小栗 優
文字数 3,729文字
真っ白い壁。並んだ箱?銀色のそれはロッカーをただ横倒したようにも見える。それが6つ。
「おはようございます」
声の元をふりかえってその髪型に思わず吹き出す。てかてかと整髪料の光るオールバック。黒ふちの眼鏡がキラリと光る。ガリ勉君が無理矢理に悪ぶったみたい。まぁ、僕よりも大分年上だからガリ勉君って呼ばれることはないのだろうけど。
「ごめんなさい。えぇっと?」
相手の姿をみて笑うなんて、ひどいことをしたと謝る。学校で知らない人に不用意に答えてはいけないと、口を酸っぱくして言われているけれども。知らない場所に知らない人……異常事態だ。これを乗り越えるのは中学生の僕には難しい気がする。
「小栗 優さま。これからお世話をさせていただきます、田中太郎と申します」
田中さんは大人なのに子どもの僕にもきちんとに礼をする。その行動だけで信じてもいいいんじゃないか?とそういう気持ちにさせる。
ちらりと自分の腕時計をみて意を決して言う。
「僕、塾にいかないとだめなんです」
「それでしたら」
ぱちんと指を鳴らす。周りが見慣れた塾の一室になる。男が電子機器を渡す。
ノートと書かれたアイコンをタップする。
男が差し出してきた椅子に座り待つ。
やがて先生がくる。立ち上がって礼。
それで気づいた。
「あの、これ音声飛んでませんか?」
全くの無音。しかし、板書が始まってしまったので、失礼だとは思いながら目の前のホワイトボードへ集中する。
同級生のひそひそ話や背中をつつく感触のない塾体験は思ったより快適で。たったひとつ、そして最大のデメリットが「先生が書かずに言葉だけで説明したところがわからない」こと。
3時間の授業を終えて伸びをする。
軽く腰を捻り男を診て思い出す。
「……僕帰らなきゃいけないんです」
「私は、49日間小栗さまのお世話をするように言われています」
腰を落として目線をあわせてくる男。大人がこういう対応するということは。
「……勉強合宿ですか」
大きくため息をはいて答える。
少し前にも目が覚めたらログハウスで、訳のわからないまま、勉強合宿が突然に始まった経験がある。
「母に電話していいですか?」
勉強は苦ではないけれど、こんな風に突如放り込むのは止めてほしいと先日さんざん言ったばかりだ。
「申し訳ございません。音声通信はできません。ご自宅の様子が気になるのでしたら……」男の言葉を合図に景色が変わる。
見慣れた玄関、物足りないのはうるさいくらい鳴く飼い犬の太郎の声が聞こえないから。
試しにいつも太郎がいる場所を見ると丸まってよく寝ているだけだった。
ドアを開き、中に入る。
いつものように自室の二階に向かいかけて立ち止まる。
ひょいと覗いた居間で母親がアイロンをかけている。なんの問題もなさそうだ。
そのまま二階に上がる。
机と参考書、簡易ベッドだけの簡素な部屋。
机の参考書に手を伸ばそうとしてすり抜ける。
「あ」
これが映像だということをすっかり忘れていた。
「''23xx年版 高校入試数学対策 応用''の本ってありますか?」
「こちらに」
本のアイコンをタップして差し出される。
「ノートか、もう1台ありますか?」
電子機器を指して問えばスッともう1台差し出される。
先生の言葉が聞けなかった分の復習がこれでできる。
「このくらいでいいかなぁ」
ふと、何処にも時計がないことに気づく。
「あの、今何時ですか?」
問いかけると男は
「3日目です」と答えた。
「塾にいかなきゃ!!」
叱られる!!と心臓がばくばくする。
「小栗優様、塾にいきたい理由はなんですか?」
田中さんに問われたが意味がわからない。
「え?学校の授業だけじゃ足りないから。自分の今の身の丈のひとつ上のランクの高校に入って、2つ上の大学を目指して3つ上の会社に就職するためだよ。若い内の苦労は買ってでもせよって言うじゃないですか」
「それは、小栗さまの言葉ですか?」
返されて言葉がでない。
「とにかく塾に!」
「適度な休憩で学習効率が上がるのは周知の事実かと思います」
「でも欠席したら怒られるんだ!」
「思い出してください。すでに小栗様は」
……あぁそうか、出席はしていない。ここで見てただけだ。
僕が理解したことを表情で読み取ったのだろう。
