第1話 同窓会
文字数 7,677文字
「ねえ加藤君、自衛官として戦争法についてどう思う?」
十五年ぶりに出会った初恋の女の第一声がこれである。
高校の同窓会だった。今まではずっと千葉県の習志野にいたのでご無沙汰していたが、運よく地元の師団司令部に異動になったのを機に、参加することにしたのだ。
烏山 かほりに会えるかもしれないと、期待していなかったと言えば嘘になる。実際、会場になった居酒屋の座敷で、十五年前より美しくなったかほりを見たときには、妻とふたりの子がある身でありながらときめいてしまった。
宴会が始まって、ジョッキを二杯も空けると、かほりが隣に座ってきた。年がいもなく鼓動が速くなった自分を恥ずかしく思う。
「戦争法なんて法律ねえよ。安保法制だよ」
「あら、憲法九条を骨抜きにして、戦争ができるようにする法律じゃない。戦争法よ」
高校のころ、頭もよく、スポーツもできて、はきはきしていて男ばかりか後輩の女子からも憧れられていたかほりが、頭の良さをおかしな方へ使ってしまったことに、いたくがっくりした。
「カボさん、俺の個人的見解じゃなくて自衛官として聞いてんだよな? 防衛省の広報室に聞いてくれよ」
「なあに、そう答えろって言われてるの? 自衛隊って、自分の仕事に関する法律について意見も述べてはいけない組織なの?」
勘の鋭い女は嫌いだ。
「命令に服従する義務があるからな。『自衛官として』って聞いただろう。なら、組織の見解と同じだよ」
かほりはひどく不満げな顔になった。
「防衛大学を出てると、そんな官僚答弁みたいなのも上手になるのね。高校生のときの、明るくてシンプルな加藤君も偉くなるとそうなってしまうのね」
俺の想いを知っていて、こんな当てこすりをしてくるのか。
シンプルとは単純バカということだろう。
「偉いってほど偉かないよ。三佐だからな」
「三佐って、旧日本軍で言う大佐?」
そんなことも知らないくせに安保法制にケチをつけようというのか。
「少佐だよ」
「大した違いじゃないわ。けど、責任ある立場というのは間違いないわよね。加藤君が殺せと言ったら部下は殺すし、死ねと言ったら死ぬんでしょ? それを禁じてきたのが憲法九条なのよ」
かほりの眼は酒で据わってきていた。何も知らないから、こんな極端なことが言えるのだ。初恋の甘酸っぱさは、すっかり発酵して苦くなっていた。だんだんイラついてくる。
「ええと、ただ死ねというのは正当な命令じゃないから、絶対に出さない。それに、誰彼構わず殺すわけじゃない。無力化といって敵が攻撃できなくなれば殺す必要もない。あと、武器を使えるのは正当防衛か緊急避難のとき、それと防衛出動で日本を侵略してくる敵に対してだけだ。カボさん、高校のときは成績良かったけど、自衛隊のこと何も知らないじゃねえか」
焼酎のロックをあおる。かほりはプライドを傷つけられたのか、顔を怒りに歪めた。
「加藤君こそ、歴史に学んでないわね。旧日本軍は中国や沖縄で誰彼構わず殺してるじゃない。それが軍隊の本質なのよ。私は加藤君にそんなことをさせたくないの」
「自衛隊は何度も海外に行ってるけど、そんなことはしたことがない。それに、現実として規律を完全に守る組織なんかあり得ないぜ。日本軍だけ悪者にしてるけど、戦争を経験した軍隊は、どこの国だってやってる。それこそ中国だってな」
歴史の話になると泥沼になるのは判りきっていたし、娑婆の人間 との論争は適当に流せと防大のときから言われていたが、もう止まらなかった。
かほりもジョッキを一気に飲み干して、ドンと机に置く。
「そんな開き直り、汚いわ。みんなが悪いことをしてるから、自分もしていいの? そんな小学生みたいな理屈しか言えないのかしら。加藤君はずいぶん自衛隊の規律がご自慢のようだけれど、今度海外派兵でリビアに行くじゃない。そこで強姦とか起こるんじゃないの?」
かほりがぴくぴくとまぶたを震わせながら、口元に蔑みを浮かべる。腹がふつふつと滾ってきた。
「俺の部下に、そんなことさせるかよ」
言って、しまったと思う。防衛省が発表する前に、部外者に教えるのは褒められたことではない。かほりがきょとんとした顔になった。
「加藤君……行くの?」
「……まだ決まったわけじゃないけどな」
ほとんど嘘だった。派遣命令が発簡されていないだけで、準備命令の編成表には名前が乗っているし、訓練も始めている。事故か急病にでもならない限り、まず行くことになるだろう。
「そう……」
かほりがうつむく。言い過ぎたと思っているのか。
