少女と獣と

文字数 3,095文字

 山の尾根から光が漏れ出し、今日も一日が始まる。
 獣の根倉に光が差し込み、その眩しさに彼は重い瞼を開ける。
 眼前には根倉の壁に刻まれた線の数々。今日で丁度六本目となる本日、獣の心は歓喜に満ち溢れた。今日は少女が薬草を取りにくる日、即ち少女と逢える日なのだ。冬が近づき、北風が森を駆け抜けるのも黒い体毛に覆われた獣にとっては何のその。跳ねる心を動力に、その巨体を持ち上げて少女との待ち合わせ場所に向かった。少女と獣が二回目に逢った、あの森一番の大樹である。
 森を歩く獣は最後に少女と逢った日のことを思い出していた。
 あれは彼女と出会ってから三回目のこと。その日は少女と一緒に森の薬草を摘みに回ることになったのだ。無論、言葉は交わしておらず、約束した訳でもない。獣は少女に会えるかもしれない淡い期待を胸に、大樹の麓でただただ、来る日も来る日も待ち続けていた。
 三日、四日経った頃だろうか。獣が待つ大樹の下に、少女が森から姿を現したのだ。
 少女は獣を見つけた途端に、その愛くるしい顔を輝かせて、獣の元に駆け寄ったのだ。横になっていた獣の大きな体に飛び込む少女。黒い体毛に顔を擦り付け、鈴の様な笑い声で一心不乱に抱き締めていた。獣はただただなすがままに、少女の様子を眺めていた。やがて少女は獣の顔の前に立ち、森を指差して体毛を引っ張った。
 “一緒に来てほしい“
 獣は何となく少女の意図を察し、身体を起こして少女と森を歩いて行った。
 先日の初対面と比べると、別人と思える程の振る舞いである。少女は籠を片手に前後に揺らし、下手な鼻歌を歌いながら獣の前を歩いているのだ。もはや警戒心は何処かへ行ってしまったらしい。
 少女と歩いている途中で、獣は薬草の匂いを嗅ぎ取った。夜中にあれだけ採ったのだから、獣は薬草の匂いを覚えてしまっているのだ。歩いている少女に教えようと背中を触るつもりだったが、勢いあまり少女を転ばせてしまった。
 しまった、獣に傷つけるつもりは無かった。獣は少女の身体と自らの身体の大きさの違いにまだ慣れていないのだ。起き上がった少女は驚きと恐怖が混ざった表情で獣を見上げる。その顔が、より獣の罪悪感を助長させた。少女は黙って、大きく目を見開きながら獣の顔をじっと見つめる。
 獣は大きな体を地面に沈め、左手を少女の足元に置く。右手で左肩を指差し、背中に乗るように伝えたつもりだった。少女はしばらく呆気に取られていたが、やがて獣の体毛を掴んでゆっくりと登り始めた。背中に乗ったのを感じ取った獣は重い腰を上げ、四本足で立ち上がる。すると、背中から少女の驚きの声が上がった。獣が歩き出せば、その声は聞いたことのある甲高い笑い声に変わっていく。
 獣にはなぜ楽しいのか全く分からなかったが、少女にとってはまさに別世界の風景だったのだ。木漏れ日が抜ける森の中を、まるで鳥の様な視点で森の中を進む。それは、少女にとって夢のような体験だった。
 深い深い森の中を、少女と獣は薬草を採っていく。獣が匂いで探し、見つければ少女が採って、また背中に乗り移動する。 
 陽の光が橙色に染まる頃、籠の薬草は一杯になっていた。
 少女は獣の体毛を引っ張り、降りることを伝える。獣が伏せて少女を下ろすと、手を振って獣に別れを告げた。
 もうお別れか。
 獣の心に一抹の寂しさが過った。次はいつ会えるのだろう、そう思っていた矢先、少女の足が止まった。眉を落とし、こちらをじっと見つめている。やがて、少女は籠を置き、腕組みを始めた。首を傾げながら、何やら難しそうな顔をしている。やがて腕組みしながら、その辺りをクルクルと歩き回り始めた。
 少女の行動に獣は戸惑い、ただ茫然と眺めているしか無かった。
 すると少女はおもむろに木の枝を持ち、地面に一本の線を描いた。次に少女は太陽に向かって指を差す。また一本線を描き、指を差す。六本目に線を描いた後は、太陽を差したのち、自分自身を指差していた。
 この行程を何度か繰り返した後、獣はようやく少女の意図を理解した。
 『六番目の太陽が昇る時に、私はいる』
 言葉を交わせない獣と少女との約束。獣は大きく頷き、森を出ていく少女を見送った。

