第四話 さまよう牛車の怪

文字数 5,166文字

「ねぇご存じ? 昨夜もまた例のモノが現れたとか」
 御所内・七殿五舎――この日も女房たちの噂話に花が咲いていた。毎度のことながらもまぁ次から次へと話を拾ってくるものだと内心呆れつつ、笙子はため息をついた。
 その話し声がぴたりと止む。笙子の正面から数人の女房を従えて、ある人物がやってくるのが見える。笙子にとっては最も会いたくない弘徽殿の女御である。
「これは梨壺の尚侍ではないか。かようなところで会うとは意外じゃの」
 女房装束の襲の色目はさすが弘徽殿の女御、七殿五舎に住む他の女御・更衣よりも美しい。それは笙子も認めるが、彼女の態度は笙子に対して対抗心むき出しである。
 口元は檜扇で覆われていたが、目は鋭く笙子を射貫いてくる。
(だから嫌なのよ。この方と会うのは……)
 笙子はこの七殿五舎でこれ以上上に行こうとは思っていない。帝は魅力的な人物だが、気に入られようとも思ってもいない。どうやら、かつて(ちゆう)(ぐう)(※皇后)を輩出した源右大臣家の人間だということが気に入らないらしい。
 弘徽殿の女御は東宮の母だが、中宮ではないからだ。
「梨壺の更衣は元気になったそうだの?」
 じっと見下ろしてくる目が怖い。
(早く行って!)
 笙子は逃げることもできず、できる限りの笑みをつくった。
「おかげさまで(かい)()いたしてございます」
 弘徽殿の女御の眉がぴくりと吊り上がる。
「それはよかったの。だが、妹君が臥せっておられると聞いた。さぞ心配であろうの。我が父によき薬師を頼んでやるゆえ、遠慮のういって参るがよいと、梨壺の更衣に伝えよ」
「ありがとうございます。弘徽殿の女御さま」
  頭を下げるも、笙子は後ろから一発頭を叩いてやりたい気分であった。
(冗談じゃないわ。毒でも盛ろうという魂胆じゃなくて?)
 さらさらと衣擦れの音をさせて去って行く彼女たちの背後を、笙子は睨む。
 主の梨壺の更衣は「人を疑うのはよくなくてよ」というが、弘徽殿の女御の父はこれまで政敵を排除してきたという関白・藤原道房。東宮が帝位に就けば帝の父になる男である。
 道房にとって東宮を産んだ弘徽殿の女御は自慢の娘だろう。またその弘徽殿の女御も、七殿五舎での権力を維持し続けたいだろう。それがはっきりわかったのは、笙子が梨壺に戻ったときであった。
 
「いま……なんと?」
 笙子は書棚の整理をしながら、ぽかんと口を上げた。
(ふじ)(わら)兼茂(かねしげ)さまの姫君だそうよ、尚侍。今年の秋には(じゆ)(だい)(※皇后、中宮となる女性が正式に内裏に入ること)されるとか」
 梨壺の更衣はそういって、にこにこと笑っている。
(いえいえ、最悪だわ)
 笙子は心の内でつっこみを入れつつ、視線を上に向けた。
 藤原兼茂は故人だが藤原道房の異母弟で、なおかつ北の方は先帝の三の宮である。笙子の記憶では五十の歳になっている筈である。そんな両親をもち、さらには関白父娘(おやこ)を叔父と叔母にもつ姫が入内してくる。笙子には最悪としか思えない。
「よろしゅうございました」と笑顔で返すも、顔が引き攣っているのが自身でもわかった。
(どおりで自信たっぷりだったはずだわ)
 弘徽殿の女御は東宮が見初めた九条家・二の姫の入内には、反対していたと笙子は聞いたことがある。九条家の二の姫が目覚める前に、()(とこ)(ひめ)を中宮にしようと考えたに違いないと思った。
 梨壺の更衣はお祝いの品を贈った方がいいかというが、ぜったいやめておいたほうがいいと笙子は言った。梨壺の更衣は好意のつもりでも、弘徽殿の女御がどうおもうかわからないからだ。
 すると梨壺の更衣が、不意に話題を変えた。
「そういえば、都に夜な夜な不思議な牛車が現れるという話は聞いていて?」
 女房たちが噂をしていたので、笙子も知っていた。
「はい。なんでも夜霧の中に突然現れて、暫くすると消えてしまうのだとか」
「貴方はどう思って?」
「は……?」
「物の怪の仕業かどうかよ」
「更衣さまは物の怪が怖くないのでございますか?」
「昔は怖かったわ。でも、主上が楽しそうに話されているのを見たら慣れてしまったみたい。私の近くに鬼が視えるものがおりますと申し上げたら、とてもお喜びだったわ」
 今上帝が妖の話が好きなことは、笙子も聞き知っている。会ってみたいと嬉しいそうに語る帝もまた変わっているかも知れない。
 梨壺の更衣は梨壺の更衣で「うふふ」と可愛らしく笑っている。
「そんなことまでおっしゃったんですか……?」
 梨壺の更衣は、笙子が鬼が視えることを知っている
「あら、いけなくて? 主上にお目にかかれるいい機会よ? 尚侍」
 梨壺の更衣にとっては恋敵が増えることに一向に構わないらしく、彼女はお友達と思っているようだ。笙子は弘徽殿の女御に梨壺の更衣の爪の垢を、煎じて飲ませてやりたかったが、あとあと恐ろしいことになりそうなのでやめることにした。
「い、いいえっ! 私のようなものが主上とお会いするなどとんでもございません」
 慌てて頭を下げる。
「残念だわ」
 といわれても、笙子にも困るのである。そんなことになれば、また弘徽殿の女御になにを言われるかわからないし、関白家と右大臣家で火花が散りかねない。
(まったく、晴明さまとお兄さまは何をしているのよ!)
 ここは一刻も早く、九条家・二の姫を眠りから覚ましてもらいたい笙子であった。