「まあ、カボさんが心配してくれるのは判ってるよ。さっきも言ったけど、俺がいるかぎり、絶対にそんなことはさせない」
酔いの勢いも手伝って、かほりの肩にためらいなく手を置いた。
いきなりぱあんと手を弾かれる。ざわついていた宴席が、しんと静まりかえった。
「気安くさわらないでくれる? それに、カボさんなんて呼ばれるほど、加藤君と親しかったつもりはないけれど」
酔いも吹き飛ぶ豹変に、最初は驚き、だんだんと怒りがせり上がってきた。
「アカの腐れマンコが、いい加減にしろ! てめえらが何を知ってんだ? 俺らのことなんか何も知らねえだろうが。知ろうともしねえ脳なしが、口からクソ垂れ流してんじゃねえ!」
日米共同訓練で覚えたスラングが、流れるように吐き出される。後悔する前に、顔へビールを浴びせられた。
かほりが、顔を青白くしながらも眼を吊り上げて、肩を震わせている。ビールをかけられて少しは冷静になったが、とてもこのまま何事もなかったかのように飲む気にはなれない。
一万円札を、ばあんと机に叩きつける。ビール瓶が倒れ、唐揚げの大皿が浮いた。かほりがびくりと身体を震わせる。
「帰る」
かほりを必要以上に怯えさせてしまったことが、少しだけ気まずかった。
電車を乗り継いで、官舎の最寄り駅で降りる。コンビニに立ち寄った。
息子ふたりにはシュークリームを、妻のためにプリンアラモードを買う。飲んで遅くなる日は、いつもこうしていた。先輩から教わった生活の知恵だ。
コンビニから官舎へと続く道には、桜並木がある。もうとっくに花は散り、新緑の葉も次第に色を濃くし始めていた。
かほりに言われたことを思い出すと、まだふつふつと怒りが湧いてくる。昔は正面切って自衛隊の存在を否定されることもあったと聞いていたが、防衛大学に入学してから十数年、あからさまに面罵されたことはなかった。
ある意味、いい時代なのだろう。それだけに、かほりの極端な意見が情けなかったし、腹が立った。少なくとも、この短時間では自分も悪かったと思うことはできない。
官舎の狭い階段を、四階まで上がる。踊り場には、古くなった蛍光灯が明滅している。チャイムは押さずに、そっと鍵を開けた。
「ただいま」
居間で、妻がクッションに座ってテレビを見ていた。子供たちは、とっくに寝ている時間だ。
「おかえり。同窓会、楽しかった?」
「まあ、普通」
妻には、いまだ腹の底で煮えたぎる怒りを見せたくなかった。そういう配慮をしようと思うだけ、かほりよりは妻を愛しているのだと思う。
「おみやげ」
テーブルの上にプリンを置き、子供たちのシュークリームは冷蔵庫にしまう。
「なによ、太っちゃうじゃない」
そう言いながらも、すでに喜色を浮かべカップを開けて食べようとしている。正直、ふくよかな妻が好きだった。
「お風呂、沸かしなおしといたから」
帰る時間を伝えてもいないのに、妻の勘は冴えている。
そう深酒だったわけでもないが、風呂にはさっと入るだけにしておいた。
「おやすみ」
家族の寝部屋にしている八畳間には、布団が三枚敷かれている。すでに八歳と五歳の息子たちは、自由な寝相で気ままに散らばっていた。自分の布団に横たわる。
スマホを出して、会員制のSNSアプリを起動する。かほりに対して失望と怒りを同じ程度に感じながらも、無関心ではいられなかった。かほりのページを開く。
つい十分ほど前に投稿された記事があった。
俺が一時間前までいた居酒屋の座敷で、同級生たちが集まった写真が掲載されていた。
記事を読む。最初は久しぶりの同窓会が楽しかったなどと書いてあったが、ほとんどは俺との口論について書かれていた。
女は大抵そうだが、自分が何をしたかは一切説明せず、相手に何をされたか、相手がいかに自分を傷つけたかを延々と書いてあった。今から店に戻って、テーブルをひっくり返したくなる。
しかも、俺が三等陸佐で、リビアに行くことまで書いてあった。
顔をしかめる。準備命令は秘密区分があり、そう厳しくはないが限定された隊員しか見ることができない。もちろん不用意に口にした俺が悪いのだが、規則を厳密に適用すれば違反として処分される可能性はゼロではない。
最近は、SNSによる情報漏洩に防衛省もピリピリしている。もしかしたら調査の手が伸びてくるかもしれない。
初恋の相手への失望と、これから起こるであろう面倒に、俺はすべてを忘れてふて寝することに決めた。
「行ってらっしゃい」
