第7話

文字数 2,662文字

「川村、いくらすることがないからって、携帯いじんのはやめろ」
「水谷さんだって、新聞読んでるじゃないですかあ」
 川村と呼ばれた若い警察官は不機嫌そうに携帯電話の画面から目を離し、向かいに座っている水谷の深くシワの刻まれた顔をを睨みつけるようにして言った。
 あの事件以来平和すぎると言ってもいいこの街の交番の仕事といえば、迷子犬の保護や落し物の管理くらいだ。
 そのうえ深夜となると、余計にすることがない。外から聞こえるのは虫の声と風の音くらいだった。
「新聞読むのと携帯で遊ぶのとでは全く違うだろう」
「俺だって、携帯で新聞読んでるんですよ」
 その言葉を聞いた水谷は新聞を机の上に置いて立ち上がり、悪びれもせずに反論する川村の携帯電話を素早く奪い取ると、その白く輝いている画面を見た。
「なんだあ、これ」
 その画面には、
『例のゾンビ事件、彼女の方は三ヶ月前に死んでたんだって』
『死んだ彼女と一緒に暮らしてたってことかよ。怖!』
『彼氏、死体に話しかけてたんだってよ』
 等々、あの事件に関する噂が書き連ねられていた。
「ちょっと、やめてくださいよ」
 川村が立ち上がって、慌てて携帯を奪い返した。
 呆れた水谷は椅子に座り直し、新聞を再び手に取った。その一面には『アパート男女変死事件』の文字。
「ネットもテレビも、この話でもちきりっすよ」
 奪い返した携帯電話を大事そうにポケットに仕舞いながら川村が言うと、水谷はその返事の代わりに一つ大きな溜息をついた。
 事件から数日の経った今も、世間は『アパート男女変死事件』の話題ばかりだ。
 台所でシンクに頭をぶつけて死んだ女の死体と三ヶ月も共に生活し、最後には自分の体を喰い千切った痩せ細った男。家賃の滞納にしびれを切らした大家が訪問したことから事件が発覚。その当時男はまだ生きていたがすぐに死亡が確認。
 光熱費は自動引き落としにて支払われていたので電気は通っているようだったが、なぜか部屋は真っ暗で電話線は抜けていた。
 前々から腐敗臭や、ベランダから小便をする男の姿が見られていた。
 確かに不可解な点の多い事件ではあるが、大げさに騒ぎ立てる週刊誌やインターネット記事の相乗効果もあってか、ありえないような噂が囁かれている。俗っぽいことには疎い水谷でも、そのくらいのことは知っていた。
「馬鹿馬鹿しい、だいたい『ゾンビ事件』ってのはなんだ。勝手なこと言いやがって」
 水谷はふんと鼻を鳴らして、手に取った新聞を開くことなく机の上に放った。
「なんでも、男が熱烈なゾンビ作品マニアだってみたいで、彼女がシンクに頭を打って死んだのを受け入れられなかった男は気が狂って、世界でゾンビパニック……だかが起きたと思い込んで、彼女をゾンビに見立ててたとかなんとか」
 ぺらぺらとなぜか得意げに喋る川村から目をそらし、水谷はポケットから取り出したマルボロに火をつけて、煙を吐いた。
「ベランダから小便してた、とか、部屋には大量の映画のDVDが散乱してた、とか、冷蔵庫がついてるのに食べ物を外に置いてた、とか。色々変なとこが……って、交番でたばこ吸っちゃダメでしょう」
 前のめりになって話す川村を遮るように、机の上の電話が鳴った。ナンバーディスプレイには、警察署本部の番号が表示されている。
 水谷は火をつけたばかりのたばこを消すのが惜しいのか、たばこを咥えたまま顎で電話を指した。
「はあ、意外と人使い荒いんだから……はい、もしもし、こちらXX駅前交番。ええ、はい、何を言ってるんです、はあ、アパート男女変死事件の死体が起き上がって人を襲ってる?」
 全く理解できないと言った表情の川村は受話器を顔から離し、水谷の方を向きなおして肩をすくめた。
「何の話だ、いたずら電話か?」
 水谷は元からシワの多い顔にさらにシワを寄せ、ポケットからマルボロの箱とライターを取り出して机に置くと、次に携帯灰皿を取り出して名残り惜しそうにたばこを消し、受話器を受け取った。
「はい、水谷です。一体何が、はあ、死体が……って、どうしたんです、一体何が?」
 受話器から大きく漏れ出した絶叫が、深夜の交番に響いた。
 水谷が不審そうに眉をひそめたまま顔を上げると、金魚のようにぱくぱくと口を開閉させながら交番の入り口を指差す川村がいた。
 一体何が起きたのか、その指の先を追って振り向くと、一組の白い服を着た男女が立っていた。
 不審に思いながらも、こんな時間に交番を訪れるからには何か用があるのだろう。そう思った水谷は二人に歩み寄り、声をかけた。
「何かご用でしょ……」
 すべて言い切る前に、男の方が水谷に飛びかかってその喉に噛みつき、喰い破った。
 水谷は奇妙な声を出して、その場に倒れこんだ。
 辺りに鮮血が飛び散り、男の白い服——結婚式の時に着る真っ白なタキシードに降りかかる。
 その光景に腰を抜かした川村が椅子ごと倒れ、その音に呼び寄せられるかのように女が歩き始めた。ひたひたと血を引きずりながら歩く女は、この状況に似つかない白いドレスを着ていて、付着した赤い血液とのコントラストは川村の目に鮮烈に焼きつくには充分すぎた。
 殺される。
 そう思ったのもつかの間、女は机の前で歩みを止め、薬指が一本だけ残った左手で器用に置かれていたマルボロの箱からたばこを一本抜き取ると、踵を返して未だ水谷の肉を貪っている男の方へ向かった。その後頭部は、不自然に凹んでいた。
 それに気が付いた男は女の指からたばこを受け取ると、自らの口に咥えて机の上に置いてあったライターを手に取り、火をつけて満足そうに吸い込んだ。
 川村は、そのままふらふらと交番を後にしようとする二人の背中を、呆然と見つめていた。
 不意に、小さな金属音が鳴った。
 男が振り返り、慌ててそれを拾い上げてジャケットの内ポケットに入れた。川村の目には、銀色の小さな指輪に見えた。
 二人が去った後もしばらく立ち上がることすらできなかった川村は、その場に座り込んだまま携帯電話を取り出して交番に電話をかけた。
 とにかく警察を呼ばないと——。
 机の上に置かれた電話が鳴った。
 ここが交番で、自分が警察であることを忘れてしまうほどの衝撃だった。
 電話のコール音に混ざって、ぴちゃりと水音がした。
 顔を上げると、喉から大量の血を流しながら立ち上がる水谷と、その後ろには交番の窓一面に、『人間だったもの』が張り付いていた。
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