第1話

文字数 23,547文字

1・  雷雨

 ついに荒れた空から大粒の雨が降り始めた。
 その瞬間、一人の兵士が猛烈な勢いで天幕へ飛び込んできた。泡を吹きそうに顔色を変えて、
「伝令! イーサー卿が寝返りました!」
叫んだ!
「イーサー卿が、卿が裏切った! 自分の郎党と兵を連れてハンシスの陣に走った。こんなことが、神よ……! 領主! ラディン殿、イーサー卿が敵方に――!」
 戦場を見下ろす丘の中腹だ。派手な緋色の天幕の下だ。ナガ領主を取り囲んで十人弱の家臣達が、正に眼下で始まったばかりの戦闘を凝視していたところだ。強い雨風のただ中、今、正に、小さな点となった兵士達が入り乱れて動き出したところだったのだ。
「ラディン殿っ、この後どうするおつもりだ!」
 重鎮のディム卿が主君に向かって叫ぶ。
「イーサー卿が――貴方の臣下中でも最も兵数の多い将が戦場で寝返った以上、勝てません。これでは我々は負けます、確実に負けますっ。どうするおつもりか!」
「――」
「ラディン殿! 聞いてられるのかっ、イーサー卿が敵に寝返った! どうなさるつもりなのか、貴方の御意見を教えて下さい!」 
「――。だったら、俺は城館に帰る。後は貴様達で好きにやれ」
 瞬間、天幕内の全員が唖然と息を飲んだ。
 しかし彼らの主君は全く顔色を変えていない。今年十六歳になったばかり。肥沃なナガ平野の領主・ワーリズム家当主のラディンは、常通りの詰まらなそうな表情のままだ。
 と。その視線が動く。あっという間に踵を返し、天幕の外へ歩みだす。
「まさか本気で戦闘を放棄するつもりか!」
 答えない。ラディンはとっくに風の吹き荒れる斜面を登りはじめている。外套の裾を激しく強風に巻き上げられながら、自身の馬へと向かっていく。
「自国の軍勢を見捨てるつもりか、ラディン殿っ。それでもワーリズム家の当主か!」
 この言葉に反応した。足を止める。振り返り、自分を見据えるディム卿それに家臣達を捕える。その上で、傲慢極まりなく発した。
「そうだ。俺が当主だ。だから貴様は俺に従っていろ」
「何を――っ、何ですって!」
「勝てない戦なんて面白くない。軍勢は貴様が指揮をしろ。俺はシャダーが心配だ。すぐにナガ城館に戻る」
「シャダー様ならば城館の守備兵が護っています。安全です。貴方には目の前の戦闘だ、このままでは我々は負ける、聖者に祈っても負けてしまう。今、貴方のなさる事はこの場の指揮だ!」
「だから貴様たちに任せると言った。後は勝手にしろ」
「“勝手に”! 何て事を言うんだ! 神よ、なぜナガにこんなに領主を――、 
 ラディンっ、戻れ! いい加減にしろ、このまま場を離れるなど許さないっ」
 ディム卿も斜面に走り出した。相手が馬に跨ろうとする直前に追いつくと、大きく右腕を伸ばすした。強引に相手の肩口に掴みかかった。
 次の瞬間、乾いた痛烈な音!
 大粒の雨が打ち付けるただ中、ディムは立ち尽くしてしまった。目の前、自分に触れようとした者の顔を力の限り打った主君は、文字通り、烈火のような形相を見せつけていたのだ。
「俺に触るな! 邪魔するな! 俺はシャダーの許へ戻ると言ったぞっ、聞こえなかったとは言わせないっ、消えろ! 地獄へ堕ちやがれ!」
 激しい風雨を切り分ける大声で叫ぶ。もう相手に一瞥すらしない。今度こそラディンは騎乗し、外套を翻しながら丘陵の反対側へと消えてしまった。
 そしてもう一人。
 全く物音を立てない。長身の体躯に灰色の武衣の男が唐突に、無言のままに動き出した。主君と同じく斜面を大股で歩むと、あっという間に馬に騎乗した。
「カティルっ。ラディン殿を止めろ、絶対に城館に行かせるなっ」
 ディム卿の叫びに、振り向く。その男の目色は丸切り、氷のように冷えていた。いや目だけではない。眉一つ動かさずに言い切ったその口調といったら、
「貴様とラディンと、俺がどっちに従うと思ってるんだよ」
冷やかそのものだった。ナガ領主と最も親しい男・護衛のカティルもまた、斜面の反対側へと消えていった。
 大粒の雨がいよいよひどくなって来た。真昼だというのに空は黒い染料を流したような暗さとなっていた。

      ・       ・       ・

「雨が酷くなってきた」
 天幕から出るとハンシスは暗い空を仰ぎ見る。その顔をたちどころに大粒の雨が打ちつける。そこへ、
「ナガのイーサー卿がこちらへ寝返った。今、ここへ向かって来ている」
背後から声がかかり、彼は振り返った。
 ハンシスのまだ年若いというのにしっかりと落ち着いた顔が、相手を見据える。そのまま簡単に告げる。
「予定通りだな」
「ええ。予定通り」
「これで、この戦闘は私が勝てる」
「予定通りです。見事に貴方の計画通りだ」
 その時、コルム領主・ハンシスの顔が大きく意味ありげに微笑んだ。
 途端、ルアーイドは――臣下であり領主の一番の親友でもあるルアーイドは素早く、的確に察した。
(まだ何かあるぞ!)
 反射的に振り向いて、右手の戦場を見る。そこでは今、正に両軍の戦闘が始まったところだった。大粒の雨の中、多くの兵士たちが一斉に動き出したところだったのだ。
(絶対にこれだけじゃない。今回の戦役で完璧な勝算を敷いた自分の主君は、まだ何かを隠し持っているぞ。まだ何かを言ってくるぞ!)
 急いでルアーイドが声掛けようとした直前、ハンシスの方が先切った。
「後は君達に任せた。ルアーイド。このまま勝ってくれ」
「え?」
「軍議の通りに進めて、皆でこのまま勝ってくれ。私はここを離れるから」
「何だってっ」
「ナガのワーリズム城館に行ってくる」
「――何だって!」
 ルアーイドの眼が信じられないという風に見開かれ、大声で次の台詞を継ごうとした目の前だ。ハンシスの右手が突き出された。友の言葉を強引に遮った。
「護衛も連れて行く。危険は冒さない。ただ、ナガ城館を訪れるだけだ。あっちの人達に会って挨拶と話をしてくるだけだよ」
「何の為に! なぜ今貴方が戦場を離れて敵の城館に向かわなければならないんだっ」
「うまくいけば、城館の守備隊を無抵抗で投降へ導けるかもしれない。そうなれば次の包囲戦は不要になる。ラディンとの戦いを早期に終結させることが出来る」
「いや、そんな行動をとらなくて良い! 予定通りで良いじゃないかっ。
イーサー卿を味方につける、この会戦に楽勝する、そしてナガの城館に包囲を敷き、包囲戦で降伏させる。――貴方が諸卿と話し合って作った策の通りで何が悪いっ。第一、だったらどうして事前に皆に話さなかったんだ? 本当にナガ城館を黙って投降させられるような方法があるっていうのなら、戦闘が始まってから言うなんておかしいじゃないかっ。どうして事前――」
「悪いがもう行く。シャダーに会って、久し振りの挨拶をしないと」
 友の言葉を笑顔で遮った。
 ルアーイドの目の前、ハンシスの顔はいつも通りの明瞭な強さを示している。若い見た目の内に、しかし強靭な意志を見せつけている。全くいつもの通りに。
「君を、それに皆を信じている。だから私の事も信じてくれ。頼む」
「ずるいぞっ、そんな言い方!」
「頼む。良い結果を持って帰るよ」
 そのままハンシスは歩きだした。吹き付ける雨から顔を避けながら大声で何人かの兵士を呼びつけ、馬の準備をさせてゆく。
 本当に行くのか? なぜ今? 一人で勝手にそんな無謀を? 何を考えて?
「なぜだ! ハンシス!」
 もうハンシスは振り向かなかった。軽く腕を上げただけだった。葦毛の馬にまたがると、早々に斜面の反対側に走り出してしまったのだった。
 右手に広がる平地では、始まったばかりの戦況に早くも優劣が付こうとしていた。正午が近い真昼の空は、大粒の雨と冷たい突風がどんどん強くなってきた。
 酷い嵐になりそうだった。

