第三話 壊された北東の結界

文字数 3,704文字

 東宮が恋をしておられる――という話は、御所ではかなり広まっていた。
 東宮は今年で十五、妃を迎えるに早い年ではない。はたしてお相手はどこの姫君なのか
 ――公卿はもちろん、殿(てん)(じよう)(びと)(※従四位以下の昇殿を許された者)、七殿五舎の女人たちも将来は帝の后妃、さらには東宮となる男子を産もうなら国母(※帝の母)となるかも知れぬその相手に、あらゆる憶測を巡らしているという。
(そんなことはさせぬ)
 渡殿にて歩を進めながら、関白・藤原道房は歯軋りをした。
 道房としては、東宮には姪にあたる姫を推すつもりである。彼はせっかく掴んだ権力を手放すつもりはなく、邪魔をするつもりなら排除するまでと思っている。
「貴方ではないのか? 道房どの」
 同じ黒の(ほう)を纏った男が、御簾を押し上げて出てきた。かつて摂政を務めたという鷹司家(たかつかさけ)当主にして大納言、鷹司惟近(たかつかさこれちか)である。彼もまた野心家で、道房の政敵でもある。
「何の話か?」
「かの姫のことだ。五節の舞以降、眠り続けているという。薬師によれば眠っているだけでその他は健康だとか。ならばなぜ目覚めぬのであろう」
「私が呪詛でも行ったと? 馬鹿馬鹿しい。この関白に左様な疑いをかけたこと、どうなるかわかっていような!? 大納言どの」
「ふふ……、冗談じゃ」
 鷹司惟近は「ふふふ」と(わら)いながら去って行く。
それにしても――。
 怒気を納めた道房は考える。道房も、かの姫が病でないのなら何者かが呪詛をしたのだろうと。道房は今回の件にはまだ関わっていなかったが、それはそれで相手を咎めようとは思っていない。権力を維持するためには鬼にもなる。そういう生き方しか知らない男だったのである。

 一方、安倍晴明は陰陽寮(おんみようりよう)の書庫にいた。
 陰陽寮は帝の補佐や、詔勅の宣下や叙位など、御所に関する職務の全般を担っていた(なか)(つかさ)(しよう)に属し、占い・天文・時・暦の(へん)(さん)を担当する部署である。
 九条家の二の姫が謎の眠りに就いた――過去にそのようなことがなかったか頁をめくるも、そこには何も記されてはいなかった。
「晴明さま」
 背後に音もなく現れた声の主に、晴明はゆっくりと振り返った。
 そこにいたのは(じゆう)()(てん)(しよう)の一人、北方の守護神である玄武である。晴明は十二もいる彼らを式神として使っている。
「なにかわかったか」
「いえ、まだ確かなことはつかめておりませぬ。もうしばし、お待ちを」
「くれぐれも、あの男には気をつけろ」
「御意」
 玄武は片膝をついた姿勢で軽く頭を下げると、すっと消えた。
 晴明は今回の件に、蘆屋道満が関わっているのではないかと思っていた。彼ならば呪詛も行うことも、術を放つことも可能だからだ。
 蘆屋道満は能力が高い術師である。ただその能力を正しきことに向けぬのが悔やまれる。王都一の術師になる――その思いは晴明とてわからないわけではない。だが能力を過信すれば、いずれ闇に飲まれ身を滅ぼすことになるということも晴明は知っていた。
「晴明」
師匠(せんせい)……?」
 書庫に現れたのは晴明の師・賀茂忠行である。
「どうも嫌な予感がする。あの一件がどうもひっかかる」
 そう言って忠行は、眉を寄せた。
 忠行がいう「あの一件」とは、北東の結界が何者かによって壊されたことだろう。蘆屋道満がそれにも関わっているのかわからないが、彼ならば結界を壊すことは可能である。
「師匠、壊された結界ですがそこに何があるのですか?」
「確か、石積みの祠がある筈だが……」
 忠行もそれ以上の詳しいことはわからないらしい。ただ、何代か前の陰陽師たちが祠を造り結界を張ったらしいという。
 妙だな――と、晴明は思った。
 それならば、陰陽寮の書庫に(ぶん)(けん)として残されている筈である。だが、そんな文献はどこにもなかった。
 晴明がめくっていた書を閉じようとすると、鴉の羽根が床に落ちた。
(なぜこんなものが……)
 書庫には外から入れるような戸も隙間もない。ならば、鴉はどこから入ってきたのか。
(まさかこれも道満どのの仕業か?)
 だが陰陽師が集う陰陽寮は、外部から能力者が侵入なりすれば気づく。
 謎を解く鍵が壊された結界にある気がした晴明は、その場所に行ってみようと思ったのだった。

