2 時計店

文字数 2,488文字

 それは夏休みに入る直前のことだった。放課後に先生が私を呼び出し、
「就職もいいが」
 と、何の脈絡もなく言い出したのは。
「進学も考えてはどうだろうか。考え直せないか」
「考え直すも何も、うちには金がないんだから」
 私はむっとした顔で言い返した。すでに(しま)った話をここで蒸し返されるとは思わず、面食らった気持ちにもなっていた。
「君の成績なら奨学金で行けるだろう。そこからの努力次第だが大学も夢ではない」
 先生はなおも食い下がってきた。
「今、就職することは安易だぞ。大学を出ればもっと仕事の選択肢が広がるのだ。遠回りになってもその方が断然いいだろう」
「遠回りする余裕がうちにはないのです」
 私は答えた。「奨学金だけでは賄えない金が、工面できないんだから」
 先生は私の顔を見て、ふむ、と言いながら頷いた。
「出生払いで、どうだろうか」
 意味がわからず私が沈黙していると、先生は意味ありげににやりと笑いながら私の目を覗き込み、言った。「君が望むなら大学を卒業するまでの七年分、下宿代くらい立て替えてやらんこともない」
「冗談でしょう」
「それが本気なのだ」
 先生はこともなげにさらりと言う。
「ただし、それ以上の金が要るなら学びながら自分で稼ぐのだぞ。そして就職したらきっちりと耳を揃えて返しに来い」
「本当に、本当なんですか?」
「本当に、本当だ」
 先生は言う。「せっかく受験するなら東京に出たらいい」
 話を進める先生の言葉を私はほとんどうわの空で聞いていた。片方の耳から、片方の耳へ、言葉はまるでΩ(オメガ)の形のように頭上を通り抜けていった。
 その先生はこの地域では名の知れた地主の跡取りで、教師の仕事も暇潰しか社会貢献というくらいにしか捉えていないような人であった。したがって金には余裕があり、私への支援も気まぐれに篤志家を気取ってみる気になったのであろう。
 だが私にとっては渡りに船。
 有難い話であることには変わりなかったのだ。
 だから家に帰って早速私は進学の話を母にした。母は静かに、「そうかい」と言う。
「好きにしたらいいんだよ」
「金のことだけど」
 私は淡々と言う。以前のようなことになるまいと懸命に気持ちを押し殺した。「先生がなんとかしてくれると仰っている。奨学金でなんとかなりそうだと」
「ふうん、そうかい」
 母は静かに頷いた。関心はあるが、それを隠した、というような表情で。私は心の襞がチクリと痛むのを感じながら、そんな母に言う。
「だから、あの懐中時計、取り返せないのか?」
 言われた母は少し驚いた様に目を見開き、それから笑った。「悪い子だ、箪笥を物色したのか?」
「ああ、した。悪かった」
 私は素直に謝り、母は静かに笑う。平時と変わらぬ母と息子のやりとりがそこにはあった。
 私の幸せは、確かにここに存在していた。
 今の私はそれを懐かしく思い出し、同時に寂しくも思う。この感情だけは死ぬまで色褪せることはないであろう。
 その時の母は思い出を懐かしむように遠い目を私に向け、その先、私の背後にある何かに微笑んでいた。母は確かに、それを見ていた。
「いいのさ、あれは」
「しかし、形見だろう?」
「あの人のことは、ちゃんとこの胸が覚えている」
 私はそれ以上のことが言えず、結局この話はそのまま等閑になった。
 それから私はしゃかりきになって勉学に励み、どうにか都内の高校に進学したのである。先生は約束を違えず下宿代を負担してくれたし、ときおり母からの仕送りもあったが、やはりそれだけでは足りずにいくらかは自力で稼がなければならなかった。
 苦学生と言えば聞こえはいいが、本当の苦学生からすれば私などは甘ったれであったろう。そのまま辛うじて大学に進み、そして、総合電機を手掛ける会社の子会社に就職した。私はいわゆるエンジニアになった。それも、システムエンジニアだ。
 プログラムの書き出しは紙テープに穴を開けたもの、しかも間違いがあればテープを切って繋ぎなおす。職人技だ。こんな世界をパソコンでプログラムを直接記述する今の時代の人から見たらまるでアナログと笑われてしまうかもしれないが、当時はこれがプログラミングの最先端だったのである。今でも懐かしく思い出す。
 そして、最初の給料を手にした時の感慨も。
 その初任給を手にした時、私はどうしても母のために懐中時計を贈りたいと願ったのだ。それは、私の贖罪でもあった。
 私の時計探しはこうして始まった。

 今でも、時折思うことがある。
 時計とは実に不可思議な道具だ。刻々と一定の間隔で時を区切り、人間の営みや思い出を刻んでいく。絶え間なく動く針に示される仕切りの中に、我々はそっと郷愁を閉じ込め苦みを和らげ甘美なものへと昇華させていく。
 私の懐中時計探しは想像以上に難航した。
 心が、まるで動かないのだ。
 方々を探し回った。デパートに足を運び、電話帳をひっくり返して見つけた時計店も、骨董品店も、とにかく片端から巡った。だが、ない。値段だけの問題ではなかった。心に響かないのだ。
 それからどのくらい、探し回ったのであろうか。
 駄目なのか。あれでなければ、駄目なのか。
 ふとそんな問いかけに心が立ち止まった時、私は言い知れぬ絶望に慄いた。答えははじめからわかっていたはずだ。あれでなければ、駄目なのだ。あれでなければ。私の記憶を包み込み許してくれる時計は、最初からあれしかなかったのだ。
 私は立ち竦み、慌てて目頭を押さえた。止められなかった。
 私の両目から溢れ出した雫は熱い感情とともに頬を伝わり落ちていく。嗚咽はかろうじて堪えたが、震える肩はどうすることもできなかった。
「あの……」
 と、突然声をかけられた。
 はっとして顔を上げると、女が一人心配そうに私を見つめている。
 そこは古びた時計店の中だった。
「すみません」
 私は慌てて背広の袖で涙をぬぐい、顔を背けた。「すみません」
「あの」と、女はもう一度声をかける。「良ければ、使ってください」
 驚いて振り返ると、花柄のハンカチが目の前に差し出されていた。そんな彼女は今では私の妻であり、今でも私の最大の理解者でいてくれている。
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