      ・           ・            ・

 雨は叩きつける勢いになっていた。真黒の雷雲が、驚くような速さで接近していた。低い雷鳴が果断なく轟き始めていた。
 その中、石床を走る音が大きく響く。ナガのワーリズム城館内を今、ずぶ濡れの兵が走っていく。目指すのは通廊の最奥の一室。この城館で最も広く、また明るく装飾された居室。
 その扉を今、兵士は体当りで押し開けた。
「伝令! 戦局悪化! 敗色濃厚! ワーリズム城館は即座に篭城準備を!」
 途端、賑やかな喋り声は止まった。
 大型の長卓を囲んで歓談していた面々が、一斉に口を閉じた。全員同時に振り向いた。
「戦場のディム卿からの伝令! イーサー卿が――卿が、戦闘開始と同時に敵方に寝返りました。今後、敗戦は必至と思われます。また敵方・コルム軍勢は会戦決直後、即座にこの城館に包囲を敷くと思わるので守備隊は直ち――」
「敗戦って、どういう事よっ」
 突然に遮った言葉に、伝令兵は眉をしかめる。秘かに舌打つ。
“やっぱり真っ先に口出して来たな、この女!”。
「どういう事なのっ、なぜこのナガは戦一つ勝てないの? それにイーサー卿の寝返りって何の事よ、諸卿は何をしているのよ、ラディンに恥をかかせてっ」
「――。申し訳ございません。ディム卿よりの伝言はまだ残っています。貴方様への伝言も含まれます。どうぞ最後までお聞き下さい」
「まさか、ラディンは無事なんでしょうね? もしも怪我でも負っているなんて事態――」
「シャダー様、お願いします、先に伝言をさせて下さい!」
 彼女は、やっと引き下がった。
 二十歳を一つ二つ超えた程の年頃だ。見るからに気と我の強そうな印象だった。部屋の一番奥、緋色のタペストリを背に鮮やかな黄色の衣装を纏ったナガ・ワーリズム城館の女主人は、不満を見せながらも取り敢えず口を閉じた。
 伝令兵は一度唾を飲み、喉を湿らせから告げる。
「ディム卿から貴方様への伝言です。
『城館への包囲が敷かれた場合、長期に及ぶ危険もあります。シャダー様におかれては直ちにシュリエの城塞へ御移りに――』」
「私に逃げろって事? 会戦に負けた上に包囲戦も長引くなんて、あの年寄りはどこまで自分の無能をさらすのよっ」
「『――御移りになって下さい、
なお現在、領主のラディン殿がそちらの城館へ向かっていますが、貴方様においてはラディン殿に即座に戦場へ戻られるようご説得――』」
「待って! ラディンがここに来るの? それってどういう――」
「シャダー様」
 別の声が背中から響いた。
 シャダーが、皆が振り向く。扉口に、水が滴る程にずぶぬれになった衛兵が強張った顔で立ち尽くしていた。
「貴方様に会いたいという者が今、城門前に現れました。シャダー様」
「誰が来たの?」
「それが――」
と、衛兵がその名を告げた途端、音を立ててシャダーは椅子から立ち上がった。そのままいきなり走り出した。
 ……
 空は暗さを増してゆく。時折、真っ黒の雲を引き裂いて鋭い稲光が瞬く。雷鳴は厚くなり、大粒の雨と強い風が止まらない。
 ワーリズム城館の城門の脇に高くそびえる櫓塔からは、眼下に城門そして門前の空間を広く見通すことが出来る。そこには今、何人もの家臣やら兵やらが駆け付けいる。その一番前には、シャダーだ。高下に見通せる切り抜き窓から身を乗り出し、雨が吹き付けるも気にせずに窓枠に身を寄せて下の城門を見下ろしている。
「お前は……」
 城門の真正面だった。黒い輪郭線が、瞬く閃光の中に浮かび上がっていた。
大粒の雨に打たれながら、フードを目深に被った一騎がそこにあった。この風雨の中だというのに、じっと微動だにせずにこちらを見上げている姿がシャダーの、そして皆の眼に確実に映っていた。
「シャダー様。後ろに下がった方が……」
 女城主付きの侍女が心配して告げる。彼女だけでは無い。その場の誰もがとっくに、この騎士がただ一騎ではないことには気づいている。後方の木立の辺りに用心深く五~六人の騎兵が控えているのが、彼らのいる位置からでも良く判った。
 しかしそんな事を気にするものか。シャダーは窓から一層に身を突き出すように大声で叫んだ。
「お前は……。まさか本当に? 本当に来たのっ」
 風雨の音が酷い。聞こえてないのか?
「聞こえてるのっ、とにかくフードを取りなさいっ、顔をみせなさい!」
 何の躊躇もない。相手はその通りに従った。濃色のフードは背中に落とされた時、ちょうど間近の空に走った稲光により、顔の線がはっきりと浮かび上がった。
「――。お前」
 シャダーが激しい不快を見せて怒鳴ろうとするのに、相手は先んじた。一瞬早く、にっこりと笑みかけたのだ。
「ご無沙汰しています。シャダー。二年ぶりですね」
「……。本当に、久しぶりね。ハンシス。よくもまあ……図々しく……!
 守備兵! すぐに奴を捕えて! 獄に繋いで!」
 城門前に待機していた守備兵達が、一斉に飛び出す。敵を馬上から引きずり降ろそうと腕を掴む直前、笑顔から転じたハンシスが大きく叫んだ。
「私に触るな! 私に指一本でも触ったら、戦場で捕虜としたナガ兵を一人として五体満足では帰さない!」
「構わないわっ、早く捕えて! この恩知らずの罰当たりを今すぐ捕えなさいっ、早く!」
「二度は繰り返さないっ、いいか、仲間の事を思うならば私に触るな!」
「捕虜なんか後でラディンが何とかするから早くっ、逃がすな!」
 怒り続ける女城主に比べて、守備兵達の方がよほど同胞に篤かった。一度は掴んだ相手の腕を、そのまま離してしまった。勿論シャダーもそして守備兵達も、このコルム領主が捕虜云々どころか会戦の決着すら知らずにここにいるなどとは知りようが無かったのだ。
 ハンシスは再び視線を上げる。櫓塔から苦々しく見降ろしてくるシャダーに向かってあらためて、穏やかに敬意を表する。その態によって彼女を一層に苛立たせる。
「……。それで? 何の用? 聖者も畏れぬ恩知らずが何をしにここに来たのよ」
「貴方に伝えたいことがあって来ました。私は、私と貴方の家との係争を、早々に決着したいと思っています。その為に貴方には是非協力をしてほしいと願います。シャダー。従姉殿」
「戦いを止めたいって言うの? 恩知らずだけじゃなく図々しさも並外れているって訳ね。忘れたの? この戦を仕掛けてきたのはお前よ?
 だったら、もっと昔の頃なんかとっくに忘れているでしょうね。この城館であれ程に世話をしてやったものを……。野良犬だって可愛がられれば生涯恩を忘れないっていうのにお前は――」
「なぜ私が今回の戦に至ったかについては、このナガ城館の全員が知っているはずです。そしておそらく、私の考えに賛同する人間も城館内には多いはずだ。だというのに貴方とラディンだけが決して同意をせず、その結果、会戦という手段にまで至ってしまったのは、私にとっても大いに不本意でしたが」
「――」
「先程、平地での会戦に私は勝利しました。この後、直ちにこのナガ城館に包囲を敷きます。私の予定では、五日以内にここを開城させます。そして当初の宣言の通り、私の領地・コルムにこのナガを併合し、私はワーリズム一族の当主に就くという完全な勝利を収めます。
しかし――。
 出来るならば私は、この衝突の軌道を修正したい。ナガとコルムにとって最も望ましい道を選択したい。同じ一族である互いの将来を思い、無意味な抗争は回避したいと願います。