日曜日の午後、玄関で妻と息子ふたりが見送ってくれる。喧嘩したとき以外は、この習慣が途絶えたことはない。週末の休みが終わる前に、俺は静岡県の駒門駐屯地にある国際活動教育隊に戻らなければならない。
「お父さん、いつ帰ってくるの?」
次男の永人 が、寂しそうな顔で見上げる。もう指揮幕僚課程 も放棄した身としては、子供たちにこんな顔をさせない平凡な仕事に転職したいという気持ちがしばしば起こるが、今辞めるわけにはいかない。
「また金曜日に、帰ってくるよ」
もう二十キロを超える永人を、荷物を持たない腕で抱き上げる。あと一年たったら、こんな芸当もできなくなるだろう。首筋にぎゅっと抱きつく顔が熱い。泣いているのかもしれなかった。
「じゃあねえ」
長男の央 はまったく悲しそうではない。何かを任せるにはまだ幼すぎるが、少しは頼もしく思う。玄関の扉を閉めた。
別れを惜しむのはここまでだ。
最寄りの駅から私鉄を乗り継いで、新幹線に乗る。三島駅までは一時間ほどだ。駅前に止まった赤いランドクルーザーの運転席から、腐れ縁のでこぼこ頭が顔を出す。
「同窓会はどうでした? 終身名誉誘導小隊長殿」
「いちいちその呼び方すんじゃねえよ、空野 」
この筋肉の塊にじゃがいもを乗せたような男は、空野神兵 という。俺は助手席に乗りこむと、缶コーヒーを渡してやった。
「いただきます。空挺団で小隊長ドライバーしてたときも、よくコーヒーくれたっスよね」
「誰でもやってるだろ」
空野はひと口でコーヒーを飲み干すと、スチール缶を紙コップのように潰した。
「じゃ、出発します」
ランドクルーザーがそろりと出発する。ほとんどの自衛官はそうだが、空野も外見に似合わず運転は繊細だ。
駅前の道を、車は富士山に向かって走っていく。
「くくっ」
運転席の空野が、含み笑いをする。
「なんだよ」
「いやあ、親父と小隊長、毎日のように喧嘩してましたよね。おかしくって」
「おまえ、それ何度目だよ。話がなくなるとそれしか言わねえよな」
空野の父親は大造 といい、空挺団の最先任上級曹長だった。ずいぶん前に定年になったが、空挺団の主 と言われた男で自衛官人生を空挺団にささげた。空野という苗字をいいことに、息子に神兵と名付けるような奴だ。
もちろん軍歌の「空の神兵」から取っている。
「最初に喧嘩したの、小隊長が着隊した日でしたよね。まだ三尉にもなってない候補生が、団の最先任に口ごたえするんですから、ビビったっス」
「いやさ、いくら年上だって俺より階級下だろ。いきなり『挨拶が悪い』は階級社会舐めてるよ。何年自衛官やってんだ」
「まあ、正論っスよ。そっくり同じ言葉言ってたの、覚えてるっス。親父のやつ、何言われたのか判らないみたいにぽかんとして、そのあとようやく怒鳴ったっスね」
空野がまた笑う。今は年上で階級が下のベテランをどう扱うかは心得ているが、若いころは思いのままにしか行動できなかった。
「親父さん、今どうしてんだ」
「毎日十キロの駆け足と腕立て・腹筋を百回ずつやってから、棒振りに行ってるっス」
棒振りとは警備会社の交通誘導員のことだ。空野の親父は准尉で退官したので、五十四歳で再就職した。
「何だか切ないよな。空挺団じゃ泣く子も黙る鬼の先任が、一日中道路に立って誘導してんのはよ。息子が働いてんだからよ、もう隠居してもいいじゃねえか」
「親父に隠居なんて何の冗談スか。そんなの、一番似合わないって小隊長が知ってるでしょう」
「まあな」
窓の外が、見慣れた御殿場市街のものになっていた。富士山が近くなってきている。富士山を見るたび、空挺レンジャー課程でシゴかれた思い出や、二夜三日で富士山一周百五十キロを歩く行進訓練を思い出してうんざりする。できれば二度と拝みたくなかった。
「富士山、見飽きたな」
「いやあ、オレも来年幹部上級課程 っスからねぇ。また富士学校っスよ。指揮所演習 って、マジ泣きするまでシバかれるんスよね」
「そうだよ」
まあ洗礼のようなものだ。幹部は全員経験する。空野は、俺が空挺団にいるときに部内幹部候補生試験に合格していた。
「まあ、小隊長も空挺団長かったっスよね。幹部候補生学校 卒業して、同じ部隊に十年もいる人、珍しいス」
「いなくはないけどな」
そのおかげで、敵地に真っ先にひとりで飛びこむ誘導小隊長をやらせてもらえた。
「いい小隊長でしたよ」
「何言ってんだ」
不意打ちのような言葉に、少し驚く。
「オレも新隊員後期から空挺団にいましたけど、終身名誉誘導小隊長なんて仇名 がついたのは、小隊長だけっス」
「……ふん」