 水が跳ねる音でふっと我に帰る。
 既に大樹の近くにある川の麓まで来てしまっていたのだ。川向こうから枝の隙間を縫って大樹が見える。そこに、思いもよらない光景が見えた。
 大樹の根元に、少女が先に待っていたのだ。冬が近づき、肌寒くなった為か紺のローブを身に纏い、頭に朱い毛糸の帽子を被っている。
 しかし今日は籠を持ってきていない。代わりに手には何やら板の様なものを広げて、中を覗き込んでいる。(後にそれが『本』と呼ばれるものだと教えてくれた)
 少女の顔に一切の曇りはなく、どこか楽しげな表情をしていた。
 自分を待ってくれる存在がいる。いつも待っている側だった獣にとって、土に水を得る様な感覚だった。
 小川を越えて、少女の元に歩み寄っていく。少女の手元が暗くなったことで、顔を上げるとそこに獣の姿があった。持っていたものを閉じて少女は獣の体毛を掴み、陽の光が差す広場へと案内した。枝を拾い上げて、何やら地面に何かを書いている。書き終えたところで少女は服の中から林檎を掲げた。
 獣は少女の行動に困惑している。今に始まったことではないが、獣は腰を降ろして考えることにした。
 少女の書いたものは、幾つもの線から作られた二つのものである。さっぱり分からないと頭を抱えているところに、少女は林檎を置いて森の中に駆け入ってしまった。慌てて追いかけようとしたが、少女はすぐに戻ってきた。手には木の枝と石、木の葉っぱを持っている。それを林檎の近くに順番に置いていくとその横にまた何かを書き始めた。林檎と同じように線が重なったものをいくつも書いている。
 獣はそれに既視感を覚えた。以前、森の端まできた時に、木の板に掘られた似たようなものを見たことがあったからだ。
 これが人間の言っていた『文字』というものではないのだろうか。
 横に書かれた『文字』は恐らく林檎、枝、石、葉っぱを指しているのではないだろうか。理解したところで少女が体毛を引っ張り、指で同じ様に『文字』を書いている。真似して欲しい、ということなのだろうか。獣は少女に倣って、見様見真似で文字を書いて見た。繊細な指の動きには慣れていないので、似ても似つかないものに出来上がったが、少女は嬉しそうな顔をして、何度も頷いていた。
 こうして、獣は少女から文字を教えてもらうことになったのだ。彼女が持っていたのは、文字を教えるための本で、そこには簡単な絵とその下に文字が書かれており、それが目一杯に書き連ねたものだった。少女は本を広げて、中に書いてある字を地面に書いた。それを獣が倣って書く。そうして、獣は文字を覚えていった。
 太陽の日が橙色に染まる頃には、少女と同じような約束をして、森の中を後にした。大樹の広場は少女と獣が書いた文字で埋め尽くされていた。思えばあっという間に一日が終わりかけており、暮れかけた太陽を眺めていたら、不意にお腹が鳴った。どうやら自分が空腹に気づかないほどに夢中になっていたのだと、その時初めて気づいた。
 だが、不思議と獣に後悔は無かった。空腹なのに、辛いという感情が湧き上がらない。こんな感情は獣にとって初めての感覚だった。
 自分の寝床に帰る途中、夜空を見上げる。星々が以前よりも増えて、夜空を一面に覆い尽くしていた。空気に冷たさが宿り、肺の中に澄んだ空気が染み渡る。
 冬の訪れが、すぐそこに迫ってきていた。
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