 ――私達で、回避しましょう。今からでもまだ充分に間に合う。必ず良い将来を生み出せます。それを目的として私は今、この場にやって来ました」
 打ち付ける風雨と、迫る雷鳴の中だ、ゆっくりと、はっきりと、ハンシスの発する声が響いた。
 これに、誰もが聞き入った。正直を言えば誰もが心の奥で、彼の言葉に納得をしていた。シャダー以外の誰もが皆、心の中で彼の言葉を支持し、信用し、その顔に見入ってしまっていた。
 大雨が続く。その中、シャダーだけが怒りをもって従弟を睨み付けている。ハンシスもまたは、年上の従姉のシャダーを静かに見上げている。
 ……面白い事象だ。
 こんな時だというのに今、両者は、同じ記憶を心象していた。
 そうだ。あの時もやはり、二人は正面から見合った。あの時は、このように酷い嵐の中ではなく、夏の光に満ちた夕刻であったが。
“初めまして。ご迷惑をおかけすることになり申し訳ありません。ナガのシャダー姫”
“シャダー姫じゃなくてシャダーで良いわよ、今日から貴方は私の弟になるんだから”
 五年も前だ。
 それから三年間、彼らは共に幸福に暮らした。そして二年前。彼らは再び別の道へと別れた。そして今は、夏が終わろうとする強い雷雨の暗い真昼だ。
「それで。何を言いたいの? 良い将来って何よ。早く言いなさいよ」
 シャダーは決して引かない。窓から身を乗り出し、すでに胸元までを雨に濡らしたまま続ける。
「聖者において、今ここでお前を捕えて牢に落としたていいのよ。お前を捕えてしまえば、私達の勝利だわ」
「私は、貴方に譲歩をします。もし貴方が一つの条件を飲んでくれれば、今後の包囲戦を完全に中止します」
「どういう事?」
「条件は、一つです。
 ――シャダー。この城館から去って下さい。ナガの領主は貴方の弟であって貴方では無い。ラディンとそしてワーリズム一族の将来の為に、貴方は彼の言動にいちいち口を挟んでナガ為政を混乱させる事を止めて下さい。これを受け入れてくれれば、私はナガにおけるラディンの領主権も認めた上で、即座に停戦をします」
「本当ですかっ、本当にそれだけで!」
 思わず後ろで侍女が叫んでしまった。それをシャダーが振り返り大声で叱咤しようした瞬間だ。
 城館の真上に、巨大な雷光と雷鳴が同時に襲いかかった!
 場の全員が目を塞ぐ。ハンシスもまた驚いて竿立った馬の上、固く目を閉じ身を強張らせる。雷鳴の鈍い地響きが長く続き、それがやっと消えて耳に雨音が戻って来た時、急いで目を開け櫓塔を見上げたのだが。
 ――喉から、小さな息が漏れた。
 シャダーが、一層に怒りを剥いていた。
 両の掌で強く窓枠を掴み握っていた。雨に濡れ風で乱れた髪の下、濃色の眼が激しい怒りをぶつけて自分を見ていた。
「……。どうやら、同意をしてはもらえないようですね」
「同意する者がいたら、悪魔に魅入られるといいわ。城館の主人である私に、ここを出ていけというの?」
「ただ貴方がここを離れてナガ為政をラディン一人に任せるという、それだけの条件を受け入れてくれないのですか? せめて周りにいる家臣達に、私の提示がどれほど寛大であるかの確認をしてくれませんか?」
「どうして? どうして私が家臣達に相談をするの? 全てはラディンが決めればよい事でしょう? 私はそのラディンの手助けをしているだけよ? それのどこが悪いの?」
「貴方のその考え方が、ナガを混乱させてきた。ラディンが登位してからの一年半、貴方が彼の横にぴったりと付いて干渉を続け、逆にナガが誇っていた家臣達が蔑ろにされてしてまったことこそが混乱を、果てに今回の戦役を招いたのではないですか?
 ナガ城館の者。誰か教えてくれ。この一年半で何人の家臣がここを去っていった? 自らの意志で出ていった者、シャダーに追い出された者、もしくはイーサー卿のように敵方に走った者。今日までに何人が出た?」
「黙れ! 誰か奴を捕まえて! 捕まえて獄に落としなさい、私を侮辱したのよ、早く!」
 強い風雨すら上回るよう、シャダーが怒りのままに叫んだ時だ。
「ハンシス殿。もうお戻り下さい」
 雨音の中にもう一つの声が響いた。
 シャダーの横に現れた小柄な老人の姿を見た時、ハンシスの顔も一転した。嬉しそうな笑みが現れた。
「久し振りです、ワシール卿。会いたかった」
 ナガ城館の最古参の家臣は、かつて長く親しんだ青年に静かに告げた。
「もうお戻りなさい。これ以上この大雨の中に留まっていても体に障るだけで、何も進展はしません」
「“進展は無い”――確かにね。
 ワシール卿、貴方なら私の意見が正しいと理解してくれるはずだ。貴方の口からこの和解案をシャダーに勧めてくれませんか?」
「それは出来ません。我々はナガの女城主とワーリズム家のラディン当主という御姉弟に絶対の敬意を捧げていますので」
 シャダーが勝ち誇った笑みを見せた。途端ハンシスは真っ向から反発する。
「もう綺麗事で済む段階ではないのでは? 貴方も――いや、誰だって知っているはずだ。シャダーの存在が城内をどれ程に混乱させているか! 必要ならば、私の裏取引の申し出に対してイーサー卿がどんな言葉で応じたかをここで披露しましょうか?」
「止めて下さい。結構です。それでも我々は、長らくにわたりナガ・ワーリズム家に忠誠を捧げています。その当主である御姉弟を尊重することを使命としています」
「だからこそ! ワーリズム家に忠誠を捧げるのであればこそ一族の将来を、ラディンの未来を考えるべきだ! このままではナガはいよいよ混乱をきたすぞ!」
「お戻り下さい」
「混乱し、果てには周りの豪族達に踏み込まれるぞっ。その現実に貴方だって本心では気づいているはずなのにっ、目をそらすのか? それが貴方の望む未来なのか!」
「今すぐお戻りなさいっ。貴方は貴方のやるべき事があるはずです!」
 威厳と共にワシールは言い切った。
 それは丸きり、子供に指導する教師の口調だ。その通りだ。まだ子供だった自分に道理を教えてくれる時もこんな口調だったなと、ハンシスは記憶のどこかで一瞬思い出し、すぐに消した。
 耳を打つ大雨の中、彼は小さく息を吐く。
「無駄だったか……。せっかくここまで来たのに理解してもらえなかったとは」
「ハンシス殿。戦役の勝敗はまだ決していません。貴方が我々に攻撃をかけてくる限り、我々はこれに応戦します。すぐにお戻りなさい」
「解った。――本当に残念だ」
 濡れて額に張り付いた前髪を、初めてかき上げた。そして視線を、かつて心から仲良かった従姉・ワーリズム城館の女主人に移したのだが。
「魔物に追われてさっさと消えるがいいわ」
 彼女は全く憤りを緩めていなかった。激しい眼で見据え続けていた。
 一度決意した以上、ハンシスは時を無駄にしなかった。無駄な感傷に引きずられることも無かった。
「さようなら、シャダー。今夜は酷い嵐になりそうですので、お気を付けて」
 言い終える。ずぶ濡れの手でフードをかぶる。手綱を握り、あっさりと馬の向きを返した。そのまま自身の護衛たちの待つ木立の方へと、振り返ることもなく消えていったのであった。
 ……ナガ・ワーリズム城館の上空では、雷雨が最高潮に達しようとしていた。
 どうやらこの雷雨をもって、肥沃なナガ平野の夏は終わりを告げ、短い秋が始まるようであった。