窓の外に顔を向ける。市街地から県道に入っていた。柵が見える。駒門駐屯地の営門をくぐるまで、もう少しだった。
「照れてるんスか?」
「馬鹿言え」
「生活隊舎の三階からシラフで『俺の五点着地を見ろ!』って本当に飛び降りた幹部なんて、小隊長しかいなかったスよ。あれでみんな、小隊長を好きになったんス。馬鹿ッスけど」
苦笑しか出てこない。自分がよほど馬鹿だったのはそのとおりだ。幸い、軽い捻挫で済んだが。ちなみに五点着地というのは落下傘で着地するときに、ショックをやわらげるための着地法だ。
「着いたっス」
空野が窓を開ける。警衛の陸士が身分証を確認する。
ようやく、モードが変わった。休暇は終わりだ。
国際活動教育隊での教育を終え、リビア復興支援群は朝霞駐屯地で編成完結式をした。俺は警備中隊長だ。空野は指揮下の第一小隊長。防衛大臣がじきじきに、激励の言葉をかける。任務終了のあかつきには天皇陛下に帰朝報告をするということで、今から柄にもなく緊張していた。
そのままバスに乗って、入間基地へと向かう。そこには、俺たちをリビアへ運ぶC130が待っている。
バスの周りには隊員の家族が集まっていた。もちろん、妻と央と永人もいる。
永人をいつものように片手で抱き上げる。
「夏休みが終わるまで、お父さん帰ってこないぞ。寂しいか?」
からかうように笑いかけると、永人は顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「ちょっと、その言い方」
妻が睨みつける。そう言う妻の眼も潤んでいた。
「元気でねえ」
央は相変わらず寂しげなそぶりも見せず、微笑みさえ浮かべている。こいつは大物になる。
「まあ、心配すんな」
央の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。みんなの前で妻とキスをしてもいいと思ったが、やはりやめておいた。
「じゃあ、お母さんの言うことをよく聞くんだぞ」
「いやだ」
抱っこから下ろした永人が、腰に抱きついてくる。
「いいかげんにしなさい。お父さん、お仕事に行けないでしょ」
妻が永人を引きはがす。撫でてやりたかったが、未練が残ると思い手を振るだけにした。
「行ってきます」
大型バスに乗りこむ。朝霞駐屯地のほとんどの隊員が、見送りに来てくれている。編成完結式をやった東部方面総監部前の儀仗広場から、バスが出る。妻も央も永人も、大きく手を振っている。窓越しに、敬礼を返した。
駐屯地北側の朝霞門までの沿道を、隊員たちが埋めて拍手で送ってくれる。
出征というのはこうでなくっちゃな。
言葉の綾ではない。リビアは独裁政権が倒れた後、イスラム過激派が国を乗っ取った。そこへ大地震だ。
業務の名前としては国際貢献だが、警備中隊が必要で、武器も携行する。それほど現地の治安は悪い。
かほりじゃないが、中隊が発砲したり発砲した結果生じた出来事の責任は俺にある。今更ながら割に合わない仕事だと思うが、ここまで来たらしょうがない。そのときが来たら訓練どおりやるだけだ。
朝霞門の警衛が、捧げ銃 と栄誉礼のラッパ吹奏で送ってくれる。普段なら将官や大臣クラスのためにしかするものではない。俺には一生縁のないものだ。
粋なはからいにテンションが上がってきたところへ、嫌なものが眼に入ってきた。門のすぐ外に、横断幕やのぼりを掲げた連中が、十数人ほど集まっていた。
海外派兵反対だとか、あなたは血に濡れた手で子供を抱くのですかとか不愉快な文字が書かれた横断幕を見て、本当に嫌な気持ちになる。ひとのことを何だと思っているのか。
連中は何だかわめいているが、白ヘルメットの警務隊が守る柵から飛び出そうとしないチキンどもだ。軽蔑しか湧いてこないが、群衆の中に見覚えのある顔があった。
かほりだった。
「海外派兵反対!」
かほりの声が、窓ガラスごしに届く。眼が合った。かほりも俺に気づいた。
お互い、眼をそらすことができなかった。かほりの眼に、涙が浮かんでいた。
バスは妨害されることもなく、駐屯地前を走る川越街道を西へと曲がった。
すぐに、かほりたちは見えなくなった。
バスの中は、誰もしゃべらなかった。デモ隊について話すやつらもいない。
スマホを取り出し、かほりのSNSを開く。
トップページにアップされていたのは、朝霞門を出ようとする俺たちが乗ったバスだった。
こう書いてあった。
自衛隊のリビア派兵反対デモに参加している。
私の知り合いもこのバスに乗っている。
