第五話 消えた東宮

文字数 5,124文字

 平安王都の中央北端――帝の座す御所。ここには、国家の重要儀式をとりおこなう(ちよう)(どう)(いん)、帝の住居である内裏、公式の宴の場である豊楽院(ぶらくいん)、さらにはその他の(かん)()群が集中しており、北は一条大路、南は二条大路、東は大宮大路、西は西大宮大路に囲まれ、外郭と内郭という二重構造からなっている。
 外郭は築地塀、内郭は廻廊によって取り囲まれて、外郭の正門である建礼門、内郭の正門である承明門をくぐると、白砂を敷き詰めた広い南庭があり、そこに面して御所の正殿である()(しん)殿(でん)がそびえていた。
 
「東宮がおらぬ……だと?」
 七殿五舎・弘徽殿――。青い顔で報せる女房に、弘徽殿の女御は勢いよく立ち上がった。
「白湯をお召しになりたいと仰せでございましたゆえ、お持ちしたのでございますが……」
「すぐに探させよ! 何かあったら何とする!?」
 弘徽殿の女御の剣幕に、女房は衣擦れの音を響かせて御簾の外に出て行く。
 東宮が消えた――それは彼女以外にも、御所全体の一大事である。今年十五、母である弘徽殿の女御にとっても立派な若君と成長した東宮は、次の帝となる人物である。その東宮が消えた――由々しき事態である。
「いったい何の騒ぎだい? 瞳子」
 名前で呼ばれ、弘徽殿の女御はびくっと躯を震わせる。
 七殿五舎では弘徽殿の女御のことを本来の名で呼ぶ者はいない。父の道房でさえ「弘徽殿の女御さま」と呼ぶ。この御所で「瞳子」と呼んでくるのはただ一人――
主上(おかみ)――」
「迷惑だったかな?」
 御簾をめくり、有職文様の小葵(こあおい)を配した直衣を纏った帝が入ってくる。
 帝はまもなく四十となるが、その容貌は麗しく、入内した頃の弘徽殿の女御・瞳子は御簾越しに心をときめかせていたものだった。
「とんでもございませんわ。よくお越しくださいました」
「そなたと花を愛でたいと思ってね。そろそろ牡丹が見頃であろう?」
「主上、牡丹の時期はまだでございます」
 弘徽殿の女御がそういうと、そうだったかと帝が笑う。
「主上はてっきり、梨壺の更衣がお気に召したかと……」
 つい本音がもれる。
 帝は東宮が元服するまではよく顔を見せていたが、梨壺の更衣に子が生まれると梨壺に行く方が多くなった。
「彼女は可哀想な(ひと)だ。()()(※我が子)を亡くし、次は妹君が眠ったまま目覚めぬと聞いた。聞けば見舞いの品を贈ったそうだな? 瞳子」
「はい。妾も心を痛めておりました。かの姫が快癒するよう法師に祈祷もさせたのでございますが……」
 見舞いの品を贈ったのも、祈祷させたのも事実だがそれは――。
「そうだったか」
 帝はなにゆえ今になって、この弘徽殿に足を運ばれたのか――弘徽殿の女御は嬉しさよりも、心に疑心が沸く。
「瞳子、私は東宮には心のままに生きて欲しいと思うのだ。私には出来なかったゆえ」
 やはりそのことか――弘徽殿の女御はそう思った。
 つまり東宮の妃選びには口に出すなということ。彼女はそう受け取った。
 この御所は男も女も足の引っ張り合いである。私はそうならないと思っても、気がつけば相手を憎み、いなくなればいいと思うようになっていた。もはや昔になど戻れはしない。
「東宮も主上のお心がわかっておりましょう。(しゆ)を用意いたしますゆえ、ごゆるりとなさいませ」
 檜扇の中に本心を隠し、弘徽殿の女御はそう言って微笑んだ。



