1 母の時計

文字数 2,507文字

 今にして思えば、それは私の人生そのものだったのだ。
 どことなく古びていて、懐かしくて、優しくて、それでいて、母に一番に似合う懐中時計。
 たった一人で私を育ててくれた母のための懐中時計、いや、それはある時からぽっかりと開いた私自身の心の穴を埋めるためのもの。私は懐中時計に母の面影を追いかけ、懐中時計に母の温もりを重ね、そして私の人生を委ねた。
 父親は戦地で死んだ。その人の記憶はまるで残っていない。あるいはまともな思い出が何もないので消し去ってしまったのかもしれない。家は空襲で焼け崩れ、母に残されたものは幼い私ひとりだけだった。
 とにかく私の家は貧しかった。母は私を養うために働き詰めだった。朝から晩まで、私は母の働く姿ばかりを見て育った。昼は地主に雇われて田畑を耕し、夜は遅くまで何かを作っていた。玩具の部品ではなかったかと思う。私の手には決して手に入ることのない玩具。どれほど作っても大した金にはならないのに、そんなものを母は寝る間も惜しんで作り続けていた。それがどれほど惨めなことであったか。どれほど情けないことであったか。
 家計は食べることがやっとで、私は常にぼろぼろの服を着て、靴など買えるはずもなく寒い冬でも裸足の生活だった。学校に通い始めても、教科書はおろか文具すらまともに買えず、母は近所中を回って使い古しの教科書や短くなってほとんど使えないような鉛筆をかき集めてきた。こんなもののために頭を下げている母が、私はこの上なく恥ずかしかった。
 しかし、母は平然としたものだった。
 今にして思えば、母には少し浮き世離れたところがあったのだ。苦労を辛いと言わず、貧しさを苦しいと言わない。食べるものが何もない日は「まあ、そんなものさ」と平気な顔をして水を飲む。それこそが母の強さだったのかもしれない。おかげで私も逞しく育った。
 金のないことを理由に馬鹿にもされたし苛めもされたが、だからと言って自分がこの社会の底辺だとは思わなかった。

 母と私の関係は、表面上は実に穏やかなものだった。
 しかし、一度だけその関係が大きく揺れたことがある。それは私が中学三年に進学したばかりの時のことだ。
「高校は、もう決めたのか?」
 と、母は突然言い出した。
「何を言っているんだ?」
 私は驚いて母に言い返した。「働きに出る」
「高校、行きな」
 母はそう呟くように私に言った。
 もとより朴訥な母である。自分から何かを言い出すということが少ない。そんな母が突然話し始めることも意外であったし、高校の話をすることも意外であった。
 今更、という気持ちもあった。
 中学を卒業したら働き口を求めて上京することはもう決めていた。教師にも話してある。人手不足の都会での就職は選ばなければ(あぶ)れることはない。上野に行ってしまえばもう、こんな田舎とはお別れだ。貧乏生活ともお別れだ。母だって楽にさせてやれる。そんな風に思っていた。
 そんな私の気持ちを知らない母が言う。
「金なら心配しないでいい」
 その時目覚めた私の感情は何であったのか、今となってもはっきりとはわからない。ただ、私の中には黒い感情が吹き荒れた。
 それは、怒りだったのか。
 いや、それだけではない。
 ひとことでは語れない恥ずかしさや、情けなさの入り混じったその憤りは私という肉体を打ち砕いて血のように吹き出し、荒ぶる神の如く大いに荒れ狂った。理性では抑えがきかなかった。
「金が、あるのか?」
 私は言った。自分の声とは思えないほどに震えていた。
「そんな金があるなら、もっとましなものが、食えるだろ?」
 あの時私に見せた母の困惑顔、私は今でも忘れることができない。それでも怯むことなく母は、小さな声で私に言った。
「金は、作る」
「どうやって!」
「大丈夫だ。心配しないでいい」
 その時の私の心は鉄のように固く無機質で、それでいて炎に熱されたように熱かった。考えるということを放棄した私はそばにあった熱い汁の入った椀を力の限り母に投げつけていた。あの時の私の顔はきっと夜叉のようにおぞましいものであったろう。己の顔を庇った母の腕から湯気が立ち上るのを見て、私は心の嗚咽と共に自我を取り戻した。
 私は思わず居間を飛び出し、ピシャリと部屋の扉を閉めた。貧乏ではあったが、田舎ゆえに母と私のそれぞれの私室くらいは持てたのだ。部屋に閉じこもった私は両の手を力強く握り合わせ、野獣の如く呻いた。
 後悔。いや、そんな言葉では生ぬるいほどの悔恨の思いを、私は涙と共に握りしめた。
 そして翌日、私は母に詫びを入れた。
「火傷、しなかったか?」
 母は静かに笑った。
「あんなもんで火傷するかね」
「卒業したら、東京に出る」
「……そうかい」
 母は感情の読み取れない顔で、頷いた。
 それで収まったはずだった。
 だが、私の心の中の黒い感情はそれから数日間にわたって燻り続け、気付いた時には再び歯止めが利かない状態にまで燃え上がっていた。私は母の留守を狙って母の私室を漁った。
 金があるのだ。
 隠してあるのだ。
 まるで高利貸しが借金を取り立てるように私は容赦なく母の部屋を漁った。
 箪笥の上の引き出しからなけなしの現金が出てきた。とてもではないが、それで高校に行けるというものではない。それでも私は乱暴にその現金を掴み、そして、気が付いた。ない、という事実を。
 そう、なかったのだ。あれが。
 母が何よりも大切にしてきた、あの懐中時計が。
 さっと血の気が引き、私は握っていた現金を手放した。その時ようやく気が付いた。現金は小さく折りたたまれた紙に挟み込まれていた。私は紙を広げた。
 受験料、入学金、授業料、下宿代。
 事細かに数字が羅列されている。
 意味はすぐにわかった。母はあれを売ってしまったのだと。そして、このなけなしの現金は懐中時計の成れの果てなのだ。私のために、売ってしまっていたのだ。
 父との唯一の思い出を。
 父の唯一の形見を、母は手放していたのだった。
 馬鹿だな。こんな金で高校になど行けるものか。
 私の頬を何かが伝い落ちていった。心疚しい思いをその中に含ませて。
 結局それ以来、進学の話を母とすることはなかった。
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