第2話

文字数 5,692文字


「つまりこういうことかい?」
 と大田警部は、ここまでに聞かされた話をまとめようとした。「…ドアが完全に閉じられず、数センチだけ開いたままの貨車を目撃したらすぐに連絡してくれ、と見ず知らずの紳士から依頼されたというんだね?」
「そうだよ」
 そう答える若い男を、大田は眺めなおした。
 20代の半ば。多く見積もっても30には達していない顔つきだ。
 成人のはずが、どこか子供っぽい匂いが残っているのだ。
 肌が黒く、日焼けしているのは、日光に長時間当たる職種だからだろう。
 氏名と住所は、すでに分かっていた。
 桑畑健太。住所は東川署の管内だ。
 職業は国鉄職員で、所属は吹田操車場。
 桑畑は説明を続けた。
「職場が吹田操車場だから、俺は一日中、貨車と一緒にいるわけさ。日に何百両も目にする」
「貨車って、何を運ぶんだい?」
 と大田が好奇心に駆られると、
「文字通り何でもさ。機械、米、野菜、紙とかね。化学肥料を積んでいることも多いな。珍しいところじゃ、ダイナマイトなんかも運ぶね」
「そりゃあ物騒だな」
「そうでもないよ。雷管がついてなきゃ爆発しない。土木工事とか、鉱山で使うのさ」
「その貨車のドアだが、どんなのだい?」
 桑畑は、身振り手ぶりを交えながら、
「貨物の積み下ろしに使うんだから、大きなドアだぜ。幅は2メートルかそこら。ガラガラっと横に大きく開くんだ」
「へえ…」
「だけどそのドアも、本当ならきちんと閉めてあるのが当たり前なんだ」
「たった数センチとはいえ、開いたまま走る貨車なんてない?」
「なくはないが、例外的さ」
「それを見かけたら教えてくれと言ってきたんだね? どんな紳士だった? どこで出会った?」
「中肉中背と言いたいところだけど、少し小柄だな。ぜい肉はついてないけど、着ている物から見て、金持ちそうな感じがした。ほら、仕立ての良い背広ってやつさ。年は60くらいかな」
「どこで会ったんだい?」
「行きつけの焼鳥屋があってね。きれいな店じゃないが、うまい鶏を食わせるし、あまり高くない。休みの日には、よく行くんだよ」
「へえ…」
「特に俺は、店主とウマが合ってね。いろいろ話をした。その紳士も店にはよく来ていたみたいで、それで俺の職業を知ったんだろうな」
「その焼鳥屋、あんたが住んでいる国鉄の独身寮からは遠いのかい?」
 その紳士とやらは、国鉄職員と知り合いたくてその焼鳥屋に通っていたのかもしれないな、と大田は考えたのだ。
「うん、近くだよ。ある時、その紳士が話しかけてきて、いつもはカウンターで飲むんだけど、店の奥のテーブルへ行こうと誘われた。おごるっていうからさ」
「ふうん…」
 その紳士の名は藤沢といった。桑畑に自己紹介をしたのだ。
 若い桑畑は特に警戒心も抱かなかったようで、そして藤沢は、
『吹田操車場で働いているときに、ドアが10センチほど開いたままで走っている貨車を見かけたら、すぐに連絡してほしい』
 と依頼してきたのだ。
「その紳士…、藤沢さんだっけ? 藤沢さんは、どうしてそんなことを知りたがるのか、理由を説明したかい?」
「なんでも藤沢さんは、競馬関係者なんだ。競馬場って、日本中のあちこちにあるだろう? そこで毎日毎日、たくさんの馬が走ってる。じゃあその馬たちは、一つの競馬場から別の地方の競馬場へ、どうやって運ばれるのか」
「知らないなあ、考えたこともないよ」
「鉄道の貨車で運ばれるんだ。牛だったら、牛輸送専用の貨車があるから、それに乗せるんだけど、馬はそうはいかない」
「どうしてだい?」
「牛用の貨車は、壁がスノコみたいになって、まわりの風景がよく見えるけど、馬は怖がりなんだ。だから窓のない普通の貨車に乗せるんだよ」
「へえ、知らなかったよ」
 と言う大田の言葉に、桑畑も満足そうだ。
 こういうところ、まだまだ無邪気な若者なのだろう。
「だけど…」
 と大田は続けた。「…窓のない貨車に馬を積んで、本当にいいのかい? 息が詰まったりしないかな? それに馬の世話をする厩務員は、どうするんだい?」
「だからドアはほんの少し開けておく。厩務員は、貨車に一緒に乗るのさ。水や馬草を山ほど積み込んでね。
 めったにないことだけど、もしも輸送中に馬が体調を崩したら、途中の駅で止めて、大急ぎで獣医を呼んだりもするんだぜ」
「へえ。それで藤沢は競馬関係者で、馬主かい?」
 思い出そうとするかのように、桑畑は額にしわを寄せた。
「馬主には見えなかったなあ。いい洋服を着ていても、どこか胡散くささのあるオヤジでね」
「その藤沢がかい?」
「うん」
「それで?」
「藤沢さんの言うには、関係者は関係者でも、どうやら金を賭ける方の人間らしい。おそらく予想屋だろうと、俺はにらんだね」