彼とは考え方は全然合わないし、久しぶりに会ったときにはケンカになってしまったけれど、国家の愚策の犠牲になってほしいとは決して思っていない。
無事に帰ってきてほしい。そして願わくは奥さんと子供さんを悲しませるような、彼になっていませんように。
彼のような犠牲者を出さないために、私たちは声を上げ続けなければならない。
まだ死んでない。
ずいぶんと失礼で肥大した自意識がぷんぷんと臭う文章だ。しかし、腹を立てる気にはなれなかった。
かほりに死んでほしくないと思われていることが、正直なところ嬉しい。
苦笑が浮かぶ。俺はどれだけ単純なんだ。女にとってみたらこんなにちょろい相手はいないだろう。
けれども、生きて帰ってやろうという気持ちが、今まで以上に強く強く燃え上がってきていた。
十五年ぶりに出会った初恋の女の第一声がこれである。
高校の同窓会だった。今まではずっと千葉県の習志野にいたのでご無沙汰していたが、運よく地元の師団司令部に異動になったのを機に、参加することにしたのだ。
宴会が始まって、ジョッキを二杯も空けると、かほりが隣に座ってきた。年がいもなく鼓動が速くなった自分を恥ずかしく思う。
「戦争法なんて法律ねえよ。安保法制だよ」
「あら、憲法九条を骨抜きにして、戦争ができるようにする法律じゃない。戦争法よ」
高校のころ、頭もよく、スポーツもできて、はきはきしていて男ばかりか後輩の女子からも憧れられていたかほりが、頭の良さをおかしな方へ使ってしまったことに、いたくがっくりした。
「カボさん、俺の個人的見解じゃなくて自衛官として聞いてんだよな? 防衛省の広報室に聞いてくれよ」
「なあに、そう答えろって言われてるの? 自衛隊って、自分の仕事に関する法律について意見も述べてはいけない組織なの?」
勘の鋭い女は嫌いだ。
「命令に服従する義務があるからな。『自衛官として』って聞いただろう。なら、組織の見解と同じだよ」
かほりはひどく不満げな顔になった。
「防衛大学を出てると、そんな官僚答弁みたいなのも上手になるのね。高校生のときの、明るくてシンプルな加藤君も偉くなるとそうなってしまうのね」
俺の想いを知っていて、こんな当てこすりをしてくるのか。
シンプルとは単純バカということだろう。
「偉いってほど偉かないよ。三佐だからな」
「三佐って、旧日本軍で言う大佐?」
そんなことも知らないくせに安保法制にケチをつけようというのか。
「少佐だよ」
「大した違いじゃないわ。けど、責任ある立場というのは間違いないわよね。加藤君が殺せと言ったら部下は殺すし、死ねと言ったら死ぬんでしょ? それを禁じてきたのが憲法九条なのよ」
かほりの眼は酒で据わってきていた。何も知らないから、こんな極端なことが言えるのだ。初恋の甘酸っぱさは、すっかり発酵して苦くなっていた。だんだんイラついてくる。
「ええと、ただ死ねというのは正当な命令じゃないから、絶対に出さない。それに、誰彼構わず殺すわけじゃない。無力化といって敵が攻撃できなくなれば殺す必要もない。あと、武器を使えるのは正当防衛か緊急避難のとき、それと防衛出動で日本を侵略してくる敵に対してだけだ。カボさん、高校のときは成績良かったけど、自衛隊のこと何も知らないじゃねえか」
焼酎のロックをあおる。かほりはプライドを傷つけられたのか、顔を怒りに歪めた。
「加藤君こそ、歴史に学んでないわね。旧日本軍は中国や沖縄で誰彼構わず殺してるじゃない。それが軍隊の本質なのよ。私は加藤君にそんなことをさせたくないの」
「自衛隊は何度も海外に行ってるけど、そんなことはしたことがない。それに、現実として規律を完全に守る組織なんかあり得ないぜ。日本軍だけ悪者にしてるけど、戦争を経験した軍隊は、どこの国だってやってる。それこそ中国だってな」
歴史の話になると泥沼になるのは判りきっていたし、
かほりもジョッキを一気に飲み干して、ドンと机に置く。
「そんな開き直り、汚いわ。みんなが悪いことをしてるから、自分もしていいの? そんな小学生みたいな理屈しか言えないのかしら。加藤君はずいぶん自衛隊の規律がご自慢のようだけれど、今度海外派兵でリビアに行くじゃない。そこで強姦とか起こるんじゃないの?」
かほりがぴくぴくとまぶたを震わせながら、口元に蔑みを浮かべる。腹がふつふつと滾ってきた。
「俺の部下に、そんなことさせるかよ」
言って、しまったと思う。防衛省が発表する前に、部外者に教えるのは褒められたことではない。かほりがきょとんとした顔になった。
「加藤君……行くの?」
「……まだ決まったわけじゃないけどな」
