怪物のいる森

文字数 2,559文字

 とある地方の山の麓。三つの峰に囲まれたそこに、深い深い森があった。
 木々と野草が我が物顔で生やし、伸ばす。人の手が一切触れられていない自然そのままの森。人々は『静寂の森』と呼んだ。鳥の声や動物の鳴き声がほとんどしない、風で葉が擦れる音しかないのが由来だった。だが、それはあくまで子供達に向けた呼び名。他の呼び名がこの森にはある、それが『死神の住む森』。
 古来よりこの森には、恐ろしい怪物がいるという噂がまことしやかに広まっていた。怪物の姿は誰にもわからない。胴の長い大蛇のような姿をしているという噂もあれば、美しい女性の姿に化けているという噂もある。根も葉もない噂話の中に共通しているのは、その怪物の声を聞くと死んでしまう、ということだけ。現に森に入った人間は、一人として帰ってこなかったのがその恐怖を裏付けた。
 そんな森の奥深く、枯葉の絨毯を踏みつけて歩く獣が一匹。
 人の背丈より大きい体。夜の漆黒のような黒い毛並み。手足は長く、指も枝のようにしなやか。何より特徴なのは、割れんばかりの大きな口と四つの大きな目。凡そ動物の範疇ではない存在が、静寂な森の中を歩いていた。
 獣は考える、腹が減った、何処かに食い物はないものか、と。獣は何日も食べ物にありつけていなかった。森の動物達は獣を恐れて、別の森に住処を移してしまったのだ。森に沢山成っていた林檎の果実も、最後に食べたのは五日以上前。次に実るのは季節を跨いでからになる。それまでは川の水で喉を潤し、空腹を紛らわしていた。
 腹の虫が鳴る。その音はまさに雷の鳴る轟音だった。我慢出来なくなった獣は、遂に呟く。
「あぁ、腹が減った」
 ボトッ、ボトッと何かが落ちる音が聞こえた。音の方に振り返れば、小鳥が二羽、地面に力無く落ちている。
 あぁ、獣は小鳥を拾い上げて酷く後悔した。もう、動物達はいないものだと思っていたのだから。
 また、自分の声で命を奪ってしまった。
 獣は悲しみに暮れたが、飢えへの欲求には逆らえない。すまない、と小鳥達に懺悔し、獣は大きな口で小鳥達を飲み込んだ。僅かながらも空腹が満たされていく。満たされる欲求と罪悪感に獣の心は複雑になった。 
 獣は孤独に苛まれていた。命を奪う自分の声を恐れて、人は勿論、鳥も、鹿も、狐も、兎も、皆、誰も彼も逃げて近付かなくなった。獣は人の言葉も、動物達の言葉もわかる。今でも彼らの言葉が脳裏から離れない。
 来るな、来ないで、食べないで、怪物め。

 恐怖に満ちた言葉の数々は、孤独な獣の心を針のように突き刺した。やがて獣は二度と声を出さない事を、自らに下した。
 だからと言って、動物達が森に帰って来る事は無かった。声も出せず、自分だけが住み着く森を生きる日々。果実と木の実で飢えを凌ぎ続ける日々。そんな日々は毒のように、獣を徐々に蝕んでいった。森を出ることも考えた。だが、森の外の世界で再び拒絶されることに苛まれる恐怖が、獣の足を止めていたのである。
 ふと、目の端に何かが横切った。考え事をしていた獣は危うくそれを前足で踏みそうになった。
「うおぁ!」
 獣は避けようとして体勢を崩し、倒れた。同時に、自分が驚いて声をあげてしまったことに気づく。
 目の前を横切ったのは人間の少女だった。背は小さく、髪を結び、バケットを持つ淡い朱色のローブを纏った人間の少女。
 少女もまた、驚いて尻餅をついたようだ。獣は大きな目を更に見開く。この森にまだ人間がいたことにも獣は驚いていたが、それよりも更に驚くべき事があった。この少女は、獣の声を聞いても死ななかったのである。未だ経験した事がない出来事に獣はじっと少女を見つめていた。それは少女も同じだった。驚愕の顔はやがて恐怖の色に歪み、少女は悲鳴を上げて逃げ出した。
「きゃぁぁぁぁ!」
 悲鳴で我に帰った獣は少女の後を追いかけた。少女は拙い足で覆い茂る木々の間を駆け抜けていく。獣は戸惑いながらももう一度声をあげた。
「待て、待ってくれ!」
 少女の足に変化はない。獣の中で疑念が確信に変わった。この少女は自分の声を聞いても死なないのだ。その気になれば直ぐに追いつけるが、獣は少女を傷付けてしまわないよう、付かず離れず追いかけていた。やがて、この森を知り尽くしている獣は気づく。少女の逃げる先には底のない洞穴があるのだった。もうすぐそこまで来ている。獣は足を早めた。もう少しで追い付くというところで少女が後ろを振り向く。その瞬間、少女の体がふわりと宙に浮く。獣はその黒く長い腕を急いで伸ばした。
「危ない!」
 間一髪で獣は少女を捕まえた。洞穴の底は暗く深く、周囲の木の根を飲み込むように続いている。落ちていれば少女は無事では済まなかっただろう。獣はゆっくりと後退りして少女を地上に持っていく。手の中の少女は怯え切って身動きすらできずにいた。獣はゆっくりと少女を地面に下ろす。
 少女の足が地面に着くと共に、少女は崩れるように座り込んだ。目に溢れんばかりの涙を溜めて、怯えた表情でじっと獣を顔を見つめる。
 獣は言った。
「お前、平気なのか?」
 獣の問いに少女は答えない。変わらず怯えた目でじっと見つめているだけだった。一人と一匹の間に静寂が訪れる。
 困ったように指で頭を掻きむしる獣を他所に、少女は再び立ち上がって逃げ出した。獣が再び追いかけようとしたが、ふと、地面に少女の籠が忘れ去られていることに気づいた。
 籠の中には濃い緑を彩った草が入っている。これは、この森にだけ生えている原生植物だ。大きくなっても三寸ほどの大きさにしかならず、また根の陰に生えていることが多い為、見つけるのは困難な植物だ。人間達の間では万病の薬の材料とされているそうで、昔は人間達がこぞって採集した植物だった。
 まだ三つほどしか入っていないが、獣は直ぐに察した。この少女はこの森に生える植物を取りに来たのだと。
 いやいや、と獣はまだ腑に落ちなかった。この森は獣道が殆どない森だ。木々はまるで煮詰めた様に密接に生えており、根は地面から溢れんばかりに飛び出している。大人の人間でも険しい道となるこの森にどうして少女は植物を取りに来たのか。
 疑問に頭が支配されているのに気付き、獣が再び少女の方に顔を向けた時には、すでに少女の姿は無かった。
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