感情と思考を上手くまとめ上げられない。だから彼女は自身の質に従った。ただ子供のように、思うことを小声でもらした。
「ラディンに会いたい」
 目の前で、従兄の眼の色が変わった。
 成熟の印象が消えて、子供っぽい不満の眼を表した。これはもしかしたら傷付けてしまったかもと珍しくシャダーが自覚し、弁明の言葉を述べようとした直前だ、
「私は、勝者です」
 ハンシスが先んじた。
「そして、貴方の大切な弟は敗者だ」
「――。それって、何?」
「言っている意味が解りませんか? ラディンの事です。彼の身柄については、私の裁量でどうにでもできる」
 ぱちんとはじけたよう、この一言にシャダーの内部が反転した。生来の強い感情がよみがえった。目を大きく開いて叫んだ。
「そんな事を言うの――?」
「――」
「言うの? そんな卑怯なことを。今、お前が!」
 ハンシスの眼が濁りを帯びる。自身の言葉に後悔する。恥辱を自覚した。
 この男、卑屈を帯びた!
 途端、シャダーの感情は大きく嫌悪にふれた。まだ座り込んでいる従弟の全身を上から下まで見据え、その姿があっという間に色褪せて見え、そう思った途端、もうこの男と同じ場にいることすら嫌悪を覚えた。
「人の心にまで命令できると思っているの?」
 面白いではないか。ハンシスの顔が、丸切り最初に会った時のような頼りない子供に変じた。一層に怒りと不快を覚え、叫び上げたくなった。
 だが、本当にそれは不快なのか?
 感情の混乱ではないのか?
 出会ってからの五年間。再会してからのこの僅かな時間。その間に重なった感情をうまく整理・消化できないだけではないのか? 遠い昔、ずっと可愛がっていた少年の、その成長した果ての感情に混乱しただけではないのか?
 ――そんなこと、シャダーに判るものか!
「もう見たくない」
 真っ直ぐに吐き捨てた。彼女は自分の馬へと歩み、その手綱を取る。この場から去ることを選ぶ。
「待って下さいっ。シャダー」
「見たくないって言った。苛立つから。もし追いかけてきたら、もう一度刺すわよ」
 ハンシスは迷う。自分は今、追いかけるべきか。今は止めるべきか。
 どちらが良いのか判らない。それを決めたのは、肘の傷となった。鈍い出血と鈍い痛みが、踏み出しそうとした足を止めてしまった。
「シャダー、このまま湖沿いにアルアシオン城に行くんですか、そこに泊まるんですかっ」
「ええ。――傷に触るわよ。もう喋らないで」
「城はこのまま西にもう少し先です。後で追いかけます。必ず私も行きます。城門の所で待ちます。
 もしもまた、あの最初の日のように私を受け入れてくれるのなら、どうか明日の夜明けに門を開けて下さい、私は必ず――必ず、外で待っていますっ」
 シャダーはもう答えなかった。ゆっくりと馬に乗ると、もうハンシスを振り向かなかった。音の無い無機質の湖沿いに、馬を歩ませていった。
 今は二人ともが、何をどうすれば判じきれない曖昧模糊の中にいた。どうすれば世界が進むのか。世界から肌寒い霧が消えてゆくのか。
 くすんだ光が湖に射しこんでいる。
 ブハイル湖の世界から、シャダーは消えた。ハンシスだけが残った。

      ・             ・             ・

 ハンシスが肘の血が完全に止まるのを待ち、それから気の毒なティフルの体を、湖岸の眺めの良い場所に葬り終えた時には、そろそろ深く、午後も冷え始めていた。
 ……それよりも少し前の頃だ。
 ブハイル湖から峰を一つ東に移った山中では、二人が冷えた視線で互いの顔を見ていた。
「つまり――。誰かが、俺の後を付けているって事か?」
 ラディンの口調には氷の様な冷やかさがある。陰質な眼が、相手を凝視している。
 しかしカティルもまた動揺なく、平然と答えた。
「有り得る。だがそれ以外の可能性も有り得る。例えば、ごく単純に夜盗に盗まれたとか。手綱の結びが解けて勝手に逃げてしまったとか」