「ふうん」
 つまり予想屋風の紳士、藤沢は、
『競走馬がいつ移動したのかが知りたいから協力してくれ』
 と言ったのだが、当然の疑問として、
「貨車を見つけて、馬がいつ移動したかは分かっても、どの馬がどこへ向かったのか、までは分からないじゃないか」
 と桑畑が尋ねると、
「いや、いつかが分かればいい。どの馬がどこへ行ったかは、また別に調べる方法があるから」
 という回答だった。
「そうかい。ならいいけど…」
 こうやって取引が成立したのだ。
 ドアが開いたままの貨車を操車場で見かけるたび、桑畑は藤沢に連絡をする。
 連絡1回ごとに報酬は500円であると聞き、大田は目を丸くした。
「500円とは、また太っ腹だな。でも桑畑君、そういう貨車を見かけて、君はどうやって連絡するんだい?」
「電報さ。藤沢さんの教えてくれた住所あてに、至急電報を打つんだ」
「仕事帰りに打つのかい? どうやって?」
「いやだな刑事さん、大きな駅なら、どこでも電報を打つことができるじゃないか。用紙をもらって、鉛筆で記入してさ」
「ああ、そうか。あて先の住所は?」
「これだよ」
 と桑畑は、ポケットから紙を取り出して見せた。
 長い間、サイフの中にでも入れてあったらしく、折り目が入って薄汚れている。

『大阪市 東川区 ○○町 ○○アパート 2号室』

 その紙をいじくりながら大田は、
『調べてみてもいいが、どうせ偽名で借りた部屋だろうな』
 と思っていた。
 顔を上げて大田は若者を見つめ、口を開いた。
「これまで何回ぐらい電報を打ったんだい?」
「2か月ぐらいの間に、3回か4回だよ。そのたびに数日後、100円札が5枚入った封筒が届いた」
「ドアを少し開いたままの貨車が、そのくらいの数、吹田操車場を通り抜けていったということだね。
 だけど不思議だな。この話で、君は何の損もしていないじゃないか。2000円ほどの臨時収入を得たわけで、文句はないだろう?」
 すると桑畑の表情が変化したのだ。
 顔を赤くし、怒りと不安のようなものが感じられる。
「刑事さんは分かっちゃいないんだ。俺は新聞を読んだんだから」
「新聞? どんな記事だね?」
 ここで桑畑がもう一度ポケットから取り出したものがある。
 新聞記事の切り抜きだった。
 大田は受け取って眺めたが、日付は2週間ほど前。
 だが大きな活字の見出しに目を走らせるまでもなく、どんな記事なのかは、読むまでもなかった。
 冒頭で述べた列車強盗事件の記事だったのだ。
「刑事さんは、この事件のことを知ってるかい?」
 と桑畑が言った。
「うん、まあね」
 と大田はごまかした。
 忙しさにかまけ、新聞に軽く目を通す以上のことはしていなかったのだ。
 広島県警から協力要請があったわけでもない。
「その事件のことは知っているよ。警察官だもの…」
 大田の声はいかにも自信なさげだが、桑畑は気が付かなかったようだ。
「最初に新聞記事を読んだ時には、俺もなんとも思わなかったんだ。だけど昨日、風呂の中で考え事をしていて、急に気が付いた。
 実は、1週間ばかり前にもまたドア半開き貨車を目撃して、電報を打ったんだけど、もう500円は送られてこなかった。これってさ…」
「藤沢という男はもはや、ドア半開き貨車には興味がないということさ。
 なるほどね、競馬馬を乗せている貨車と、現金を乗せている貨車とは、見かけがまったく同じということか」
 もう一度、始めから詳しく桑畑に事情を話させた後、大田は課長に面会を求めた。
 大田が会いたがるなど前例のないことだから、最初は課長も警戒していたが、すぐに事情をのみこんだようだ。
「大田君、資料を持って、すぐに広島県警へ出かけてくれたまえ。事情は今すぐ、私が電話して伝えておくよ」
 こういったぐあいに、大田の思いがけない広島出張が持ち上がってしまった。
『機会があっても、これ以上は絶対に藤沢には接触しないように』
 と念を押され、桑畑は家に帰された。
 大田はその夜の夜行列車で大阪をたち、翌日は非常に忙しい一日だった。
 広島県警も、大田の話をバカにせず、まじめに取り上げてくれた。
 上中・警部補の働きにより、桑畑が電報を打った宛先のアパートは、やはり偽名で借りられていたと判明していた。
 500円ずつを届けた封筒も、すでに桑畑が保存しておらず、消印を調べることはできなかった。
 大田は広島に2泊し、朝早くの列車で大阪へ戻ってきた。
 こういうトンボ返りの長距離旅行など、ひどく疲れそうなものだが、大阪駅のホームに降り立った大田はそうでもなく、あと一日ぐらいなら、帰宅せずとも十分に働くことができそうな気がした。
 事件捜査が前進しつつあり、気力が充実していたのだろう。