 弘徽殿から清涼殿まではそう遠くはない。殿舎と殿舎を繋ぐ渡殿を渡れば自身が日常を暮らす清涼殿である。そんな帝の歩が止まる。
 黒の袍を纏った男が、殿舎の庭にいたからだ。満開の桃の木に手を伸ばしている。
尭仁(あきと)ではないか。暫く顔を見せぬゆえどうしているかと思っていたぞ」
 辻宮尭仁(つじのみやあきと)――帝の異母弟で、またの名を匂の宮。
「花を愛でておりました。このうえなく愛らしい花を」
「相変わらずだな」
 花は花でもどこぞの女君だろう――帝はふっと笑う。
「ですが――花を愛でることに関しては、主上には適いませぬ」
 確かに御所には様々な女性がいる。だが一人を愛せば憎しみと嫉妬が生まれ、二人愛せば対立が生まれる。匂の宮のように外で自由に想う相手に恋心を馳せることが出ればどんなにいいだろう。ゆえに、東宮には想った相手と結ばせてやりたい。
 弘徽殿の女御が理解(わか)ってくれたかどうかはわからないが、そう思う帝であった。
「して、顔を見せた理由はなんだ? ここの桃をわざわざ愛でにきた――わけでもなかろう? そなたは昔から、隠し事が下手ゆえ」
「東宮さまを意外な場所でお見かけいたしました」
「意外なところ?」
「主上もよくご存じの男の所です。私は滅多なことでは驚きませんが、よく御所を抜け出せたものです。どおりで弘徽殿の女御さまが睨んでこられるわけです」
「瞳子に会うたのか?」
「ええ。女御さまは何も言われませんでしたが、これまでになく厳しいお顔をされておられました。私が東宮さまになにかをしたと思われたのではないかと」
 ――なるほど、ゆえに瞳子は慌てていたのか。
 帝は取り乱した弘徽殿の女御の姿を見たことはない。常に自信たっぷりで、美しく咲き誇る牡丹のような女人。それが帝の知る、弘徽殿の女御である。
 東宮が消えたというのに騒ぎになっていないのは、ことを荒立てずに独自に探そうとしているのだろう。
「それで、なにかをしたのか? 尭仁」
「私はなにも。わたしがなにゆえ、官職を辞退したかおわかりでしょう。私がここにいれば、東宮さまを脅かす存在となるかも知れないと思われるからです。私は権力などに興味はありませぬゆえ」
 ゆえに、匂の宮は東宮の元服を待たずに御所を離れた。
「そなたの気持ちはわかる。私も時折、外の世界へ出たくなる」
「昔はよく抜け出していたではありませんか。おかげで夜中まで探す羽目になりましたよ」
 今でこそ慎んでいるが、帝も東宮の頃はよく御所を抜け出した。
 この御所には、帝しか知らぬ抜け道があるのだ。
(なるほど、あそこを使ったか……)
 まだその場所が使えたとは驚きだが、脱走をやってのけるとはさすが我が子と、帝は笑う。
 匂の宮の〝あの男〟も、誰のことか、帝は察しが付いた。
「その男と一緒なら心配あるまい。東宮にはなにか思ってのことであろ。それより久しぶりに碁でもどうだ? 尭仁」
 帝の誘いに匂の宮は、柔らかく笑んで従った