ほとんど嘘だった。派遣命令が発簡されていないだけで、準備命令の編成表には名前が乗っているし、訓練も始めている。事故か急病にでもならない限り、まず行くことになるだろう。
「そう……」
かほりがうつむく。言い過ぎたと思っているのか。
「まあ、カボさんが心配してくれるのは判ってるよ。さっきも言ったけど、俺がいるかぎり、絶対にそんなことはさせない」
酔いの勢いも手伝って、かほりの肩にためらいなく手を置いた。
いきなりぱあんと手を弾かれる。ざわついていた宴席が、しんと静まりかえった。
「気安くさわらないでくれる? それに、カボさんなんて呼ばれるほど、加藤君と親しかったつもりはないけれど」
酔いも吹き飛ぶ豹変に、最初は驚き、だんだんと怒りがせり上がってきた。
「アカの腐れマンコが、いい加減にしろ! てめえらが何を知ってんだ? 俺らのことなんか何も知らねえだろうが。知ろうともしねえ脳なしが、口からクソ垂れ流してんじゃねえ!」
日米共同訓練で覚えたスラングが、流れるように吐き出される。後悔する前に、顔へビールを浴びせられた。
かほりが、顔を青白くしながらも眼を吊り上げて、肩を震わせている。ビールをかけられて少しは冷静になったが、とてもこのまま何事もなかったかのように飲む気にはなれない。
一万円札を、ばあんと机に叩きつける。ビール瓶が倒れ、唐揚げの大皿が浮いた。かほりがびくりと身体を震わせる。
「帰る」
かほりを必要以上に怯えさせてしまったことが、少しだけ気まずかった。
電車を乗り継いで、官舎の最寄り駅で降りる。コンビニに立ち寄った。
息子ふたりにはシュークリームを、妻のためにプリンアラモードを買う。飲んで遅くなる日は、いつもこうしていた。先輩から教わった生活の知恵だ。
コンビニから官舎へと続く道には、桜並木がある。もうとっくに花は散り、新緑の葉も次第に色を濃くし始めていた。
かほりに言われたことを思い出すと、まだふつふつと怒りが湧いてくる。昔は正面切って自衛隊の存在を否定されることもあったと聞いていたが、防衛大学に入学してから十数年、あからさまに面罵されたことはなかった。
ある意味、いい時代なのだろう。それだけに、かほりの極端な意見が情けなかったし、腹が立った。少なくとも、この短時間では自分も悪かったと思うことはできない。
官舎の狭い階段を、四階まで上がる。踊り場には、古くなった蛍光灯が明滅している。チャイムは押さずに、そっと鍵を開けた。
「ただいま」
居間で、妻がクッションに座ってテレビを見ていた。子供たちは、とっくに寝ている時間だ。
「おかえり。同窓会、楽しかった?」
「まあ、普通」
妻には、いまだ腹の底で煮えたぎる怒りを見せたくなかった。そういう配慮をしようと思うだけ、かほりよりは妻を愛しているのだと思う。
「おみやげ」
テーブルの上にプリンを置き、子供たちのシュークリームは冷蔵庫にしまう。
「なによ、太っちゃうじゃない」
そう言いながらも、すでに喜色を浮かべカップを開けて食べようとしている。正直、ふくよかな妻が好きだった。
「お風呂、沸かしなおしといたから」
帰る時間を伝えてもいないのに、妻の勘は冴えている。
そう深酒だったわけでもないが、風呂にはさっと入るだけにしておいた。
「おやすみ」
家族の寝部屋にしている八畳間には、布団が三枚敷かれている。すでに八歳と五歳の息子たちは、自由な寝相で気ままに散らばっていた。自分の布団に横たわる。
スマホを出して、会員制のSNSアプリを起動する。かほりに対して失望と怒りを同じ程度に感じながらも、無関心ではいられなかった。かほりのページを開く。
つい十分ほど前に投稿された記事があった。
俺が一時間前までいた居酒屋の座敷で、同級生たちが集まった写真が掲載されていた。
記事を読む。最初は久しぶりの同窓会が楽しかったなどと書いてあったが、ほとんどは俺との口論について書かれていた。
女は大抵そうだが、自分が何をしたかは一切説明せず、相手に何をされたか、相手がいかに自分を傷つけたかを延々と書いてあった。今から店に戻って、テーブルをひっくり返したくなる。
しかも、俺が三等陸佐で、リビアに行くことまで書いてあった。
顔をしかめる。準備命令は秘密区分があり、そう厳しくはないが限定された隊員しか見ることができない。もちろん不用意に口にした俺が悪いのだが、規則を厳密に適用すれば違反として処分される可能性はゼロではない。
最近は、SNSによる情報漏洩に防衛省もピリピリしている。もしかしたら調査の手が伸びてくるかもしれない。
