第3話

文字数 1,990文字

「千絵、大丈夫か?」
 首だけをその方向に回して、なるべく刺激しないように穏やかな口調で声をかける。しかし、千絵はぐったりとした様子で唸り続けているだけだった。
 千絵とは高校の頃に出会った。成績も悪くてよく転ぶドジな奴だが、優しくて面倒見が良く、俺が喧嘩をすれば怪我の手当てをしてもらったし、学校から逃げ出して外をふらふらしていれば心配して電話をくれた。俺の漫画の構想、と言っても今思えばただの空想話だが、それも面白いと笑って聞いてくれた。弁当を作ってもらったりもした。とにかく迷惑ばかりかけていた。その頃に交際を開始して、卒業して三年が経った今もこうして同棲して関係を続けているのだから、千絵の心の広さはたいしたものだと思う。
「今行くから、無理すんな」
 立ち上がって床に放置されているタオルの中から比較的綺麗なものを手に取り、千絵の元へ向かう。友達によく「健次(けんじ)には勿体無い」と言われた可愛い顔には紫色の血管が浮いて、両目は固まった血液で閉ざされていて、肌が紫に近い色に変色している。頭の一部がくぼんでいて、その傷も腐りかけていた。
「健ちゃん、いつもごめんね」
 俺の名前は健次だが、千絵にそう呼ばれたことは覚えている限りでは一度もない。その両目についた血液を丁寧に剥がしてから唾液で湿らせたタオルで拭いてようやく、彼女は目を開くことができる。ひどく充血してはいたが、くりくりとした黒目はしっかりと俺を捉えていた。
「コーヒーでも飲むか?」
 俺がそう問うと、小さく頷いて体を起こそうとした。ふらふらと頼りない姿が心配になって、体を引っ張って壁にもたれかかるようにベッドの上に座らせてやる。
「ありがとう、私、低血圧だから」
 と言って笑った。引き攣った唇の隙間から見える歯は所々欠けていて、そこから粘り気のある唾液が糸を引いて垂れた。
「今のお前に低血圧とかあんのかよ」
 天然なのか狙っているのか、千絵の言葉に苦笑しながら、台所から比較的綺麗なガラスのコップを取る。なぜだかシンクの縁の一部分が不自然に凹んでいて、茶色いものが付着していた。コーヒーでもこぼしたんだろうか。あとで拭いておこう。この汚い部屋でここだけを掃除したって、変わらない気もするが。
 粉末のコーヒーをスプーンで二杯と少しすくい取ってコップへ入れる。そこに水を注いで、粉を溶かす。少しダマになったが、このくらいは仕方ない。ストローを刺してベッドで待つ千絵の隣に腰掛ける。
 距離が近づくと、やはり少しツンとしたにおいがする。腐敗が始まっているのだろうか。
 ストローを咥えさせてやると、嬉しそうに飲んだ。その無邪気でグロテスクな顔を見るのが、この世界で生き残ってしまった俺の唯一の楽しみだった。ストローから口を離した千絵は、
「せめて一人で飲めたらいいんだけど」
 と言って笑った。
 その口からぼたぼたとコーヒーが垂れたので、慌ててタオルで拭き取った。
 千絵の右手は、三日ほど前に最後の指が腐り落ちてしまった。左手は、薬指だけが残っている。
「いいんだよ、このくらいしかしてやれねえしさ」
 俺がそう言い終わっても千絵はストローを咥え直そうとはしなかった。
「もう飲めないや、ごめんね」
 コップの中の黒い液体は、半分も減っていない。日に日に飲める量が減っている気がする。
 その事実から目を背けるように、残ったコーヒーを俺は一気に飲み干した。渋い味が口の中を満たす。
「結構、旨いな」
 ブラックコーヒーは苦手だが格好をつけたかったので、なんでもないように言った。
「健ちゃん、甘党のくせに」
 千絵がいたずらっぽく言う。
 あっさりと見透かされれしまった俺は、赤くなった顔を伏せながら立ち上がり、ベランダへ続くガラス戸を開く。
「何、怒ったの」
「おしっこ!」
 健ちゃんかわいー、と笑う千絵の声を背にガラス戸を閉め、ベランダに置かれた風呂椅子に上がる。道路にはたくさんの、人だったもので溢れている。
 彼らも千絵のように、ゆっくりと蝕まれてからそうなっていったのだろうか?
 そんなことをぼーっと考えながら道路に向かって放尿すると、そいつらの中にいるうちの一人の、禿げ頭にスーツを着た太ったおっさんに命中した。
「おっと」
 慌てて軌道修正をしたが、小便をかけられたおっさんはきょろきょろと辺りを見回しただけで、すぐにゆっくりと歩き始めた。OL風の女や、ランドセルを背負ったままの子供、杖を持った老人。そいつらのなんでもない姿を見ていると、どうしても気分が沈む。
 ぶるりと身震いが走って、残った雫を切ってファスナーを閉める。
 放尿を終えて一服したくなったが、現在手元にあるのは苦手なメンソールのものだけだ。それに、たばこのためだけに危険を冒してまで外に出る気にはなれない。
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