 一方――、一条・晴明邸。
 (つり)殿(どの)(※池に面して東西に設けられた建物)で池を眺めつつ杯を口にしていた源匡正がくしゃみをした。
「風邪か? 匡正」
「いや……。どうせ、笙子が俺の悪口でも言っているんだろうよ」
「私にはそうは見えないが?」
 この日の晴明は狩衣を脱いで、単衣の上に羽織っているという姿である。
 池には蓮が咲き、(つり)(とう)(ろう)に照らされたその光景は幻想的である。
「御所では畏まっているが、右大臣家では俺の頭を平気で叩くじゃじゃ馬だぞ。あの妹に歌を送るやつがいたら、よほどの物好きだな」
 晴明にすれば、どっちもどっちである。
「匡正、九条家の二の姫だが……」
「なにかわかったのか?」
 匡正が口に運ぶ杯を止めて、眉を寄せる。
「病でないのは確かだ」

 晴明は数日前、九条中納言家に赴いた。父親の九条中納言兼嗣は憔悴し切った顔で、御所にはなかなか出仕できていないようだった。
 姫を助けてくれと必死な兼茂に、晴明は姫が横たわる(しとね)(※座ったり寝たりするときの敷物)と隔てる几帳の横に座って気の流れを読んだ。
 しかし負の気は伝わっては来ない。異界のモノの仕業であっても何らかの気が感じられ
そうなものだが、それすらも伝わっては来なかった。
 すると晴明を呼ぶ声が、御簾の外からあった。
「晴明さまにお話ししたきことがございます」
 入ってきたのは袿姿の初老の女房である。聞けば千早姫の乳母だという。
「お話したいこととは?乳母どの」
「それが……」
 乳母いわく数日前、姫を見下ろしていた女房装束の女人がいたという。

「姫の亡くなった母君の(ゆう)()(※幽霊)とか……?」
 匡正の言葉に晴明は首を振る。
 その女人を見た乳母曰く、姫の母親とは違うらしい。
「じゃあ、誰だったんだ?」
「そこまではわからん。なにせ、私はその幽鬼をみていないからな」
 そう言った後、晴明は少し思案に入った。
九条兼茂に聞けば、幽鬼に呪われるような心当たりは一切ないという。さりげなく過去において知り合った女人を聞いてみたが、北の方以外知らぬという。
「なにかあるのか?」
 匡正が眉を寄せる。
「九条家とは関係ないのなら、なぜ二の姫の元に現れたんだろうと思ってな。理由(わけ)を知りたいと思わないか? 匡正」
 悪霊ならば祟る恐れがあるが、姫の前に現れたモノは見下ろしていただけで消えてしまったという。
 それでも何かの理由があって現れたに違いない。それならば再び現れるだろう。
「この件は俺が持ち込んだこともあるしな。わかったよ。つきあうよ」
 匡正は気怠そうに首の後ろを撫でつつ、そう言った。
 