「1日も2日も49日も変わらないと思います」
とんでもないことを言うもんだ、と吹き出してしまう。
「49日はさすがにね。わかりました。少し休みます」
寝心地の良さそうなベッドが現れてそこで目を閉じる。
「15日目です、小栗様」
声に起こされる。
アァ。また寝返りせずに寝ちゃってたみたい。軋む背中や腕をゆっくりと伸ばしながら周囲を見回す。
「ここは……」
いいながら15日目という言葉を思い出して飛び起きる。
「遅刻!!」
「大丈夫です、49日間の小栗様の行動の責任は私がとります」
田中さんが微笑んで言う。
「未成年だけど、もう子供じゃないんだから、その言葉がなんの保証にもなってないのを知っているよ」
一瞬安堵してしまった自分を律して言う。
「……それでは他にどんなことを知っているのか教えていただけますか?」
「うーん……1度転落したら這い上がるのは転がり落ちるよりも何倍も時間がかかるとか?……ですかね」
うっかりと丁寧語が抜けていたことに気づいて付け足す。
「何倍も時間がかかると、なにか不都合がありますか?」
「効率悪いでしょう?」
「効率は何かを為すための手段ではないですか?それが不都合には直結しないと思います」
「……人生は有限でしょう?効率の悪いやり方をして、なにも得られないまま歳を取って亡くなることに意味がある?」
「人生の意味ですか。人が思考をするようになってから、ずっと問われ続けている難問ですね。もしかして鈴木さまはその答えを知っていますか?」
「……何かを得られたならそれは意味があったのだと思う」
「鈴木さまが得たいのはたしか……」
「今の実力の3つ上の会社に入社すること」
言いながらこれまで疑ってなかった常識が覆るのを感じている。
入社は20代前半には果たせるだろう。そこで僕の人生の意味は完遂されるのだろうか?
「少々難しすぎたでしょうか?」
僕が黙りこんだのをみて田中さんが心配そうに顔を覗きこむ。
「大丈夫です……すこし、考えてみてもいいですか?」
「えぇ、それでは私は今日のところはこれで失礼します」
しっかりと礼をしてドアの外へと、田中さんが消えていく。
わからない。わからないから参考書を開く。
何処にもその答えは載ってはいないけども。
解いたものを答え合わできるその単純明快さが。
知れば世界の動きを知ることができるお手軽さが。
他者理解なんて曖昧な概念でなく物質的に他を理解しようとする姿勢が。
僕は好きなんだ。
「やっぱりさ、塾の映像は流してよ」
空に向かってお願いする。
スッと変わった映像が答えだった。
やっぱり、音声のないその授業は難しい。
それからひたすらに勉強し、ひたすら眠った。
「45日です」
いつから居たのだろうか?
田中さんが僕の右側でそういった。
「田中さん、僕わかった気がする」
「なにをでしょうか?」
「人生の意味ってさ、何を成すかじゃなくて、何を成したいかなんだよ」
「といいますと?」
「大人はさ既にわかってるの。'自分が成したかった物'がなにか。
だから、成したい物がわかってる前提で勉強しろ、より良いステータスのために。ってその方法論だけを繰り返し繰り返し言うんだね」
「あるいは、大人もまた何を成したいのか分からないのかもしれませんねぇ」
顎に手をやり感心したような顔をする田中さんの反応が嬉しくて続ける。
「僕は大人の評価がほしくて勉強してたの。ここに来る前。今だって田中さんの反応が嬉しいから僕は話してる。何が変わったかと言うと」
一気に話してしまってから反応をうかがう。田中さんは急かすでもなく温かく見守っている。
「……知識を得たことの評価をもらってそこで立ち止まるのはもったいないってわかった。あと……塾の映像で勉強してて分かったのが……」
「なにをですか?」
「口語は便利だけどいろんな人と共有したいならそれだけに頼ったらダメってこと」
「小栗様の発想展開は非常に興味深いです」
「田中さんが人生の意味ってなに?なんて問いかけてくれなかったら今の自分はないよ」
「これが、男子3日会わざれば刮目してみよ!なのでしょうかね?」
「そんなに成長したかな?」
照れ臭くなって笑う。
「それでは。小栗様、さようなら」
ドアが開いて、眩しい光がドアの形からこぼれてくる。
「ありがとう田中さん」
