第4話

文字数 2,128文字


 あいにくと翌日は雨だったが、それでも桑畑は吹田操車場へ出勤しているはずだ。
 操車場の上司の協力を得て、桑畑が仕事を終えて何時に退勤するか、その時刻はすでに調べてあった。
 18時だそうだから、まだ少し時間がある。
 だが吹田操車場には退勤路が複数あり、桑畑がそのどこから出てくるかが分からない。
 だから大田と上中は、二人で手分けをすることにした。
 退勤後、桑畑がすぐに寮へ戻るか、それともどこかへ寄り道するかは見当もつかなかった。
「もしかしたら、あの焼鳥屋へ寄るかもしれないな」
「どうします?」
 傘をさして雨の道路に立ち、大田と上中は相談した。
「仕方がない。じゃんけんでもするか」
 勝ったのは大田だ。
 だから大田が焼鳥屋へ向かうことになった。
「じゃあ僕は、寮の門前で待機しますよ」
「うん、頼むよ」
 焼鳥屋は今日も営業していた。
 店内はまだすいており、大田が2番目の客だった。
 大田以外には、会社帰りらしいジャンパー姿の男が、一人でちびりちびりとビールを飲んでいるだけ。
「親父さん、ちょっと…」
 すみのテーブルに座るなり、大田は店主を呼んだ。
 ほとんど白くなった髪の、やせたマッチ棒のような男だ。
 メガネのレンズがくもるのが気になるのか、しょっちゅうエプロンでふいている。
「なんです?」
 いつものように大田は警察手帳をチラリと見せ、
「桑畑君は、いつも何時に顔を見せるのかな? 今日はまだ来ていないね」
 メガネの向こうの目玉を、店主は丸くした。
「あの人がどうかしたんですか?」
「いや違うよ。ある事件の捜査に協力してもらってるんだ。その捜査も山を越えたからね。お礼がわりに一杯おごろうかと思ってさ」
「でも刑事さん、桑畑さんは、お休みの日にしか来られませんよ。今日がご出勤だというのなら、ここじゃなくて、風呂屋へでも寄られるのではないですかね」
 大田がようやく桑畑の顔を見たのは、店主の言う通り、銭湯の前だった。
 店主に道を教えられ、その入口の前に着いたとたん、『ゆ』と大きく書かれたのれんを押して、桑畑が出てきたのだ。
 いかにも入浴直後らしい、まだ湿気の残った髪をしている。
「やあ、桑畑君じゃないか」
 気楽そうに声をかけたものだが、その声の主を認めたとたん、桑畑がさりげなく腕時計を外し、ズボンのポケットに隠すのを大田は見逃さなかった。
「なんですか、刑事さん? 何か御用ですか? 犯人は見つかったんですか?」
 以前とは違い、桑畑は敬語を使った。思わず緊張しているのだろう。
「…そうだ刑事さん。先日はすみませんでした。実家へ帰っていて、確かに藤沢を見かけたんですが」
「それは本当に藤沢本人だったのかい?」
「メガネをかけてなくて、付けヒゲもなかったけれど、顔の輪郭や歩き方は間違いありません。ところが跡をつけようとして、人ごみにまぎれて、見失ってしまったんです」
「それは上中君に電話をかけた直後のことかい?」
「そうです。大きなことを言ったのにうまくいかなくて、かっこ悪くて、失敗を報告しませんでした。すみません」
「そんなことはいいんだよ。尾行なんか、おまわりさんに任せておきなさい。君がケガでもしたら大変だからね」
「はい、すみません。それで今日は何か御用ですか?」
「いや、大したことじゃないんだ。うまくいかなかった尾行のことは置いといて、事件について何か思い出したことはないかと思ってね」
「思い出すなんて、何もありませんよ」
「そうかい? ワシもあれから広島へ行ってね。昨日、帰ってきたところさ。風呂は済んだのだね。寮へ帰るのかな。ちょっと歩きながら話そうか…」
 当たり障りのないことから始め、大田が話の本題に入ったのは、道がちょうど地元のちょっとした神社の前に差し掛かったころだった。
「あっ刑事さん、こっちの道が近道なんです」
 と桑畑に言われるまま、薄暗い境内へと続く小道に、大田も歩みを進めた。
 大田は言葉をつづけた。
「広島県警の刑事さんから耳打ちされたことなんだけどね。君も関係者だから、話してあげるよ。寝覚めが悪かろう?」
 大田という人物も、警察官に似合わぬ役者なのかもしれない。
 その気になれば心の中とは裏腹に、にっこりとほほ笑むことができる。
 もちろんその笑顔たるや、本人は精いっぱいやっているのだが、部下の婦人警官などの間で評判は良くなく、『気味が悪い』とまでささやかれていることは、知らぬが仏だろう。
 しかし大田のその笑顔も、今日はうまく働いたようだ。
 少しは桑畑の警戒心を解くことに成功したのだ。
「刑事さん、それって何の話です?」
「犯人逮捕ももうすぐ近いということさ。新聞やラジオには伏せてあるんだが、奪われた3000万円な」
「それがどうかしたんですか?」
「紙幣だろ? すべての札には、それぞれ番号が印刷してあることは知っているね?」
「はあ…」
 と話がどちらに向かうのか、桑畑には見当もつかない様子だ。
「奪われた3000万円の全部じゃないが、番号が『B』から始まるやつだけは…」
「Bって、ローマ字のBですか?」
「そうさ。番号がBで始まる札だけは、日本銀行が事前に番号を記録していたんだよ。賊が一枚でも市中で使ってくれりゃあ、もう逮捕したようなものさ…」
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