「――」
「勿論、あんたの考えてる通りに、誰かに尾行されていて妨害されているということもあるがな。ラディン」
 途端、ラディンはにんまりと、低い声を漏らして笑い出したのだ。
 見据えるカティルもまた、釣られた様に口許を上げる。内心では勿論、静寂に響く笑い声に、不快な、不穏なものを覚えているが。
 今朝。山中での野宿の夜が明けた時。木立につないでおいたはずの彼らの馬が消えていた。
 誰かが行く手を邪魔しているのだろうか。アール卿だろうか。奴もとっくに離反してハンシスの側についていたのだろうか。
『シャダー様の姿ならば、全く見受けていません。こちらに立ち寄ってはいません』
 先夕に短時間だけ立ち寄った時、アール城の領主・アールは全くの無表情であっさりと告げた。その態には白々しい違和感があった。彼こそが今、秘かに先回って何かしらの策謀を仕掛けているのだろうか。それとも、シュリエ城砦のカラクが延々、追跡してきたのだろうか。
 馬無しでシャダーとハンシスを追うことは無理だ。馬の捜索に数刻を費やし、しかし結局見つから無かった。ラディンはとっくに苛立ちに捕らわれていた。その闇色の眼が冷やかに護衛を睨みつけた時、先程の台詞となった。峠を、そしてアール城を過ぎて間もない場所だ。
 ジュバル山地の中に、時間だけが進んでゆく。
 空は、灰色の雲が大半を占めている。風がある。空気は肌寒く、湿度が高い。
 ラディンの耳障りな笑いを聞きながら、カティルの思考には緊張が増してゆく。“さあ。この先、どうするのが一番良いか”と、淡色の眼の奥で考え続けながら、陰湿な笑い顔と笑い声を受け止めていく。と、
「馬はもういい。時間の無駄だ」
 唐突、ラディンが笑いを止めて言った。一瞬遠くの全景を見据えた後、その足はもう湿った下り道へと踏み出していた。
「徒歩で追う気か? 無理だ。有り得ない。第一、俺たちはもうあんたの姉の背中もハンシスの背中も見失ってしまった。この先どこへ行くんだ?」
「ジュバル山地に入ってアールの所にいないというのなら、シャダーが向かうのはアルアシオンの城だ。俺たちの母方が持っていた小さな城だ。ブハイルとかいう湖にある。そこに行く」
「道を知っているのか? そこまで歩いてゆくって言うのか? もう無駄だ。どう考えてもハンシスの方が先んじてあんたの姉に会う。もう手遅れだ。奴があんたの姉を奪う」
と言った途端、弾かれたようにラディンが振り返って見せた眼が、憎悪に憑かれている!
 そう思った瞬間、相手は泥を蹴り上げ走り寄る。両腕を伸ばし、はるかに上背に勝るカティルの首を鷲掴みにする。
「奪わせない!」
 首を絞められ――いや違う、驚きによってカティルは応えられない。唖然と相手を見る。
「聞いてるのか! 奪わせない! カティル!」
 本気で首を締め上げてくる。冗談ではなく息が出来ない。
「奪わせるものか、絶対にそんな事を貴様の口から言わせないっ。――忘れてないぞ、貴様は俺に逆らった、奴の射殺を邪魔した、その貴様の口から奪われるなんで言わせない! 俺を怒らせるな! 解ったかっ、カティル! ――解ったな!」
「……。解った」
と、息を潰して言わなければ、本当に絞め殺す気だったろう。
 最後にもう一度、切り殺すような視線で友を射抜くと、ラディンは手を放した。後は、一瞥もなかった。小柄な身にまとう黒い外套の裾を翻して独り、泥がちの峠道を下っていってしまったのだ。
 ……ジュバル山地で雲が低く、厚くなっていく。陽射しが見えなく無ってゆく。
 ひんやりと湿気を含む空気の中に、カティルは独り、無言で立っていた。
 彼は、己のすべき仕事を心得ていた。このままワーリズム家のラディンから離れる気はなかった。ただ取り敢えず今は、心臓に残る鼓動の乱れを、動揺を抑えることを優先させた。
 動揺? いや。違う。軽い恐怖か。明確な恐怖を感じたなんて何年振りだろう?