2・ 青空


 雷雨が過ぎ去った翌日。早朝。
 ナガのワーリズム城館は深い霧に包まれた。
 ……
 昨日、戦敵である従弟が大雨の中に消え去ると同時に、ワーリズム城館は籠城戦への準備に入った。
 誰もが口にはしなかったものの、今回のコルムとの戦役には苦戦を予感していた。会戦に敗れて包囲戦に突入するとは誰もが予測していた。ゆえに食料を始めとする篭城の必需品については事前に備蓄がなされていた。この点には、問題は無かった。
 問題は、女城主だ。
 ワーリズム家のシャダーについては、身の安全を考慮して城外への避難が決まっていたのだが、
「私は嫌よ、逃げるなんて嫌。それにラディンもまだここへ到着してないのよっ」
 彼女は散々に嫌がり、城内の者たちを悩ませた。散々の苦労の末に何とか説得出来たものの、それでも彼女は嵐の一晩を居間に腰かけ、苛立ち続け、繰り返し続けていたのだ。
「ラディンは今どこにいるのよ。帰って来ると言ったのに。敗戦なのに……。
どういう事なの? 何かあったの? 無事なの? 今どこにいるのよ……っ」
 結局、大切な弟は帰ってこなかった。
 ……
 白い霧の早朝に、ナガ城館の人間は篭城準備に忙殺されている。ゆえに、城門前のたっぷりと雨を吸ってぬかるんだ斜面に女主人を見送るのは、老ワシール卿ただ一人だけとなっていた。ナガ・ワーリズム家の誇る最長老の忠臣は、感情を示さない固い顔で、ようやく馬車に乗った女主人に声をかけた。
「道中にお気を付けください。こちらは一刻も早く貴方様の御帰還が叶うよう、包囲戦に最善を尽くします」
 シャダーの顔が、不満の色をにじませている。
「本当にそうしてね。本当に。――全く」
「承知しております」
「全く――ラディンは今、どこにいるの? 昨夜戻って来なかったってどういう事? まさか何かあったの? ねえ、ワシール。本当に今、ラディンは無事なんでしょうね――」
 ゴトリという重い音が響いた。シャダーが言い終える前に、車輪がぬかるんだ泥の上を動き出した。ワーリズム家の女主人を乗せた簡素な小型馬車は今、六人の兵に囲まれながら城門の前の斜面をゆっくりと下りだしたのだ。
「お気を付けて」
 ワシールの眼が、静かに見送る。たっぷりと湿度を含んだ空気の中を、馬車が斜面を下り切り、右に曲がり、濃い霧の中に輪郭線が薄れてゆくのを、そのままじっと見つめてゆく。その輪郭線が完全に霧に飲まれてゆくのを最後まで見つめ、それでも呼吸数十回の間、全てを覆う霧の白色を見守り続け、それからようやく踵を返して城門へと戻ろうとし、
 その時に、気づいた。
 ぴたりと、泥に踏み出した足が止まった。
 左手の丘陵。そこを回るようにして、一騎の影が浮かび上がっている。
 霧の中、影は近づいてくる。みるみる明確な輪郭になり、それが小柄な人間の騎上姿だと判るまでにはろくに時間もかからなかった。
“どうするか”
 ワシールは、迷った。
“知らせるか? すぐに馬車に知らせるか? どうするか”
口の中で、短い念句を唱えた。彼は泥道を蹴り斜面を下り出した。馬車ではなく、近づいて来る騎馬の方を目指し、
「ラディン殿!」
大きく叫んだのだが――。
 ナガの領主は走り寄ってくる臣下が見えてないかのよう、完璧に無視をした。その歩みはワシールが強引に手綱を掴み引っ張ることで、初めて止められたのだ。
「ラディン殿、なぜ戻ってこられた! 一人なのか!」
 驚いた眼の老臣に対して、ナガ領主は不愛想に振り向いた。
「その顔はどうなさった、その傷は?」
 右の頬にべったりとした擦り傷がこびりついていたものを、ラディンは丸切り他人事として言った。
「街道で馬がぬかるみに滑った。その時に落馬した」
「街道を使って戻ってこられたのか? 人目に付く街道を――どこの兵と鉢合わせるかも知れない街道をたどってこられたのか?」
「早く帰りたかったのに。糞が。悪魔は呪われろ。落馬で肩を打ち、手間取っている間に暗くなった。たかが平地から帰還に野宿する破目になるなんて」
「街道を使って――、しかも怪我を負って――」
 呆れたのではない。怒ったのだ。相手の考えのない無防備さに。
 怒りはさらに増す。ラディンはワシールを無視して進みだす。そのまま城門をくぐろうとする。
「ラディン殿、止まりなさいっ。城館に入ることを禁じます」
 途端、無関心の顔が消えて、鋭い不服の目を示した。
「なぜ貴様が俺に命ずるんだ」
「平地での会戦に敗北を喫したとの報が入っています。あちらは今、混乱をきたしているはずです。貴方様が必要です。城館には構わず即座に軍勢の許へお戻り下さい」
「それは俺が決めることだ。貴様に命じられる筋合いは無い」
「シャダー様ならば、とっくに城館から去っています」
「何だって?」
と叫んだ瞬間の、眼!
 自分はこの主君が赤ん坊の時から見知っている。その自分をしても感覚的な不穏と嫌悪を覚えてしまう。ぞくりとした、生々しい、黒い眼。
「どういう事だ、言えっ」
「――敗戦の第一報は昨日の夕刻に伝えられました。有能なハンシスのことです。時間を無駄にせずに即座にこちらに進軍してくるはずと判じ、シャダー様には早々にシュリエ城砦へと避難していただきました」
「いつだ? シャダーはいつ出発したんだ?」
「既に。――昨夜の内に」
 その一言とともに、生々しい不穏の色は消えてゆく。ただ鞍上から、霧の遠くを見つめる。
「……」
 霧の遠くを掴みにくい表情で見つめながら、何かを考えていた。それを見る老臣もまた、無言で考えてしまった。
 子供の頃から一貫して姉に甘え、姉の干渉を受け、ゆえに領主となっても周囲の信頼を失いかけているこの少年は今、一体何を考えているのだろうか。霧を見つめ終えた後、また飛んでも無い愚かなことを言い出して、人々を愕然とさせるのだろうか。
“俺もこれからシュリエ城塞へ行く”
「俺はこれから軍勢のところに戻る」
 素直に言った。あまりの素直さにワシールは戸惑った。
「シャダーがいないなら、ここにいる意味はない。確かに貴様の言うとおりだ。軍勢の皆が俺を待っているはずだ。すぐに戻らないと」
「……。それがよろしいでしょう。しかし、取り敢えずその傷は手当をしないと。肩も打たれたのでしょう? 一度城館にお入り下さい」
「構わない。ここまで傷みなく来れたのだから大丈夫だ。戻ると決めた以上は、少しでも急ぎたい。向こうでの皆の対応の様子が心配だ」
「――。その通りですね」
 またしてもだ。またしても、この若い主君への評価に苦慮をしてしまう。本当に。
 本当に、身の毛もよだつほどに我儘かと思えば、驚くほどに素直にもなる。生まれて七日目の赤子程にしか物を考えないかと思うと、適切に事態の判断も他人の忠言も受け付ける。
 ナガ領主・ワーリズム家当主のラディン。
 一年半前、父卿の病没でワーリズム家を引き継いだ十六歳の少年。
 赤ん坊の時から見知っている自分をしても、未知と不可解が多すぎる。この先どのように育つのか、どのような主君となるのか予測が全くつかない……。
 霧の中、馬の不機嫌ないななきにワシールは我に返った。目の前でラディンはもう、馬を進め出していた。
「また街道を使って戻られるのか?」
「使わない訳にいかないだろう? 急いで戻れと言ったのは貴様だ」
「ならば護衛兵を付けます。お待ちください、今すぐ兵を呼んで――」
「護衛ならいるぜ」
 え? と一瞬思い、次の瞬間彼は驚愕した。
 全く唐突、ラディンの背後に現れていた。いくら霧が深かったとはいえ、気配に一分も気付くことが出来なかったなんて。
 領主より十歳ほど年上の友人・カティルだった。
 素性はろくに分かっていない。何とも近寄りがたい犬族の印象の。何よりも、その薄い目の色と髪の色が大きく異質の。ラディンがどこからともなく見つけてきて、いつの間にか横に置いてしまった異国人の護衛役は今、雨と泥で汚れた軽装武衣で馬に跨ったまま、ラディンの背後に現れていた。
「……カティル。いたのか。……ともかく、御領主を護れ。何が有っても」
 会釈もない。面白くもなさそうに口端を上げただけだった。
 ラディンはあらためて手綱を握り直す。動き出した白い霧の向こう側、微かに浮かび上がっている城館の影を見やる。
「シャダーに会いたかったな。その為に強引にここまで来たっていうのに」
「……」
「シャダーに会う為には、一刻も早くハンシスの軍勢を追っ払えって事か。面倒だな」
 流れる霧の中に、独り言は響く。その丸きり子供の様な吐露に、ワシールの心は僅かだけ揺らいだ。
“すぐに追いかければ瞬く間に追いつく程にしか離れていませんよ。貴方と姉上は”
 そう告げようかと、呼吸一回分の間だけ思ったのだが。
「もう遥か街道の西でしょう。シャダー様は」
 こう言った。為に、ラディンと姉との再会は、遥か遥かに遠い、そして異なった未来へと移っていってしまった。
 霧の中、西の方向を長く見つめる。その果てようやく、ラディンは視線を前へ戻した。ワシールに別れの言葉も無く、カティルを引き連れて霧の泥道を歩みだしていってしまった。
「……」
 ワシールもまた何も言わなかった。ただ、主君の後ろ背が白色の中に消えていくのを無言で見送り、そして籠城準備をする城内へと戻っていった。
 緩い風が吹き始めている。間もなく、深い霧は消えてゆくはずだ。
夏を終えて、短い秋が始まった朝だ。