 ホームで公衆電話を見つけ、大田は署へ電話をかけた。
 電話に出てくれたのは上中だった。
「ああ大田さん、お帰りですか?」
「その後、何か変化はあったかい?」
 すると上中は、急に声をひそめたのだ。
「それが、奇妙なことになってきました」
「どうしたね?」
「先日の事情聴取の後、桑畑君は僕がパトカーで国鉄の独身寮まで送ってゆき、寮の管理人とも少し話しておいたんです。何か変事があったら、すぐに署へ連絡をくれるようにって」
「それで?」
「桑畑君の居場所が分からなくなりました」
 といっても、いわゆる行方不明とは少し異なる。
 桑畑は職場の上司に、数日の休暇届を提出していた。
「その休暇って、旅行にでも行ったのかな?」
 と、まだ大田の表情はのんびりしている。
「旅行というか、法事のために実家へ帰ったのだそうで。それはまあ構わないんですが、昨日の昼頃、その桑畑君から、僕のところへ電話がありました」
「帰省先からかけてきたのかな?」
「そのようです。桑畑君は大阪に住んでいますが、実家は兵庫県の神戸だそうで。法事のためだから不思議でも何でもないんですが、電話の内容はこうでした。公衆電話からかけていて、少し興奮した様子で…」
『帰省してきた神戸市内で、藤沢の姿を見つけた…』
 と桑畑は言ったのだ。
 桑畑の実家は、神戸市内でも垂水区というところにあり。そこの駅前通りを歩く藤沢を偶然に見かけたというのだ。
 上中への電話は、その報告だった。
「危険だからそんなことはするな、と僕は止めたんですが、若く血気盛んなのか、言うことをきいてくれなくて」
「藤沢のあとをつけてみる、と桑畑君は主張したのだね?」
「そうなんです。メガネと付けヒゲはないが、顔の輪郭と歩き方は藤沢に違いないと」
「それで?」
「いいえ、それだけです。『じゃあ後で』と電話は一方的に切れ、僕もずいぶん夜遅くまで次の電話を待ったのですが、結局ナシのつぶてでした」
「それが昨日のことだね? 今日になっても連絡は?」
「ありません」
「国鉄の寮には問い合わせてみたかい?」
「あそこには電話がないので、朝一番に行ってみました。でも、桑畑君はまだ帰っていない、と管理人は言うのです」
「桑畑君は、いつまで休暇を取ったのかな?」
「今日いっぱいです。明日からは出勤することになっているとか」
「ふうん」
 ホーム上で受話器を握りしめたまま、大田は考えた。
『一体、どういうことなのだろう? 道を行く藤沢のあとをつけ、桑畑は藤沢の正体なり、住居なりを突き止めたのだろうか? あるいは…』
 あるいは藤沢に気づかれ、逆襲されたということも考えられる。
 現金輸送貨車の事件は、新聞やラジオで大きなニュースになった。
 慎重な犯人であれば、
『自分は何に手を貸していたのか』
 と桑畑は気付いたかもしれないと、考えておくだろう。
 そんな時に藤沢と出会った桑畑の運命を想像するのはたやすい。
「上中君…」
 精一杯、頭脳を回転させつつ、大田は指示を出すことにした。
「はい」
「ワシは今すぐ署へ戻るよ」
「こんなことになって、すみません」
「君が悪いんじゃないさ。神戸市の…、垂水だっけ? そこの警察には連絡したかい?」
「しておきました。昨日の午後以降、事件らしいものは一件も報告されていないという返事でしたが」
「まあ元気を出すさ。とにかくワシは一度戻るよ」
 と受話器を置いたとたん、あるものを目撃して、大田は眉を上げたのだ。
 同じホームの上、20メートルばかり先だが、なんとそこを桑畑が歩いているのだ。
 大田には背中を向けているが、桑畑に間違いはない。
「おや?」
 行きにはそれなりの量の資料を入れていたが、広島県警へ提出したせいですっかり軽くなったカバンを持ち上げ、大田は歩き始めた。
 もちろん桑畑のあとをつけるのだ。
 なぜそんなことをするのか、どうして、ヤアとでも声をかけないのか、その理由は大田本人にも分からなかった。
『カンのようなもの』としか表現のしようがない。
 大阪駅の広い階段を、若い桑畑は、トントンとリズミカルに歩いてゆく。
 大田のほうは、そっと足音を消してついてゆくのだ。
 といっても人の多い混雑した駅だから、難しい仕事ではなかった。
 改札口を出て、桑畑はデパートへと向かったようだ。
 この時代の大阪駅前には、バスだけでなく、まだ市電の停留所も存在していて、人いきれやエンジン音、電車のスパークなどで騒がしい場所ではある。
 大阪駅前には、大手私鉄が経営するデパートが二つある。
 迷う様子もなく、桑畑はその一つへと入っていった。
 もちろん大田も続いた。
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