ツンとした鼻を意識しないようにして一歩を踏み出す。
「おはようございます」
声の元をふりかえってその髪型に思わず吹き出す。てかてかと整髪料の光るオールバック。黒ふちの眼鏡がキラリと光る。ガリ勉君が無理矢理に悪ぶったみたい。まぁ、僕よりも大分年上だからガリ勉君って呼ばれることはないのだろうけど。
「ごめんなさい。えぇっと?」
相手の姿をみて笑うなんて、ひどいことをしたと謝る。学校で知らない人に不用意に答えてはいけないと、口を酸っぱくして言われているけれども。知らない場所に知らない人……異常事態だ。これを乗り越えるのは中学生の僕には難しい気がする。
「小栗 優さま。これからお世話をさせていただきます、田中太郎と申します」
田中さんは大人なのに子どもの僕にもきちんとに礼をする。その行動だけで信じてもいいいんじゃないか?とそういう気持ちにさせる。
ちらりと自分の腕時計をみて意を決して言う。
「僕、塾にいかないとだめなんです」
「それでしたら」
ぱちんと指を鳴らす。周りが見慣れた塾の一室になる。男が電子機器を渡す。
ノートと書かれたアイコンをタップする。
男が差し出してきた椅子に座り待つ。
やがて先生がくる。立ち上がって礼。
それで気づいた。
「あの、これ音声飛んでませんか?」
全くの無音。しかし、板書が始まってしまったので、失礼だとは思いながら目の前のホワイトボードへ集中する。
同級生のひそひそ話や背中をつつく感触のない塾体験は思ったより快適で。たったひとつ、そして最大のデメリットが「先生が書かずに言葉だけで説明したところがわからない」こと。
3時間の授業を終えて伸びをする。
軽く腰を捻り男を診て思い出す。
「……僕帰らなきゃいけないんです」
「私は、49日間小栗さまのお世話をするように言われています」
腰を落として目線をあわせてくる男。大人がこういう対応するということは。
「……勉強合宿ですか」
大きくため息をはいて答える。
少し前にも目が覚めたらログハウスで、訳のわからないまま、勉強合宿が突然に始まった経験がある。
「母に電話していいですか?」
勉強は苦ではないけれど、こんな風に突如放り込むのは止めてほしいと先日さんざん言ったばかりだ。
「申し訳ございません。音声通信はできません。ご自宅の様子が気になるのでしたら……」男の言葉を合図に景色が変わる。
見慣れた玄関、物足りないのはうるさいくらい鳴く飼い犬の太郎の声が聞こえないから。
試しにいつも太郎がいる場所を見ると丸まってよく寝ているだけだった。
ドアを開き、中に入る。
いつものように自室の二階に向かいかけて立ち止まる。
ひょいと覗いた居間で母親がアイロンをかけている。なんの問題もなさそうだ。
そのまま二階に上がる。
机と参考書、簡易ベッドだけの簡素な部屋。
机の参考書に手を伸ばそうとしてすり抜ける。
「あ」
これが映像だということをすっかり忘れていた。
「''23xx年版 高校入試数学対策 応用''の本ってありますか?」
「こちらに」
本のアイコンをタップして差し出される。
「ノートか、もう1台ありますか?」
電子機器を指して問えばスッともう1台差し出される。
先生の言葉が聞けなかった分の復習がこれでできる。
「このくらいでいいかなぁ」
ふと、何処にも時計がないことに気づく。
「あの、今何時ですか?」
問いかけると男は
「3日目です」と答えた。
「塾にいかなきゃ!!」
叱られる!!と心臓がばくばくする。
「小栗優様、塾にいきたい理由はなんですか?」
田中さんに問われたが意味がわからない。
「え?学校の授業だけじゃ足りないから。自分の今の身の丈のひとつ上のランクの高校に入って、2つ上の大学を目指して3つ上の会社に就職するためだよ。若い内の苦労は買ってでもせよって言うじゃないですか」
「それは、小栗さまの言葉ですか?」
返されて言葉がでない。
「とにかく塾に!」
「適度な休憩で学習効率が上がるのは周知の事実かと思います」
「でも欠席したら怒られるんだ!」
「思い出してください。すでに小栗様は」
……あぁそうか、出席はしていない。ここで見てただけだ。
僕が理解したことを表情で読み取ったのだろう。
「1日も2日も49日も変わらないと思います」
