第5話

文字数 2,998文字

 廊下の角を曲がったところで、困り顔の小宮山と、床に這いつくばっている財前寺が目に飛び込んできた。
「あ、小宮山さん。いいところで会いました」
 まるで探してましたと言わんばかりに声を掛けると、小宮山が振り返って視線を合わせた。財前寺はカードを集めながら、遅いぞといった目つきで睨みつけている。
「確か梅小鉢さんでしたかな? いいところとは何の意味です。一体どうしました?」
「梅田林です。それより小宮山さんこそ、どうしたんですか?」床に散らばるカードを指さした。
「どうもこうも。今日はツイてないんだ。二度も水を掛けられた上に、ジャイアンツカードまで落としてしまって。今から会議だってのに、とんだ災難だよ」
「そうでしたか。でも、これを見れば気が変わるんじゃないですかね?」
 スーツの内ポケットの中に手を入れると、大出水はチケットを取り出した。
「今度の日曜日、ドームで開催されるジャイアンツ戦です。本当は彼女と行こうと思っていたんですが、予定が入っていたのをすっかり忘れてまして。勿体ないから差し上げます。お近づきのしるしに」こういう時のために念のため用意していたが、どうやら無駄にならずに済みそうだ。
「貰ってもいいのか? 何だか悪いね。いくらか払おうか?」
「お金はいりません。その代わり、今度奢ってくださいね……あれ?」
 大出水は反対側の窓を指差した。
「何? どうした?」つられた小宮山は、差された窓に目を向けると、財前寺にコピーしたばかりのIDカードを素早く手渡した。
「すみません。見間違えでした。一瞬、UFOが飛んでいるような気がして」
 照れる仕草をしながら大出水は頭を掻く。そこで財前寺は手にしているIDカードを小宮山に向けた。
「これもあなたのですか? 一緒に落ちていましたけど」
「ええ? どうして……」
 小宮山はIDカードを受け取るものの、紐が切れていることに疑問を抱いたらしく、首を捻りだしていた。
「どうやら、紐が切れていたみたいですね。きっと古くなっていたのでしょう」当然だ。大出水が細工したのだから。
「先月取り変えたばかりなんだが……」
小宮山はさらに首を捻りながらもポケットにしまう。もちろん観戦チケットも一緒だ。大出水と財前寺の指には指紋が残らぬように予めマニキュアが塗ってある。後でチケットなどを調べられても証拠が検出しないようにするためだ。
 笑顔で挨拶を交わし、踵を返してエレベーターへと向かう。しかし、もうすぐ曲がり角というところで、不意に小宮山から声を掛かけられた。
「ちょっと待て!」
 背筋が凍り付いた。体中の毛穴から脂汗が一気に噴き出すのを感じると、大出水はゆっくりと振り返った。もしかしたら大出水の正体に気づいたのかもしれない。
「……」
  何かしゃべろうとするが、口の中がカラカラで声が出せないでいた。小宮山が腕を組みながらゆっくりと歩いてくる。その無表情な面持ちからは、彼の心情が掴めずにいた。もし、IDカードを盗まれたことがバレたのであれば、これまでの苦労は水の泡。大出水の正体までは判らずとも、きっと警備員を呼ばれるだろう。それどころか彼自身が捕らえてもおかしくはない。
 バッグに手を入れ、いつでも取り出せるように催涙スプレーを握りしめた。
 目の前で立ち止まると、小宮山は背広の内ポケットから財布を取り出して、中から三千円を抜き取った。
「さすがにただでは悪い気がしてね。少ないけど取っておき給え。もちろん飲み会の件は奢らせてもらうよ。……その代わり、どっちが真の巨人のファンなのか徹底的に語り合おうぜ!」
 肩を叩かれ、ホッと胸を撫で下ろす。大出水は顔を引きつらせながら、楽しみにしていますと言葉を残し、その場を後にした。

 事務所に戻った大出水と財前寺は、エイラに結果を報告した。
「……それは危なかったわわね。私が一緒に行けばよかったかもしれないけれど、これでもトップモデルだから、おいそれと顔を出す訳にもいかないのよね。きっと注目を浴びるだろうし、SNSに上げられでもしたら、それこそ取り返しのつかないことになるかもしれないわね」
 そこで財前寺は歯ぎしりをしながら口を出した。
「ヨウがちゃんとトイレを確保していなかったのが悪い。それにまたパソコンがフリーズしたんだって? 俺がどれだけ苦労して小宮山の奴を足止めしたか、お前には判るまい」
 大出水は怒りを抑えながら反論する。
「お前こそ、あれでよく足止めできたと言えるな。もし誰かが通りかかれば絶対に失敗しただろうに。たまたま上手くいったからって調子に乗るんじゃねえぞ!」
「なんだとコラ。俺がフォローしなかったらどうなっていたと思ってるんだ。少しは感謝しやがれってんだ!」
 業を煮やしたエイラは二人のやり取りに割って入る。
「二人とも大概にしなさい! 今は仲間割れしている場合じゃないわ。トラブルの原因を今さら貶(けな)し合ったとこでどうしようもないでしょう? 上手くいったんだから結果オーライよ」
 それでも腹の虫がおさまらない財前寺は、歯ぎしりしながらスクワットを始めた。大出水もそれを無視するかのごとく、口を横一文字に結び、貧乏ゆすりでキーボードを叩く。画面にはLOSEの文字が躍るソリティアが表示されていた。
「後は予告状を出すだけね」
 エイラはタブレットの予定表を確認しながら腰を左右に捻る。体形には自信があるが、今のボディラインを維持するために、毎日のストレッチは欠かせない。それがプロのモデルとしてのプライドだ。
 財前寺は腕立て伏せをしながら疑問を呈した。
「それにしても、どうして七月七日の最終日なんです? いくら開催時間ギリギリを指定するとはいえ、その日は日曜日だから観覧客も大勢やってくると予想できます。一般客を巻き込むわけにもいかねえでしょうから、別の日に変えるわけにはいけねえんですか?」
 そこに大出水はエイラの代わりに答える。
「ジョニー。お前は何も判っちゃいないな。何年一緒に仕事をしている? ターゲットは世界的名画の聖母の眠りだぜ? ボスの考えとしては、なるだけ大勢の一般人に鑑賞して欲しんだよ」エイラの顔色を窺うように、「……ですよね?」
 エイラは男性二人がいるにもかかわらず、大胆にもタイトスカートのまま床の上で開脚を始めた。角度によっては下着が覗けそうだが、気にする様子はない。
「よく判っているわね。でも、もう一つ理由があるの。判るかしら?」
「判りません。いったいどんな理由があるってんですか?」
 財前寺は腹筋をしながらチラチラとエイラに視線を向けている。彼の名誉のために断っておくが、決して下着を覗こうとしているのでは……ない。
 その視線を知ってか知らずか、エイラは恥ずかしがる素振りも見せず、挑発でもするかのように股をさらに広げた。思わず視線を逸らしながら起き上がる財前寺。彼の顔は真っ赤であった。それは筋トレのせいであると誤魔化すかのごとく、今度はぶら下がり器で懸垂を始めた。
 エイラは立ち上がってデスクの上にある予告状を手にしながら、甘い声を出す。
「七夕に願いを込める短冊としての意味もあるのよ。どうか上手く聖母の眠りが盗めますようにってね。こう見えても私、案外ロマンティストなのよ」
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