第6話

文字数 1,607文字

 俺の手を離れた焼き鳥の缶が、一瞬だけ宙を舞って床に落ちた。跳ねたタレが足を汚す前に、俺は全力で駆け出した。
 途中、床に放置していたプレミア付きのサスペンス映画のDVDを踏み割った感覚があったが、どうだってよかった。俺は決して運動のできる方ではなかった。千絵だってそれを知っているはずだ。
 しかし、この狭くて汚いオンボロアパートの、台所からベッドまでの距離を駆け抜けるのは容易だった。無理をして広い部屋を選ばなくてよかった。
 ふたりっきりのこの世界の果てで、俺は心からそう思った。
 抱きしめる。きつく抱きしめる。
 そしてこれから、俺は千絵と一つになるんだ。
「健ちゃん、苦しいよ」
 指の腐り落ちてしまった、冷たい手を握って、それだけでもう充分だった。
「千絵、やり直そう、俺もお前と一緒になって、呆気なく死んで、この世界をぶっ壊すんだ。そうだ、国を作ろう、千絵が女王様で、だから綺麗なドレス着て、それで、城、建てて、そこで毎日おもしれえ映画、上映すんだ。いっぱい人呼んで、毎日楽しい事ばっかで、やり直そう、そうやって——」
 どんどん言葉が溢れた。結局完成しなかった漫画のネタを話すみたいに、馬鹿な空想と何ら変わりない言葉。それでも俺は本気だった。なぜだか涙が止まらなかった。
 そして、千絵が耳元で囁いた。
「私ね、お腹すいちゃった」
 まるでファミレスに誘うように、即席弁当を頼むのを提案するように、言った。
「あの頃さ、千絵、毎日、俺のために弁当作ってくれたよな、それでお前、寝坊したときにまで俺に弁当作ってくれたもんだから、走って通学して、道っぱたですげえ転んで、頭打って、学校ついた瞬間倒れて、保健室に運ばれたよな、覚えてる、ちゃんと、覚えてるんだ。俺が嫌いなピーマン、ハンバーグに入れてさ、あーんして食べさせてくれたよな、健ちゃんは、お肉が大好きだからって」
 さっき飲んだ水がもう全部出てしまったのではないかというくらい、ぐしゃぐしゃに泣きながら俺は話し続けた。千絵の両目からは、血がぼとぼとと流れ出していた。
「結婚しよう。やり直そう。千絵の左手の薬指は、きっとそのために残ってるんだ」
 俺は自分の腕に歯を立てた。『想像を絶する痛み』というのを想像していたが、不思議と痛くなかった。肉がぶちぶちと裂けて血が溢れ、俺の腕はちょうど一口大に抉れた。そしてその抉れた肉は、俺の口の中だ。
「健ちゃん、なんにも変わってない。空想話が上手なところも、子供っぽいところも。全部、変わってない」
 千絵のその言葉を聞いて、頭が痛くなった。
 どくどくと心臓の鼓動が大きくなって、抉れた腕から流れる血の勢いが増している気がした。
「空想なんかじゃない、俺らはまた生き返るんだ」
 俺は自分の血液で溺れそうになりながら、振り絞って言った。
「私も、何にも変わってないね。特に、よく転ぶところとか——」
 
 何か大切なことを忘れて、いや、間違っているんだ。俺だけの世界。動いていないはずの冷蔵庫の熱。大好きだったゾンビ映画。シンクの凹み。それによく似た千絵の頭の凹み。血痕。目を開かない千絵。子供っぽい俺。動かない千絵。弱い俺。死んだ千絵。空想の得意な俺。

「やりなおしたいな」
 千絵ははっきりと、そう言った。
そしてそれっきり何も話さなかった。
俺はそのまま千絵にキスをして、俺の肉を食べさせた。千絵の凹んだ頭を抱えて、何度も、あの日俺がピーマン入りハンバーグを食べさせてもらったことを思い出しながら。
 何度も何度も、身体中の肉を喰い千切っては千絵の口へ捩じ込んだ。
 最後には台所の包丁を使って自分の肉を削いで、全身から血を流しながら、千絵に食べさせた。そうやって何度もキスをするうちに、俺は千絵と同じ姿になっていく。

 意識がなくなる直前、懐かしい、ドアのチャイム音が聞こえた、よう、な。
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