序章

文字数 3,487文字

 (おう)()の北を通る一条大路(いちじようおおじ)――少し行くと堀川を渡る橋がある。その名を一条戻り橋。
 元来、橋は井戸や川などと並んで、あの世とこの世の境界とされてきた。鬼の話には事欠かさない王都で、百鬼夜行を見たという話は珍しくはない。
 特に一条戻り橋は王都最北の一条通りにあることから、橋の向こう側は異界とされた。
 御所・(おん)(みよう)(りよう)に出仕するようになって数年――、齢二十七となった安倍晴明はこの一条戻り橋西側に(やしき)を構えていた。
 異界の出入り口近くに住んでいるからなのか、御所に出仕するようになっても変人だの(あやかし)だのと囁かれ、その割には吉凶を占えと呼び出す彼らの頭の中を、一度は覗いてみたいと晴明は何度思ったことだろう。
 晴明は人間だが、母親が妖狐だと噂がある。噂好きの人間が多い御所の中、御簾越しから囁かれる声は、晴明には丸聞こえである。
 最近は呼び出されることは減って、やれやれと思っていたが「わたしの恋が実るのか占って欲しい」と訪ねてきた人物がいる。
 有文を配した白地の狩衣からは薫香が漂い、独創的なその調合は彼曰く――恋を招く秘訣なのらしい。それにしても――。
 晴明は(しき)(ばん)(※占いの道具)の前で眉を寄せた。
「そんな顔をしていると(によ)(にん)は寄りつかぬぞ」
 訪ねてきた貴公子は、扇をぱらりと開いてそう言った。
 それに対して余計なお世話だ――とは言えず、晴明は軽く息を吐いた。
「今度はどこの姫君がお相手ですか? (におう)(みや)さま」
「花橘の君だよ。確か今年二十歳におなりだ。今度こそは恋を成就させるぞ」
 その自信が一体どこから来るのか――晴明は三度(みたび)ため息をつく。
 匂の宮は先帝の第二の(おとこ)(みや)で、今上帝の異母弟にあたる御仁だ。
 権力争いには興味はなく「わたしは恋に生きたいのだ」と臣籍降下を申し出たという変わり者である。
 一般民衆からすれば考えられないかも知れないが、貴族の恋はお互いの顔を知らぬまま始まる。装束に炊かれる香の薫りや、(かさね)の美しさ(※女房装束など色彩豊かな衣)、歌の出来ばえなどで相手を見定めねばならないらしい。運良く会話が出来たとしても御簾越しで、結ばれるまでには大変な道のりらしい。
 匂の宮は容姿端麗で身分も帝の弟君とあって恋の相手などすぐに見つかりそうなものだが、なぜか彼が惹かれる姫君は悉く他の男君を選ぶ。
 匂の宮の依頼された占いの()は「脈なし」と出た。
 結果を告げても匂の宮は凹む御仁ではなく、何日かもすればまた「占え」とやってくる。 それが今回で七回目、匂の宮の春は晴明の占いを以てしてもわかりそうもない。
「――ところで、晴明」
「まだなにか」
「九条家の二の姫が一月(ひとつき)前から床に()しておられるそうだ」
「確か一の姫君は、(なし)(つぼ)更衣(こうい)さまでは?」
「相次ぐ九条家の不幸、そなたはどう思う? 晴明」
 扇を口に当て、匂の宮は目を細める。
 九条家は中納言の位にある名家で、当主・(きゆう)(じよう)(ちゆう)()(ごん)(かね)(つぐ)には一の姫、二の姫と二人の姫君がいる。一の姫は(しち)殿(でん)()(しや)(※帝の后妃たちが住む殿舎)の一つである梨壺に入り、帝との間に男宮を授かった。だが僅か一月で原因不明の病により亡くなったばかりである。
 その妹君まで床に臥したとなると、これはなにかあると匂の宮は思うらしい。
「単なる病ではない――と? 匂の宮さま」
「わたしにわかるわけがないだろう。だが御所は華やかそうにみえて実際は欲望渦巻く場所だよ。このわたしでさえ、御所に顔を出せば何をしに来たと睨まれるんだからねぇ。あの男、よほどわたしが嫌いらしい」
 あの男と聞いて、晴明の脳裏に浮かんだのは関白・藤原頼房である。朝廷の事実上の権力者であり、次期帝となる東宮の祖父。さらに彼の一の姫・瞳子(とうこ)()()殿(でん)(によう)()といって七殿五舎にいる女人の最上位にいる御仁である。
 匂の宮がかの父娘に嫌われている理由はおそらく、東宮の座を脅かす存在と考えているからなのだろう。
 東宮はまだ十三歳になったばかり。他に男宮がいない現在、匂の宮が次期帝となる可能性が出てくるからだ。
 だが――晴明までがよく思われていないらしい。
 御所内で一部の貴族たちから陰口を言われるのは慣れている晴明だが、関白と弘徽殿の女御に嫌われている理由がわからない。
 上を向いて「うーん」と唸っていると
「そなたの性格、ある意味羨ましいぞ」
 と匂の宮が半ば呆れた口調でいうが、晴明にはさっぱりである。
 すると袙姿(あこめすがた)の童女が、(へい)()(※徳利型の酒器)を運んでくる。
「おお、なんと愛らしい」
 つい先ほどまで橘の姫に恋をしていた男が、顔を輝かせる。
(いい加減に覚えてくれないだろうか)
 晴明はこの日、何度かわからないため息をつく。
 この邸に、晴明以外の人間は住んではいない。では現れた童女は何者かといえば、晴明が使う式神で、身の回りの世話にも便利と使っているのだ。
 匂の宮は何回もここに来ているため知らないわけではないのだが、相手が女人となると忘れてしまうようだ。
 酒が匂の宮の土器(かわらけ)(※素焼きの杯)に次がれている時である。晴明は、はっと顔を上げた。
「匂の宮さまっ、避けてください!!」
「え……」
 次の瞬間、童女の手にしていた瓶子が砕け散った。
 そのあとは何も起きなかったが、晴明はもはや酒を呑むどころではなかった。
「……」
「晴明、彼女が紙になってしまったぞ。わたしを庇ってくれたのだな? おお、可哀想に」
(――いや……、違う)
 晴明は、もう呆れるしかない。
 童女は形代(かたしろ)(※人の形にかたどられた薄い紙)となり、匂の宮が大袈裟に嘆いていた。式神は人のように〝死〟というものはない。形代になったのは一種の防御である。
 さらに、瓶子が割れたのは誰かを狙ったものでもなかった。
 王都には異界から悪鬼の侵入を防ぐための結界がいくつも張られているが、かつて術師が鬼を封じて結界を張った場所もある。
 晴明が感じた〝それ〟は、何者かが結界に侵入し、術を放ったことだ。
 そんなことが可能なのは陰陽師をはじめとする術者で、それもかなりの能力者だ。
 はたして何のために――。
 嫌な予感がする、晴明であった。