 ☆☆☆

 一条・安倍晴明邸――。
 邸内に滑り込んできた風に、視線を落としていた書がめくられる。
(しとみ)()(※戸外からの雨や風を遮断する戸)をお閉めしましょうか? 晴明さま」
 晴明の前にいた女房がそう聞いてくる。
 この邸に晴明以外の人間はいない。周りにいたのは式神である。ゆえに普通の人間には視えない。
「そうだな」
 書を閉じた晴明はようやく視線を上げた。聞こえてきたのは牛車の音である。
(嫌な予感がする……)
 幸いやってくる気配は人間のものだが。
「晴明」
 入ってきたのは水干姿の男童で、晴明は最初は誰だかわからなかった。しかし――
「と、東宮さまっ!?」
 思わず腰が浮き、背後の几帳が揺れる。
「驚いたか? 晴明」
 予感的中に、思わず頭を押さえた晴明である。
「東宮さま……、なにゆえここに? お供はどちらに……」
「供なら――」
 すると、申し訳なさそうに後から入ってきた男に、晴明は怒りが沸いた。
「これは一体どういうことか、説明してもらおうか? 匡正」
 いつもの賑やかな匡正が、戦々恐々である。
 匡正曰く――左近衛府の前を歩いていた匡正は、庭の石が音を立てて動いたため鬼が御所に侵入したかと思ったらしい。声をかけると中から聞こえてのは東宮の声だったため、石を退かしたという。
「まさか、石で塞いであったとは思わなかったよ。しかし、通りかかったのが中将で良かったよ。そうでなかったら抜け出すことはできなかったからね」
 聞けば東宮雅院(とうぐうがいん)(※東宮の殿舎)から左近衛府まで秘密の抜け道があるという。おそらくそれは東宮時代に帝が使っていたものらしい。どうやら当時、左近衛府に帝のお忍びを助けていた人間がいたようである。
「それでその姿を? 東宮さま」
「なかなか似合っているだろう?」
 外にでるために、従者に化けたのだという。ただそれでは不審がられるため、牛車に従う牛飼い童に紛れたというから、晴明は頭痛を覚えた。
「俺はお止めしたんだぞ? 晴明」
「それでもだ。他に方法があっただろう!? お前が牛車に乗り、東宮さまは歩き? これが関白さまと弘徽殿に知られてみろ。大変なことになるぞ」
「中将を責めるな。私がここにきたのは御所の中では話せないからだ」
 帝も異母弟の匂の宮も変わった御仁だが、東宮もそんな変わった血を引いたらしい。晴明は、やれやれとため息をついた。
「拝聴いたします」
 晴明はずり落ちた(うちき)を羽織り直し、主座を東宮に譲って正面に座った。
「晴明、九条家の千早姫を助けて欲しい。もし私のせいで姫が目覚めないのならば――」
「東宮さま、それは違います。かの姫が眠りに就いたのは、決して東宮のせいではございませぬ。この安倍晴明、必ずや姫に()いたモノを祓う所存。決して死なせませぬ」
「さすが、父帝が信頼するだけだな。だが私は頼んでおいてなにもしないのは――」
「お力が必要になったときはお願いいたします。そろそろお戻りになりませ。御所内が大騒ぎになりましょう」
 東宮は満足そうに頷いて、晴明の呪によって消えた。
「晴明!」
「心配いらん。雅院まで送って差し上げたゆえ」
「それにしてもいいのか? あんなことを言って」
「帝にも依頼されたことだからな。それに――異界のモノの所業なら浄化するのが私の仕事だ。例の幽鬼と、都をさまよっては消える牛車との関係も気になる」
「まさか、あの女じゃないだろうな……?」
「あの女?」
「ほら、北東の結界が壊れたというあの場所で女の鬼に会ったじゃないか」
 何者かによって破かれた結界――そこにあった壊された祠。
 禍々しい闇を背に立っていた鬼と化した女。
 あのとき晴明は、もう一つ突き刺さるような誰かの気配を感じていた。
 蘆屋道満ではない、他の誰か――。
 だがたとえ相手が何者であれ、王都を恐怖に沈めるモノは祓うまで。
 晴明はおもむろに小柄を取り出して投げた。驚いたのは匡正である。なにしろ、自分に向かって飛んできたのだから。
「お前は俺を殺す気か!?」
「――どうやら逃げられたな」
 当たった柱から小柄を抜くと、晴明は眉を寄せた。
「なにかいたっていうのか?」
「ああ、間違いない。微かだが式神の気が残っている」
「それって――」
 式神を使うのは陰陽師だけである。しかも邸に張り巡らした、晴明の結界をくぐり抜けられるほどの。
 もしかすると、厄介な相手からも知れぬと晴明は思ったのだった。
 

 
 逢魔が時――異界の門が開くという時刻である。薄明の空では一羽の鴉が飛んでいる。
 蘆屋道満は、その鴉を見失うまいと追っていた。寂れた地に立つ廃寺に入ると、男が壇上に座っていた。
 漆黒の衣に、緩く波打った髪が腰まで伸びて、うねった杖を持っている。鴉はそんな男の肩に止まる。
「なるほど、そいつはお主の〝使〟だったか」
「誰だ? お前は」
「蘆屋道満、お主と同じ外れモノよ。晴明の動きを探ろうとしていたところ、吾よりも先に忍び込んだ奴がいた。追ってきてみればお主がいたというわけだ」
この少し前――道満は晴明邸の前に立っていた。仕掛けてやろうかと思案していたところ、邸から鴉が飛び去っていくのを見た。先を越された悔しさよりも、好奇心が沸いた道満は鴉を追うことにしたのである。
 すると道満の外れモノの言葉に反応したのか、男の視線とぶつかった。
 それは道満が出会った人間の中では見たことがないほど冷たく、かつその瞳の色は赤い。
「外れモノか……、確かにそうかもしれぬ。この目では人扱いされぬゆえ」
 男の肩に止まった鴉が道満に仕掛けてくる。
「破!」
 錫杖を地にとんっと突き、道満が呪を唱える。
 鴉の仕掛けは弾かれ、羽根が散る。
「ふっ、結界を張ったか。いっておくが、これ以上吾に関わらぬほうが身のためだ。こいつらの餌食になりたくなければな」
 男の背後で、黒い靄の塊がゆらゆらと踊っている。道満でさえ、ぞくっとする禍々しさである。
「邪魔をするつもりはない。だが、安倍晴明は違うぞ。やつはなにがなんでも阻止してくるだろう。そんなモノを従えていると余計にな」
 道満の言葉に、男は口の端をつり上げた。
「ふ、あれのことはよく知っている」
 次の瞬間、男の姿はそこにはなかった。
 さて、これからどうするか――。
 もし安倍晴明が斃されることがあれば、邪魔な人間が一人消えてそれもよいが。
 道満は楽しげに嗤うと、その場に背を向けたのだった。
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