 すでにラディンの黒い外套は、黄色い木立の向こうへ消えていた。一度だけ、一羽の山鳥の甲高い鳴き声が響いた。カティルは深く長い呼吸を七回行った。それからようやく湿った土に踏み出し、そして十三歩を進んだところで――、
 再び止まる。素早く振り返り、静寂を破る大声で怒鳴った。
「貴様は一人なのかっ、馬泥棒が!」
 呼吸十回の静寂。カティルの淡色の眼は、道の後方をじっと見据え続ける。
 さらに呼吸十回。無音は続く。木々の梢は僅かに揺れて……、
 ようやく、泥を噛む蹄の鈍い音が聞こえだした。山道の上、ほんの少しだけ風に揺れる木立の間からゆっくりと、一人の騎乗の男が現れた。
「……。どうして、尾行していると分かった?」
「馬で追跡する気なら、もっと充分に距離を置け。こんな静かな場所だと馬の蹄音はかなり遠くまで響く。昨日からずっとだ」
「……」
「貴様、この前の草地にいた、コルムの臣下だな。今、貴様一人だけだろうな?」
「ああ」
「ラディンはもう貴様の仲間に取っ捕まっているのか?」
「いや。本当に、私だけだ。今、本当に……。
 ナガの包囲戦がどうなったか、情報はあるか?」
「昨日アール城に立ち寄った時に聞いた。勝敗はとっくに片が付いている。俺達が城館を出た翌朝には、ナガ側が降伏した。老ワシール卿がハンシスの当主座を即刻に認め、これにナガの家臣は誰も反対しなかった」
「ラディンはすぐにナガに戻らなくて良いのか」
「俺もそう思う。だがラディンにはどうでも良いらしい。本気で、奴が今後どうする気なんだか俺にも分らない。望みが叶って姉と再会したとして、その後ナガに戻るのかどうかもだ。まさか素直にハンシスに頭を垂れるとは思えないが」
「そうだな」
「奇妙な状況になっているな。シャダーを追ってハンシスが動く。それを追ってラディンが。それを追って貴様が動いている。
まるで子供の鬼ごっこだな。奇妙な鬼ごっこだ。そうやってみんなどんどん奇妙な場所に進んでいく」
「……。そうだな」
 その時、カティルは気付いた。
 鞍上に座ったまま、相手の品良い顔立ちは固く強張り、凍り付いていた。微動だにせずに、強い緊張を見せていた。怯えるように、怯えながらも挑むように自分を見ていたのだ。
「何だよ。俺を殺したいのか?」
 答えない。口許が固まっている。
「それとも殺されたいのか? 何か言えよ。何だよ」
 一度、何やらを口ごもる。それから上擦りそうな声を押さえて、ゆっくりと喋り出した。
「この前の草地だけじゃない。ずっと、ずっと前にも、私達は会っている。――覚えていないのか? イッル?」
「――。カティルだ。俺の名前は」
と答えるカティルの褪せた眼の色が、僅かに変わった。相手の方へゆっくりと歩み寄っていった。
「教えろ。いつ俺達は会った?」
「二年前に。コルムの城館で」
「コルム城館に行ったのは一度きりで、しかもたった数刻居ただけだ。まさかそれを覚えていた奴がいたのか」
「覚えていたよ。……」
 蒼ざめるほどに強張った頬は、ピクリとも動かない。
 冷えた微風の中、ルアーイドはまだ馬を降りようとしない。眼に露骨な動揺を示したまま言う。
「覚えていた。忘れていない。ハンシスがこう言ったんだ。確か、こう――
『東域の、ダラジャ域の向こうの、もっと遠い土地から来たんだって。イッルという名の。先日知り合った異邦人だよ』」