 ☆☆☆ 
 
 匂の宮が晴明を訪ねる少し前――王都の北東、いわば鬼門にあたる地に男が立っていた。
 狩衣に伸び放題の髪、手には錫杖を携え、男はあるものの前でにいっと口の端を緩めた。
 鬼門とは丑寅(※北東)から鬼が出入りするとされた方角で、対角の南西も「裏鬼門」として忌む対象にある。
 平安王都(※平安京)を築く際、東西南北に青龍に白虎、朱雀に玄武の四神(ししん)(※東西南北の守護神)をおいたのも異界からの侵入を防ぐためだという。
 だが鬼は、決して異界からやってくるだけとは限らない。
 男が思うに、鬼よりも人間の方が恐ろしい。欲に嫉妬に憎悪、これらの負の感情が時には人を陥しめることになる。
「ここか……」
 目の前には、岩を積み重ねた祠があった。ここには鬼が一人封じられている。
今から百年前――権力争いの末に、この世のあらゆる者を憎み鬼となった人間のなれの果て。その怨念が恐ろしかったのか、権力たちは術師に(はら)わせたという。
 だがもはや、ここの鬼に人を祟る力はない。それでも、男はその鬼に用があった。
「……戻リタイ……。コンナ……筈デハナカッタ……」
 おそらくここを人が訪れたのは、男が初めてだったのだろう。封じられるに至った後悔と現世に帰りたいと訴えてくる。
だが、男は鬼をここに封じた術師とは違った。
「さぁて、お前はどうする? 鬼になった者を救うなど言っていたが」
 男が言った〝お前〟は、鬼に対してではない。
 彼は闇に堕ち、鬼になった者は救われないと思っている。現に目の前の鬼は封じられたまま、今も悔いている。
 男が鬼に抱くのは、救いの情でも哀れみでもない。ここにきた目的は、退屈な世への意趣返しといっていいだろう。
 男が祠に向けた(しやく)(じよう)の先が、シャンッと音を立てた。
 青白い閃光と共に祠の岩に亀裂が走り、中から出てきたのは鏡だった。
 呪力はさして強くはないが、この王都は結界の宝庫である。ここの結界を壊したところで王都に支障はないが、男は徐々に追い詰めていくのを楽しみにしている。
 ある意味、彼も闇に堕ちた一人。
 だが男は後悔はしていなかった。闇に堕ちたことも、結界を壊したことも。ゆえに王都がどうなろうと構わなかった。
 男が面白いと思うのは、こんな自分でも能力に頼った人間がこの王都にいることだ。
 さて、これから楽しくなる。
 ゆっくりと高みの見物でもしてやるかと、男は祠に背を向けた。
 妙に生温かい影が男の髪を煽ったが、それすらも男には心地よく思えるのであった。



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