3 それから

文字数 2,530文字

 結局、恥ずかしくも子供のように泣きはらした私は店の奥に連れ込まれ、感情の高ぶりが立ち去るまで呆然としながら時間を潰した。この店の娘だという彼女は私のそばに居たり、離れたりを繰り返したが、私の絶望が時の中に刻まれ薄らいでいく頃合いを見計らって静かに私の横に腰を下ろし、静かにそれを待った。
 促されるように私はぽつり、ぽつり、と思いのたけを言葉にした。
 彼女は黙ってそれを受け止め、静かに時だけを見つめていた。
 彼女が隣にいるというだけで、私にも時の流れが見えるように感じられた。
 しばらくして彼女は立ち上がり、またしばらくして戻ってきた。手には小さな銀色の懐中時計を握り、じっと大事そうにその手を見つめている。
「失ったものを取り戻すことはできません」
 物静かな口調で彼女は私に言った。「時間を巻き戻せと言うのと同じで、そもそもが不可能なのです」
 そうして膝の上で握りしめられた私の右手を返し、開き、そっと懐中時計を置いた。
「だからもう一度新しく始めなければ、進めなくなってしまいます」
「これは?」
 右手の懐中時計に目を落として私が問う。その時初めて、彼女は屈託のない笑顔を私に見せた。
「私の処女作です。残念ながら時を刻ませると狂っているということがすぐにわかります。でも、時にはいい加減なくらいがちょうどいい場合もありますよね?」
 この懐中時計は、今でも私の机の中に大事に保管されている。

 小さな時計屋の跡取りだった彼女は、父親の元で自作の時計を作ったり、あるいは客の持ち込む時計を修理したりして細々と生計を立てていた。
 私たちは静かに、そしてゆっくりと愛を育んだ。
 時代は進み、折しも大量生産、大量消費の時代である。時計を修理してまで使う人は減ってきていた。店を畳むことも考えていた彼女の両親は、安定した月給で働く私との交際を娘のために心から喜び、話はなんの障害もなく淡々と進んでいった。
 私は彼女にありきたりで陳腐なプロポーズをし、彼女の両親に頭をさげた。彼女はあの瞬間、誰よりも幸せな顔をし、そして私もまた、世界で一番幸せな男だった。
 そして、いよいよ母に彼女を紹介しようと、私は彼女を連れて数年ぶりの里帰りをした。働き始めてからは盆も暮れも忙しく、仕送りだけで済ましてしまっていたのだ。
 しばらく見ぬうちに、私の母はとても小さく縮んだような気がした。
 私が彼女を紹介すると、小さな母は小さく「そうかい」と頷き、見定めるように彼女を見つめた。それから私に向き直り、
「しばらく外してもらえないか。この人と女の話がしたいのさ」
 と言う。
「女の話って、それはまたけったいだね」
 私が言うと、母はあっけらかんと笑い、
「早く出てお行き」
 詳しく話すでもなく、私は追い出された。
 この時の母が彼女に何を語ったのか、彼女は長いこと私に対して沈黙し続けた。私が何を問うても答えてはくれなかった。
 そして、母はその時を境に私の前からふっつりと姿を消してしまったのである。
 何の足跡も残さず。
 そう。母は何一つ残さなかったのだ。
 ただひとつの決定的な事実を除いては。
 私は何の疑いもなく追い出された足で役所に向かい、自らの戸籍謄本を取得した。婚姻届けを新居の住所地で出すことを決めていた私にはそれが必要だったからである。中身を見て驚いた私は役所から飛んで実家に戻り、そして母の失踪を知った。妻となるべき未来の花嫁はそんな私を覚悟の瞳でしっかりと見つめ、首を振った。
「お願い、探さないであげて」
「女の話って、そういうことか?」
「そういうことも、です」
 私は震える手で戸籍謄本の紙を握りしめた。なかったのだ。その謄本には、なかったのだ。
 母の名前が。
 ただ、故人となった父の名と、そして父親の死亡より以前に死亡したという配偶者の名(私の知らぬ女の名前だ)、そして子である私の名前の三つが、そこには無表情に記されていた。
 母は、私をここまで育ててくれた母は、あの女は、一体、何者だったのだ。
 私は役所に取って返して彼女の住民票を取得しようとしたが、名前が違うのか取得することができず、私自身の住民票には私の名前しか記載されていなかった。
 私は母の姓さえも、知らないのだ。
 何もわからずに、ではどうやってあの女を探したらいいのか。
 私はどうしたいのだ。
 答えのわからぬ迷路に、私は迷い込んだと思った。
 だからなのだろうか。次の事実を突きつけられても、私は特段驚きはしなかったのだ。
 久しぶりに郷里に戻った私は久しぶりに恩師と直接会い、そして、借りた金の一部を返済しようとして、それは拒否された。すでに返したはずの分もまとめて、それは私の手元に返ってきた。
 恩師は言う。
「君の母上は、行ってしまわれたのか」
「全部、ご存じだったのですか」
「全部というほどではない」
「しかし、金は母が出していたということですね」
「うむ」
 恩師は短く頷き、腕を組む。「怒っているのか?」
「怒るなんてことはありません」
 私は言い返した。「ただ、私は悲しいのです」
 恩師は腕を組んだままじっと私を見つめ、笑う。
「おまえも大人になったな」
 私には返す言葉がなかった。

 そこから十年以上の月日が矢のように過ぎ去っていった。私は子宝に恵まれ、上の子供は小学生になった。仕事は日毎に多忙を極めて私は家を留守にしがちになったが、どうしたことか妻もまた、家を空けることが多くなってきていた。
 職場の同僚からは倦怠期と笑われ、家のことに無関心すぎてやしないかと言われたが、私には思い当たることが多すぎて、だからといって簡単に態度が改められるほど柔軟な若さを失った身では、それを覆すほどのきっかけさえ掴めずに悶々とする日が続いた。
 そのようなすれ違いは二か月ほど続いただろうか。
 夕食の席で妻が突然、妙なことを言ったのである。
「四十九日が過ぎましたので」
「誰か、亡くなったのか?」
 驚いて問う私に妻は静かに「はい」と答える。
「明日、付き合っていただけますか?」
「……どこに?」
「八柱です」
 呆けた顔をする私を見ながら妻がからかうように笑う。「千葉県です。とてもきれいな霊園ですよ。季節もいいし、お弁当でも持っていきましょうか」
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