初恋の相手への失望と、これから起こるであろう面倒に、俺はすべてを忘れてふて寝することに決めた。
「行ってらっしゃい」
日曜日の午後、玄関で妻と息子ふたりが見送ってくれる。喧嘩したとき以外は、この習慣が途絶えたことはない。週末の休みが終わる前に、俺は静岡県の駒門駐屯地にある国際活動教育隊に戻らなければならない。
「お父さん、いつ帰ってくるの?」
次男の
「また金曜日に、帰ってくるよ」
もう二十キロを超える永人を、荷物を持たない腕で抱き上げる。あと一年たったら、こんな芸当もできなくなるだろう。首筋にぎゅっと抱きつく顔が熱い。泣いているのかもしれなかった。
「じゃあねえ」
長男の
別れを惜しむのはここまでだ。
最寄りの駅から私鉄を乗り継いで、新幹線に乗る。三島駅までは一時間ほどだ。駅前に止まった赤いランドクルーザーの運転席から、腐れ縁のでこぼこ頭が顔を出す。
「同窓会はどうでした? 終身名誉誘導小隊長殿」
「いちいちその呼び方すんじゃねえよ、
この筋肉の塊にじゃがいもを乗せたような男は、空野
「いただきます。空挺団で小隊長ドライバーしてたときも、よくコーヒーくれたっスよね」
「誰でもやってるだろ」
空野はひと口でコーヒーを飲み干すと、スチール缶を紙コップのように潰した。
「じゃ、出発します」
ランドクルーザーがそろりと出発する。ほとんどの自衛官はそうだが、空野も外見に似合わず運転は繊細だ。
駅前の道を、車は富士山に向かって走っていく。
「くくっ」
運転席の空野が、含み笑いをする。
「なんだよ」
「いやあ、親父と小隊長、毎日のように喧嘩してましたよね。おかしくって」
「おまえ、それ何度目だよ。話がなくなるとそれしか言わねえよな」
空野の父親は
もちろん軍歌の「空の神兵」から取っている。
「最初に喧嘩したの、小隊長が着隊した日でしたよね。まだ三尉にもなってない候補生が、団の最先任に口ごたえするんですから、ビビったっス」
「いやさ、いくら年上だって俺より階級下だろ。いきなり『挨拶が悪い』は階級社会舐めてるよ。何年自衛官やってんだ」
「まあ、正論っスよ。そっくり同じ言葉言ってたの、覚えてるっス。親父のやつ、何言われたのか判らないみたいにぽかんとして、そのあとようやく怒鳴ったっスね」
空野がまた笑う。今は年上で階級が下のベテランをどう扱うかは心得ているが、若いころは思いのままにしか行動できなかった。
「親父さん、今どうしてんだ」
「毎日十キロの駆け足と腕立て・腹筋を百回ずつやってから、棒振りに行ってるっス」
棒振りとは警備会社の交通誘導員のことだ。空野の親父は准尉で退官したので、五十四歳で再就職した。
「何だか切ないよな。空挺団じゃ泣く子も黙る鬼の先任が、一日中道路に立って誘導してんのはよ。息子が働いてんだからよ、もう隠居してもいいじゃねえか」
「親父に隠居なんて何の冗談スか。そんなの、一番似合わないって小隊長が知ってるでしょう」
「まあな」
窓の外が、見慣れた御殿場市街のものになっていた。富士山が近くなってきている。富士山を見るたび、空挺レンジャー課程でシゴかれた思い出や、二夜三日で富士山一周百五十キロを歩く行進訓練を思い出してうんざりする。できれば二度と拝みたくなかった。
「富士山、見飽きたな」
「いやあ、オレも来年
「そうだよ」
まあ洗礼のようなものだ。幹部は全員経験する。空野は、俺が空挺団にいるときに部内幹部候補生試験に合格していた。
「まあ、小隊長も空挺団長かったっスよね。
「いなくはないけどな」
そのおかげで、敵地に真っ先にひとりで飛びこむ誘導小隊長をやらせてもらえた。
「いい小隊長でしたよ」
「何言ってんだ」
不意打ちのような言葉に、少し驚く。
「オレも新隊員後期から空挺団にいましたけど、終身名誉誘導小隊長なんて
「……ふん」
窓の外に顔を向ける。市街地から県道に入っていた。柵が見える。駒門駐屯地の営門をくぐるまで、もう少しだった。
「照れてるんスか?」
「馬鹿言え」
「生活隊舎の三階からシラフで『俺の五点着地を見ろ!』って本当に飛び降りた幹部なんて、小隊長しかいなかったスよ。あれでみんな、小隊長を好きになったんス。馬鹿ッスけど」
苦笑しか出てこない。自分がよほど馬鹿だったのはそのとおりだ。幸い、軽い捻挫で済んだが。ちなみに五点着地というのは落下傘で着地するときに、ショックをやわらげるための着地法だ。
「着いたっス」
空野が窓を開ける。警衛の陸士が身分証を確認する。