 ☆☆☆

 夜――。
九条家へと向かうため、晴明は匡正と共に牛車にて出発した。夜分に訪ねることは(はばか)れるが、幽鬼は夜にしか現れぬため仕方がなかった。
 はたして千早姫の元に現れた幽鬼は、この世にどのような未練を残したのだろうか。
 思いを巡らすも、晴明を以てしても実際に聞いてみなければわからないことだった。
 九条邸まではまだかかる。匡正を見ればうたた寝をしていた。
(気楽なものだ……)
 晴明はそう苦笑して、自分も暫く眠っておくかと目を閉じた。
 ガラガラと進む車輪の音に心地よい揺れ、垂らした御簾から忍び込んでくる夜風に肌を撫でられながら、晴明の意識は深く落ちようとしていた。
 しかし匡正の「わっ!」という驚きの声に、晴明の意識は引き戻された。
 何事かと匡正の視線を辿ると、晴明の横にそれまでいなかった男が座っていた。
「やぁ、驚かせてすまないねぇ」
 垂纓冠(すいえいかん)(※貴族が御所で被った冠)に()(うし)姿(すがた)という御所での(てい)(しん)とさほど変わりない姿だが、彼が廷臣だったのはかなり昔である。
「……(たかむら)さま、普通に現れることはできないんですか?」
「そういうな。しかし、人嫌いの君が人間の友達を持つとはねぇ」
 師・賀茂忠行に能力を見いだされて陰陽師になれと言われたとき、晴明は乗り気ではなかった。妖狐の子と言われ、能力をもつがゆえに奇異の目で見られる。
 まだ少年だった晴明は、これ以上目立ちたくはなかったのである。
 篁が晴明の元に初めて現れたのは、晴明が賀茂忠行の弟子となり、人にも漸く慣れた頃であった。
「晴明、誰だ? この男」
 匡正は鬼が視えるようになった男だが、幽鬼も視えるようだ。
「小野篁さまという、かつて御所におられた方だ」
「お前……幽鬼にも知り合いがいるのか……?」
「まぁまぁ、そんなに怖がるな。確かにいっぺん死んでいるが、祟りはせんから」
 呵々と笑う篁に、晴明はため息をついた。
 小野篁は生前から昼は御所に勤め、夜は冥界で閻魔大王に仕えていたという。死後、たまに仕事で現世にやってくるようになった。
「篁さま、今回のお越しは?」
「もちろん、仕事さ。ちょっと厄介なことが冥府で起きてね。鬼籍を外れたモノが逃げてしまった。この世に未練と憎しみを残したモノほど連れて帰るのも一苦労でねぇ」
 鬼籍とは、死者の名前を記録する籍であり、地獄の閻魔大王の手元で管理されているとされる書類である。だが鬼籍に乗らないこともあった。
 何らかの事情で、弔われることなく亡くなった場合だ。この世にさまよう幽鬼は大抵は冥府へ帰っていくが、異界の闇と結びつけば王都に仇なす怨霊となりかねない。
「要するに手伝えと? 私たちはこれから仕事があるんですが……」
 篁は強引なところがある。こちらが是といわぬうちに難題を押しつけてくるのだ。
「私は冥府の者だ。前世に関わることはできないのでね」
 またその手かと、晴明はため息をついた。だが――
「関係ないと言えないと思うよ。晴明」
「それはどういう……」
 篁は肝心なことを言わずに消える。
(相変わらず、勝手なお方だ)
 不意に、牛車が止まった。
「どうした?」
 晴明は御簾を押し上げ、牛飼い童に訪ねる。
「それが……」
 牛飼い童が困惑した顔を向け、晴明もその光景に息を呑んだ。
「これは……」
 邸を出るときは何でもなかった道が、霧に覆われていた。これでは先に進めない。
 そんな時である。
 晴明たちの牛車の後ろから、もう一台やってくる牛車の車輪の音がした。先も見えない霧の中を、その牛車は止まることなくやってくる。
「どこの牛車だ……?」
 匡正も顔を出したが、晴明が感じたのは――
「匡正、乗っているのは人間だと思うか?」
 牛車たちは止まることなく、晴明たちの牛車を追い越していく。
「ばかいうな! こんなにはっきり見えているんだぞ」
「なら追ってみるか? 匡正」
 錫杖を手にした晴明は、歩いて牛車を追うことにしたのだった。
だが――
「いない……?」
 匡正が愕然とする。
 牛車は追いつけるほどの速度だった筈である。だが辻を曲がった途端、牛車はいなかった。しかもその方角は――。
「九条中……納言家……」
 門前にて、晴明と匡正は邸の前で立ち尽くした。そして晴明は思い出したのである。
 九条家の二の姫・千早の乳母が見たという、女の幽鬼のことを。
「晴明、まさか……」
「――やはり、ここに現れる幽鬼に聞いてみるしかなさそうだな」
 おそらく、二の姫が目覚めない鍵を握っている。
 そんな勘がする、晴明であった。
 大抵の人はどこかに出るにも、方角の良し悪しを陰陽師などに聞く。悪い方角に向かわねばならないときは一旦迂回する方違(かたたが)えを行うが――匡正の目が泳いだ。どうやら酒の誘いを受けて行った方角が北だったようだ。
 それにしても――。
 晴明の中にはあのとき感じた不安がまだ残っていたのだった。
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