とんでもないことを言うもんだ、と吹き出してしまう。
「49日はさすがにね。わかりました。少し休みます」
寝心地の良さそうなベッドが現れてそこで目を閉じる。
「15日目です、小栗様」
声に起こされる。
アァ。また寝返りせずに寝ちゃってたみたい。軋む背中や腕をゆっくりと伸ばしながら周囲を見回す。
「ここは……」
いいながら15日目という言葉を思い出して飛び起きる。
「遅刻!!」
「大丈夫です、49日間の小栗様の行動の責任は私がとります」
田中さんが微笑んで言う。
「未成年だけど、もう子供じゃないんだから、その言葉がなんの保証にもなってないのを知っているよ」
一瞬安堵してしまった自分を律して言う。
「……それでは他にどんなことを知っているのか教えていただけますか?」
「うーん……1度転落したら這い上がるのは転がり落ちるよりも何倍も時間がかかるとか?……ですかね」
うっかりと丁寧語が抜けていたことに気づいて付け足す。
「何倍も時間がかかると、なにか不都合がありますか?」
「効率悪いでしょう?」
「効率は何かを為すための手段ではないですか?それが不都合には直結しないと思います」
「……人生は有限でしょう?効率の悪いやり方をして、なにも得られないまま歳を取って亡くなることに意味がある?」
「人生の意味ですか。人が思考をするようになってから、ずっと問われ続けている難問ですね。もしかして鈴木さまはその答えを知っていますか?」
「……何かを得られたならそれは意味があったのだと思う」
「鈴木さまが得たいのはたしか……」
「今の実力の3つ上の会社に入社すること」
言いながらこれまで疑ってなかった常識が覆るのを感じている。
入社は20代前半には果たせるだろう。そこで僕の人生の意味は完遂されるのだろうか?
「少々難しすぎたでしょうか?」
僕が黙りこんだのをみて田中さんが心配そうに顔を覗きこむ。
「大丈夫です……すこし、考えてみてもいいですか?」
「えぇ、それでは私は今日のところはこれで失礼します」
しっかりと礼をしてドアの外へと、田中さんが消えていく。
わからない。わからないから参考書を開く。
何処にもその答えは載ってはいないけども。
解いたものを答え合わできるその単純明快さが。
知れば世界の動きを知ることができるお手軽さが。
他者理解なんて曖昧な概念でなく物質的に他を理解しようとする姿勢が。
僕は好きなんだ。
「やっぱりさ、塾の映像は流してよ」
空に向かってお願いする。
スッと変わった映像が答えだった。
やっぱり、音声のないその授業は難しい。
それからひたすらに勉強し、ひたすら眠った。
「45日です」
いつから居たのだろうか?
田中さんが僕の右側でそういった。
「田中さん、僕わかった気がする」
「なにをでしょうか?」
「人生の意味ってさ、何を成すかじゃなくて、何を成したいかなんだよ」
「といいますと?」
「大人はさ既にわかってるの。'自分が成したかった物'がなにか。
だから、成したい物がわかってる前提で勉強しろ、より良いステータスのために。ってその方法論だけを繰り返し繰り返し言うんだね」
「あるいは、大人もまた何を成したいのか分からないのかもしれませんねぇ」
顎に手をやり感心したような顔をする田中さんの反応が嬉しくて続ける。
「僕は大人の評価がほしくて勉強してたの。ここに来る前。今だって田中さんの反応が嬉しいから僕は話してる。何が変わったかと言うと」
一気に話してしまってから反応をうかがう。田中さんは急かすでもなく温かく見守っている。
「……知識を得たことの評価をもらってそこで立ち止まるのはもったいないってわかった。あと……塾の映像で勉強してて分かったのが……」
「なにをですか?」
「口語は便利だけどいろんな人と共有したいならそれだけに頼ったらダメってこと」
「小栗様の発想展開は非常に興味深いです」
「田中さんが人生の意味ってなに?なんて問いかけてくれなかったら今の自分はないよ」
「これが、男子3日会わざれば刮目してみよ!なのでしょうかね?」
「そんなに成長したかな?」
照れ臭くなって笑う。
「それでは。小栗様、さようなら」
ドアが開いて、眩しい光がドアの形からこぼれてくる。
「ありがとう田中さん」
ツンとした鼻を意識しないようにして一歩を踏み出す。