     ・           ・           ・

 朝の時間は、進んでゆく。……
 ナガ平野を西へ抜けて丘陵地に入ると、空は一転する。霧はとっくに無い。昇りゆく太陽が鮮やかに輝き、上空は青色一色に抜ける。
 この空の下にワーリズム家のシャダーもまた、不機嫌から転じた。生来のはっきりとした喜怒哀楽の中から陽気を取り出し、明るい声で喋り続けていた。
「私だって、別に憎しみが有る訳じゃないのよ。十三歳でワーリズム城館にやって来た時から三年間も面倒を見て来たのだもの。丸切り弟として、ラディンと同じように接してきたのだし」
 肥沃なナガ平野から離れてゆくにつれて、周囲の風景は大きく変わっていった。
 水路が張り巡らされた豊かに農地は終わり、ひなびた灌木の丘陵が始まる。土地も空気も乾き出し、景色も単調になり、その中を、雨に洗われた街道だけが真っ直ぐに延びている。この街道の上を、シャダーが乗る馬車は順調に、真昼の日差しを受けながら西へ進んでゆく。
 馬車の周囲は、六人の衛兵達が囲んでいた。だが、彼らはいつの間にか、馬車の間近から離れていた。女主人とはあまり話をしたくないという態がいかにも表れていたのだが、どうやら当の女主人は全く気づいていないようだった。
 唯一の例外は、今回初めて女主人に側仕え、初めて言葉を交わすことになった少年兵だ。彼一人だけは、この機が何とも嬉しくて仕方ないという様子だった。馬車の窓から顔を出す女主人の横で無邪気な目を見せながら、夢中で話を聞き続けていた。
「それにしても、こちらは陽射しが強いわね。まだ真夏のままみたい。晴れ渡っていて、気持ちいい空だわ」
 太陽は、穏やかに天空を進んでゆく。昨夜の雨に洗われた空から真昼の陽射しが降り注ぎ、彼女の陽気な顔を照らしている。
「ねえ。お前も昨日、ハンシスを見た?」
 少年兵ティフルもまた、嬉しそうに応じた。
「はい。私も城門の脇にいたので、よく見えました」
「優れた男だと思わない? 落ち着いて、堂々としているし」
「はい。思います。嵐の中、あの様な場でも礼儀正しく、怖れる風もなく、きちんと自身の意見を言っていました。本当に優れた方だと思いました。あんな方は初めて見ました」
「でしょう? そうよね。そう思うもの当然よ。そう。――でも、だったら、
 どう思う? 私の従弟は、私の弟よりワーリズム家の当主に相応しいと思う?」
 あっ、と初めて少年は失言に気づき、顔を真っ赤にした。
「済みません! シャダー様、ハンシスはラディン様にとっての敵です。それなのに私は賞賛してしまいましたっ、済みません!」
 だが感情的なはずの女主人は、にこやかなままだった。
「別に謝ることは無いわよ。お前が感じたことは聖者の名において真実だもの。それにね、何度も言うけれど、別に私はハンシスの全てを憎んでいる訳ではないのよ。今回はあの男が私とラディンをうるさく非難して、果ては戦まで仕掛けてきたのが腹立たしいだけよ。
 そうよ。だってあの男とは、三年間も一緒にいたのだもの」
 嬉しそうに笑みながら言った。窓から顔を大きく出して荒れ地の上の、抜けるような青空を見上げながら嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに笑っていた。
 ……五年前の、夏の日。
 ハンシスは、最初にこう言った。
「事情により、当分の間こちらに逗留させて頂くことになりました。ご迷惑をおかけ致しますが、どうかご容赦を下さい」
 あの最初の時に、こう言ったのだ。
 ワーリズム城館の、がらんとした居室であった。当時のワーリズム当主である自分の父親と向かい合っていた。父親の無関心な視線を浴びながら、まだ幼さの残る十三歳の少年は独りで立ち尽くしていた。付き添う従者一人なく、僅かばかりの荷物も自分で運び、たった独りでやって来たばかりだった。
「初めまして。ご迷惑をお詫びします。どうかよろしくお願い致します、シャダー姫」
 自分を見つめてそう告げてきたのだ。その瞬間に、見抜いた。
“この子は今、不安に怯えている”
 すぐに見抜いた。自分に向かって告げるゆっくりの口調にも、あまり動かさない表情にも、それは何とか不安を隠し、落ち着いて見せようとする必死さなのだと、シャダーの真っ直ぐの眼は一瞬にして見抜いてしまった。
 不安で当然なのだ。
 とっくの昔に実母と死別した。コルム領主である父親は先日に病没し、後を継いだのは仲の良くない異腹の兄だった。生まれ育った城館から半ば追い出されるようにして、同じ血筋のワーリズム本家のナガ城館を頼った。ここも拒絶されたらもう行く場が見つからないという不安に駆られながらやって来たのだ。目の前に立つこの気の毒な従弟は。
 そう思った瞬間、シャダーの中で純粋な同情が起こった。不運な従弟を守ってあげたい、この城館で安心させてあげたい。その場で一瞬にして、心に決めたのだ。
「シャダー姫じゃなく、普通にシャダーと呼んで。ハンシス」
「ありがとうございます。感謝をします」
「敬語もいらない。今日から貴方は私の弟同様なのよ。私達の母親もとっくに亡くなっているから、だから私は貴方の姉代わりだけでなく、母代わりにもなるわ。
嬉しい。ラディンにとっても兄が出来たのだもの。すぐにラディンを呼んで会わせるわね」
 そう言って従弟に近つき両手を伸ばすと、当然のようにその掌を掴んだ。緊張した目を見張る従弟の両掌を強く、包み込むように握り締め、そして大きく笑んだのだ。
 五年前。夏の日の長い、晴れ渡った午後だった。
 ……
「私ともラディンとも、とても仲良くなったのよ」
 灌木が続く丘陵地には、雨上がりの青空が輝いている。それを見上げながら、幸せな昔語りを続ける。
「誰とでもすぐ親しくなれる質だったから、誰からも可愛がられたの。でもね、一番仲が良かったのは私だった」
「きっと本当にシャダー様のことを姉上のように思っていたんでしょうね」
 その言葉を待っていたとばかりに、上機嫌な満面は輝く。
「お前、名前はティフルとか言ったわね。 歳は十三? 十四? そう言えば来たばかりの頃のハンシスに少し似てなくも無いわよ。
 ねえ。聞きたい? 聞きたければ教えてあげるわよ。あの男が来たばかりの頃、どんな少年だったか聞きたい?」
「はい。教えてください」
とティフルが嬉しそうに応えた瞬間、前方に騎乗していた護衛隊長・カワーイドが鼻を白ませた。気分屋の女主人の下らない昔話を、まだ延々と横耳に聞かされなければならないとは。
 シャダーは上機嫌を高めて続ける。
「そうね、例えば……。あの子は誰の話にでも耳を傾けるから、みんながあの子と話をしたがったのよ。例えば――」
 例えば、
 ハンシスはいつもよく動いていた。よく動きながら、いつも誰かと会い、話していた。
 城館の臣下達とも、兵士達とも、使用人達とも、領民達とも、誰とでもいつでも話していた。余り人好きではないワーリズム家当主をすら機を見ては捕まえて、何だかんだと話し込んでいた。話すことで様々の、多彩の知識を自然に深く身に吸収していった。そして一度でも彼と話した者は、この少年の生き生きとした質に魅力を覚えてしまうのだ。
 勿論、話しばかりをしていたわけでは無い。育ち盛りの年令に相応しく、ハンシスは城館に出入る同世代の少年達と交わった。剣術やら乗馬やら下らない馬鹿騒ぎの楽しさやらを、皆と遊び回りながらどんどん身につけていった。健康な仔犬か何かのように、遊びながら、笑いながら、大切なことを全て学んでいった。
 そして。
「ハンシス? ダラジャから干し果が送られてきたわよ、ラディンも呼ぶから皆で一緒に食べましょうよ」