 その瞬間にルアーイドもカティルも同じ記憶の情景を思い浮かべた。
 二年前のコルムの城館。まだ少年っぽさを残す新領主が、不安定ながらも懸命に為政を執り始めてから間もない頃。
 ほんの一瞬程の、中庭でのすれ違い様だった。ハンシスは楽しそうに目を輝かせながらルアーイドに言った。
『イッルという名前なんだって。言いにくい変な名前だろう? 弓の凄腕なんだ。俺はこっそり弓を習っている。ナガに居た時にシャダーに下手糞だって笑われた事があったから上達して驚かせてやるんだ。
 イッルなんて、本当に変な名前だろう? 奴の国ではこれは普通なんだって。変な髪色だし、目色なんてまともに物が見えているとは思えないだろう? でもこれが普通なんだって』
 確かに変わった見た目の異邦人だな、見るからに腕の立ちそうな、何だか猟犬みたいな印象の。と、その時ルアーイドは思ったのだ。
 確かに思ったのだ。覚えていたのだ。その異邦人を再び見たのは先日の、東風の吹き抜ける草地だった。
「……。覚えていたんだよ。その薄気味悪い目色も。名前も」
「俺の国では、どっちも普通だぜ」
「ならば貴様の国では、友人を裏切るのも普通なのか?」
「――」
「なぜだ……っ。なぜ貴様がラディンと共にいるんだ! ハンシスの友達だったんだろう? それなのに裏切ったんだ? 買収されたのか? 貴様がなぜ今ラディンと――裏切者が!」
「――」
 カティルはもう答えなかった。それどころか相手をさっさと見捨てる。再び泥の山道を下り出す。
「逃げるのか! 答えろっ、卑怯者!」
 歩いたまま背を向けたままカティルは言った。
「俺は卑怯者ではない。その質問に答える権限も無い」
「権限って何だっ、何の事を言ってるんだっ」
「ハンシスに禁じられている」
 え?
 ルアーイドはすぐに馬を進ませ、カティルの前へと先んじる。行く手を遮って向かい合う。
「どういう意味だ? ハンシスが貴様に何を……?」
 面白くもなさそうにカティルは馬の鼻面を右手で横に押しやり、再び足を進める。
「待て! 言えっ。 いや、聞け――いや、聞いてくれ。
 私は二年前にハンシスがコルムの城館に戻ってからずっと、彼に従事してきた。会って直ぐに彼を君主として認めた。彼の怜悧で清廉で潔白な質に驚いて、それこそは理想の君主に相応しいと認めて、その時からずっと忠勤してきたんだ。彼が統治を安定させるまでの一番困難な時期も共に過ごし、ハンシスの一番近い臣下との自負を持っているっ」
「だから何だ? 褒めて欲しいのか? 急いでいるんだ。じゃあな」
「イッル! 頼むから教えてくれ! なぜハンシスの知り合いだった貴様が今、ラディンの護衛になっているんだ? それってどういうことなんだ、何かあったんだ?」
「二年だろう? 二年もハンシスの横にいて何を見ていたんだ」
「だから何を――っ」
「笑わせてくれるな。奴は清廉潔白の理想の主君なんかじゃないぜ。そんな事あるものか。
 奴は、欲しいものがあれば、どんなに手を汚しても手に入れる。どんな卑怯な手でも使う。でなければいくら力量があったって、あの若さで、たった二年でコルム為政を完全に掌握して、一小領主地位から一族の当主座を要求するまでの存在に登れるものか」
 だから、何を言いたい? 
