第5話

文字数 408文字

 俺は顔を見せないように後ろを向いたまま、小さく彼女の名前を読んだ。
 人間を、いや、俺のこと食べたいのかどうか、はっきり聞くつもりだった。昨日も一昨日も、その前の日も、千絵が死んだ日からずっと、同じことを聞こうと思っていたが、どうしても言葉が出てこないのだ。
 今だって喉に空気がつっかえたみたいに、声が出ない。
「どうしたの?」
 喉につっかえた空気を押し流すように、ペットボトルの水を一気に飲んだ。口の端から水が溢れ出して喉を伝い、シャツの襟周りがびしょびしょに濡れていたが、気にはならなかった。
「千絵、何が食べたい?」
 昔、学校帰りにファミレスに誘った時のように、二人でだらだらと休日を過ごして即席弁当を頼むことを提案した時のように、そんな口調で言うのが俺には精一杯だった。
千絵は何も言わなかった。代わりに小さい嗚咽と鼻をすする音が聞こえた。
 それはとても優しくて、俺まで泣き出してしまいそうで——。
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