 いつでも嬉しそうに振り向いた。例えば老臣ワシール卿と軍策の作り方について真剣に議論している時でも、守備兵の一人に巻上式弩弓の扱い方を教わっている時でも、いつでも彼はすぐに振り向いて、言った。
「ありがとう、シャダー」
 嬉しそうに笑ったのだ。そのような三年間だったのだ。
 ……
 車輪はゴトゴトと、規則的な音を刻みながら一路に西を目指す。天蓋はどこまでも広がり、陽光は眩い程に荒れ地を貫く。
 まるで少女のように幸せそうに喋り続ける女主人の話を、素直にティフルは聞いていたのだが、だがやがて、その顔が素朴な疑問を示し始めた。素直に眉を歪め出したのだ。
 これをシャダーが見て取った。
「どうしたの? 何か言いたいの?」
「いえ……。だったら……でも? いえ。済みません」
「何よ、はっきり言いなさいよ」
 ティフルは思わず一度、馬を止めてしまった。馬車はみるみる先行してゆく。その窓から振り返って自分を見る女主人を慌てて追いかけ、そして素直に訊ねた。
「そんなにナガ城館に親しんで貴方様ともラディン様とも仲良しだったの、なのに、どうしてハンシスは戦を仕掛けてきたんですか?」
「貴様、いい加減に黙れ!」
 鋭い大声で先頭を行くカワーイド隊長が怒鳴り、びくりとティフルは身を縮める。シャダーもまた不快の顔を示したが、
「すみません。シャダー様、申し訳ありませんっ」
 だが、
「大丈夫よ」
 彼女は、元の顔を取り戻してゆく。
「大丈夫だから。神の御名において」
 それ以上はもう答えない。独りで静かに笑っているだけだった。
 眼は広々の青空と荒れ地を見ている。見ながら、彼女の心中には、二つの大切な記憶が続き絵となって甦っている。一つ目は、二年前の。そして二つ目は、僅か一月前の。
 ……
 ハンシスの顔が唖然と驚きを示した。
 それは全くの偶然だった。三年前に彼がワーリズム城館にやってきた時と同じ部屋に、同じ人々が集まっていた。
 ワーリズム当主である父親が、ぶっきらぼうな口調でもう一度繰り返す。
「コルムの領主が、狩の最中に落命したそうだ」
「私の、義兄が――」
「落馬での事故死という話だが、実は謀殺かも知れないぞ。奴には息子がいない。このままだとコルムの城で争乱が起こるかもしれない。お前はすぐに帰れ」
「帰れって……コルムへ帰って――」
「早くしろ。早く帰れ。さもないと他人が割り込む。ワーリズム家のコルム領支配に穴を開けられてしまう。早く帰れ。今すぐに、帰れ」
 ハンシスはまだ事実を受け入れられない。見慣れた緑色の胴着姿で、右手にはたった今まで遊んでいた弩弓を握ったまま、立ちつくしてしまっている。その姿のまま、部屋にいる従姉の顔を見る。
 シャダーもまた、相手を見る。感じる。
 そこにはもう、孤独と不安に圧し潰されそうな少年はいない。この三年で上背も顔つきも、さらに存在感そのものも見違えるほどに成長させた青年が、突然の命運の変化に困惑している。
(ちがう。困惑だけじゃない)
 三年前にいとも簡単に相手の不安を見抜いたシャダーは、今回もまた的確に見抜いた。
(困惑しながら、でも期待している。やっと巡ってきた己の力量を見せつけられるこの機に、高揚している)
「またすぐに会えるわよね」
 本人すら自覚していない興奮を、シャダーは先どった。彼女は眼を見開き、声を上擦らせながら続けた。
「またすぐよ。すぐに会えるわ。その時には貴方は、コルム領主になっているはずよ」
「――。すぐに貴方に会いに戻ります。聖者の名において」
 困惑しているはずなのに、それでもはっきりと頷いた。曇りの無い眼はもう、先を見ていた。
 ……しかし、その約束が果たされるまでには、コルムとナガの両ワーリズム家の上に波乱の二年間が必要だった。
 様々な曲折と辛苦の果て、ハンシスがコルムの臣下達からの忠誠の儀を受けて領主座に就いた頃、今度はナガに急変が訪れた。
『ワーリズム豪族家当主・ナガ領領主、病没。――新当主、誕生』。
 ワーリズム家のラディン。
 十五歳にも満たない少年が、広大なナガ領の新領主に、そしてワーリズム豪族家の新当主となった。
 そして、この少年を全面的に補佐するのは、彼を愛して止まない姉となった。先代以来の優秀な臣下達の面々を差し置いて。
(それのどこが悪いの?)
 弟が当主座に就いた瞬間から今日に至るまで、シャダー・ワーリズムは思っている。
(私の父親は早死し過ぎたわ。そして私の弟は貴方より二つも年下で、しかもナガは領地も城館も貴方の所の二倍も広いのよ。人も多いのよ。私がしっかりと弟の補佐をして、それのどこが悪いの? ハンシス?)
 しかし、彼女の従弟はそう思わなかった。
 半月前のあの日。突然、
 ……
「コルムの従弟殿が、我々を攻めてきます」
 夏の乾いた日差しの射し込む午後だ。
 明るい光と心地良い風が抜ける上階の一室で、シャダーは焼菓子をつまむ手を止めた。勿論、愚者の祭が近づいているのに引っかけた詰まらない冗談だと思った。
「何を企んでいるの、ワシール? そんな突拍子もないことを言い出すなんて」
 だが、ナガ・ワーリズム城館が最も信頼する老臣ワシール卿は、普段の数倍の生真面目な顔を示しながら続ける。
「たった今。ハンシス殿から書状が届きました。
 現在のワーリズム一族の当主・ラディン殿に対する非難を、公としました。ワーリズム家のラディンは、当主の座に相応しい力量を満たしていないと。ゆえに、自らが当主座に登る意志だと。そのゆえに、こちらの領へ軍勢を率いて接近すると」
「何を、言っているの……? それって――」
「――」
「それって、つまり――まさか、ハンシスがここに攻撃を仕掛けるって事なの? 武力でこの城館と当主の座を奪うって事なの?」
「はい」
 途端、彼女は椅子から立ち上がる。眉が猛然と釣り上がる。
「なぜ! なんでハンシスはそんな事を言い出すのよっ。その書状を見せて!」
「書状は貴方様宛ではありません」
 老臣の眼はとっくにシャダーから外れ、部屋の奥の窓を見ている。そちらに向かい、淡と声掛ける。
「また窓枠の上に腰かけておられるのですか? それは危険だと、何が起こるか分からないから止めなさいと、何度も繰り返して言いましたよ」
「――」
「それから、頻繁に姉上の部屋を訪れる事も。ラディン殿」
 ナガ領主・ワーリズム家当主は無言で、ゆっくりと振り向いた。
 窓枠の上に背を丸めて座る姿は、大きな猫を思わせた。不思議と見に付いて似合う黒色の服。物音をたてない動作。それに、この経験豊かな老臣をしても何を考えているのか深みきれない深い色合いの黒い眼の、それら全て相まって。
「あの男が攻めてくるって?」
 その眼を見ながら、ワシールは主君の許に歩み寄っていった。
「はい。貴方の従兄殿は、本気で貴方から当主座を奪取するようです。より詳しい事由についてはこの中に」
 書状を差し出す。――が。
 無視された。ラディンは受け取らなかった。眼はとっくに相手ではなく別のものを、怒りに顔を真っ赤にする姉を見ていた。
「聞いた? あの男が攻めてくるんだって」
「そうよ! 神様、信じられません! どういうことなの? 何でいきなりこんな恩知らずな真似を!」
「久し振りにあの男に会えるんだ。嬉しいな」
 その抑揚の無い“嬉しいな”に、ワシールは不穏を覚えた。言葉の意味するところが真実なのか皮肉なのかそれ以外の何かなのか、どうしても上手く判断が出来なかったのだ。
 大きな窓からは、夏の乾いた風が涼しく吹き抜けていた。
 風の中、ラディンは喚き立てる姉の許に近づいてゆく。その手を掴み握る。それから、ようやく、初めて、差し出されたままの書状を受け取ったのであった。