 心底から言葉の意味が解からない。ただ求めるように相手の顔を見る。質問を返したいのに言葉が出ない。
「今回の戦闘での、ハンシスの本当の狙い。――まさかまだ気付いてない訳じゃないだろう?」
「……だから、何を……」
「シャダーだよ」
「――。何を――」
「側にいたんだろう? なのに本当に全然気付かなかったのか? 気づけよ、間抜けが。
 確かに、ハンシスの素質は為政者として文句無しだが、唯一、あの従姉についてだけは、異様だ。なにせあの女を手に入れる為に、戦役まで起こしたんだから」
「……いや。違う――、何を言ってるんだっ。この戦役は一族とラディン双方の未来を熟考して上で、ワーリズム家の当主座という正当な大望――」
と言いかけた瞬間、ルアーイドの脳裏に、逆光の中の横顔がよみがえった。包囲戦を敷いた六日目だったか? 丘の上からナガ城館を見ていたあの横顔。――淀んだ、凝り固まった感情を示したあの眼。
 あの眼は、戦況を焦っていたんじゃなかったのか? 当主の座を欲して焦っていたののでは無いのか? まさか、
「……シャダーを、手に入れる為……?」
 初めてカティルが白々とした笑を見せた。
「俺も貴様と一緒だ。ハンシスの力量と魅力に惚れ込んで、友となり臣下となった。で、奴に頼まれてナガ城館に行った。ラディンと親しくなって奴の監視をしてくれとね。ハンシスの頼みだし面白そうだからそれを受け入れたんだがな。
 しかし、本当に笑ってしまう。ラディンも全く一緒だ。シャダーとなると狂い出す。
 なぜなんだ? 美女という訳でも無い、あんな鼻につく我儘ぶりの阿呆な女のどこが良いんだか、俺には全く理解できないがな」
「――」
「ラディンの方はシャダーのせいで、臣下も城館も当主座も失う羽目になった。ハンシスについても、戦争まで起こして、果てはこんな所まで流れ着いて……。
 奴の今後はどうなるんだろうな。奴に限っては馬鹿な従弟とは違う道をたどってくれる事を願うが、ここから先は神のみぞ知るだ。
 どうだ? 貴様はどう思う? あの執着の果てに、この先ハンシスはどの方向へ進むと思うか?」
「――」
「黙り込むなよ。どう思ってるんだよ、良き理解者殿よ」
 三度目。カティルは相手を見捨てて、足場の泥の中を進みだした。薄暗い山道の上、長身の後ろ背はどんどん木々の奥に吸い込まれてゆく。
 そしてルアーイドは、馬上で動けなくなってしまった。
 衝撃を受けて、動けなくなってしまった。
 たった今まで、全く気付かなかった。気つかなかった自分の無能ぶりに吐き気を、激しい嫌悪を覚えた。二年にわたって敬愛し、忠勤し続けたはずの主君の全く知らなかった顔を知り、体を動がせなくなってしまった。なのに勝手に手袋を付けていない冷えた指先が震え出した。
 ――駄目だ――駄目だ。動揺は押さえろ。
 駄目だから、考えろ。既に、こんなところまで来てしまったのだ。取り敢えずここで立ち止まっている事は出来ない。とにかく、進むべき正しい方向へと道を進まないと。何でも良い。やるべき事をやらないと。それが、ハンシスの為なのだから。
 考えろ。落ち着いて、冷静に、現実的に、ハンシスの最も良い将来を考えろ……!