「――だからって、なぜ俺なんだ? 賊を捕まえるのは()()()使()(※主に王都内外の巡検と盗賊無法者の追捕を行う役人)の仕事だぞ」
 額に掛かる髪を掻き上げつつ、晴明に呼び出された源匡正は不満そうだった。
「例の件を持ってきたのはお前だろう」
 例の件――匡正は九条家の姫が謎の眠りについたという話を解決しに九条家に行くと思っていたらしく、匡正の不満は止まらない。
「確かにそうだが、俺はお前にかの件を解決してくれという妹の依頼を持ってきただけだぞ。お前がいう壊されたやつというのとなんの関係がある? どうせまた、鬼がどうのというんだろ」
 晴明を見る匡正の目が据わる。
「察しがいい友をもって助かる。鬼が関わっているかはまだわからんが、〝アレ〟はお前しか使えないからな」
「降魔の太刀のことか? やはりあれはもの凄く厄介な代物だったか……ってちょっとまて、俺にしか使えない?」
「お前にも、見鬼の才があるのさ」
「俺が鬼を見だしたのは、あの刀を受け取ってからだぞ?」
 見鬼の才は、鬼や妖など普通の人間には視えないものが視える能力である。生まれながら宿っている者があれば、能力があっても目覚めることなく一生を終える者もいる。
「お前はアレが祟る恐ろしいモノと思っているようだが、そんなものじゃない。あの太刀でなければ鬼の首は斬れないのさ。しかもアレを使えるのは元の持ち主と――」
 匡正が首を傾げる。
 人はそれぞれ星を宿しているという。晴明が匡正の星を占うと、(なな)(けん)(せい)(※北斗七星)と重なった。
 七剣星は災厄を祓い、あらゆる敵を討ち果たすという。降魔の太刀には、その七剣星が刻まれていた。
 そんな七剣星の星に生まれた人間が降魔の太刀にすれば、鬼が視えるようになって当然である。だがそんなことを言っても、匡正は理解に苦しむだろうが。
「し、しかしだな。御所を警護する人間が離れては困ると思うんだ」
「心配いらん。主上のご許可を得ている」
 がっくりと項垂れる匡正である。
「だがお前、馬に乗れるのか? 晴明。まさか、牛車というわけにはいかんだろ」
 首の後ろを掻きながらいう匡正に、晴明は断言した。
「馬なら子どもの時から乗っていたぞ」 
 かくして――、晴明たちは北東へ向かった。

 ☆☆☆

 王都を離れ比叡山の麓についた時、陽は傾きかけていた。
かの地は何ひとつ遮るものもない荒野で、くるぶしまでの柔かい草が浅瀬のように広がっていた。ただ、祠らしきものがあるだけである。
「これが、例の壊されたというやつか? 晴明」
「……だろうな」
 おそらく、元は厳重に石が積まれていたのだろう。だが晴明たちが見たのは、無残に真っ二つに割れて、切れた注連縄が風に揺れていた。
 はたして、ここに何が封じられていたのか。
 そしてその結界を破った者は、何を企んでいるのだろうか。
 不意に――背後にぞくっとする気配を晴明は感じ、
「匡正、避けろ!!」
「え……」
 二人が左右に避けた瞬間、その間を黒いものがもの凄い勢いで走り抜けた。その通り道は地が抉り取られたようになっている。
 晴明は持参した錫杖を握りしめ、振り向いた。そこにいたのは女房装束を纏った女がいた。
「妾ノ邪魔ハサセヌ……」
「晴明、まさかこの女が――」
「いや、違う。よく見ろ、匡正。女の後ろ」
 女の背後には、ゆらゆらと黒いものが揺れていた。
「晴明、なんだあれは……」
「おそらく――」
 晴明は錫杖をとんっと地に突き、呪を唱える。
「オン コロコロ センダリマトウギソワカ」
カッと光の束が白龍となって、女の背後に向かう。
 だが――そこに女も、黒い影もなかった。
「祓ったのか? 晴明」
「いや、逃げられた」
 このとき、晴明は確信した。
 女を操っている背後に潜む術者の存在を。それもこれまで味わったことのない威圧感を。
 同時に、一羽の大きな鴉が飛び立った。
 
 ――だからお前は甘いというのだ、晴明。

 何者かの声が、晴明に流れ込んでくる。しかし周りには、自分と匡正しかいない。
 こんな経験は初めてであった。冷たい汗が、背筋を流れていく。
それから数日後――
匡正が青い顔で晴明を訪ねてきた。

「鬼を見た?」
 狩衣の前を緩め、池を眺めつつ盃を口に運んでいた晴明は眉を寄せた。
 匡正曰く、夜中に自邸近くを歩いていると牛車と出会ったという。夜分に妙だなとよく見ると、牛車を引いていたのは牛飼い童ではなく鬼だったらしい。
「となればだ。牛車の中にいるのは人じゃないってことになるだろう?」
 よほど怖かったのか、匡正の顔は青いままだ。
「私は暫く北の方角は避けろと言った筈だが?」
  大抵の人はどこかに出るにも、方角の良し悪しを陰陽師などに聞く。悪い方角に向かわねばならないときは一旦迂回する方違(かたたが)えを行うが――匡正の目が泳いだ。どうやら酒の誘いを受けて行った方角が北だったようだ。
 それにしても――。
 晴明の中にはあのとき感じた不安がまだ残っていたのだった。
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