 乾いた灌木が生える丘陵地には、まだ夏が続いている。強い陽光で溢れている。
 小型馬車の車輪は、単調な音を立てている。真っ直ぐに伸びる街道を一行は西へと、確実に進んでゆく。
 少年兵ティフルはまだ、口走ってしまった軽率な言葉を後悔している。それにシャダーは柔らかく、素直に笑いかけた。
「大丈夫よ」
「本当に申し訳ありませんでした。シャダー様。――それから、……済みません、“大丈夫”とは何の事ですか?」
「今回の騒動の事よ。大丈夫。心配は要らない。だってあの二人は三年間も一緒にいて、本当の兄弟の様に仲が良かったし。本気で憎み合っている訳では無いし。きっと間にワシールが入ってまとめるでしょうし。
 何より――神様、あの従弟は驚くほど利口よ。私はあの子の分別を信じているわ」
 馬車の周りでは、他の護衛兵達が僅かに苦笑の顔をさらしていた。今すぐこの男を捕えろ! 獄に落とせ! と昨日の雷雨の中でわめいていた女主人の姿を、彼らはまじまじと目の前に思い出すことが出来たのだ。
 しかし、
「私もハンシスと仲良しよ。彼はラディンと同じく、私の大好きな弟よ。だから、聖者様。大丈夫。今回の騒動はすぐに落ち着くわ。私も、ラディンも、ハンシスも、みんな大丈夫」
 シャダーは、鮮やかに言い切った。
 そのまま、馬車の窓から身を乗り出すように前方を見る。その視界の中で、延々と広がる灌木の丘陵は晴れ渡り、光に満ちている。
 目指すシュリエの城砦へは、あと半日の里程だった。

