4 二人の時間

文字数 1,770文字

 そうして半ば強引に妻に連れられて、私たちは都立八柱(やはしら)霊園へと向かったのである。
 常磐線の松戸駅から妙にローカルな電車に乗り、八柱(やばしら)駅で降りてさらにバスに乗る。
「ヤハシラなの? ヤバシラなの?」
 子供たちが駅の名前と霊園の名前を見比べながら不思議そうな顔をする。
「誰の、墓なんだ?」
 だだっ広い霊園を歩きながら問いかける私に、妻は静かに一つの墓石を指し示した。
「あなたの、お母さま」
 誰が供えたのか、鮮やかな百合の花に囲まれた墓石の前で私は足を止め、一瞬だけ思考を止めた。妻は静かに頷き、その百合の花の横に持参した仏花を添える。
「本当に?」
 墓石に刻まれているのは知らない姓だ。
「横を見たら?」
 言われて覗くと、石には懐かしいその名が刻まれていた。
「お墓は自分で用意したのですって」
 私は顔上げて妻を見た。
「説明、してくれるのか?」
 妻は静かに頷き、私に小さな包みを手渡した。
 私はゆっくりとそれを開く。私の手の中にあったのは、あれほどまでに探し求めた、あの懐中時計だった。

 私の母と父は東京で出会ったという。
 母は女学校に通い、父は生まれて間もない私を抱えて日銭を稼いでいた。私の生みの母は産褥熱が原因で亡くなったという。母と父はすぐに恋に落ちたが、裕福な母の家はそれを許さなかった。結局駆け落ちに近い形で二人の生活は始まったが、戸籍から居場所が知られることを恐れて結婚はしなかったのだとか。
 そうこうしているうちに戦争は激しくなり、父はそれにより命を落とした。
 戸籍上の繋がりも、血の繋がりもない私という存在だけが母に残されたのだ。
「実家に帰ることは、考えなかったのだろうか」
 私が言うと、妻が答える。
「はっきりとは聞かなかったけど、きっとあなたのためでしょうね」
 私は考えた。
 もしも母が実家に戻ったら、私という人間はどうなっていたのだろうかと。戦争孤児として暮らし、もっと荒んだ人生を歩んだ可能性さえあったのではないか。
 しかし、母との暮らしは本当に貧しかった。
 貧しいながらに幸せではあったかもしれないが。
「日々の暮らしはどうにかなったけど、どうしても工面できないお金があったとか」
「進学の金か」
 こくりと妻は頷いた。「あなたをどうしても高校に行かせてやりたくて、初めて実家を頼ったそうです」
 その時、条件を出されたのだ。私が就職したら、私に何も告げずに実家に戻るという条件を。母はそれでもしばらく逡巡したようだが、いよいよ私が結婚するという段になって覚悟を決めたのだろう。
 戸籍を知られれば、わかってしまうから。
 そして私の前からいなくなってしまった。
「戻る必要があっただろうか」
 私は言った。「わけを話してもらえれば」
「事実を受け入れた?」
 妻が言う。「それは、今だから言えるのではなくて?」
 言い返せずに黙った私に、
「……と、ここまでが、私がお母さまから聞いた話」
 言いながら妻はくすくすと笑う。「ここからは、お葬式の時にそのお兄さまから聞いた話」
 突然帰ってきた妹が、突然に主張したのだという。遺産の相続を。
「すでにご実家のお父様は他界されていて、しかもお母さまは相続排除されていたわけではなかったそうなの。だから少なくとも遺留分を相続する権利はお持ちだったの」
 しかし、今まで勝手に家を出ていた女が突然戻ってきて遺留分を主張されては、残って家を守ってきた方はいい気分ではなかろう。
「だから、お兄さまは意地悪を言ったそうなのよ」言いながら懐中時計に視線を落とす。「それも取り上げたのですって」
 葬式の日に返してもらった、と妻は言う。
「葬式、出たのか」
 驚く私に妻が言う。「呼んでもらえたから」
「死に目には?」
「孫の顔を見て、嬉しそうに笑っていましたよ」
 私は懐中時計に視線を落とした。それは静かに、刻々と、時の移ろいを奏でていた。
「まだ動くのだね」
「だって、私が直したのだもの」
 言い知れぬ笑いが漏れ、私も妻も温かな気持ちで笑い合った。母に私たちのこの幸せを、きちんと伝えるために。

「……ねえ、おばあさま」
 孫娘が妻を呼ぶ声が聞こえて私は顔を上げた。手にしているのはあの懐中時計だ。
「私がお嫁に行くとき、この時計をもらってもいい?」
 妻は静かに読みかけの本を置き、眼鏡を外して微笑んだ。
「二人の大事な時間を、大切に刻みなさい」
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