ようやく、モードが変わった。休暇は終わりだ。
国際活動教育隊での教育を終え、リビア復興支援群は朝霞駐屯地で編成完結式をした。俺は警備中隊長だ。空野は指揮下の第一小隊長。防衛大臣がじきじきに、激励の言葉をかける。任務終了のあかつきには天皇陛下に帰朝報告をするということで、今から柄にもなく緊張していた。
そのままバスに乗って、入間基地へと向かう。そこには、俺たちをリビアへ運ぶC130が待っている。
バスの周りには隊員の家族が集まっていた。もちろん、妻と央と永人もいる。
永人をいつものように片手で抱き上げる。
「夏休みが終わるまで、お父さん帰ってこないぞ。寂しいか?」
からかうように笑いかけると、永人は顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「ちょっと、その言い方」
妻が睨みつける。そう言う妻の眼も潤んでいた。
「元気でねえ」
央は相変わらず寂しげなそぶりも見せず、微笑みさえ浮かべている。こいつは大物になる。
「まあ、心配すんな」
央の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。みんなの前で妻とキスをしてもいいと思ったが、やはりやめておいた。
「じゃあ、お母さんの言うことをよく聞くんだぞ」
「いやだ」
抱っこから下ろした永人が、腰に抱きついてくる。
「いいかげんにしなさい。お父さん、お仕事に行けないでしょ」
妻が永人を引きはがす。撫でてやりたかったが、未練が残ると思い手を振るだけにした。
「行ってきます」
大型バスに乗りこむ。朝霞駐屯地のほとんどの隊員が、見送りに来てくれている。編成完結式をやった東部方面総監部前の儀仗広場から、バスが出る。妻も央も永人も、大きく手を振っている。窓越しに、敬礼を返した。
駐屯地北側の朝霞門までの沿道を、隊員たちが埋めて拍手で送ってくれる。
出征というのはこうでなくっちゃな。
言葉の綾ではない。リビアは独裁政権が倒れた後、イスラム過激派が国を乗っ取った。そこへ大地震だ。
業務の名前としては国際貢献だが、警備中隊が必要で、武器も携行する。それほど現地の治安は悪い。
かほりじゃないが、中隊が発砲したり発砲した結果生じた出来事の責任は俺にある。今更ながら割に合わない仕事だと思うが、ここまで来たらしょうがない。そのときが来たら訓練どおりやるだけだ。
朝霞門の警衛が、捧げ
粋なはからいにテンションが上がってきたところへ、嫌なものが眼に入ってきた。門のすぐ外に、横断幕やのぼりを掲げた連中が、十数人ほど集まっていた。
海外派兵反対だとか、あなたは血に濡れた手で子供を抱くのですかとか不愉快な文字が書かれた横断幕を見て、本当に嫌な気持ちになる。ひとのことを何だと思っているのか。
連中は何だかわめいているが、白ヘルメットの警務隊が守る柵から飛び出そうとしないチキンどもだ。軽蔑しか湧いてこないが、群衆の中に見覚えのある顔があった。
かほりだった。
「海外派兵反対!」
かほりの声が、窓ガラスごしに届く。眼が合った。かほりも俺に気づいた。
お互い、眼をそらすことができなかった。かほりの眼に、涙が浮かんでいた。
バスは妨害されることもなく、駐屯地前を走る川越街道を西へと曲がった。
すぐに、かほりたちは見えなくなった。
バスの中は、誰もしゃべらなかった。デモ隊について話すやつらもいない。
スマホを取り出し、かほりのSNSを開く。
トップページにアップされていたのは、朝霞門を出ようとする俺たちが乗ったバスだった。
こう書いてあった。
自衛隊のリビア派兵反対デモに参加している。
私の知り合いもこのバスに乗っている。
彼とは考え方は全然合わないし、久しぶりに会ったときにはケンカになってしまったけれど、国家の愚策の犠牲になってほしいとは決して思っていない。
無事に帰ってきてほしい。そして願わくは奥さんと子供さんを悲しませるような、彼になっていませんように。
彼のような犠牲者を出さないために、私たちは声を上げ続けなければならない。
まだ死んでない。
ずいぶんと失礼で肥大した自意識がぷんぷんと臭う文章だ。しかし、腹を立てる気にはなれなかった。
かほりに死んでほしくないと思われていることが、正直なところ嬉しい。
苦笑が浮かぶ。俺はどれだけ単純なんだ。女にとってみたらこんなにちょろい相手はいないだろう。
けれども、生きて帰ってやろうという気持ちが、今まで以上に強く強く燃え上がってきていた。