   ・              ・             ・

 始まったばかりの秋は、少しずつ、少しずつ、湿度と冷気と空の雲の量を増していた。
ナガ平野の耕作地では、すでに春蒔き麦の刈取りが終わっていた。何本も張り巡らされた水路の間で、耕作地は剥き出しの黒色を示していた。包囲戦真っ最中のナガ・ワーリズム本居城もまた、黒く、広く、豊かに連なったこの風景の真ん真中に、巨大な威容をさらしていた。
……今。
コルム・ワーリズム家の家臣・ルアーイドは、一人でナガ城館を見ている。
 二十歳という年齢ながら、重臣の一人に数え上げられた青年だった。生来の生真面目な質に加えて、主君への偽りのない忠勤が広く認められいた。年齢の近さも相まり、主君の良い友人にもなっていた。
 今、彼は小さな丘地に立って、包囲の陣形を見て取っている。
 夕方の迫る頃合いに、城館の全景は斜めからの光を受けている。ごつごつとした分厚い城壁も城壁に備えられた五本の櫓塔も、長い影を引いている。それを包囲している自陣の様も良く見える。ルアーイドはそれを静かな、真剣な目で確認しながら見続けている。
 と、その眼が左に流れた。
 偶然に見つけた。左手の、一本の巨木の向こう側だ。夕陽の逆光を受けて彼の主君が立っていた。やはり自分と同じく、城館の全体を見据えていた。
「ハンシス――」
と、呼びかけようとした声が――。
 喉で止まった。
 何だ?
 あれは、何だ? ハンシスのあの顔と、眼?
 城館を一心に見つめる眼が、暗く、重く、淀んでいる。知っている主君の真っ直ぐに曇らない眼と、大きく異なっている。くぐもった重たい眼で、なのに必死に城砦を見つめているのだ。
 この眼が、ハンシス? この薄暗さが? 明瞭で清廉で、誰からも好かれる気質を誇るコルム領主なのか?
「……。ハンシス?」
 振り向いた。
 途端、淀みは消えた。常通りの澄んだ表情がルアーイドを迎えた。
「なんだ、君も来ていたのか」
「――。ああ」
「こっちへ来いよ。この位置からが城館が一番良く見える。見ろよ、
 駄目だな。今日も城壁にほとんど損害を与えられていない」
「……。ああ、そうだな」
 この六日間と同じ通り、主君・ハンシスは整然と軽装の武衣をまとっている。芯の強さをうかがわせる横顔が、夕光に赤く染め上げられている。
 では、さっきのあの奇妙な表情は何だったんだ? 夕刻の、強い逆光のせい?
「何でそんなに私を見るんだ、ルアーイド?」
「……。いや」
「今さら隠し事か? 言えよ」
 いつも通り、気さくに訊いてくる。ならば――。
 ルアーイドは思い切って鎌をかけた。低い声で訊ねた。
「焦っているだろう?」
 途端、ハンシスの顔は不快を示した。――見ろ、図星だ!
 ルアーイドはすかさず、生真面目に謝った。
「済まない、ハンシス。私がもっと早く察して気遣うべきだった。まさか貴方でも焦ることがあるなんて思わなかったから」
「別に焦ってはいないさ」
「本当に?」
「別に。――確かに、戦局が事前の予測から変わってきてしまってはいるが……別に」
 二人は再び、同時に前方を見た。
 そこには、主君が敷いた陣図に従いコルムの軍勢が包囲を敷いている。兵士達は指揮将の指示のもとに、無駄なく動いている。小型とはいえ二台の投石機が配され、効果的な位置を選んでは城壁めがけて石塊を発射し、定期的に轟音を立てている。
 ほぼ同じ背丈の二人の影が前方に伸びている。共に並び、じっと視線を包囲戦に据えたまま、ルアーイドは淡々と語り始めた。
「コルム・ワーリズム家の若き力量者ハンシスの立てた策。
 第一段階。
 ワーリズム家当主・ナガのラディンへの要求。“現在、ナガ城館内で起こっている相次ぐ臣下豪族たちの離反・反目等は、深刻と呼べる状況である。ワーリズム家当主の権威失墜を看過するわけにいかず、よって私・ハンシスは、現当主ラディンがその座を速やかに私に譲渡するところを要求する”」
「――」
「第二段階。
 勿論、ラディンはこれを拒否。コルム=ナガ両国は戦役へ。我々は事前にナガの有力武将イーサー卿の離反を画策。これによって、平地での緒戦に楽勝。
 これでもラディンが降伏しない場合は、次の段階へ」
「――」
「第三段階。
 ワーリズム城館包囲戦開始。おそらく三日目ぐらいから城内では厭戦の空気が発生する見通し。豪族達の離反が相次ぎ、おそらく五日目を過ぎるころにはラディンは籠城の維持が困難に。
 この機を読んで我々は、一斉攻撃もしくは降伏勧告へ」
「――」
「第四段階。
 ラディンは降伏勧告を承認。戦役は我々の勝利で終息。全ては計画通り。
 諸聖人は彼を祝福せよ。完璧な、優秀極まりない才覚のハンシスはめでたく、その力量に相応しいワーリズム家の新当主の座に――」
「長々うるさい! 黙れっ、殴るぞ」
 怒鳴った! ――ほら見ろ、やっぱり焦ってるじゃないか、
 ならば、さっきの淀んだ眼も焦りのせいって事か?
 自分より少しだけ年下の主君が、苛立ちを剥いて自分を睨んでくる。その歳相応の未熟な様に、逆に安堵を覚える。相手の余裕の無い顔が少しずつ、潮が引くように落ち着くまでの時間を、無言で、気長に待ち、それからルアーイドはやっと声をかけたのであった。
「落ち着いたか?」
 相手は素直に認めた。
「この戦況だ。私だって苛立って良いだろう?」
「勿論構わないよ。気が済むまでいくらでも苛立ってくれ。本当に気づかなくて済まなかった。
 確かに、事前の予想外だ。包囲が始まってから今の時点まで、ナガ側は一人の離脱者を出していない。士気が落ちていない。思いの外の善戦だ。貴方の従弟がここまで頑張るとは、私も思わなかったよ。
 ……その誤算の原因は何だと思う?」
 ハンシスの視線が、もう一度城館に移った。
 城館の、東側の上階にある物見台。そこに包囲軍を見下ろしている数人の人影があった。その影の中の一つ――小柄な黒い武衣姿が微動だにせずに、じっと攻城軍勢の投石機の動きを目視していた。
「ラディンが、見ている」
「ああ」
「悔しいが、確かに上等の篭城で応戦している。ラディンはきっと、ワシール卿の忠言を良く受け入れているんだろう」
「それが出来るなら、なぜ貴方の従弟は最初からそうしなかったんだ? この一年半、周囲の反感を買う未熟な身勝手ぶりで、すっかり臣下の信頼を失っていうのに。なんでだ?」
「――。その、理由を、知りたいか?」
「え?」
 主君の意味深長な語調に、違和感を覚えた。と同時、頭の中に一つの出来事が思い浮かんだ。
 六日前。嵐の中の突然の、単独でのナガ城館訪問――。
 勿論ルアーイドはすでに、その時ハンシスが誰を相手に何を喋って来たのかについては耳にしている。その奇妙な行動に、疑問を感じている。
(開城の説得と言っていたが……、本当にそうなのか? 一族の将来の為、ラディンの将来の為にラディンの姉が城館を離れるべきというのは確かにそうだが……。でも……)
気になる。だから今、あらためてその事を訊ねようとしたのだが――、
 突然、右側から巨大な破砕音が発した。
 投石弾が城壁の角部を大きく破壊し、攻城側からも篭城側からも大きな声が上がった。両陣営の兵士達が大きく動き出した。
 ハンシスとルアーイドも反射的に目を見合わせる。即座に丘の斜面を下り出す。だというのにその足はすぐに遮られた。今度は背後から唐突の声がかかったのだ。
「殿様。伝言です」
 陣内で下働いている小僧がいきなり、いかにも伝言らしく他人口調で告げてきた。
「例の件は上手くいきそうだとの事です」
「おいっ、お前! 何の事だ?」
 ルアーイドが声を上げたが間に合わない。小僧は瞬く間に走って丘を下りて行ってしまう。
「何の事なんだ、ハンシス!」
と振り向いたルアーイドの視界の中、ハンシスもまた早くも斜面を下り始めてしまっている。そのまま友を振り向きもせずに告げた。
「陣に戻ったら、すぐに使者を準備してくれ」
「使者? 何をする気だっ」
「だらだらの膠着状態はもう充分だ。時間を無駄にしすぎている」
「だから――」
「私はラディンと会う」
 物凄い勢いで左の肩口を引っ張られる。有無も無くハンシスは足を止められ、後ろを振り返った。
 そこには、普段ならば穏やかなルアーイドの、本気で憤った顔が迫っていた。
「これでは、臣下を無視して離反させた貴方の従弟と一緒だ。独りで勝手に物事を進めるなんて、貴方のやり方ではないだろう?」
 呼吸四回分の、見つめ合っての沈黙――。
 まずは掴まれたままの肩から親友の腕を外し、それからコルム領主は誠実に言った。
「済まない」
「どういう事だ? 教えてくれ。なぜ今貴方がラディンと会うんだ」
「勿論、こんなところでこれ以上もたつくのが嫌だからだ」
「――」
「早く、一刻でも早く勝利を収めたい。その為だよ。
 でも、まあそれ以外にも、二年ぶりに馴染みの従弟と会いたいっていうのもあるけれどな」
 にっこりと笑ったのだ。
 ハンシスは再び早足で丘を下り出した。その姿を、ルアーイドは困惑しながらも見送る羽目になった。主君であり友でもある男が言ったのが奇妙な冗談なのか、本心なのか、そして自分がどう反応するべきなのか、うまく判断がつかなかった。



【 続く 】
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