 ルアーイドは前方の木立を見る。もうとっくに相手は消えている。その黄色い葉に遮られた向こうへと、大声を発する。
「貴様はまだハンシスの友人なんだな!」
 静まり返った黄色い樹々の向こうへ、もう一度、夢中で叫ぶ。
「イッル! 聞こえているか? 頼む、もっと私に状況を教えてくれ。一緒に考えてくれ。ハンシスの為に出来ることを考えてくれっ。貴様に金を払うから、頼むっ、イッル!」
 すると。木立の向こうから、ぶっきら棒な声が響いた。
「俺は金で雇われて動く間者じゃないぜっ」

        ・             ・           ・

 黄葉するジュバル山地の中の、広大なブハイル湖。
 薄日の午後深い頃。その湖水の中にほぼ突き出すように建てられたアルアシオン城の全景が今、やっと、ようやく、姿を現した。
 長い旅の果て、ようやくシャダーはそこにたどり着いた。僅か数人のみという城の守番達に迎えられた。夕刻を迎えてついに、やっと、彼女は待ち焦がれて止まなかった柔らかな寝床を得ることができた。
 ……今、彼女は疲れ切って寝ている。
 小さな城の、上階の一室。その部屋の窓は固く閉められている。
 閉じられた窓の外に、陽はすでに落ちている。
 冷えた夜の湖面が黒く広がっている。その上では、星と銀河を見え隠ししながら、雲がゆっくりと流れている。
 月は無い。音もない。

 ハンシスもまた、音を立てない。ただ、小さな火を見ている。
 外套にくるんだ身を丸くかがめ、湖畔に座したまま、揺れる焚火の炎を見つめている。そうやって長い長い時間、無音と孤独の中に居る。
 目を上げた。
 視界の真正面には、暮れゆく光の中に本当に僅かに、アルアシオン城の輪郭が浮かび上がっている。何年かぶりで主を迎えた城には、消え入りそうな灯がほんの一つか二つだけ灯っている。あとは夕闇の中に落ちていこうとしている。
 頭の芯に眠気は無かった。この長い一夜に想うべき過去・考えるべき未来は多かった。自分が冷静なのか高揚しているのか、よく判らなかった。ただ、緩い風が運ぶ冷たさと、肘の上でひりついている痛みを、どこかで感じとっていた。

 薄れゆく夕光の中、カティルとルアーイドも今、馬を降りた。
 結局両者は、ジュバル山地の薄暗い午後を共に行動することになった。その現実が、本来ある道筋から二人を逸れさせ始めていた。特にルアーイドの道筋を大きく変えさせ始めていた。カティルの口より知らなかった現実を知り、そのことがルアーイドを強く苛み始めていった。彼は、恐ろしい程に強張った顔になっていった。
(……ならば。……だったら、私は――何かをしないと……)
 思考と感情が渦巻き、まとまらない。主君であり親友でもある男。理想と視ていた男。その男の実際を何も知らなかったという事実を、受け入れられない。追い詰められてゆく。
 陽は消え、夜を前とした時間だ。
 世界はみるみると光を失っていった。城に接する湖の水が、暗い闇色に変じ出していた。
 ルアーイドは遠く下方にブハイル湖そして湖に突き出たアルアシオン城が見通せる小さな草地に立つ。湖と城を見下しながら感情は淀み、言葉は呪縛になる。
(何かを、しないと……ハンシスの未来が逸れないように……)
 その時、はっと彼は息を飲んだ!
 夕闇の世界の中に、ハンシスがいた。アルアシオンの城門の前に、小さな黒い点となったハンシスがいた。
「ハンシス!」
 ルアーイドの全身が絞られるように硬くなる。城門の前で丸く座り込み、小さな焚火を見つめる主君を、その様を、瞬きすらせずに見捕える。
 何をしているんだ? こんな人すらいない地で。暗い湖の脇で冷たい風を受けて。そうやってただ一人で夜を明かすのか? なぜ? 何の為に?
 シャダーの為に。
 ――日没の空気に、猛烈な冷たさを感じた。背筋に沿って小刻みに震えるような感触を覚えた。
「ハンシスはあそこで野宿する気なのか? シャダーはもう城内か? シャダーが出てくるのを待っているのか? どう思う、ルアーイド?」」
 カティルが横に立ち訊ねた。その問いにも応えない。ルアーイドの体内で感情が淀み、思考はどろつくように進んでゆく
 歪みの無い未来――理想の君主たるべきハンシスの姿――その為に、やるべき事――。
 やるべき事――。彼の未来を正しい道筋に戻す事。
「おい。聞いてるのか?」
 ルアーイドは視線を動かさなかった。顔の色が失われていた。その様にカティルは、相手の激しい緊張を見た。おそらくこいつはもう口も利かない、今夜もきっとろくに眠れないだろうなと思ったのだが。
 しかし、ルアーイドは小声で言った。闇に包まれて行こうとする城と湖そしてハンシスを見下ろしながら、はっきりと言ったのだ。
「彼の為に、やらないと」

 そしてラディンは、姿を消した。
 無音と薄闇の山と湖の世界の、どこかに消えた。


【 続く 】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み